同人誌『皆紅』サンプル

同人誌『皆紅』のサンプルページです。


文庫/126P/600円

死ぬために、あなたと暮らす。

長期にわたる鬱で希望を失った雅伸は、別の理由で死にたい女に誘われ、ともに最期を迎えるための生活を始める。
新居を選び、食卓を囲み、籍を入れ、雨の日は同じ傘に入り、ひとつの寝床で眠りに就く……
初めて手にした安らぎは全て、約束の夜に潰えるための仮初――。
黒い渇望が赤色に染まり切った、その先のことはまだ誰も知らない。

収録内容
  赤を囲う(皆紅版)【改稿】    
  千々ノ一夜迄【web再録】      
  人間ごっこ【書き下ろし】       
  傘を咲かす【web再録】
  皆紅【書き下ろし】        
  眠れぬ夜に【web再録】
  夜中にアイスを買う自由【web再録】    
  朱のあとさき【書き下ろし】   

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「赤を囲う(皆紅版)」 全文

 

 相模(さがみ)雅伸(まさのぶ)は赤色が好きだ。世界を照らす朝夕の陽の色を見ると、自分の身の内に流れるものの少なさを知る気がする。
 夕刻、地元の神社から眺め下ろす街はまさに特別だった。都内のくせに本数の少ない電車を載せた高架も、営業しているのかわからない商店も、生きたまま古びゆく家々も、全てが茜色に染め上げられていく。否も応もなく何もかも。安っぽい囲いをこの足で越えて、自分も同じ色に溶けてしまいたくなる。
 駅前で配っていた無料のアルバイト情報誌を開き、雅伸は付き合いの長いフェンスに寄りかかった。
『明るく元気に働ける方!』
『笑顔が素敵で前向きな方!』
 募集要項のフレーズはどれも雅伸に当てはまらず、『未経験者大歓迎!』を真に受けない程度には世間も知っている。
 履歴書と向き合うたびに思い悩む。すらすらと埋まるのは学歴までで、資格もなければ大した職歴もない。就職戦争から早々に弾き出された雅伸は、社会的肩書きを何も持たない。せめて女の子ならねぇと嘆いた母はどこまでも本気で、ままならない自身よりも女に生まれた妹の身を憂えた。
 このまま情報誌も履歴書も未来も放り投げていきたい。金網の向こうの暮れなずむ街を見つめて、そうもいかない現実からしばし逃避する。
「こんばんは」
 ちょうど紺色の濃くなり始めた頃、雅伸は女に声をかけられた。あまりに親しげで、知り合いかと記憶をさらったが、どう考えても知らない女だ。
 グレーのパンツスーツ姿で、黒い髪をシュシュで束ねて前に垂らしている。雅伸と同じ三十前後だろうか。浮かべた微笑と、小首を傾げる動作は少女のように幼い。
「ここから落ちたら死ぬと思います?」
 この辺カフェでもあります? と訊くようなトーンで女は尋ねた。雅伸は意図がつかめず、異様な空気に呑まれて頷く。
「わかりました。ありがとうございます」
 女は快活に笑って、パンプスでフェンスを蹴った。違う、ものすごく不格好によじのぼろうとしている。
「危ないでしょう!」
 雅伸は思わず、見も知らぬ女の腕に飛びついていた。女は目をしばたかせ、心底不思議そうに問う。
「なんで止めるんですか?」
「な、なんで?」
 突然すぎて頭が真っ白になった。
 なんでだろう。目の前で死なれたら寝覚めが悪いから? このままやらせたら法的に何か問題になりそうだから? 命を粗末にするなとか手垢のついた倫理観?
 雅伸にご多幸を祈ってきた面接官たちの顔が次々浮かぶ。
『どのようなかたちで当社に貢献できますか?』
『この仕事を通じてどのように成長したいですか?』
 そんなこと知らない。どう答えればいい。面接のときと同じでいいのか。同じでいいならすぐでも言える。
「わかりません!」
 精一杯正直な台詞に、そうですか、と女は頑なな両手と頬を緩めた。雅伸も我に返って女の腕を放す。
 女は地面に降りると、にこやかに一礼した。芝居じみたおどけた仕種だった。
「あなたにご迷惑をかけるのは本意じゃないので、今日は帰りますね。ご親切にありがとうございました」
 石段に消える後ろ姿を、雅伸は呆然と見送った。
 燃える赤色は既に失せ、盲いるような夜の色だけが辺りを満たしていた。

 

 先刻女を止めはしたが、雅伸自身はかつて高所から飛び降りたことがある。
 二十歳のときだった。未来のなさを不意に確信してしまった。言葉にすれば安い絶望だ。
 大学での研究は嫌いではなかったものの、人生をかけてまでやり続けたいとも思えなかった。セミナーやインターンシップに熱を上げる就職組にも共感できない。院に進む情熱も、社会に出る器用さも、個人的な問題を相談できるほど深い友人も、寝食を忘れてのめり込める趣味も、何も持たずとも居ていいのだと思える家も、雅伸には何もなかった。
 ではどうするのか?
 親に問われるまでもなく、そんなことは雅伸自身が一番考えていた。ずっと真剣に考えていたけれどわからなかった。
 死にたいと思ったわけではない。悲愴な決意も偽善的な罪悪感もない。
 ただ、これ以上考えなくていい方法が自室にあっただけ。
 あ、いけるな、と。
 今ならやれるな、と唐突に直感しただけ。
 何も選べなかった手で、高校の野球部で使っていたグラブを抱えた。あの三年間だけは唯一『自分を所有している』と信じられた日々だったから、あの頃の持ち物を携えていくのは自然なことだと感じていた。
 夕闇に染まりゆくベランダ。いつもなら硬く強張る手足はすんなりと雅伸を手すりの上に運んだ。
 あとは簡単、力を抜くだけ。
 浮遊感。顔面を押す風。四階から地上まで一秒ぐらいは景色を見ていた気がする。下手くそなアニメーションのように単調に近づいてくる緑。
 緑。
 結局雅伸は、植え込みに落ちて後遺症もなく生き残った。
 しぬほどいてぇ、と思ったのに、死ぬほどには随分足りなかったとは。
 きちんとあの神社まで移動していれば、みじめに仕損じることもなかったのだ。あの『興奮』(衝動より、もっと前向きで爽快な積極性)が、あの場所でもう一度訪れてくれるなら、次こそはあるいは。

 

 翌日も同じ時間帯に神社へ向かった。
 女はいない。下の様子を見るに、先に落ちたというわけでもなさそうだ。
 雅伸は浅く息をついて、思いどおりいかない頭を右の人差し指で気忙しく叩いた。
 得体の知れない人間との再会を期待するなんてどうかしている。いや、期待と呼べるほど力のある感情なのかも怪しい。好奇心ほどポジティブでもない……そう、きっとただの疑問だ。あの女が首尾よくやり遂げたのかどうか。
 剥き出しの地面に腰を下ろす。少し離れた拝殿を眺めて、こちらとあちらを隔てるフェンスに身を預ける。昨日の女が不器用に越えようとした境界に。
 人の好さそうな笑顔を思い出しながら、雅伸は無意識に口唇を引き結んだ。
 スーツを着ていたということは勤め人なのだろう。初対面の人間に(しかも自分が死のうとする直前に)笑顔を向けられる才能があるのに、何を終わらせたいと願う必要があるのか。職も愛想もない雅伸とは大違いだ。
 頭上でぱちぱちと紅葉が鳴る。雅伸も身勝手なやっかみを風に逃がす。
 傍目から問題がないとしても、実際に問題なく生きていけるとは限らないのだ。雅伸だとて、飛び降りたことも飛び降りたいことも見た目ではわからないのだから。
 雅伸はずっとそこに座っていた。冷たく乾いた土の匂い、紅葉の落とす複雑な影、頼りなく揺れるフェンスの音、自室よりも親しみを覚えるものたちに囲まれて、赤色が消えていくのを見届ける。
 女は来なかった。もう死ななくともよくなったのかもしれない。
 大変結構なことだ。
 雅伸は目を伏せて立ち上がり、行く当てもない街に降りていった。

 

 夜歩きの癖はいつ始まったのだろう。二十五は過ぎていたと思う。反抗期にしては笑えるほど遅い。
 ある日、家族も寝静まった深夜、不意に叫び出したくなった。毎日をやり過ごす自室がひどく疎ましくて、そのままではまた飛び降りてしまいそうだった。外の空気を吸おうと家から出た。数時間前に飲んだ睡眠導入剤と、直前に飲んだ抗うつ剤のために意識は曖昧で、河川敷まで来ていたことに気付いたのは翌朝だった。
 ――ああ、人間って別に外でも眠れるんだな。
 朝陽に輝く川面を見ながら、当たり前の事実を噛み締めた。
 以来、胸がざわつくと外をうろついている。二、三ヶ月に一晩程度。川辺のこともあれば街中のこともある。幸か不幸か事件に巻き込まれたことはない。職務質問は何度か。一度だけ交番まで連れていかれたけれど、せいぜい説教と家族の呼び出しぐらいだ。雅伸はその時点で自殺を企図していないし、犯罪に手を染めてもいない。ただ、何か起こったら真っ先に疑われる覚悟だけはしている。
 行く当てはない。帰りたい場所もない。属す組織も継ぎたい家もなければ、失って困るものも残っていない。終わらせる決心もないから、いずれ歩みも尽きることを祈って無様にうろつくのだ。
 なぜ死にたいのかと訊かれても困る。
 理由……理由? 生きている理由がないから以外に、そんなものが必要か?
『生まれてきたことには理由がある』?
『生きていく理由は自分で探し出すもの』?
 真っ当で健全な精神は、『楽観視(ポジティブ)』という拳で躊躇なく他人を殴る。平気で『自分探し』という放浪を強要する。足下さえ見えない人間に、現在地を発つための光や、食料や、靴があるのか、想像力を働かせることすらしない。
 ――解っている。理由を見つける人生が『正しい』ことも、孤独と自己憐憫がものの役にも立たないことも、雅伸は十二分に理解している。
 雅伸は『正しさ』を恨まない。『正しさ』が回す世界を恨まない。ただ、そこに含まれない自分を何度でも痛感する。
 敢えて言うならそれが理由だ。
 俺が俺という異物を処分したい。それだけなんだ。

 

 深夜二時、足音を消して団地の階段を上がる。
 電気が点いていないのを確認してから戻ったのに、両親はまだ起きていた。どこに行っていたのかと問う険のある声を無視して、リビングを通り過ぎ自室のドアを開ける。
「おかえりなさい」
 黒い部屋の中から声がする。ガスストーブの赤い光にぼんやりと照らされて、妹の理奈(りな)が床に座っていた。
 今更驚きはしない。妹はいつも雅伸に連絡を入れずに顔を出すし、目的を遂げるためなら朝までだって辛抱強く待っている。
 雅伸は眉をひそめ、剥き出しのフローリングに目を遣った。
「冷えるぞ」
「暖房ついてるから平気」
 理奈は手指を揉みながら淡々と答える。雅伸は年季の入ったストーブの設定温度を一度上げ、理奈の横を通り過ぎた。
「兄さん、こっちも使っていいって言ってるのに」
 妹が就職を機に出て行ってから、衝立で仕切っていた洋間は雅伸一人のものということになっていた。雅伸はニスの剥げた学習机に家の鍵を置く。
「これで足りてるんだ」
 実際、雅伸の占有空間といえばほとんどここだけだ。たった五畳半を持て余して、姿のなくなった衝立を何年も取り去れずにいる。これ以上ものを持つことは分を超えているように思えてならない。
「兄さん、またやせた?」
 呼びかけられて振り返る。理奈が立ち上がり近づいてきていた。その左手が雅伸の右手首に触れる。薬指に光るものを雅伸が逆の手で指差すと、理奈は重々しく頷いた。
「兄さんにも会ってほしい」
「それを言いに来たのか」
 雅伸は腕を揺らして理奈の手から逃れた。理奈はなおも食い下がる。
「家族になる人だから、私の家族をちゃんと紹介しておきたいの」
「お前が行くんだろう。俺とは他人になる」
「バカ言わないで。姓が違っても家族は家族でしょう」
 雅伸は黙って顔を伏せた。その男は雅伸を親族とは思いたくないだろう。こちらもその気はない。
「いい人なの。高葉ヶ丘(たかばがおか)のOBで、兄さんもそうだって言ったら会ってみたいって」
 理奈は訊いてもいないのに婚約者の話を続ける。
 年齢は雅伸の二つ下、知り合ったのは高校の先輩の結婚式。二次会だけ参加した理奈は、新郎の友人の男に声をかけられた。理奈は彼を覚えてはいなかったそうだが、向こうは『遠くから見てずっと気になっていた』と言ったらしい。
 突き出された名刺には、有名なロゴマークが印刷されていた。音響機器において日本有数のシェアを誇る一部上場企業。何の偶然か理奈の勤め先の親会社だ。名前の上には小さく役職も書いてあった。
 その男は雅伸が持ちえないものを全て揃えていた。
 収入。
 社会的地位。
 幸せにしたい人。
 その人に『幸せにしたい』と告げられる自信。
 紹介にされるに値する自分。
「父さんたちにだけ顔を見せればいい。俺は会わない」
 その先の台詞は喉を通らず胸で腐った。
 俺が会ってどうするんだ。そんな非の打ち所のないやつに、こんな兄貴をどう紹介するっていうんだ。精神病持ちで無職。破談になるには充分な地雷じゃないか。
 後ずさって机にぶつかった。その程度の小さな衝撃で理奈は心配そうな顔をする。四階から、同じ家から落下した後でさえ、鉄のような無表情で兄を見ていた妹が。
 理奈を人間らしく変えていくのは雅伸ではない。この子に兄が必要だった時期など、ただの一度もないのだ。
「お前だけでまともに生きろ」
 ――俺はその人生に、関わらない。
「兄さん!」
 雅伸は妹を振り切って家を出た。
 頭の中を占めるのはあの景色。高いところから見下ろす街と、憧れ続けた赤色だけ。
 行かなくては。あの鳥居の向こうに。あのフェンスの向こうに。
 今度こそ、誰にも侵せない願いを遂げに。

 

 灯りのない階段を上がっていく。見えずとも雅伸がこの段差を踏み外すことはない。
 のぼりきった先には昨日の女がいた。パンツスーツが汚れるのも構わずフェンスの前に座り込んでいる。雅伸に気付くと、空っぽの愛想笑いを向けてきた。
「あれ、あなたも戻ってきちゃったんですか」
「越えようと思います」
 雅伸は一言告げて金網に手をかける。握力も随分落ちたけれど、自分を向こう側に運ぶぐらいはできそうだ。
 女は雅伸を止めようとはしなかった。名残惜しそうに見上げただけだった。
「ひとりでいっちゃうんですか?」
 拗ねた声に、雅伸の手が止まる。
 ひとりで、とは? 他にどんな選択肢があるんだ?
「あのですね。考えたんですけど」
 と女は立ち上がり、人差し指を振りながら近くをうろつき始めた。
「ここから落ちるじゃないですか。そうするとぺしゃんこのトマトみたいになるじゃないですか。死ぬほど、っていうかつまり死ぬほど? 痛いし、人生で一番人様にお見せできない姿になるわけじゃないですか」
 この女はおかしい。話を聞くべきではない。そう思っているのに、はぁ、そうですね、と雅伸はつい相槌を打ってしまった。女は足を止めて勢いづく。
「でしょ? そんな全身潰れてぐちゃぐちゃになるより最悪なことって、多分世の中にあんまりないと思うんですよ」
「もしかして止めようとしてます?」
「いえ、止めていただいておいて恐縮なのですがその気は全くありません。あ、全くは言いすぎました。現時点では止めようとしてます、本気で」
 一体何なのだ。上るにも下りるにもはずみがつかない。
 女は首をいっぱいに伸ばして雅伸を見上げていた。
「つまりですね。終わりを一時間二時間延ばしたって、一生を基準に考えたら誤差でしょう? だったらその誤差の範囲に、正気なら絶対やらないような、自分でもびっくりするようなことしてみないと、もったいなくないですか? だって自分を殺そうとしてるんですよ。その時点でもう充分狂ってるじゃないですか。ついでに他にもおかしいことしたって全然いいと思うんです!」
 女の目は将来の夢を語る子供のように輝いていた。そうして口走っているのは滅びへ向かう刹那の熱だった。その黒々とした瞳に映り込んでいるのは相模雅伸だった。
「わたし、昨日家に帰った後、どうせならあなたに飛び降りればよかったなって考えてました。どうせなら一緒に痛がってみたかったって」
 女が微笑みながら雅伸に両手を伸ばす。晴れやかに、切実に。
 ビルの向こうに沈みゆく赤い夕陽の、最後の輝きのように。
「あなたもわたしに飛び降りてみませんか?」
 どこまでも正気ではない。心底そう感じてなお、雅伸は静かに指を伸ばし彼女の手に触れた。十一月の空気に似合わず汗に湿っていた。
 どうせ全てが終わるなら。見苦しくバラバラに千切れるなら。
 これ以上気が狂れてみたって、もうただの誤差だ。

 

 初めてラブホテルというものに入った。初めて女というものを抱いた。じき壊すつもりの器を満たそうとするのは、壊したくない思い出と心中しようとしたいつかの矛盾に似ていた。
「でね。なんか話おかしいなと思って、問い詰めたらそのひと結婚詐欺師だったんですよ」
「はぁ、まぁ、お気の毒に」
 そして雅伸はうつ伏せで両肘をついて、懸命に睡魔と戦っていた。どうにか勃つものは勃ったし出るものも出たが、性欲という概念が滅びかけていたので賢者モードの威力を想定できていなかった。抜ければ眠剤は要らないんじゃないかとすら思う。死のうというのに入眠の手段を考えるのも馬鹿のようだが。
 女はバスローブを羽織って、広すぎるベッドの縁に腰掛けている。他人事じみた淡々とした口調だった。雅伸に聞かせているつもりもないのかもしれない。
「でも早くに気付いたので、被害って言うほどのお金も持ってかれてないんですけど」
「じゃあ、そんなに思い詰めなくてもよかったんじゃ」
「そういうことじゃないんですよね」
 女の声が不意に鋭くなって、はっと体温が下がる。
 雅伸が口にしてしまったのは、いつか他人に言われた言葉だった。彼女はそのとき雅伸が思い浮かべたのと同じ言葉で否定した。
 無神経な思い違いをはっきりと拒んだのだ。声にできなかった雅伸とは反対に。
「わたしが悔しかったのは、騙されたこと自体じゃなかったはずなんです。上手く言えないけど、やっぱり普通じゃなかったことに絶望したんだと思います。彼を心から愛していたというよりも。どうしても彼と結婚したかったというよりも。なれもしない『普通』に擬態しようとした自分の愚かさが、許せなかったんですよ。きっと、わたしは」
 強いまなざしをたたえた横顔を見上げる。おぼろげだった女の輪郭が急に鮮明になる。何にかも知れない安堵感が胸に兆す。
「わかるかも、しれません」
 雅伸は身を起こして、彼女のほつれた髪を手櫛でとかした。女の首がかすかに揺れる。
「あなたは優しいんですね」
「俺は、別になにも」
「でも『わかる』って言い切るの避けてるでしょう。昨日も、今も」
 雅伸は黙って俯いた。
 眠気はだいぶ治まっている。こちらも、誰にも話さなかった本当のことを打ち明けてしまおうか。今更理解されなかったところで、元々赤の他人だ。
 雅伸は服をまとい、ジャケットの内ポケットに入れっぱなしだった身分証を差し出した。
「反復性うつ病障害というそうです。言ってしまえば、手帳持ちの障害者です」
 女は精神障害者手帳をまじまじと眺め、雅伸の予想と全く別のことを口にした。
紺野(こんの)未紅(みく)です」
「は?」
「名前、書いてあるから。一方的に知ってしまうのは不公平じゃないですか」
「そうですか」
 道義のよくわからない女だ。雅伸はベッドの上で、ジーンズを穿いた脚をあぐらに組んだ。
「初めて受診したのは高校のときです。どこで間違えたんだか長くたたりまして、ついに就労困難のお墨付きまでもらってしまいました。二十九にもなってバイト経験もまともにないんです。役所に障害年金の相談もしましたが、等級が半端で門前払いだし、親と同居中で生活保護も受けられない。女に生んでやればよかったなんて言われる始末です。加えて妹が結婚すると言い出して、本格的に生きていることに申し訳が立たなくなりました」
「二十九。あ、本当だ。昭和五十九年。わたし二つ上ですよ」
 女――未紅の声はのんきで、雅伸はだんだん場違いなことを言っている気になってきた。未紅は開いていた手帳をたたみ、写りの悪い証明写真を観察している。
「髪短かったんですね?」
「すみません。今は汚らしくて」
 雅伸は伸びてしまった髪を片手で握り潰した。手帳の更新かバイトの面接の前には髪もひげも整えるけれど、もう半年以上どちらの機会もない。
「違います。わたし、そんなこと言おうとしていませんよ」
 未紅は手帳を雅伸の膝に置いて、真っ白な右腕を伸ばしてきた。指の甲が雅伸のこめかみをなぞって、煩わしい髪を持ち上げる。
「せっかく綺麗なかたちの耳なのに、隠れててもったいないなぁって思ったんです。違う方向に先回りして謝られたら、わたし困ってしまいます」
 こんな歳で、こんな場所で、こんな格好なのに、未紅の笑み方は童女のようだった。純粋で表層的な、概念としての『無垢』。いっそ空だから気味が悪いとは感じない。
「女なら働けなくても大丈夫なのにって、ご両親はおっしゃったんですか?」
「ええ」
 正確には母が、だが。雅伸は離れていく指を内心で惜しみ目で追った。
「わたしは女ですけど、働かないと生きていけないですよ」
 穏やかな声で言いながら、未紅は両手をバスローブ越しの下腹部に置く。爪先にかかった紅色のグラデーションがやけに艶やかに見えた。
「卵巣ないんです。処女のうちに病気で取っちゃって。片方残すって話だったんですけど、結局両方。家庭を作れる女じゃないってフラれたことありますし、孫を産めないなら社会に貢献しろって親にも言われますし。その割にわたしは社会から還元してもらっている気があまりしないので、やんなっちゃいますね」
「そう、なんですか」
 雅伸はかすれた声で答え、ジーンズ越しの自分の膝に爪を立てる。
 先の発言がどれだけ軽率であったか思い至って、彼女を余計に傷つける前に何故死んでおかなかったのかと後悔した。
 未紅は苦笑して、バスローブからこぼれた両脚をシーツの上に引き上げる。ラメのかかった十片の薄紅が、雅伸の両の耳に触れる。
「そんな顔しないで。つけなくていいって言ったのに、あなたはちゃんと避妊しようとしてくれたでしょう? これから死ぬって言っている女に。おかしいけど、それがね、わたし、とても嬉しかったんです」
 瞳を見つめ返せずに、雅伸は露を弾いた彼女のまつ毛を見ていた。
 やっぱり普通じゃなかった
 普通に擬態しようとした自分の愚かさが許せなかった
 決然と紡がれた台詞は、雅伸の『理由』でもあった。彼女の選ぶ単語は雅伸の見つけたかった『意味』だった。
 結婚自体を欲したのではない。就職自体を欲したのではない。
 自分は『普通』でいられると、少なくともそのふりができるのだと、すがりたかった自己像が目の前で砕けたから。叶わない夢を見たみじめさに絶望したから。
 ――もう終わらせたかった。
 やせこけた自分のもの以上に細い手を、指を、雅伸はつかむ。
「紺野さん」
 今日聞いたばかりの名を、呼んでみる。
「一緒に痛がってみたかったって、今でも思ってくれてますか」
 未紅は目を丸くした。呆れるような童顔だ。二つ上だと言ったけれど、二つ下だと言われてもきっと雅伸は信じた。
 繋がった指に力を込める。一度寝たぐらいで童貞が調子に乗っていると思うかもしれないけれど。
「誤差、もう少し延ばしてもらっても、いいですか」
 あなたの話、もう少し聞いていたいです。
 言い切らないうちに口唇を塞がれた。
 二度目は最初の交尾より、ずっと人らしい目合(まぐあ)いだった。

 

「散らかってますけどー」
 あっけらかんと笑う未紅の部屋は、謙遜では済まない散らかりようだった。自分も理奈も几帳面だから、こんな部屋で暮らしている人間が実在するということ自体、雅伸にとっては衝撃だ。
 あの後、休憩時間が終わる前に二人はホテルを後にした。出るなり未紅の腹の虫が盛大に鳴くものだから互いに馬鹿らしくなって、帰りたくないならうちにという言葉に甘えて未紅のマンションまで来た……のだが。
「座るとこ適当に作ってくれます? わたしいつもあそこの隙間で生活してるので」
 未紅が指差したものが椅子だとすると、背もたれも両の肘置きもゴミ袋だ。自殺志願者は身辺の整理をするもの、というのも雅伸の勝手な先入観だったらしい。
「どうかしました? 雅伸くん」
「いえ。俺はあまり食欲がないので、紺野さんは先に食べててください」
 この衛生状態でコンビニ弁当を平気で開けられる神経がわからない。幸いというか、空の収集袋は目立つところにあった。一枚失敬して明らかに不要なものを中に入れていく。すぐにもう一枚もらわねばいけなくなった。
「すみません、呼んでおいて掃除してもらっちゃって。一人でいると何でもめんどくさくなっちゃうんですよね」
「それはいいですけど。もったいないですね、高葉ヶ丘なんていいところなのに」
「家賃は大したことないですよ。いっても1Kですしね」
 未紅は五穀ご飯をせっせと口に運んでいる。最後の晩餐なのにヘルシー志向だとは。
「詐欺師の前の彼が手料理食べたがる人で、練習しようとしたんですけどわたし全然で。せっかく別にしたキッチンもずっと持ち腐れてるんですよね」
 雅伸は来た道に恐る恐る視線を巡らせる。あれは通路ではなくキッチンだったのか。持ち腐れているとかいうレベルではない。完全に機能を殺されている。
「ま、ま。とりあえず一息つきましょ?」
 未紅は冷蔵庫から何かを取り出し、笑顔で差し出した。キンキンに冷えた缶コーヒーだ。東京もそろそろ、夜になると十度を下回るのに。
 ――この人が結婚できない原因って、自覚してるものばかりじゃないのでは。
 疑問ごと飲み込んだコーヒーは、きゅっと気道を狭めていった。

 

 協議の末、雅伸はこの部屋をとことん掃除することにした。死後『こんな部屋で寂しく……』と勝手に憐れまれるぐらいなら、生きているうちに綺麗にした方がいい。いなくなった後のことまで知りませんとむくれた未紅も、大家さんだって迷惑しますよと指摘したらさすがに引き下がった。
 たかが部屋で、未紅が誰かの自己憐憫に使われるのは気に食わない。
 これは雅伸の道義だ。
 まずゴミと洗濯物を分けるのに一晩かかった。朝になって、不要な袋を共用の収集所に全て出し、休日出勤だという未紅を見送る。死にたい割に律義だなと思う。誰かに連絡して予定を変更してもらうより、黙って耐える方が楽な気持ちもわからなくはないが。
 調度品の埃を払い、適当と思われる場所に物をおさめ、掃除機をかけ、ざらつく床を水拭き、乾拭き。洗濯機が止まったらシーツやタオルを外に干して、明らかに女性と分かる衣類は一応部屋干し。一回で洗いきれる量ではなかったのでもう一度セット。理奈に心配をかけないために『住み込みのバイトが決まった』と留守電を残したけれど、あながち嘘とも言えなくなってきた。
 息をついて、随分広くなった部屋を見渡す。
 日当たりが抜群によかった。フローリングにレースカーテンの木の葉模様が揺れている。さっきまでクローゼットの前でひっくり返っていた、スタンド付きのサンキャッチャーを試しに持ってくる。床に置いた瞬間、虹色の光が壁中に踊った。 
 昨日のコンビニ弁当を冷蔵庫から出してきて食べた。自発的に食物を摂取したのは久しぶりだ。洗濯機が鳴ったら、部屋中からかき集めたハンガーに服をかけていく。
 三時過ぎ、未紅が置いていった鍵を持って外に出た。健康的な街を歩く身体は、今にも陽光に負けそうだった。

 

「おかえりなさい」
 小窓からはまだ陽の光が射している。
 未紅が帰ってきた時分、雅伸はちょうど炊飯器に米をセットしたところだった。未紅は狐につままれたような顔で、本来の用途で使われているキッチンを見渡していた。
「風呂もすぐ湯を張れますよ。ベッドも使えるようにしました」
 未紅は返事をしなかった。難しい顔でパンプスを脱ぎ、コンロに置かれた鍋を覗き込む。
「これは?」
「カレーです。最後の晩餐としてはあまり洒落てませんけど、弁当かき込むよりはと」
 雅伸は鼻の頭を人差し指でかいた。
「とりあえず部屋入ったらどうですか。寒いでしょう」
 動かない未紅の腕を引く。コートの繊維が冷たい。紅を塗っているはずの口唇も色を失っているように見える。
「紺野さん?」
「困ります」
 未紅が雅伸の腕をつかみ返す。見上げてくる顔は、フェンスに足をかけたときより切羽詰まっていた。
「困ります。こんな風にされたら、わたし」
 ――わたし、死にたくなくなっちゃうじゃないですか。
 かすれた囁きは予想外であり想定内でもあった。未紅から言い出すことまでは読めなかったけれど、雅伸も感じていたことだ。
 未紅の腕に触れたまま、台所を通り抜けてすりガラスの引き戸を開ける。
 部屋は雅伸の好きな赤に満ちている。
「生きてたくないからって、無理に死にたいと思い続けなくてもいいんじゃないですか。俺も昨日バラバラにならなかったおかげで、今日は久々に生きた心地がしたし」
 淀みを取り除いた床にも夕陽が流れ、未紅を誘って足を浸せばほんのり熱かった。
 気の遠くなるような昔から、人類が経験してきた熱だ。
「延ばしたいだけ延ばせばいいと思います。ほんの誤差ですよ。一生があと何十年も残っているなら」
 座り込む未紅に引きずられて膝をつく。ワックス剤で磨いたフローリングに、未紅の頬から幾粒も水滴が降る。
「ま、さのぶくん。お仕事。お仕事あるなら、妹さんにも胸張って会えますよね」
 爪を立てられた腕に痛みが走る。それよりも綺麗なネイルが剥がれはしないかと心配になる。
「わたし、ひととして生きていくの多分とても下手なので、このお部屋、すぐ元に戻ってしまうと思うので」
 雅伸はみなまで聞かずに未紅の髪を撫でた。跳ねつけられなかったから、もう一度そっと頭のかたちをなぞった。
「俺はあなたに飛び降りたんです。あなたも俺に飛び降りた。最初から痛がるときは一緒の約束じゃないですか」
「そうでしたっけ。そうならいいな」
 未紅は笑いながら濡れた頬を持ち上げ、雅伸の不精ひげだらけの顎に触れた。傍目からは見えないほどうっすらと、昔の痕が残っている。きっと彼女にしか判らないし、解らない傷。
「わたし、家でこれ言うのすごい久しぶりなんです。ちゃんと返事してくださいね」
「わかりました。どうぞ」
「ただいま。雅伸くん」
「おかえりなさい。未紅さん」
 雅伸は水の跡に口唇を落とす。手のひらの熱を背中に感じる。
 落ち着けば邪魔になる身体なのかもしれない。ならばそれまでの使い潰しでいい。
 俺たちは早晩墜ちて千切れる夢を見る。微睡を共にする相手がいるだけで、全てから覚めるまでの無聊も少しは和らぐだろう。
 夕陽はまだ射し込む。壁に守られた部屋を赤に染める。
 囲われたその色は、流れ出る(とき)を静かに予感している。

 

「人間ごっこ」 冒頭のみ

「もう仕事着とパジャマだけでいいと思います!」
 未紅は両手に持った極彩色の布を振り回しながら主張した。積み上げられた服たちの中心で極論を口に荒ぶっている様は、一種の前衛芸術みたいだ。
 要る服と要らない服を分けてくれ、と気軽に頼んだ雅伸が悪かった。それができるなら、彼女は端から床の見えない生活などしていない。
「俺がある程度やっておきます。未紅さんは物件を探すことに集中してください」
「オウチ……オウチサガス……」
 未紅は何故か片言になって、布地の波をかきわけ部屋の隅に体育座りした。画面の大きなパソコンを使えばいいのにわざわざスマホで探すらしい。
 雅伸はあらためて部屋を見渡し、片手を腰に当てる。
 来たばかりのときあんなに綺麗にしたのに、出るわ出るわ。たとえばクローゼット、の中の衣装ケース、の中の紙袋、の中の圧縮袋……あらゆる場所にギチギチに服が詰め込まれていて、解凍して一ヶ所に集めるだけで二時間半かかった。
 雅伸は明らかなゴミから収集袋に放り込んでいく。虫に食われたニット、袖の擦り切れたトレーナー、ひび割れた合皮のバッグ……。
 逆に綺麗すぎるものもあった。真っ黒なライダースジャケット、制服と見紛う大きなセーラー襟のワンピース、オーバーサイズのスタジアムジャンパー。
「雅伸くんの趣味じゃないものあったら処分しちゃってくださいねー」
 未紅はスマホから顔を上げずにあっさりと言った。自分が着るのに俺が基準なのか? と一瞬訝しんだが、ほとんど着た様子がない服たちを手に、ああつまりそういうことか、とすぐに納得した。なら遠慮なくゴミ袋に入れさせてもらおう。
 未紅の趣味でもないのに場所だけ取っている服も、住んでもいないのにこの家を知っている男たちも、雅伸は全部捨てていきたい。

 

「皆紅」 冒頭のみ

 
「雅伸くん、結婚しませんか!?」
 新春特番の騒がしさに負けない元気さで、未紅が高々と拳を掲げる。手の中には、小学生のときから使っているという塗装の剥げたキャラもののシャープペンシル。テーブルで何か書いていたらしい。
 テレビ前のラグで洗濯物を畳んでいた雅伸は、天井を指すペン先を見上げた後、未紅の顔に視線を戻した。
「とりあえず聞きましょう」
「はい!」
 未紅は『家計簿』の文字に抹消線が引かれた大学ノートを両手で持った。
「実はわたし、『死ぬまでにやりたいことリスト』を作りました」
 実はもなにも割と最初のうちから『これでまた、やりたいことリストにチェックついた~』と口にしていたのだが、雅伸はひとまず指摘せず先を促す。
「ウェディングドレスを着て写真撮るってやつもやりたくて、まぁそれはシングルでもできるんですけどどうせなら本当に結婚した後のがいいかなって、人妻になるっていうのもやりたいんで!」
 雅伸は腕組みをする。未紅の話はときどき壊滅的にわかりづらい。
「未紅さん」
 居住まいを正して未紅の目を見つめた。
「まず、写真は後に残るので嫌です」
「……結婚は? 書類が残るのがイヤ?」
 未紅はノートを顎に当てて口を尖らせる。雅伸はまぶたを閉じ思考をめぐらせた。
 他人に未紅との関係を訊かれたとき、恋人と答えるのも妙だが同居人というのはもっと妙で、詮索の元にもなり困っていた。夫婦というのは社会的にも明確で、それ以上突っ込まれなくていい気がする。
 雅伸は目を開けて頷いた。
 未紅がノートを放り出し抱きついてくる。雅伸は、畳み終えた服が崩れないよう左手でよけながら、未紅の身体を右手で支える。
「条件というわけではないんですが――」

 

「朱のあとさき」 冒頭のみ

 通院を続けていたのは、未紅のいない間に衝動で死なないためだった。
 雅伸は自分が適切に治療されていると感じたことはない。診察もカウンセリングも、なす術のない現状を上滑りしていった。
 高校時代から見知った『主治医』のはずの女性は、今回も雅伸の顔ではなくカルテ記入用のパソコンだけを見ている。
「次回からは先生が変更になります。前にもお伝えしましたから大丈夫ですね」
 そんな大事な話のときぐらい患者の方を向け、とも思わなくなっていた。レコーダーのように淡々と同じことを反復し、プリンターのように速やかに処方箋をくれるこの医者が、自分を説明したくない雅伸にはありがたかったのだ。
 前に言ってあったという医師の変更も恐らく初耳なのだが、抗議するのも面倒で、今までありがとうございましたと思ってもいない言葉で最後までやり過ごした。

 二週間後、雅伸は同じ診察室のドアを開けた。同じ時間の予約なのに、呼ばれたのは一時間も遅い。
「初めまして、紺野さん! 二人三脚で根気強くやっていきましょうね!」
 いきなりの圧に、雅伸は両手を宙に浮かせて身構えた。
「ああすみません、声が大きかったですね。どうぞおかけください」
 新しい担当医は、二十代後半から三十代前半と思しき、しっかりした体格の男性だった。厚い唇をはきはき動かし、キレよく言葉を発している。
「前の先生からお話は伺っているんですが、あらためて紺野さんご自身から聞かせてもらいたいことがありまして。いくつか質問をしてもよろしいでしょうか?」
「はぁ」
 質問は本当に数個だった。雅伸はそのたった数個の問いに答えるのに、たびたび詰まり、頼りなく言いよどんだ。
 妻との生活はどうか。
 普段は何をして過ごしているのか。
 死にたい気持ちはまだあるか。
 どれも今の雅伸の在り方に密接に関わるものばかりだったからだ。
 それでも今までは、表面的な答えで流せていたはずだった。
 雅伸を口ごもらせたのは、目だ。
 新しい担当医は雅伸の顔をまっすぐ見ていた。要所要所で頷きさえした。雅伸がこの病院に通い始めて十余年、主治医不在時の臨時を含め、そんな医師に当たったことは一度もなかった。
 上手くかわそうとするほど舌はもつれ、冷えた汗が背筋を伝っていく。
 それでも医者は雅伸を見ている。患者という記号から『人間』を取り出そうとしている。『相模(さがみ)雅伸』を見出そうとしている。
 駄目だ。この先生は駄目だ。
 雅伸は鞄を抱えて立ち上がった。
「すみ、ません。帰ります」
 診察室のスライドドアを急いで滑らせ、待合室に踏み出す。
「紺野さん!」
 背にぶつけられた声を振り切ってトイレの個室に飛び込んだ。一〇〇メートルを全力で走り切った後のように肩が弾んでいた。
 駄目だ。俺は未紅さんほどフリが巧くない。あの先生は、きっと俺じゃごまかしきれない。このままここに通い続けていたら、あの人はきっと俺の『死にたさ』を見抜くだろう。適切な治療を施そうとするだろう。
 ――それは駄目だ。彼女を裏切れない。
 絶望なんて今更苦しくはない。この中で暮らすことなんて造作もない。彼女と同じ心でいられなくなることの方が、今や耐えがたい苦痛なのだから。

 

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