片時雨

 彼女がいない、と本当に認識したのは、いつだっただろう。
 最期のときに、タクミは彼女の傍らに在ることが出来なかった。
 その瞬間を見届けたきょうだいは、何度も何度もタクミに詫びた。気の毒になるぐらい頭を下げた。
 こうなることは予想出来たのに、彼女を止めることが出来なかったと。こうなる前にタクミに言うべきだったのにと、繰り返すから。本当は、今までそうしてきたみたいに、怒り狂って殴り倒してやった方がよかったかもしれないのに。もういいよと、それしか言えなかった。
 下の息子のキサラギは、この世の終わりのように泣いた。大好きだった狩りにさえ、あれ以来出かけていないようだ。上の息子のシグレは、じっと口唇を噛んで涙を堪えていた。キサラギをよく励まし、その悲しみに寄り添っている。
 出したかった感情を、全部息子たちが代わりに表現してくれるから、タクミはいよいよありのまま受け入れるしかなくなってしまった。
 彼女は。彼の愛したアクアという女性は、もうどこにもいないのだと。
「……山の方は一雨来そうだな」
 夜明け近い水辺で、誰にともなく呟く。こちらは晴れていたが、遠い山頂には群雲がかかっている。
 何をするでもなく立ち尽くしていると、誰かが声をかけてきた。
「父さん。こんなところにいたんですか」
 水色の髪をした、細身の青年が歩み寄ってくる。見たところ歳もそう変わらない彼に父と呼ばれ、タクミは肩をすくめた。戦火から守るために避難させた秘境は、時の流れが違いすぎて、息子の幼年期を瞬く間に奪い去ってしまった。
 シグレは辺りを見回して、この頃あまり見せなかった明るい表情になる。
「綺麗なところですね。何だか歌でも歌いたくなります」
「そうだろ。母さんもここでよく歌っていたんだよ」
 タクミは深い意味があってそう口にしたのではなかったが、シグレは目を見開いた。
 いけないことを思い出させたと思ったのだろう。そうではないと言ってやる代わりに、タクミは微笑む。
「僕は隠れてそれを聴いてた。今お前が僕にしたみたいに、声をかける勇気はなかったけどね」
 そんなつもりはないのにサクラを泣かせてしまって、ヒノカに怒鳴られたとき。陰でリョウマと比べられ、悔しくて城を飛び出したとき。独りぼっちで泣こうとここに来ると、いつも先客がいて。
 彼女はいつも、綺麗な声で歌っていた。その旋律は、目を閉じて歌へ沈み込む姿は、タクミの胸のつかえをすっと取り除いていった。
 サクラにも素直に謝れたし、ヒノカへの弁明もちゃんと出来たし、リョウマを見習って自分も立派になろうと思い直した。初めて一人で狩りに出、帰り道が分からなくなって心細かったときも、あの歌を思い出せば勇気が出た。
 大きくなって、この場所を離れてからも。自分を見失って彼女に弓を引いたときも。
 彼女は歌ってくれた。『タクミ』を取り戻してくれた。
「あのときまで、僕は彼女のこと、『アクア』って呼んでいたっけ」
 タクミは苦笑しながら頬をかく。ついこの間のことなのに、何だかもう何年も前のことのような気がする。
 シグレは遠慮がちに顔を覗き込んできた。
「あの、でも、父さんは母さんのことずっと、『アクア姉さん』って呼んでましたよね」
「そうだね。シグレはそのときのことしか知らないのか」
 子供に、子供じみた振る舞いの訳を訊かれるというのは、思う以上に恥ずかしい。タクミは腕組みをして眉を寄せる。
 タクミはアクアが嫌いだった。暗夜から来た王女なのに、何故か母は彼女に優しくて。タクミは暗夜が好きではなかったし、それ以上に大好きな母をとられたようで、気が気ではなかったのだ。
 意地悪もしたと思う。構うなとも言った。
 けれど同時に、透けるような肌の少女の姿は、タクミの心を奪ってもいた。
 本当はサクラのように二人で秘密の話をしてみたかったし、ヒノカのするように水色の細い髪を梳ってみたかったし、リョウマのように彼女と並んでも絵になるような男になりたかった。
 どれも自分にはできなくて、せめてもの抵抗で、アクア、と呼んだのだ。
 庇護されるべき弟ではないと。いつかぼくだってきみをまもるんだと、主張したかった。きょうだいが結婚出来ないことぐらい、もうタクミには解っていたから。他人なんだと主張し続けた。アクアがぼくのおよめさんになってくれたらいいのにと、誰にも言わずに心の底で、辛抱強くじっと願っていた。
「まぁ、本当に僕の奥さんになってくれて、お前たちが生まれるなんて想像もしなかったけど。抱いてはいけない感情なんだろうと、子供心にも考えていたし。――だから僕は、彼女のことを『姉さん』と呼んだとき、これで自分の初恋は終わりなんだと思ってた」
 暗夜から来たきょうだいをきょうだいと認めたなら、暗夜の出身とはいえ白夜で育った彼女を拒む建前だって薄くなってしまう。
 だからタクミは、諦めた。母の死が避けられぬ運命なら、彼女ときょうだいとして生きるのも運命であったのだ。それならば仕方がない。せめて彼女が願う者の傍に在れるよう、力になれればとささやかに思っただけ。
「想いを告げたのは……もののはずみみたいなもんさ。こっちが弱ってるときに、『あなたが壊れてしまわないように、これからずっと傍にいて、守り続けたい』なんて言うもんだから。どうせなら恋人として支えてくれって、言ってしまっただけ」
 だから照れくさくて。周りに悟られたり、からかわれるのも嫌で。しばらくこのままで呼ばせてもらうと、言ってしまった。
 タクミは笑い声を上げながら、俯いて前髪をぐしゃりと掴む。
「馬鹿だね。意気地のないところは最後までどうにもならなかった。呼べば、よかったよ。姉さんなんて甘えた呼び方やめて、ずっと傍にいるって、アクアを守ってやるって、言えば、よかった……」
 そしたら僕ら、お互い嘘つきにならずに済んだかな。本当に、誓ったとおりずっと一緒にいられたかな。
 ねぇ、好きだよって子供みたいに言ったきりで、愛してるって背伸びした言葉さえ告げられなかったのに。
 どうして、君はいないのかな。
「ごめん、なさい……」
 か細い声に顔を上げる。何故かシグレが涙を流していた。彼女譲りの琥珀色の瞳から、美しい雫が滴る。
「どうして、お前が謝るんだよ」
「俺、知って、いました。……母さんが死んでしまうかもしれないこと」
 今更そんなことを言われても、タクミは別段驚かない。彼のきょうだいは、しきりにそのことでタクミに謝罪してきたのだから。ああなんだシグレも知っていたのかと、少し疎外感を覚えただけ。
 シグレは胸元から何かを取り出した。それを見て、流石にタクミも目を瞠る。
 彼女が、寝るときでさえ手放さなかった、古びた首飾りだった。
「母さんの歌の不思議な力は、このペンダントによるものだと聞きました。でも、使いすぎるとその身を破滅させると……だからもし自分が消えてしまったら、二度と誰の手にも渡らぬように処分してほしいと、そう言い含められていたんです」
 それで泉を探してここに来たんです、とシグレは震える声で言った。
「俺、そんなことにならないでほしいと、消えないでほしいと頼んだんです。でも母さんは、俺やキサラギや、父さんたちを守るためなら、保証は出来ないわねって、笑って」
 タクミは、シグレが両手の上に載せていたペンダントを手に取る。
 重いけれど、金属と宝石以上の重さはない。武器とは比べるべくもない。こんなに軽いものが、シグレとキサラギから母を、白夜の王族からきょうだいを、タクミから愛する女性を奪った。
「父さんに相談しようって、何度も思ったんです。だけどそう思う度に、心を読んだみたいに母さんが止めたんです。タクミの心を曇らせないでって。私はあの人の優しい微笑みが好きだから、最後に見る顔はそうであってほしいのって。シグレにはこんな思いをさせているのに、ずるい女ねって笑ったんです」
 膝が崩れる。目の前で懺悔する息子のことも忘れた。透き通る青の宝石が、滲んで揺れる。
 歌が、聞こえた。いつも聴いていた旋律。澄んだ高い声。けれど女性のものではなく、青年のものだ。
 シグレが、タクミしかいないこの泉の前で歌ってくれている。さっきまで弱々しく泣いていた息子が、よく通る声で懸命に。
「ホント、ずるいな……」
 タクミはペンダントを握り締め、背を丸めた。
 なかったことにしようと。諦めたことにしようと。受け入れたことにしようと。そう決めていた心がさざめく。
 本当は、僕も悲しかったんだ。
 キサラギみたいに、なんでなんでって駄々をこねたかった。
 サクラやヒノカ姉さんみたいに、寂しいって泣きたかった。
 あの人みたいに、守れなくてごめんって君に謝りたかった。
 しょうがないって言い聞かせるのは、苦しかったよ。
「嘘なんて、ついていなかったね」
 君はこんなときでさえ、僕の心を救ってくれた。
 『あなたが壊れてしまわないように』と、そう言ってくれたときのままに。
 山の方では雨が降るだろう。城のみんなはそれを知らない。
 僕らがここで泣いていることも。誰も知らない、片時雨。
「アクア」
 愛してたよ。愛している。これからも。
「一生君を、愛してる」
 君の身体を留めることのできなかった僕が、唯一果たせる約束は、それだけだから。
 シグレの歌が終わる。タクミは腕で顔を拭い、決然と立ち上がった。
「シグレ」
「はい」
 シグレははっきりと答え、タクミの顔を見た。
 鎮魂の歌を捧げたことで彼も気持ちの整理がついたのか、凛々しい顔つきになっている。
 タクミはペンダントをもう一度だけ、息子に見せた。
「今から母さんの遺言通り、これを捨てる。お前に、ちゃんと見届けてもらいたい」
「わかりました」
 弓を引くよりも余計な力を込めて、首飾りを放り投げる。金色の鎖が、昇ろうとする陽を鋭く弾き返す。永遠のような放物線。だが必ず終わりが来て、水面を揺らす。
 たおやかな手に抱かれるように、その宝石は泉の中へ消えた。静かな、別れだった。
「帰ろう」
 タクミは城の方に向き直る。馴染んだ王城。彼女と暮らした都。これからも、彼女の面影と生きる国。
「これからキサラギも連れて、三人で出かけようか。白夜の朝市は活気があって、母さんも好きだったからね」
「いいですね。キサラギの機嫌もようやく直りそうです」
「お前にも好きなものを買ってやるよ。なにせ珍しい品が揃ってる」
「それなら、青の絵の具が欲しいです」
「また絵かい? 本当に好きだね。絵の具ぐらいもうたくさん持ってそうなものだけど」
「青い顔料は稀少で、なかなか手に入らないんですよ」
 二人は笑い合いながら、並び歩き出す。知られずの雨も、いつかはやむだろう。
 闇の去り行く暁。口ずさむ懐かしい旋律に、泡沫、想い廻る。