清濁併せ灰と生す

 シャーロッテは普段、あまり緊張しない。
 セオリー通りの行動に完璧な演技、分かりきった道を進むことに迷いも恐れもない。
 ただ今は、何度も深呼吸をして、落ち着けと自らを罵倒し続けている。
 先日恋人となったサイゾウの部屋。
 彼は本日、主君のリョウマとずっと行動を共にしているという。夕食も済ませて、帰ってくるのは夜遅く。
 シャーロッテが来ていることすら知らないはずだ。こちらの予定を訊いても来なかった。
 あんなに強引に婚約を迫っておいて、OKしたら放置ときている。
 デートもなし。手繋ぎもなし。キスもなし。その先は言わずもがな。あれきり、二人だけで過ごした時間も全くない。
「クソがッ!!」
 シャーロッテは一人きりの部屋で、だんと床を踏み鳴らす。リリスだか何だかが作ったらしい異界の城は、造りがしっかりしていて周囲に響かないのだった。その辺の細かいことはシャーロッテにはどうでもいい。
「あーもう……さみーんだから早く帰って来いよ」
 毒づきながら、鳥肌の立った両腕を抱く。密かに自慢にしている肉体に着けているのは、最低限の箇所だけを覆う布地と、透けた素材の白いベビードール。娼婦ほど安っぽくは見えないように、扇情的でいて、かつ甘い油断を残した小悪魔なデザインを探すのに苦労した。
 つまりシャーロッテは、本人にとって口惜しいことに。本気でサイゾウを誘惑しにかかっているのだ。
 腕組みして、殺風景な部屋の中を意味もなく歩き回る。
「なんで私があの陰険忍者のご機嫌を窺わなくちゃいけないのよ……つーか何なの? 白夜人は婚前交渉しない主義なの? その割に王族はぼんぼこガキこさえてんじゃねーか。やっぱあのクソ忍者が不能……」
「戻ったぞ」
「おかえりなさーい旦那様☆」
 ドアの開く音に反射でしなを作ってはみたが、多分もう遅いだろう。彼のことだから全部聞いていたに違いない。シャーロッテは身体をくねらせて、凍りついた笑顔のまま脂汗を流していた。
 サイゾウはいつも通りの淡々とした口調で、シャーロッテを指差した。
「お前、有事の際にもその低防御力の装束で外に出るつもりか」
「どこぞのチキン野郎のために敢えて防御力下げてやったんだろーが!!」
 がっと怒鳴ってから、まだドアが閉まっていないことに気付き、シャーロッテはしゅんと両手を下げた。強調するようにさりげなく胸を腕で寄せる。
 サイゾウは特にコメントせず、そのまま出て行ってしまった。結局、恥をかいただけのシャーロッテが一人残される。
「何なのよ!! 女がここまで歩み寄ってんのに何が不満なの!? 不感症忍者が!! もー知るか、リョウマ王子と一生乳繰り合ってろ! ホモ!!」
 事実無根の罵倒と共に、シャーロッテはあらかじめ敷いておいた布団(サイゾウが朝ちゃんと畳んでいったのをわざわざ広げ直した)に飛び込む。綿たっぷりの掛け布団に包まって、ぶつぶつとサイゾウへの呪詛を繰り返す。
 やっぱり選ぶ男を間違えた。地位もお金も大事だけど、あの男には思いやりや繊細さが決定的に欠けている。女は愛されてこそ華。もっと私をちやほやと持ち上げてくれる男と一緒になればよかった。
「おい。いつまでそうやって蝸牛をしているんだ」
「あぁ!?」
 顔を上げると、いつの間にやらサイゾウが戻ってきていた。丸まったシャーロッテの傍に立ち、冷めた目で見下ろしている。
「風呂に行くぞ」
「意味わかんないんだけど」
「冷えたんだろう。……口唇が青かった。湯浴み用の下着を持ってきてやったから、温泉で身体を温めろ」
「あ、うん……」
 手を差し伸べられて、さっきまで胸を占めていた爆発物が急に大人しくなった。
 シャーロッテは、その無骨な手を素直に握る。力強く引き上げられたと思ったら、肩に上着がふわりと載った。確か白夜の『半纏』という羽織ものだ。
「行くぞ」
「ま、待ってよ。私、裸足だから……」
 というか半裸だから一応服を、と言いかけたところで、サイゾウが嘆息しながらシャーロッテを抱き上げる。
「はぁ!? ちょっと、待っ!!」
「暴れると落ちるぞ。騒ぐと人が来る。どっちも俺は困らないが」
「ぐううぅぅっ……!!」
 腹立ち紛れにその辺の肌に噛み付いてやったけれど、サイゾウは眉一つ動かさないのだった。憤懣やるかたないシャーロッテだが、黙って温泉まで運ばれていく。
 深夜だけあって誰もいなかった。サイゾウは念には念をとばかりに、入り口に『貸切』の札を下げる。
 ただこの軍の将に限っては、『貸切』も『男湯』も『女湯』も見ずに飛び込んできて、その度怒られるという恐るべき学習能力のなさを日々発揮しているので、乱入して来ないとも限らないが……とりあえずリスク軽減はされるだろう。
「着替えるからこっち見ないでよ」
「さっきまで裸より恥ずかしい格好をしていた奴が何を……」
「うるさい黙れ」
 やっぱ見てたんじゃねぇか、と口の中で毒づきながら、シャーロッテはサイゾウに背を向けて渋々ベビードールを脱ぐ。確かに、湯浴み用の下着の方が露出度は低いくらいだ。だが見せるためのものではないので、かえって抵抗がある。
 躊躇していたら、シャーロッテより余程着込んでいたはずのサイゾウは、もう脱衣所から姿を消していた。こうして籠に服があるのだから、帰ったのではないのだろう。
「つーか、なんであんたまで入るわけ!? 私があったまるだけでいいんじゃないの!?」
「俺も汗をかいた」
「知るか!!」
 乱雑な着物が気になったので、面倒だが畳み直した。硬いものがこつんと手に触れたが、どうせ暗器か何かだろう。
 シャーロッテはバスタオルで身体を隠しながら、覚悟を決めて湯殿の方へ足を進める。
 サイゾウは端で頭を洗っていた。思ったより広い背中には、いくつも傷がついている。ぼーっとそれを見ていると、振り向きもせずに声をかけられた。
「手ぬぐいを湯につけるなよ」
「分かってるわよ」
 舌打ちで返す。観念して、シャーロッテはバスタオルを洗い場に置いた。どうせサイゾウはこちらを見ていないのだし、気にするだけ馬鹿らしい。嘆息しながら、長い髪を後頭部でまとめた。
 軽く身体を流してから湯に入ると、肌がじわりと熱を帯びる。思っていたよりもずっと冷えていたようだ。
「あんな頭の軽そうな格好をするからだ」
 頭上から声がする。シャーロッテがサイゾウの顔を見上げて絶句したのは、なにもその暴言のせいではない。褌一丁だったからでもない(少し驚いたが)。
 かつて王城兵だった頃、周囲の男たちはシャーロッテを女扱いしなかった。着替えなんて勿論、泥酔して脱いだまま寝こける連中もいた。鍛え抜かれた男の裸で、きゃーきゃー言うほど純でも子供でもない。だが。
「何だ。幽霊でも見たような顔をして」
 サイゾウが濡れ髪を半分かき上げる。
 そうなのだ。いつも撫で付けている赤い髪を下ろし、素顔をさらしたサイゾウは。
「……あんた、本当にスズカゼと双子なのね」
 控えめに言っても、美形だった。男選びは経済力最優先、外見は生理的嫌悪感を催さなければ可のシャーロッテだが、彼はその許容範囲を遥か上方にぶち抜いている。きっとこのまま歩き回っていたら、スズカゼと同じく女性に囲まれて大変なことに……。
「いや、それはないわね。なにせ性格は段違いに陰険だもの」
「おい。何を言っているのかは分からんが、ろくでもないことなのは分かるぞ」
 サイゾウは湯の中に身体を滑らせながら、何かを表面に浮かべた。盆の上に、一輪挿しのような容器が一本とごく小さな器が二つ。気まずいのをごまかしたくて、シャーロッテはそちらに意識を割く。
「なにこれ」
「熱燗だ」
「あつかん」
「温めた酒だ」
「へぇ、ホットワインみたいなこと?」
「ああ。これを湯に浸かりながら飲む、というのはある種白夜人の夢だな」
「そうなんだ。いいじゃない」
 湯気で思ったより互いが見えないので、シャーロッテも何とか調子を取り戻してきた。サイゾウが杯に注いでくれて、嬉しかったので注ぎ返してやろうと思ったのに、彼は手酌で済ませてしまった。
「芯から温まれよ」
 言いながらくいと呷る。もしかして、白夜人の夢というのは建前で、シャーロッテの身体を気遣って用意してくれたのだろうか。本当のところは分からないが、かわいいとこあるじゃないと忍び笑いをしながら、シャーロッテも杯を空ける。
 辛口の酒だった。シャーロッテは普段、ジュースみたいに甘い酒で『酔っちゃった~』と演技するか、『飲めないんですぅ~』と固辞するかのどちらかだか、実はこれくらい度数の強い方が好きだ。内臓から熱くなって、とても気分がいい。
「その分なら一升瓶でも抱えてる方が似合いだな」
 サイゾウが二杯目を飲みながら言った。シャーロッテはむっと口を尖らせる。
「あんた、ホンットに失礼だな!」
「なんだ、一升瓶は知っているのか」
「あっ、まぁね……」
 失言だった。シャーロッテはよそを見ながらちびちびと飲む。サイゾウは三杯目を注ぐ。
「最近、スズカゼやカゲロウの周りを熱心に嗅ぎ回っているようだからな」
 指摘され、シャーロッテはぐっと黙り込んだ。口唇を噛んで眉を寄せる。
 いつもそうだ。サイゾウは自分のことをほとんど話さないくせに、シャーロッテの動向は把握している。いつだって、情報量は不平等なのだ。向こうの匙加減で立場の強弱は変わるのだ。
 言い出した側のサイゾウは、そのくせ何も続けず、涼しい顔で酒を飲んでいる。
 水面で、ゆらゆらと木製の盆が揺れている。
「……しょうが、ないでしょ」
 シャーロッテは膝の上で拳を握り締めた。自分の声が無様に震えているのが許せなかった。
 普段か弱い女を演じているくせに、本当の弱さをサイゾウに見せるのがたまらなく悔しい。
「あんたは、リョウマ王子の直属の臣下で……私は、妻としてあんたをどこに出しても恥ずかしくない殿方として仕立て上げて、支えていかなきゃいけないんだから。暗夜育ちなので白夜のこと何も知りませんなんて、そんな使えない女でいるわけにいかないんだから」
 シャーロッテさんは本当に兄さんのことを想ってくださってるんですね、こんな方が義姉さんになるなんて私もとても幸せですと、そうスズカゼが微笑んでくれたことが、掛け値なしに嬉しかったなんて。
 そんな肝心なことは、何一つ知らないくせに。
「そうよ、私はいつもみたいに声色変えてあんたの周りを探ってたのよ! だってしょうがないじゃない、あんた自分では何にも教えてくれないんだから!! つーかいつまでもあの女が元カノ面してんのだって私は許せねぇんだよッ、解ってんのかよ!?」
 思わず立ち上がって、杯をサイゾウに投げつけていた。額に当たってこぼれた酒は、サイゾウの潰れた方の目を濡らした。まるで涙みたいに見えた。泣いているのはシャーロッテの方だったのに。
 サイゾウは眉を寄せて、顔にかかった酒を手の甲で拭った。
「カゲロウのことなら、あいつの心はもうとうに俺にはない」
「あぁ!?」
「つい先日も、リョウマ様と婚後の進退について話し合っていた。あいつの人生と俺の人生は、この先遠ざかっていくばかりだろう」
 サイゾウに手を引かれ、シャーロッテは崩れ落ちるようにお湯の中に座り直す。
 結婚の約束までしたというのに、その腕に抱き寄せられたことが未だ信じられなかった。かたい指先が、シャーロッテの白い首筋に触れる。
「白夜の男は、着物の襟から覗くうなじが好きだ」
「……うん」
「今日は珍しく髪をまとめているな。それも知っていたのか?」
「知るか、そんなもん」
 鎖骨に爪を立てたけれど、相変わらずサイゾウは微動だにしないのだった。耳をくすぐる吐息で、彼も少しは動揺しているのだと、ようやく感じられるぐらいだ。
「シャーロッテ。実はお前にひとつ、嘘をついた」
「死ね」
「せめて最後まで聞いてから罵れ。……今日、本当は暗夜の男たちのところに行っていた」
「え……?」
 シャーロッテはようやく気付く。サイゾウがやたら密着してくるのは、彼女を落ち着かせるためではなく。彼自身が、顔を見られたくないからなのだと。
「お前にやる指輪のことだ。太さは自分で調べられても、好みまでは分からん。暗夜の民に話を聞かねばと思って、お前が接触していそうな男を捜して歩いた」
「指、輪?」
「そうだ。暗夜の指輪は、素材や加工などの組み合わせで、星の数ほど種類があって、俺一人では決められそうになかったからな。ブノワにラズワルド、マークス王子やレオン王子……たくさんの男に声をかけた。高価なものなら喜びそうだという見解は皆一致していたが、意匠や宝石に関しては意見が割れた。華やかなものがよさそうだとか、実用的なのがいいとか、実例を交えて話してくれたな。とてもありがたかったが、その分俺は、いかに自分がお前を知らないかを改めて思い知らされた」
 柄にもない長文で喋った後、サイゾウは、ぽつりと付け足す。
 お前の全てを理解してやってるなんて、とんだ思い上がりだったなと。
「それで……どうしたの?」
 シャーロッテは俯いた。笑ってはかわいそうだと思ったが、堪えるのが大変だった。
 サイゾウは自分の胸の辺りに右手をやる。
「俺が総合的に判断して購入してきた。見せてやる、今ここに……」
「どこよ」
「……脱衣所に置いてきた」
「でしょうね」
 詰めの甘い忍者だ。シャーロッテは声を上げて笑った。
 サイゾウの抜け方も面白かったが、それ以上に、あの堅物で忍のくせに嘘のつけないくノ一を疑っていた、自分自身が馬鹿馬鹿しくて。
「あーそうよ、私が一方的に嫉妬してただけだって。あの人、一生懸命あんたのこと、詳しく教えてくれるんだから。優越感とかじゃなくて、きっとそんだけあんたが頼りなくて心配だったんでしょうよ」
 自分が嫁くなら尚のこと。シャーロッテに、それだけサイゾウのことを託してくれた。
 笑い終えると、シャーロッテはサイゾウの胸に手を添えた。どくんどくんと脈打っていた。
「ねぇ、サイゾウ。あんたのこと、もっと教えてなんて言わない。隠したいことがあるならせいぜい逃げ回りなさいよ。私は勝手に調べるから。あんたの好きなもの、嬉しいこと、見つけ出して喜ばしてやるんだから、覚悟しなさい」
 サイゾウはふんと鼻で笑い、右手でシャーロッテの肩を抱いたまま、漂う盆を左手で引き寄せる。
「やれるものならやってみろ、そう簡単にはいかないぞ。なにせ俺は――」
「五代目サイゾウだ、でしょ?」
 シャーロッテが不敵に笑う。サイゾウは苦虫を噛み潰したような顔だ。
 徳利を掴んで、盗られた台詞と一緒に、酒の残りを一気に呷った。
「あ、ちょっと――!!」
 シャーロッテの警告ももう遅い。サイゾウはぐらりと身体を揺らし、シャーロッテの方に倒れ込んできた。白い肩口に額を押し付けて呻く。
「眠い……」
「おい待て寝んなよ! こんなとこで――」
 力を失ってずるりと沈むサイゾウ。とりあえず彼の頭を水面より上に持ち上げながら、シャーロッテは叫ぶ。
「風呂でアルコール一気なんかすっからだろうが、こんのクソ馬鹿忍者ァッ!!」
 仕方がないので担いで上がった。ともかく半纏だけ羽織らせて、自分はサイゾウの服を適当に着てベビードールは丸めて懐に突っ込む。幸い誰にも出会うことなく、サイゾウの部屋まで戻ることが出来た。
「まったくよー、照れ隠しならもうちょい面倒かけねぇようにやれよなー……」
 ようやくサイゾウの身体を布団に放り出しながら、シャーロッテは毒づいた。
 サイゾウの顔は真っ赤だったが、呼吸は安定している。シャーロッテは苦笑して、ともかくも何か冷やすものを持ってこよう、と自分の服(ベビードールではなく、他人に見られても大丈夫な普段着)に着替えて一度出る。
 冷水の入った桶を抱えて戻ってきても、サイゾウはさっきの位置から動いていなかった。
「本気で寝てやがんな」
 呆れて呟く。実は酒に弱いのか、それだけ疲れるほどシャーロッテのために奔走してくれたのか。絞ったタオルでサイゾウの汗を拭いて、最後にもう一度濡らして額に載せてやる。肌の赤みは幾分引いたようだ。
 シャーロッテは息をついて、衣服と一緒に脱衣籠の中に入っていたものを手にした。白夜柄の巾着袋に入ってはいるが、大きさからして間違いなく件の指輪だろう。好奇心に負けて、袋の口を解く。中から出てきた小箱を、唾を飲み込んでそっと開けた。
「あ……」
 シンプルな銀の指輪だった。中心には大粒のダイヤモンド。
 富と永遠の象徴である、シャーロッテが最も憧れた石。
「……暗夜では、許婚である間と、実際に結婚してからで指輪を分けると聞いた」
 振り向くと、サイゾウは仰向けに寝転がったまま、濡れタオルを摘み上げていた。
 桶に落とされた布地は、冷水にふわりと泳いで。
「今はそれで我慢しろ。正式な祝言を挙げたら、また新しく買ってやる」
 シャーロッテの頬には、今日二度目の雫。
「おい。何が不満だ? やはり俺の調査不足か」
 サイゾウが身を起こして寄ってきた。酒臭い。ばか、とシャーロッテは指の背で涙を拭う。
「嬉しいだけ。泣かした責任、取りなさいよね」
「元よりそのつもりだが」
 三度抱き寄せられた腕の中、やっと安らぎを得られた気がする。
 シャーロッテは、剥き出しの胸板に赤らんだ頬を寄せる。
「服、着れば?」
「うん? 脱ぐ方をお望みじゃなかったのか」
「やかましいわ」
 すっと顎先を持ち上げられて。口唇を吸うぞと宣言されて、黙ってしろよと悪態をつく。減らず口を塞がれて、素直な腕が背に回る。
 甘い言葉がお嫌いならば、慎ましやかに、やや辛口に愛しましょう。
 横暴に、周到に、互いを知り想い合いましょう。
 サイゾウの手がシャーロッテの肌を這う。情熱的な囁きが耳朶を濡らす。
「シャーロッテ」
「調子こくなよコラ。酔っ払いにくれてやるほど私の処女は安くねーぞ」
「では日を改める。正直少し頭痛もするし、何より眠い」
 あっさりと離れていこうとするサイゾウを、シャーロッテは小指同士を絡めることで繋ぎ留めた。目を見開くと案外幼い顔に、肩をすくめて言ってやる。
「寝ゲロで死なれちゃ寝覚めが悪いし。面倒だけど、今夜は一緒にいてあげる」
「そうか」
 サイゾウはやわらかく包み込むような微笑で、呟いた。
「相変わらず選ぶ言葉の汚い女だ」
「うっせーよ!!」
 怒鳴った後で、笑い出す。その日は子供みたいに小指を繋いで、向き合って眠った。
 意地も打算も仮面も捨てて、駆け引きも放り出して、一切の憂いなく。未来を無条件に信じていられた、幼い頃のように。
 目を覚ますとサイゾウはいなかった。白夜の男は朝に味噌汁と魚と米を求めるものだと聞いて、シャーロッテはそのために早起きをしたはずなのに、夜明け前には出かけたのだろうか。
 しかめ面で目をこすっていると、机の上に何かが置かれているのに気付いた。近寄って、被せてあった大きな何かの葉(朴という名を後で聞かされた)をどけると、不細工な塩むすびが二つ並んでいる。
「でけーし……年頃の乙女が朝からこんなに食うかよ」
 と言いつつもかぶりつく。瞬く間にぺろりと食べてしまい、塩気の残る指を舐める。美味しかったのが余計腹立たしい。
 皿を片付けようと持ち上げたとき、何かがひらと落ちた。拾い上げると、乱雑な字が書き殴ってある紙片だった。
『衣食住は基本給。そちらの実家への仕送りは歩合制。お前が五送るなら俺も五を足す。十なら十。なお同額、お前の自由になる金も保証する。励め』
「っしゃあ!!」
 シャーロッテの右手の中でひしゃげる紙片。
「せいぜい孝行してやんよ。吠え面かくんじゃねぇぞー」
 シャーロッテは鼻歌まじりに片づけを始めたが、頭の中は存外冷静であった。
 サイゾウは本当に、自分をよく見ていたのだろうと彼女は思う。
 シャーロッテは男からの貢ぎ物を心から喜んだし、故郷の家族に楽をさせてやりたい気持ちも本当だった。
 それでも彼女は一度だって。実家が大変だからお金を貸してなどと、家族の誇りを売る真似だけはしなかった。自分自身の色香や作戦で、男の純情を弄んだって。誰かを破滅させる金銭も、他人に手配させるような後ろ暗い物品も、決して手にはしなかったのだ。
 部屋を美しく整え直してから、改めてドアに手をかける。
 この場所は仮初。サイゾウはこの部屋をいずれ捨てるし、シャーロッテはやがて他国へ嫁ぐだろう。
 暗夜でも白夜でも、透魔ですらないこの世界は、存在するはずのなかった夢。
 それでも、二人は恋をした。確かに互いを感じ、想い、いくつもの約定を不器用に交わして。
 寝ている間に素っ気なく薬指に滑り込んできた指輪は、誇らしく輝いている。本当の世界へ続くために、きらめいている。
「惚れた弱みはお互い様よ。……尽くしてやるから、踏ん張れよ」
 開け放つ扉の先がどんな世界でも。あんたが見ていてくれるなら、私は胸を張って歩いていってやるから。
 シャーロッテは外へと踏み出した。
 さぁ、雨も降らない理想郷を飛び出して。好きでもない武器を今度こそ捨てるために。
 いつか築く新しい、『家族』の笑顔を迎えに行こう。