きっと家族になりましょう

「おはようございます、オイフェ様」
 今朝もラナは、そう言って笑って見せた。言葉を覚えてのち、一日も欠かさずこの子はオイフェに挨拶をする。
 母君に似てとても礼儀正しい子だ、というのがオイフェのラナに対する印象だった。
「おはよう、ラナ。今日も早いのだな」
 微笑み返して、オイフェは視線を外に戻した。
 ようやく取り戻したばかりのシアルフィ城の主塔。城下まで一望出来る。街並みなどは様変わりしてしまった気もするが、それでも大地はオイフェが帰ることを焦がれてきた祖国のままだった。
「戦も、もうすぐ終わるのでしょうね」
 ラナは立ち去らず、オイフェの隣に並んだ。
 生まれたのは別の国だが、血筋から言えば彼女にとってもグランベルは祖国だ。いろいろと感じることもあるのかもしれない。オイフェはそう思い、言葉を探す。
「ユングヴィの実権もじきに取り戻すことが出来よう。安全になったら、母上もお連れするといい――それまで気を抜かず、最後まで生き残ることだ」
 少しは気の利いたことを言おうと思っていたのに、最後は説教になってしまった。
 オイフェはふむと指先で髭を撫でた。ここを出た頃には気配もなかったもの。少しでも威厳が出ればとたくわえてみたはいいが、幼さや若々しさと一緒に、柔軟さもどこかに置き忘れてしまったらしい。随分と頭の固い男になってしまった。これでは祖父の名も泣こうというものだ。
「オイフェ様は、この戦が終わっても、セリス様のお傍に?」
 ラナは、バーハラの方角に目を向けながら、静かに問う。オイフェは返答を口に出すことを避けた。
 帝国を打倒したら、セリスはこのグランベル、ひいてはユグドラルの最高権力者となるだろう。実績からしても血筋からしても、間違いのないことだ。きっと厳しくも眩しい光の道を、オイフェの今の主であるあの青年は、これからも歩いていく。
 そこまで導くことだけを夢見て、生き恥をさらしてきた。セリスやシャナン、守るべき者たちがいなければ、オイフェはかつての――兄のように慕っていた主の後を追っていても、おかしくはなかったのだ。それほどに追い詰められていた。
 逆に言えば、今はそこまで自分の必要性を感じない。セリスは強くなり、シャナンも皆を導ける大人になった。乳飲み子たちは立派に育った。仲間と呼べる者たちも、彼らを支える者たちも爆発的に増えた。数だけでなく、確かな絆を持って共に生きている。老骨と言うほどではないが、もう若いとも言えないオイフェがその手を離そうと、最早何の問題もないように思えた。
 無論、犬死にをするつもりは毛頭ない。それでも、かつてほど生に執着がなくなったのは事実だ。こうしてシアルフィがセリスの手に『戻って』からは特に。戦時の遺産はここらで散っておくのも、後腐れがなくていいのかもしれないと、ぼんやり考える。
「オイフェ様」
 不意に、ラナがオイフェの手にそっと触れてきた。見抜かれたかと、動揺した。
 ラナにはそういうころがある。母親と同じように。持って生まれた性質なのか、他人の心身の傷を診るという職がそうさせるのか。
 彼女の微笑みからは、オイフェの無気力を悟ったのかどうか、その是非さえも窺えない。祈るように、オイフェの手を握ったまま、両手を胸の前に持ってくる。
「お答えがいただけないと、困ってしまいます。わたし、この先を生きていく場所が分からないままでは、あんまり不安ですもの」
「うん……?」
 オイフェは眉をひそめた。この、時折謎かけのような言い方をする癖は、一体誰に似たのだろう。彼女の父だろうか? オイフェは父君の顔こそ知っているものの、人となりについてはあまり詳しくない。深く関わったわけではなかったから。
 だって、とラナはあまりにも無邪気に笑う。
「オイフェ様の行かれるところに、わたしも共に参るのですから。ラナはずっとずっと、オイフェ様の奥になるために修行してきたのですもの!」
「……うん?」
 いよいよもって解らない。いや、解ろうとすることを頭が拒否している。
 ただ一つ確かなのは、ラナがオイフェの手を取ったのは慈悲ではなく、逃亡を抑止する為だったということ。
「悪いが、何を言っているのか……わかりかねる。だが」
 説明はしなくていいとオイフェが言いかけたのを、どうしてですとラナは遮った。口唇を少し尖らせて、オイフェを見上げる。
「わたし、オイフェ様には毎日欠かさず、『おはようございます』と『おやすみなさい』を言ってまいりましたのに。いつお嫁に行っても平気なようにと」
 そんな意味があったのか、とオイフェは痛む頭で記憶を辿った。全く気にしていなかった。形式的なものとして流していた。子が親にするようなものだとばかり。
 身を離そうとすれば握られたままの手だけが残って、かえって間の抜けた画になる。こちらは片手、向こうは両手、振り払えないこともないが、そうしたらラナは怪我をしてしまうかもしれない。
 わかっていますと言いたげに、ラナは一歩前に踏み出し、オイフェがせっかく取った距離をなくしてしまう。
「オイフェ様。わたし、きっとお母様以上の良妻になってみせますから。これまで以上に、お傍に置いてくださいな」
 実質、刃物を突き付けられているのと同じだった。だがオイフェは騎士で、男で、大人である。脅しに屈してやるわけにはいかない。殊更ゆっくりと首を横に振った。
「ラナ。君は、まだ若い」
「オイフェ様も。ご自身でおっしゃるよりはお若いですわ」
「そういう話はしていない。……君の周囲には、前途ある青年が大勢いる。視野を広く持て。朽ちていくための骸に、身を捧げる必要はない」
「わたし、彼らのことは尊敬していますけれども異性として興味はありません。ラナの心は、昔からずっと変わらずオイフェ様だけのものです」
 先程より距離を詰められていないだろうか? 笑顔もすごみが増しているような気がする。思わず後ずさってしまえば、背中は壁に当たった。
 こうまで来たら仕方あるまい。オイフェは自分が出来る中で一番厳しい顔つきで、ラナに言い放つ。
「目を覚ませ。幼い憧れに、いつまでも縛られているつもりだ」
「あら――まるでわたしが、『もう子供じゃない』と思っていらっしゃるみたいに、聞こえますわね」
「そうだ、解っているなら、もうこんな馬鹿げた真似はやめなさい。一人の大人として相応しい振る舞いを――」
 不意に、右手が自由になって。オイフェは自分の失言に気付くが、もう遅い。ラナの身体は更に近付いて、オイフェの懐に飛び込む。花のような香りと、やわらかな髪が眼前でふわりと広がった。
「でしたら、一人の女として。お慕いしております、オイフェ様。今までも、これからも。ですから」
 ラナはオイフェの胸に両手を添えて、顔を上げる。
 彼女だけの表情。彼女の母は決してしなかった、心底から憂いを捨てた笑み。
「家族になりましょう! 『家族のようなもの』ではなく、わたしと本当の家族に!」
 オイフェは言葉を失って、息を呑んだ。
 正直、ラナをいきなり女性として見ろと言われても、それは難しい。彼女はオイフェにとって、それこそ産まれたときからずっと、『忘れ形見』のうちの一人だったから。
 だが、『家族』という言葉に心が揺れた。十二のときに失ってから、三十も半ばを過ぎた今も、オイフェがずっと持つことが出来ずにいたもの。『同然』の者はたくさんいたが、真実それと呼べる者は、もう大陸のどこにもいない。二十年以上、誰一人。
 そう、だからといって所詮ラナの希望通りにしたところで、婚姻そのものが血の繋がりを生むわけではないのだ。彼女は事実としてどこまでも他人。今更跡継ぎを夢見るような状況でもない。
 それでも。ラナの言葉は、オイフェの胸に未練を生んでしまった。恐らく、彼女の望んだように。きっとオイフェがそれ同然に想っていた者たちへ願うのと、似たように。
 オイフェは難しい顔のまま、ラナの身体をそっと脇へ押しやった。セリスたちの元へ戻るため、階段を目指す。彼女の顔を見ることなく歩いていく。
「その話は、戦が本当に終わってからだ。――さしあたり、私もラナが朝晩の挨拶をする相手を、死なせないようにしよう」
「はい。どこまでもついていって、癒してさしあげますわ。オイフェ様」
 ラナは強気な台詞とは裏腹に、しずしずと後をついてきた。
 さしあたり、そう、さしあたり。オイフェは隠れて嘆息する。
 彼女の母にどう報告したものか、という頭痛の種も、今は忘れることにした。
 彼女の母が、いずれ義母になるのかもしれない、ということも、今は。