片手の行き先

 判安二は、雑居ビル内の金属製のドアに寄りかかり、うとうとと舟を漕いでいた。
 2006年9月25日。東京都渋谷区の天気は晴れ、最高気温は25度近いそうだ。午前6時の段階ならそんなに暑さは感じない。
 税金を使って余り布で作ってもらったスーツのポケットに手を入れ、そういえば煙草はもう何年も前にやめたのだったと思い出す。いい加減何か、周囲に害のない手遊びの道具を見つけた方がいいのかもしれない。
「扇子……は、ちょっと外連味が過ぎるっつーか、気障ったらしいよなぁ」
 何ならしっくり来るだろうかと、右手を前に出して、目覚ましがてら握ったり開いたりしてみる。銃把も警棒もあまり好かない手の平が、納得してくれそうなものを考える。
「何してんのよ、そんなところで」
 やがて階段をのぼる音と共に知った声がして、判は朝一破顔した。
「おはよ、モモちゃん」
「おはよう」
 対する百瀬克子の笑顔は威圧的であったが。
「もう一回訊くけど。何してるの、こんなとこで」
「事務所、9時からだろ? こんな時間からご出勤とは、重役なのに相変わらず熱心だねぇ」
「怒鳴らずに言うのはこれで最後よ。こんなとこで何を油売ってるの? ――すぐそこで帳場が立ってるのに」
「……相変わらず耳がお早いこって」
 判は肩をすくめた。『ちょっと面倒な殺し』があって、渋谷署に捜査本部が設置されたのは事実だ。しかしその情報は、まだ外部に公開されてはいない。
「その挨拶に来たんだな、これが。また少ーしばかりお世話になりそうなんで」
「とりあえずそこをどきなさいよ、入れないでしょ」
 判よりいくつか年上の女社長は、紅を引いた口唇をついと尖らせた。恰幅がよく、世間様で言う美人ではないが、表情や仕草に愛嬌がある。
 判は大仰に、ドアの前をお譲り申し上げた。百瀬はハンドバッグに手を入れて、どうやら鍵を探している。開錠されたら一緒に滑り込めるように、判もすぐ脇で待機。
「まだ社員揃わんのか」
「こういう稼業だもの、バイト誌に広告打ってすぐ採用って訳にいかないわよ」
「いやー、地方公務員法違反を咎める第三者がいない状況も俺は助かるがね。モモちゃんの手足が増えるってのも美味しいからなぁ」
「あのねぇ、こっちはあんたの為に商売してるんじゃないの!」
 がしゃりと鍵を回しながら、百瀬が声を荒らげる。判はいよいよにやついてしまう。
 百瀬克子は元々鷹揚で、頭も切れる女性だ。すぐに相手の意図を察し、先手を打てる。それゆえ些細なことで怒り散らしはしない。なのに判相手だとペースを乱すものだから、ついつい。
「常連面したいんだったらね、せめてそれに見合った対価を――!」
「ほい」
 ちゃんと持ってきた袖の下を、しばらく隠したくなってしまう。
 判は、包装紙に書かれた店の名前が見えるように、直方体を180度回転させる。
「昨日本庁からこっち来たばっかだからよ。ここの菓子、好きだろ?」
 虎ノ門の老舗和菓子屋。判にはよく分からないが、この店の豆大福は他とは一味違うらしい。百瀬は受け取りながら、あるなら早く言いなさいよぉと口許を緩めている。
 一転歓迎の空気の中、判も上機嫌で信用調査会社フリージアのドアをくぐる。
 思い上がりでなければ、百瀬もこの手打ちを待って怒鳴っているのではないだろうか。いわゆるお約束というやつ。
「よかったらかけて。今飲み物出すから」
「ぬるめでー」
「わかってるわよ、厚かましいったらありゃしない」
 百瀬はブラインドカーテンを開けたり、パソコンを立ち上げたり、ぱたぱたと――体形に似合わず――軽やかに、事務所を跳び回っている。判はソファにうつ伏せに転がって、百瀬を眺めている。
「なに?」
「いや」
 実家のカーチャン見てるみたいで落ち着く、などと言った日には死ぬより恐ろしいことになりそうなので、適当に笑って流す。
 給湯スペースに消えていく百瀬を見送りながら、判はつくでもなくため息をついた。
 妙な意味でなく、百瀬克子はかわいらしい女性だと思う。婚期を逃したと本人は嘯くけれど、30と数年で嫁き遅れという時代はもう過ぎたろうし、晩婚化はこれからも進行の一途に違いない。
 仕事人間なのも事実だが、こう見ていれば旦那子供を世話しながらでも、立派に働いていけそうな気がする。
 何より、百瀬は判にすぐその手の説教をするくせに――どこか危ういところがあるから。誰か堅実な男、まぁ、警察関係者以外の公務員とか、銀行員とかそういう、が現れて、責任を持つと言ってくれれば判も祝儀の3万や5万は捻出するし、『甘える』回数もただの顧客程度に減らす努力はするつもりなのに。
「バンちゃん、ほら、淹れたわよ。あと2時間ぐらいで捜査会議でしょ? シャキッと目が覚めるように、濃くしといたから」
 自分の前にこう甲斐甲斐しく湯呑を置いているようじゃあ、見込みがないなぁ、と肩を落とすのである。
「どしたの。そんなに面倒なヤマなの?」
「面倒というか、厄介だねぇ」
 ちなみに自分が彼女と所帯を持つ選択肢はない。
 判は気分を切り替えて、テーブルの正面に座り直した。が、首を傾げてしまう。置かれているのは湯呑ではなくコーヒーカップと、豆大福ではない別の菓子。
「なんだこれ。ケーキ? 俺、こんなの買ったっけ」
「あんたのお持たせじゃないわよ。まったく……」
 百瀬は大袈裟に嘆息しながら、判の向かいに腰を下ろした。
「男だからなのか刑事だからなのか知らないけど、自分に無頓着なのも大概になさいな。今日は何月何日?」
「平成18年9月25日」
「そこまで分かってるのにその顔だもの。いつも書類とかに書いてるんでしょうに、数字でピンとこないもんなのかしら」
「あ? あー……あああ」
 判は中空を見上げた後、頭を抱えた。道理で聞き覚えのある日付だと思った。
「今日から三十路だ……」
「そーよ。ようこそ中年の世界へ」
 百瀬はでんとソファにふんぞり返っている。彼女が30になった日も、そういえば一波乱あったのだった。
 判はしばし沈思したがそれも10秒ほど、ぱっと顔を上げて期待に胸を膨らませる。
「男は30からっていうもんな? 俺も脂乗ってきた頃かな」
「いいとこ年甲斐のないだけのオジサンのくせに、よく言うわ」
 百瀬は皮肉気に笑いながら、豆大福にかぶりついた。判は眼下のケーキを見つめて、真面目に考える。
 今日顔を出すことは、事前に告げていなかった。百瀬が自分用に生菓子を買うなら、専ら和風だ。正統派のショートケーキも、出されれば食べるだろうが好んで購入はしない。数少ないフリージアの社員に、本来これを食べるはずだった誰かがいないのなら、つまり。
 判は一つ頷き、ぬるいブラックコーヒーを一気に飲み干した。立ち上がって、申し訳程度にジャケットの裾を直す。
「ごっそさん。署に行くわ」
「ちょっと! 食べないの?」
「おう。そっちの脂肪に足しといてくれ」
 百瀬がすごい形相で睨み上げてきていて、判はやはり笑ってしまった。
「モモちゃん、根に持つからさぁ。せっかくのケーキ、俺が食わずに帰る方が忘れないだろ。その分、今度ゆっくり奢ってもらうわ。これとか」
 くいくいと杯を傾けるジェスチャー。百瀬は呆れ顔で、口紅に貼りついた大福粉をティッシュで払った。
「バンちゃんて、ホントに性格悪いわよね」
「性格の悪くないデカなんていねーよ」
 じゃな、と手を振って去ろうとする。百瀬は追ってくるどころか腰も上げず、視線も寄越さなかった。ただ一言、聞こえるように呟く。
「気をつけなさいよ」
「そうするかな。ケーキ食っときゃよかったなんて、未練にしちゃ間抜けすぎて笑えねぇや」
 ドアを開けて廊下に出る。コンクリートが、陽射しで少し熱を増している気がした。頬を引き締めて階段を下り始める。
 すぐに畳んで戻ってくると。そういう気概ははっきりあるのに、口には出せない。出さない。
 自分と彼女の道はとても近いし、似ている。だが、同じ道は歩めない。歩むつもりも互いにない。見えていても、手を携えるには遠すぎる。だから――。
「ああ、団扇にすっか」
 渋谷の公道を行きながら、判は顎の無精ひげを撫でた。
 直接触れる必要がなくても、ちょっかいぐらいは出していたい。風を送る程度のいたずらなら、きっと気付いてもくれるし怒ったふりだってしてくれるだろう。
「それだ、そうしよう」
 右手を伸ばして、軽く握り込んでみる。あの細い柄なら、あまり大きくはないこの手にもよく馴染むはずだ。
 30代初の事件を、誠実に、確実に、解決へ導けたら。
 戦友を冷やかす為に、相性のいい団扇を探しに行こう。