雫集め

・昼間の記憶

 彼女がいつから白夜にいたのか、タクミは覚えていない。
 生まれてはいたはずなのだが、もの心つくほど大きくはなかった。
 ともかくも彼女はいつも、遠慮がちにタクミの家族の傍にいた。
 兄や姉が何かと彼女を気にかけるのが納得いかない。
 妹が彼女に懐くのが気に入らない。
 母が、仲良くしてあげてと頼んでくるのが腹立たしい。
 だって、彼女の国はタクミたちの父を殺したのだ。
 記憶にはないけれど、確かにきょうだいとして暮らしたはずの人間を連れ去ったのだ。
 それを、代わりにきょうだいになれなどと、どう考えても筋が通っていない。
 けれど幼いタクミは、それをきちんと言語化して家族に説明することができなかった。
 だからこそ、リョウマは呆れたし、ヒノカは叱ったし、サクラは悲しんだし、ミコトは困り顔をした。
 でもいい。みんなが彼女を信じるなら、タクミだけでも警戒しておけば、いざというときすぐに対処できる。
 ぜったいに、ぼくだけはあいつを『しんよう』しない。
 小さな肩をいからせて、タクミはシラサギ城の中を『じゅんかい』していた。
 向こうに誰かいる。そっと足音を抑えて忍び寄る。
 日当たりのいい縁側に、彼女が細い足を揺らして腰かけていた。
 タクミは思わず足を止める。
 透き通った水色の髪。伏せた目を縁取る長い睫毛。暗い国特有の白い肌。
 アクアと呼ばれるその少女は、陽光の下で、消えてしまうのではと思うほど儚く見えた。
 息も忘れて立ち尽くすタクミに気付き、彼女がぱっと顔を上げた。
 けれど何も言わない。琥珀のような金色の瞳で、じっとタクミを見ているだけ。
 思えば、彼女は。タクミに近づいてきたことも、声をかけてきたことすらない。
 自身が彼女を避けてきたことを棚に上げ、何だか不当に思えてタクミは余計に彼女と話したくなくなった。
 彼女が、自分が嫌われていることを知っていて、敢えて距離を置いてくれているなんて、そんな屈辱的なことを認めるわけにいかなかった。
 ――そうだ。ぼくは、きいたことあるんだぞ。
 あいつは、ユキムラたちが『こうかんひとじち』のためにつれてきた、暗夜のおうじょなんだ。
 なのにガロンおうが『こうしょう』しようとしなかったから、だまってかえすわけにもいかなくて、しょうがないから、おいてやってるんだ。
 あいつは、おやにすてられたんだ。だから、いじめないでやってるんだぞ。
 なかよくはしないけど、かわいそうだから、いじめないだけなんだからな。
 タクミは目をつぶり、板張りの廊下を駆け戻った。
 遠くで透明な旋律が聞こえた。タクミが初めて聴いた、彼女の歌だった。
 まだあどけなさを残した頼りない声が、全てを諦めたような静かな曲が、呪いのようにいつまでも耳の中に残っていた。

 

・深夜の記憶

 ――寒い。
 そう感じて、タクミは目を覚ました。
 よく冷えた冬の夜だった。
 湯たんぽを断るのではなかったと後悔しながら、タクミは手探りで半纏を探す。
 この頃は兄と二人で就寝していた。兄は相変わらず、一瞬死んでいるのかと疑うぐらい寝相がいい。
 仰向けで、呼吸以外は微動だにせずよく眠っている。
 起きた以上は厠に行きたかった。
 だが白夜と言えど、丑三つ時は真っ暗だ。一人で行くのは躊躇われる。
 しかし熟睡している兄を起こすのは気が引けるし、母や姉妹が眠る部屋まで行って、ついてきてと頼むのも気が進まない。
 このまま寝直そうかとも思ったが、膀胱が翌朝の惨事への警告を出している。
 タクミは観念して、障子をすっと開けた。冷気が吹き込んでくる。
 兄が風邪を引かないように、すぐに廊下に出て障子を閉めた。
 悲鳴を上げそうなくらい足裏が冷たい。
 半纏の前をかき合わせ、なるべく余計なものを――例えば、庭に茂った草葉の陰とか――見ないように厠へ急ぐ。
 物音がする度にびくりと肩を震わせたが、とにかく見ない。確かめない。
 しかしどうしてこんなにも遠くに感じるのか。
 大した距離ではないというのに……タクミが心中で愚痴をこぼし始めたときだった。
「……タクミ?」
 背後から声をかけられて、心臓が口から出るかと思った。
 恐る恐る振り返ると、奇怪な影がぬっと立っている。
 袖を噛んで悲鳴を殺す。それでも歯の根が合わない。
 影はもう一度、タクミ、と慎重に名前を呼んだ。どこかで聞いたような声だった。
「私よ、アクア。どうしたの、こんな夜中に」
「あ、アクア?」
 ひっくり返った声で繰り返す。
 だんだんと目が慣れてきて、難しい顔の彼女が見えてきた。
「そ、そのかみ、なに」
 怪談に出てくる蛇女のような、自由奔放すぎる髪の毛。
 いつもさらさらと流れている絹糸とはまるで違う。
 ああこれ、と彼女は自らの頭に手を伸ばす。
「私、寝癖がひどくて……起きると毎日こうなの。困ったものね」
「は、はは」
 他人事みたいな口振りだが尋常な寝癖ではない。
 タクミは安心と呆れとで笑うしかなかった。
 だが彼女の方も少し表情をやわらげたので、はっとして厳しい声を出す。
「ぼくは厠に行こうとしてただけだよ。そっちこそ、こんな時間に何してるのさ。ぬけだして、暗夜ににげかえろうとでもしてたの?」
「いえ、私もおトイレよ。今夜は一段と冷えるから」
 彼女は恥じらいもなく淡々と答えた
 おトイレ、なんて気取った言い方が癇に障る。
「あっそ。じゃあお先に」
 タクミが歩き出そうとすると、左手を急に掴まれた。
 どきりとした。
 その肌の冷たさに。ヒノカの豆だらけの手の平とは違うやわらかさに。
 サクラのまだぷくぷくと幼い指とは違うすらりとした指に。
「な、なんだよ!」
「大きな声を出さないで。みんなを起こしてしまう」
「だ、だったらはなせ……」
「おトイレ、行くんでしょう?」
 振り払おうとしても、タクミよりまだ背が高い彼女は、意外と力があるのだった。
 タクミを引きずるように歩き出してしまう。
「真っ暗で心細かったの。同じ場所に行くなら一緒に行ってくれないかしら」
 彼女の足取りは、全く心細そうではないのだけれど。
 冷え切った白い指先が、自分の手の中で少しずつ熱を取り戻していくのが、何だかくすぐったくて、同時にひどく離しづらく思えて。
「……いいよ、べつに。つきあってあげても」
 タクミは、ぎゅっと彼女の手を握った。
 怖がりの彼女のためについていってやるだけだ。
 自分は決して怖くなんてないのだ。
 帰りは、女性王族の寝室まで彼女を送ってやった。
 部屋の前で母が待っていて、アクアを守ってくれてありがとう、とタクミの頭を撫でて、おやすみなさいと抱きしめてくれた。
 だから兄と同じ部屋に戻るのも、胸を張って一人でできた。
 出て行ったときと全く変わらない姿勢で寝ている兄が、ちゃんと生きていることを確かめて、タクミは布団に潜り込んだ。
 まだあたたかい指先を抱きしめて、アクア、と彼女の名前を呼んでみた。
 名前は悪くないと思った。
 それにしてもあの寝癖はひどかった。
 ふふ、と笑いながら、タクミはもう一度、アクア、と繰り返して夢に落ちていった。

 

・夕暮れの記憶

 深追いをしすぎた。山の中でタクミは舌打ちし、空を見上げた。
 朝頃には何もなかった空に、今は雲がかかっている。太陽の位置が分からない。
 タクミの片手には初めて仕留めた鳥。僕だって一人で狩りができるんだという証明。
 誇らしかった獲物は持ち歩くうち腕を疲れさせ、煩わしくさえ思うようになったが、手放してしまってはこれまでの苦労が水の泡である。どうしても持ち帰らなくては。
「にしても、今何時だ……?」
 こう空の色が暗いと時間の感覚が狂う。鬱蒼と茂る木々で視界が悪いので尚更だ。
「あーあー……疲れた。足だるい」
 別に口に出したって楽になるのでもないのだが、黙っていると余計気が滅入る。自分の声でもいいから何か音を聞いていたかった。さっき鳥を射落としたとき、浮かれて見に行って獣避けの鈴を落としてしまったのだ。
 一応矢は充分にあるが、獰猛な野生動物が急に襲ってきたら、必ず撃退する自信はない。
 独り言の話題を探す、という随分奇妙なことでもやっていないと、嫌なことばかり考えてしまう。
「ヒノカ姉さん、心配してるかな」
 天馬でばたばた飛び回って捜しているかもしれない。さらわれたきょうだいのために、持ったこともない薙刀さえも手にするひとだから。
 ……いや、ヒノカは来ない。そういうことになると困るから、何も言わずに出かけてきた。
「リョウマ兄さん、怒るかな」
 まず誰にも告げずに一人で狩りになど出たことを叱るだろう。こんなに長い時間帰って来ないことも。そのくせ獲物がこんな痩せた鳥一羽で、落胆するだろうか。
「サクラ、泣いてないかな」
 タクミ兄様がいない、と大騒ぎしているかもしれない。いや、でも、最近サクラは、同じ年頃の友達ができた。女の子同士で楽しく遊んで、タクミがいないことにすら気付いていないかもしれない。
「……母上」
 タクミはずっと鼻をすすった。こんなところで迷子になって母を呼ぶなんて、白夜男子の振る舞いではない。帰りたいよ会いたいよと喚くほど、タクミはもう子供ではなかった。
「そうだ、僕はもう子供じゃない。いずれ風神弓だって僕が譲ってもらうんだから、こんな狩りぐらい一人でこなせなくて、なんだ」
 そう自分を奮い立たせて、ずんずんと歩き出す。大きな枝が張り出していたので、上に気をつけて潜り抜けようとした。しかし枝が立派ということは根も立派。タクミはまんまとつまづいて、湿っぽい地面に顔を強打した。
「いったー……なんだよもう!」
 顔を押さえながら立ち上がろうとする。
 だがすぐに、顔よりも痛い場所に気がついた。足首だ。変な風に引っ掛けたから挫いてしまった。
「冷やさなきゃ……えっと、薬……」
 皮袋を漁る。こういうときのために、炎症を抑える軟膏を入れていた。
 あとは変な癖がつかないように、包帯で患部を縛らなくては……。
「つめたッ」
 軟膏を見つけ出す前に、タクミは声を上げた。
 空を仰いだ額に水の粒。にわか雨だ。
「なん、なん、だよ!!」
 悪態をつき、ともかくも風雨を防げそうな場所を探す。
 ちょうど手近に自然窟があったので飛び込んだ。毒を持った蛇や蜘蛛がいないといいのだが。
「……嫌だな、もう……」
 足首の処置をしながら、ぽつりと呟いた。何かを言いたくて口に出したのではなく、自然と出てきた言葉だった。
「天気も読めないし、道に迷うし、剣は兄さんに敵わないとしても、弓ぐらいは僕のが上手いと思ってたのにな……」
 必死で引きずってきた鳥は、羽が濡れて一層みすぼらしく見えた。こんなものを持って帰って一体何の自慢になるのだろう。鳥の死骸を地面に叩きつけて、タクミは膝を抱えた。
 帰りたい。温まりたい。
 帰りたくない。失望されたくない。
 顔が痛い。足が痛い。手が痛い。胸が痛い。
 腕が寒い。心が寒い。目が熱い。
「どうしてだよぉ……どうして、なんにも上手くいかないんだよぉ……」
 僕は頑張ってるって誰か言ってよ。僕だってできるって誰か認めてよ。
 誰か僕を見つけてよ。ちゃんと解ってるって、安心させてよ。
「僕のこと、好きだって、誰か、言って……?」
 大好きも愛しているも聞こえない。耳に入るのはただ、冷えた雨音。
 タクミはぐしゃぐしゃの顔を上げ、呆と外を見た。
 細くてまっすぐな水の線が、幾筋も空から降りてくる。
 彼女の髪が浮かんだ。
「――ゆ、らり、ゆ、るれり」
 僕は何を口にしているんだと思ったが、どうせ誰も聞いていない。
 やけになって、覚えているだけの言葉で、覚えているだけの旋律を歌った。
 水辺で歌う彼女を見かけて、声をかけられず隠れて聴いていた。
 最初のうちはわざとではなかったけれど、いつしか先客を期待して訪れていた秘密の場所。
「そのてが、ひらく、あすは」
 もう吐き出す歌詞がなくなると、外が明るくなっていた。足を引きずりながら自然窟から出る。
 雲が切れて、太陽が覗いていた。方角が分かる。
「城はあっちだ!!」
 タクミは歓声を上げた。陽もまだ暮れていない。これなら夜になる前に帰れる。
 荷物も鳥も引っ掴み、痛みを押して山を駆け下りた。
 城の周りに雲はない。局地的な雨だったらしい。
 いつもの場所にはいつものように彼女がいて、いつもの歌を歌っていた。
 それだけで、タクミは全ての重みが取り除かれたような気がしていた。 
「……タクミ? どうしたの、ずぶ濡れよ」
 彼女が歌を止めて、歩み寄ってくる。身の丈は同じ頃まで追いついた。
 タクミは答えない。ただ、右手に持っていた鳥を突き出した。
「あげる」
「え?」
「獲った。もう手がだるいから、捨てといてよ」
 神性を感じさせる真白の胸元に、生き物の死骸を押し付ける。
 彼女を自分と同じ次元に引き留めておきたかった。彼女になら迷惑をかけたかった。
 許したわけでも、認めたわけでもないはずなのに。
 タクミはそれ以上何も言わずに、挫いた足を庇いながら歩き出す。
 早く風呂に入って、足をきちんと治療しなくては。説教も人数分たまっているだろうし、忙しいのだ。
「タクミ」
 呼びかけられて、こわごわ振り返った。
 本当に獲物が捨てられているのを見るのは嫌だった。
 だが彼女は、その濡れそぼった亡骸を尊いもののように抱きしめていた。
「ありがとう」
「……なんだそれ」
 観賞用にもならない、食べるところもほとんどない鳥なのに。
 ありがたいことなんて何もないのに。
「へんな、おんな」
 タクミは呟いて、また歩みを再開した。
 茜色に染まった地面と長い影が、目に痛かった。

 

 
・朝焼けの記憶

 白くて薄いカーテン越しに朝陽が入ってくる。
 タクミは毎朝、ここはどこだと自分の居場所を見失う。星界というやつにはどうも慣れない。
 寝台から上体を起こす。就寝時には低い位置で一つに括っているだけの髪を、片手で脇にのけた。
「タクミ……?」
 隣で、彼女が――妻のアクアが身じろぎする。起こしてごめんと言うと、いいえとアクアも布団から這い出た。
 枕に寄りかかるようにしているタクミと、斜めに向かい合って座る。
 タクミは苦笑してアクアに手を伸ばす。
「相変わらず寝癖ひどいね。どうして梳かすとあんなにまっすぐになるのか不思議だよ」
「さぁ……長くて重いから、引っ張られてまっすぐになるんじゃないかしら」
 アクアはやはり他人事のように言って、あふ、とあくびを噛み殺した。その後で、急にはっきりとした視線をタクミに寄越す。
「また、悪い夢を見たの?」
「そうじゃない」
 タクミはうなされた後決まって甘えるから、今のもその一部だと思ったのだろう。ばつの悪い思いで、タクミはアクアの髪をいじる。
「君の夢を見てた」
「私の?」
「そう。子供の頃の」
「子供の頃……」
 アクアは人差し指を口唇に当て、天井を仰いだ。その間にタクミは枕元の櫛を手にする。
「シラサギ城にたくさん雪が降って、みんなでかまくらを作ったときのこととか?」
「ああ、あれは楽しかったね。シグレとキサラギに話したら羨ましがってた」
 彼女の髪を一房取り、毛先から少しずつほどいていく。
「城門にスズメバチの巣ができて、城中大騒ぎした話は?」
「君は、蜂蜜は採れないのかしらって言って、みんなを呆れさせたっけね」
「川遊びで流されたのもスリリングで楽しかったわ」
「あのときリョウマ兄さん、びっくりしすぎて聞いたことない声出してたよ」
 少しずつ少しずつ、絡まった髪は素直になってさらさら落ちていく。
「よく覚えてるね、そんなにたくさん」
「私の方がお姉さんだもの」
「お姉さんなのに髪の世話を弟にやってもらうの?」
 タクミが櫛をちらつかせながら問うと、アクアは眉をひそめて、ついとよそを向いた。
「……タクミは旦那様だから」
「言い出したのそっちじゃないか」
 苦笑しながら、タクミは後ろから改めて水色の髪を梳り始める。
 華奢な肩。いつからか、上背は追い越していて。守られてばかりだったあの頃に比べて、強くもなれただろうか。変わらない美しい髪に、触れられる距離まで来た今、タクミは彼女に告げる。
「アクア。愛してる」
「どうしたの、急に」
「別に急じゃない。いつも思ってる」
 ずっと君が好きだったよ。君のことばかり考えてた。
 どんな悪い夢からも、君がいればきっと目覚められる。
「必ず、君の痛みを断ち切るよ。君がずっと、僕にしてくれていたように」
 タクミは輝きを取り戻した髪に口付けた。朝露のような愛しい色に。
「それで、今度こそ僕ら、何のしがらみもないただの大人同士で、夫婦になろう。僕らの子供たちの道を、正しい光で照らすために」
「――ええ」
 アクアは振り返り、微笑んだ。
 あの切ない歌を紡ぐ口唇がこんなにやわらかいと、知ったのはつい最近だけれど。
 彼女の本当の故郷のことさえ、ずっと誤解していたけれど。
 もっと知りたいよ。昔の君も、今の君も、未来の君も。
 この胸が君で満たされて溺れてしまうまで、僕は君の色の雫を、集め続けたい。