第六章 こんな空の下でさえ - 6/6

SIDE Rethe

 

 

海色の約束

 

 雲ひとつない快晴だ。レテは窓辺で頬杖をつきながら、クリミア最後の空を見ていた。
 昼を少し過ぎた頃であるが、王城は既に今夜の祝賀会の支度で忙しい。祝賀というが、実質アイク率いるクリミア解放軍の解散式だ。
 アシュナードを倒した後、レテは丸一日潰れていたらしい。
 とはいえ、目が覚めたとき身体はどこも痛くなかった。あれだけ豪快に折れた牙も治っていた。ベオクの治癒技術は大したものだ。
 あれから諸々やらねばならぬことが多く、ライが気を遣ってくれてもアイクとはすれ違ってばかりで、ろくに顔を合わせてもいない。
 だが、いい。約束も交わしたのだから、これ以上何を話すのも未練になる。皆と同じように、ガリアの一戦士として潔くここを去ろう。
 頭ではそう考えながら、口からはため息が出る。
「……遅いな、エリンシア姫」
 レテがこうして王城の一室を占領しているのは、何も暇つぶしの為ではない。一番多忙なはずの、クリミア王女エリンシア――次期女王に呼び出されたのだ。
 別にやることもないからいくら待たされようと構わないが……レテがもう一度嘆息しようとしたとき、部屋の入り口と窓から全く同時に声がした。
「よぉ暇そうだなレ――」
「お待たせしましたレテ様! ついつい迷ってしまっ……」
 レテが寄りかかっているのとは別の窓から入ろうとしているのはライ。ドアから正規ルートで入ってきたのはエリンシア。挟まれて固まるレテ。
 先に笑顔を作ったのはライだった。保身のためだったのだと思う。エリンシアも笑って――。
「ああ何でそこの花瓶を持ち上げますか姫!? 誤解です姫! 姫ー!?」
 ややあって。
「ああ驚きました、私てっきり、ライ様がレテ様のお召し替えを覗きに来られたのだとばかり……ごめんなさい」
「いえ偶然だとご理解いただけてよかったです、というか姫の中でオレはそういうことしそうな奴なんですね……ははは。はぁ」
 二人は納得したらしいが、レテはどちらの事情も全く分からない。
 王女の前で不遜かとも思うが腕を組む。
「エリンシア姫、お忙しいのでしょうからお話は手短に。ライは帰れ」
「あいあい、じゃあまた夜に~」
 てっきり拗ねると思ったのに、ライは思いの外すんなり去ろうとする。しかし窓枠を越えようとしたとき、持っていたものを景気よくぶち撒けた。やべっ、と呟いた辺りわざとではないらしい。
「ライ様、それは――」
「あ、な、何でもないですよ。何でも。オレの荷物ですから、はい」
 エリンシアが近づこうとすると、ライは覆いかぶさるようにしてそれを隠した。
 でも、と詰め寄ったとき、エリンシアも豪快に手の中のものを床に落とし、小さく悲鳴を上げる。
「な、何でもないです! ご覧にならないでください、私の方こそ、これはそのっ、ただの……布です!!」
「……姫、もういい加減無理ありますからやめましょう」
 ライは勝手に観念し、エリンシアの言うところの『布』を持ち上げて、レテに押し付けた。
「着ろよ。姫が見立ててくださったドレスだ。きっと似合う」
「は? 何を言って……」
「そうですわ、ライ様」
 まだよく事情の飲み込めないレテを遮り、エリンシアが言う。
「ライ様だって、レテ様のお召し物をお持ちになったんでしょう?」
「え?」
「……と、いうことだ」
 ライは肩をすくめて見せた。レテは渡されたままの布の塊を持て余す。
「どういうことだ。ちゃんと説明しろ、ライ」
「姫はお前の為にドレスを用意してくださった。オレはそれを知らず、キサから預かったガリアの衣装を持ってきた。それが鉢合わせてお互い遠慮し合って今に至る、というワケ」
「はい、そういうことなんです」
 エリンシアが苦笑した。
 レテは、そうですか、と間抜けに答えたきりどうしたらいいか分からない。
「そっちをお借りしろ、レテ。こんなもんはガリアでも着れる」
 ライは崩れた包みをまとめ直した。ちらと見えた襟の装飾には見覚えがある。ガリア伝統の祭りの衣装で、若い娘の着るものだ。
 レテはその手の服で祭りに出たことはなかったので、キサがどんなつもりで寄越したのかは察することが出来なかった。
「リィレの着ていたものに似ているな」
「そのものだって。バレたら殺される。帰ったらソッコー洗濯して見つかんないうちに返さないと」
「何でそんなもの持ってきたんだ、馬鹿!!」
 レテは久々に尾を逆立てて怒鳴った。和解を促しておいて喧嘩の種を増やすなというのだ。
「――お見せ、したかったんですよね」
 エリンシアはそっと、ライの持っている包みに触れた。まるで友人の手を取るように優しく。
「ガリアの民として、一番美しいレテ様のお姿を。こちらをお召しになった方がいいですわ」
 私の見立てでは、まるで薄っぺらですもの。そう笑って、手を下ろした。
 レテは、どうにも二人が自分のことを、自分の頭を越えて話しているような気がしてならなかった。けれど筋が見えないなりに、在り処をはっきりさせておかねばならないものもある。
 前に出て、空けた左手をエリンシアの手に重ねる。
「ライ、置いておいてくれ。私はエリンシア姫のお気持ちと、キサの心遣いとを天秤にかけることは出来ない。だから両方着させていただこうと思う。ただ――祝賀会の最中はお目にかかれるか分かりませんので、今お見せするのでも構いませんか」
「は、はい! では早速着替えましょう、お手伝いしますから!」
 エリンシアはぱっと顔を輝かせ、レテの両手を握る。
 ライは満足げに頷き、手近な椅子に腰掛けると
「出て行け!!」
 レテに引っ叩かれて窓から逃げていった。
 全く油断のならない助平猫だ。憤慨しつつ、レテは手の中のドレスを改めて検分する。
 上下だけ分かったが、前後すら分からない。眉を寄せていると、エリンシアがさっと窓掛けを閉めた。
「少し複雑ですわよね。ベオクは、面倒な方が上等だという古い考えが抜けなくて」
「申し訳ありません、初めてお会いしたとき、私はとても失礼なことを」
 ベオクの王族は一人で着替えも出来ないそうではないか、というようなことを言った気がする。
 これでは一人で着られるはずがない。むしろ、自分で出来ると言ったエリンシアがすごい。
「ジルたちから聞きました。ベオクの王侯貴族の服は、何枚もの下着を重ねて、途方のない数の紐で身体を絞り上げると」
「私はそういったものはあまり好みません。レテ様もきっとそうではないかと思って、締め上げるようなものは避けました」
 エリンシアが笑ったので、レテは胸を撫で下ろす。ジルもマーシャも散々脅すものだから身構えてしまった。
「今お召しのものを脱いで、ここに足を通していただくだけで結構ですわ。これが袖です、持ち上げて腕を入れたらおっしゃってください。後ろを留めますので。それまで私、あちらを向いていますから」
 エリンシアは、レテの足元にドレスを丸く置いてくれた。くるりと背を向ける。平時は下ろしている緑の髪が揺れた。
 レテは自分の服に手をかける。
「今更かもしれませんが、よろしいですか」
「はい、どうぞ」
「お気持ちは本当に嬉しく思います。ですが、どうして御自らお持ちくださったのです? 私の為に選んでいただけただけでも光栄なのに、ここまでしていただいては分に合いません」
 ぱさりと、今まで身に纏っていた服が落ちる。未知の服の中に、恐る恐る足先を入れる。
「分ではありませんわ。義の話です」
 エリンシアの背筋はぴんと伸びていた。
 ガリアを訪れたときの、おどおどとレテの後をついてくる少女の影はない。
「レテ様が私にガリアの服を用意してくださったこと、とても嬉しかったんです。貴女にとっては義務でも、私にとってはとてもあたたかかった。だからクリミアに帰ったら、レテ様にこの国の服を一着差し上げたいって、勝手に思っていました。我が侭に付き合わせてしまってごめんなさい――着られましたか?」
「……はい」
 胸まで引っ張り上げて、袖を通した。重い衣装だ。では後ろを向いてください、と言われ、裾を踏みつけないよう慎重に身体を反転させる。
 エリンシアが背中の紐を、きつくない程度に引いてくれた。何回も器用に編み上げていく。
「ほら、下着で補正する必要なんてありませんわ。レテ様は細身でいらっしゃるから」
「姫。私は」
「出来ました。さぁ、ご覧になってくださいな」
 レテの言葉を遮り、エリンシアはとと、と離れると、壁際の姿見の幕を取り払った。
 鏡の中の見たこともない女にレテは目を丸くする。
「思った通り。やっぱりレテ様には緑が似合いますね」
 エリンシアは後ろから、レテの両肩に手を置いて微笑む。
 襟が広く、袖の短い緑青色の布地。リィレのくれたリボンがあつらえたように映える。胸の下にも大きなリボンがあった。裾は自然な膨らみを見せ、下の方は白いフリルになっている。スカートの中では尻尾が忙しなく揺れていた。
「や、やはり変です。私は戦士ですので、こんな、その、可愛らしい……格好は」
 俯くレテに、エリンシアはそっと囁く。
「いいえ。少しもおかしくありません。ここは戦場では、ないのですもの」
「ですが」
 ぽすん、とエリンシアの額がレテの背に触れた。両肩と背を押さえられて、レテは首でしか振り返れなくなる。
「姫」
「――言わないでおこうと思っていたのですけど、なんだか裏切っているみたいでつらいから、言わせてくださいね」
 震えているのが、背中越しに分かった。
「私、アイク様のことをお慕いしていました」
「え――」
「でもレテ様には敵わないと思って、黙っていました。お二人を傷つけたくないなんて言い訳して、自分が傷つくのが怖くて言わなかったんです」
 レテには何も答えられない。
 全てを失くした少女に差し伸べられた救いの手。あんなにも力強い光に惹かれるなという方が、きっと無理だろう。
「ずっとレテ様が羨ましかった。あんな風に隣を駆けて、信頼されて戦えたらどんなにいいだろうと、守られながら思っていました」
 レテもそうだったから。荒んだ心にあの蒼が眩しかったから。彼女を振り払うことが、出来ない。
 鏡越しに見るエリンシアは、いつの間にか顔を上げていた。
 琥珀の瞳は、アイクに負けないほどの輝きを放っている。
「けれどアシュナードと戦って、私、少しはお二人の力になれたかしらと感じたんです。死ぬかもしれないと考えたのは初めてではなかったけど、初めてそれを凌駕するぐらいの強さを持てた。あのときやっと、私はお二人と同じ地平に立てたんだと思います。だから」
 そっと、エリンシアが片足を引いた。両手がレテから離れていく。
「私は羨んで諦めることをやめます。自らの意思で、お二人の幸せを願います。今までありがとうございました。私は貴女方に出逢えて、本当に幸せでした」
 違う、とレテは振り向いた。
 慣れない服に足を取られそうになりながら、下ろされようとするエリンシアの手を取る。
「違う。私はひどい奴だ。貴女がガリアにやってきたとき、私は、来ないでくれればよかったのにと思ったんだ。国も家族も健在で、ぬくぬくと育ってきた私なんかが……独りきりになって、ガリアを最後の拠り所だと頼ってくれた貴女に、不愉快だと言ったんだ」
 細い指を握る。この手を自分は振り払った。疎ましいと思った。なんて浅ましい、弱い心だったのだろう。
 エリンシアは微笑んで、レテの指を握り返してくれた。
「いいえ。レテ様は私に、誇りを持てと教えてくださったんです。誰かにすがらなければ生きていけない私に、それでも卑しく生きることはするなと。王族としての自覚が薄かった私にとって、強い支えになる言葉でした。だからそんな泣きそうな顔をなさらないで」
 あたたかい。アイクの、他人に炎を点そうとする熱とは違う。自らの温もりを、相手に分け与えようとする慈しみ。
 レテは、エリンシアの額に自分の額を寄せた。こつん、と小さな音がする。
「貴女の方が、先でした」
「え?」
「私を恐れなかったベオクは、アイクよりも、貴女の方が先でした」
 貴女が来てくれたから、私はアイクに出逢うことが出来た。
 その先にいるたくさんの仲間を知ることが出来た。
 この世界はこんなにも美しいのだと、気付けた。
「貴女のおかげです。全ての始まりとなってくれた貴女に、感謝します」
「そう言っていただけただけで、私、とても嬉しいです」
 エリンシアはやわらかく言い、向かい合ったままレテの背に手を回した。
 上質の布がこすれる音がする。背中の紐が解かれていく。
「エリンシアのレテ様の時間はおしまいですわ。これからはレテ様ご自身の為のレテ様でいらしてください」
「姫」
 ベオクに化ける魔法が終わる。けれどその前に、どうしても伝えたかった。
「クリミアの民は、ガリアの民の友です。貴女は我々の王ではないが、私は確かに貴女を敬愛しています。これから末永く手を取ろうという相手に、そんなさよならのような言い方をしないでください」
 引き留めるように抱きしめる。エリンシアは、そうですね、と言って笑った。
「私が女王となることで、ガリアとクリミアの関係をよりよいものに出来るなら――いいえ、回りくどい言葉遣いはよしましょうね。レテ様方とこれからも仲良くさせていただけるのなら、そんな素敵なことってありません!」
 レテも笑い返して、琥珀の瞳の端に滲んだ雫を拭ってやった。

 一人になって、ライの持ってきた服に向き合う。
 その年、集落で一番輝いている乙女が着る装束。大きく開いた胸元。襟まわりはガリア伝統の刺繍が施されている。踊りの衣装然として、袖は広く長い。腰を縛る布は光沢を放ち、上から巻きつける飾り紐にはたくさんの石が生っている。広がる純白の生地は、まるで――。
 首元のリボンを解く。せっかくリィレのくれたものだが、戦の守りは祭りに不似合いだ。
 髪に触れて、ああ、ライに飾りを片方渡したままだったと思い出した。残ったものを外して、傍にあった低いテーブルに置く。
 試しに衣装に袖を通してみる。少しだけきつい気がした。
 鏡を見る。双子なのに、どうしてこんなに違うのだろう。この服を着たリィレはきらきらして国で一番の美人だったのに、自分は本当に可愛げがない。
 やっぱり脱ごうとレテが衣装に手をかけたとき、扉が鳴った。
「レテ、いいかしら? 届け物があるの」
 ティアマトの声だった。レテは腕を下ろして、どうぞと答える。
 入ってきたティアマトは既にめかしこんでいた。赤地に金の刺繍の入った衣装が眩しい。派手な色だったが、ベオクの女性の中ではしっかりした体格のティアマトが着ると様になっている。いつも三つ編みにしている朱色の髪は、片側で高くまとめてあった。 
「あら、懐かしい衣装ね。私もガリアで見たことがある」
 紅を引いた口唇で微笑む。レテは飾らない口唇で問う。
「ガリアで?」
「ええ、交換武官制度で駐留したときにね。ちょうどレテと同じような髪色の、可愛らしいお嬢さんだったわ。瞳もそっくりな紫霄の色で……ちょっとおてんばに踊っていた」
 レテは何とも答えに困った。心当たりがありすぎる。
「そんなことより、届け物とは?」
「そうだったわね。ライに頼まれたのよ、靴がないんじゃ片手落ちだって。こういうことだったのね」
 ティアマトはレテの目の前で膝を曲げて、一足の靴を置いてくれた。これもガリアに古くからある編み上げのサンダルだ。確かにこの衣装を身に纏ったのに、普段のブーツでは不釣合いだろう。
「ありがとう。使い走りをさせてすまなかった」
「そんなことはないわ。私もあなたと少し話をしたかったから。座って?」
 言われるがまま、背もたれに複雑な装飾の施された椅子に腰を下ろす。
 サンダルの紐を縛っていると、ティアマトはレテの後ろに立って何やら手につけている。
「気になるかもしれないけど我慢してね」
 橙の髪に手を突っ込まれて、髪油かとようやく気付いた。
 ティアマトはさっとレテの髪を流し、短い髪の左側を何かで留める。白い花の髪飾りだった。
「安心して、これは造花よ。あなたは観賞の為に花の命を奪うことは嫌いだって、ライから聞いたの」
 分け目を変えて花をつけただけなのに、印象が随分違う。
 レテはもの珍しさに耳を回す。飾りにぶつかった質感は確かに乾いていて、生花ではなかった。
「器用なものだな。こんな飾りをつくる方もだが、着ける方も」
「私は不器用な方。さっきもミストの髪を整えてあげるのに苦労したのよ。オスカーとシノンなんてさっと全員分済ませちゃったんだから」
「まぁ、あちらは……男だから」
 我ながら情けないフォローだ。ティアマトもそれが分かっているのか肩をすくめる。
「私がミストにかかりきりだったから、ワユの髪は結局二人がやったのよ」
 これ以上どうしようもない。レテが腕を組んで黙っていると、ティアマトは笑って、手の平の髪油を拭った。
「でもいいの。女には女にしか出来ないこともありますからね」
「今度は何をする気だ?」
 今日は皆に好き勝手ばかりされている。それはそれでもう覚悟は出来ているが、何をされるのか分からないのではさすがに心配だ。
 ティアマトは上機嫌なばかりで答えなかった。レテの正面に回ってきて膝をつく。とても小さな入れ物を開ける。
「頬の模様が隠れてしまうから、白粉は要らないわね。少し華やかにするだけで随分違うと思うわよ」
 紅だった。ガリアの戦士の戦化粧とは違う。もっと繊細な色。ティアマトの小指が丁寧に、レテの口唇に乗せていく。
「本当にかたちのいい口唇。私がミストぐらいの少女だったら、きっと嫉妬してた」
「ティアマト」
「もうちょっと。動かないで」
 真剣な翠玉の瞳が眼前にある。退屈を感じるまでもなく、見とれているだけで化粧は終わった。
 ティアマトが背後に回ってきて、小首を傾げる。
「どうかしら? 私としては上手くいったつもり」
「……ああ。文句はない」
 レテは鏡を見つめて呟いた。リィレに勝てるとは思わないけれど、それなりに見られるようになった気がした。
 ティアマトの目が細まる。レテは鏡越しに視線を移す。
「それよりも、あなたはとても美しい目をしているのだな」
「え?」
 そのエメラルドの目が丸くなったので、よりよく見えるようになった。
 レテは振り向かず、敢えて鏡の中の彼女の顔を見ている。
「私はアイクたちに出逢うまで、瞳の色が分かるまで近くでベオクを見たことがなかった。いや、気にしたことがなかったと言った方が正しいのか。けれど今は、それぞれに違う色の、違う光を宿した瞳を――尊いと思う。浅薄だった私を許して欲しい」
 ティアマトは目を閉じて、レテの両肩に手を置いた。俯いて頭を横に振る。ほんの少し震えていた。
 レテは首を回して彼女を見上げる。
「ティアマト?」
「ごめんなさい――私の方こそ、浅薄だった」
 いつも凛とアイクたちを支えてきた彼女が、弱々しく背を丸めている。レテの背に懺悔するようにすがっている。
「ラグズはいつも言うわ、ベオクは弱いからって。私がガリアとの交換武官に志願したのは、強さを示せばラグズも私たちを認めてくれると思ったからなの。グレイルに興味を持ったのだって、彼が強かったから。だけどカイネギス王やエルナと、まだ幼かったアイクたちと触れ合って、強さに頼るだけの生き方がどれほど貧しいか知った。ガリアの戦士に強いと言われることは嬉しかったけど、そうではない何かで繋がりたいと心から思った。だから」
 言いさして、ティアマトはすっと背筋を伸ばした。そこにもう震えの影はない。
 いつも通りの堂々とした、グレイル傭兵団副長だった。
「今の言葉、本当に嬉しかった。いつか私がこの両目を失うことになっても、誇らしい気持ちだけは絶対に失わない。私の信頼するガリアの民と、レテたちと繋げた絆は生涯誰にも断ち切らせない」
「……アイクは幸福だな」
 レテは右手を差し出した。不思議そうにするティアマトの目を、じっと見つめる。
「あなたのような人と育ち、生きていけること。グレイル傭兵団の面々は本当に恵まれている」
「光栄だわ。ありがとう」
 ティアマトは微笑んで、レテの手を握ってくれた。
 エリンシアの手とは大きさが違う。それでも戦斧を軽々と扱うとは思えない、たおやかな手だった。

 ティアマトと別れ、最終的に身支度を整えて廊下に出る。
 そこには、見覚えのある男が仁王立ちで待っていた。レテは眉を寄せて記憶を手繰る。
「えっと……?」
「ケビンだ」
「そうだ、そんな名前だった気がする」
 デインの捕虜になっていた、クリミアの騎士だったと思う。あのときは潜入任務中だったのに、騒いで仕方がないのでレテが力で黙らせた。
 ケビンは両手を腰に当てる。険しい顔だ。
「初対面では世話になったな。感謝している。俺はあのときの屈辱を忘れたことはない」
「言っていることがめちゃくちゃだぞ」
 レテの指摘を無視し、ケビンはびしっと右の人差し指を突き出す。
「故に!! 俺と踊ってもらおう!!」
「意味が分からん!!」
 何だこのベオクは、とレテは後ずさる。化身中の他種族より言葉が通じない。
「意味など結構、これは貴殿への義理である! さぁ大人しくお相手を」
「いや、待て、本当に待て。鍛錬の相手ならいざ知らず」
「鍛錬の? それはそれでお相手仕ろう、強い相手は大歓迎だからな! とりあえずは今晩の舞踏で俺と一曲」
「いや、だからな?」
 レテは息を吸い、一語一句はっきりと、言った。
「私は、ベオクの、踊りを、知らない」
 ケビンはそのまま石になったように動かなくなった。
 どうしたものか悩んでいると、向こうから人が来てくれた。折りよくオスカーだ。通訳をしてくれるかもしれない。
「レテ殿、ケビンが騒いでいたようですがどうかしましたか」
「踊りの相手をしろというのだが、私は踊れないのだ」
「はぁ、なるほど」
 オスカーは分かったのか分からないのか分からない返事をした。硬直したままのケビンを向く。
「君の気遣いは、壁の花に向けられたのなら立派なものだと思うよ。ただ、もう相手の決まっている女性には些か迷惑だろう」
「かべのはな?」
 レテの疑問を他所に、ケビンはばっと頭を抱えた。ぶつぶつと口から思考が漏れてきている。
「そうか……レテ殿には将軍が……これではまるで俺が横恋慕……その気は全くないのに……不名誉……」
「おいオスカー、あいつ何かは分からないが、失礼なことを言っている気がするぞ? おい!」
「ははは、そんなことはないですよー」
 オスカーはレテに揺さぶられながら乾いた笑い声を上げた。
「それよりケビン、君、早く着替えなよ」
「はっしまった忘れていた、今日はクリミアの晴れの日、騎士としてどこへ出しても恥ずかしくない出で立ちをしなければ! ではな!!」
 ケビンは全力で廊下を疾走していく。
 どうでもいいが、不敬罪なぞにはならないのであろうか。
「何だったんだ?」
「彼なりの謝辞だと思ってあげてください。悪意はないはずですから」
 オスカーはどこまでも冷静だった。
 彼も衣装や髪型こそ違うが、浮ついたところや緊張したところがない。驚くほど、普段と変わらない印象だった。
「慣れているのか?」
「ケビンにですか?」
「それもだが。そういう格好に」
「そうですね、弟たちよりは。末端とはいえ騎士でしたからね」
 現役騎士のケビンとは一体何なのか。レテの表情で察したのか、オスカーは苦笑する。
「ケビンもあれで出来たところがあるんですよ」
「私には想像も出来ないようなところが?」
「ええ、そう――例えば」
 オスカーは鹿爪らしく咳払いなどしたが、レテにはそれが笑いを堪えているようにも見えたのだった。
「ガリアの本格参戦が決まったとき、申し訳ないことに……クリミア兵は全員が全員喜んだ訳ではないのです。否定的な者もありました。まぁ私など悠長ですから、共に過ごすうち誤解も解けるだろうとしか思っていませんでしたが。アイクもいましたしね。けれどケビンの対応は全く違ったんです」
 そして今度こそ、オスカーは微笑んだ。『永遠の好敵手』を誇るように、しっかりと告げた。
「彼はそういった者たちの襟首を掴んで、最前線に引きずっていきました。兵役に就いたばかりの民兵が、経験したこともないような激戦の地です。そして彼らを叱り飛ばしました。あの血を見ろと。ガリアの民が流す血が見えないのかと。クリミアの民がクリミアの大地に血を流すのは道理だが、異国の民では道理に合わぬ。道理を超えて我らの為に戦う者を、貴様らは侮蔑するのかと、えらい剣幕でね。私まで面喰らってしまいました」
 レテは言葉を失った。
 ケビンとは、顔を合わせたことはほとんどない。なんなら存在も忘れていたぐらいである。
 それでも、届いていた。レテとアイクの発した熱は、彼の芯にも届いていた。
 目を伏せて尾を揺らす。
「私もいろいろ知ったつもりでいたが、まだまだ無知だな。そんな信頼を寄せてくれていた相手を覚えていないとは」
「彼に関しては私も人のことはとやかく言えませんし。気に病まれるほどのことではないと思いますよ」
 オスカーはレテの目の前に跪いた。騎士然とした態度でレテの手を取る。
 エリンシアともティアマトともアイクとも違っていた。気遣いと優しさで包まれた指。
「ところでレテ殿は、手の甲への口付けの意味を御存知ですか?」
「知らない」
 オスカーの薄い口唇が、レテの肌に一瞬だけ触れていった。
「『尊敬』です」
 慇懃に礼をして、オスカーも去っていく。
 レテはまた一人になった。

 

 祝賀会は夕方から執り行われた。エリンシアの挨拶から、立食の舞踏会が始まる。
 紺の絨毯が敷かれた広い広いダンスフロア。天井には複雑すぎて何が何だか分からない、きらびやかな照明。向こう側には、ずらりと並んだ豪奢なテーブル。その上には、先日まで負けていた国が供するとは思えない量と質の料理。酒も、酌めども酌めどもなくならないほど用意してある。
 女たちは、女神もかくやというほど着飾っていた。男の方も、戦のときとはまるで違う優美な振る舞いをしている。楽士はガリアでは見たことのない楽器で、美しい音を奏でている。
 いいとか悪いとかは置いておいて、まず、眩しい。レテはくらくらと壁際に寄った。
 これが、ベオクの舞踏会か。
「あれ、オマエ、レテ?」
 後ろからライの声がしたので振り返る。獣牙の兄弟を引き連れていた。皆、母国の祭りの装束だ。
 ライは、ガリア人が国賓をもてなすときにしか着ない、藍染の特別な衣装を身に着けていた。むき出しの二の腕には飾り紐が巻かれている。いつもの帽子は取って、民芸品の焦げ茶のバンドで髪を留めていた。
「そうしてるとまるでリィレだぜ。ホントに双子だったんだな、驚いた」
「どういう意味だ」
 睨みつけながら、やはりあまり深くは聞きたくないレテだった。腕組みをして少し話題をずらす。
「ラグズはやはり、国の装束を着ているのだな」
「そうだな。身体の問題もあるし、誇りの問題もある。ガリア、フェニキス、セリノスは衣装の提供を断ったよ。もっともキルヴァスは、着ないのにありがたく持って帰るつもりらしいが」
「カラスらしいな」
 レテは嘆息して、繊細な窓硝子を見上げた。欠けた月が映っている。
「ゴルドアは、出席しなかったのか」
「そうだな」
 ライは目を伏せて答えた。それきり何も言わないので、レテも黙る。
 アシュナードの騎竜は元々竜鱗族で、理性を奪われてあのようになっていたのだそうだ。イナがデインにつき、ナーシルがアイクを裏切ったのも、全て彼のそばにいるためだったという。その竜も白鷺の呪歌で、最期に正気には返ったようだが。
 理由はどうあれ、立場を考えればのうのうと宴には参加できないだろう。
「だが、イナは強いと思う」
 レテは、黒竜の翼を思わせる夜闇を見ながら呟いた。
 塔で見た同胞のことが思い出された。
「リィレがそんな目に遭ったら、私はきっと怒り狂って早々に殺されていただろう。誰より憎いはずの男に従い、ただ一時の好機を待つ……そんな辛抱強さは私にはない」
「だろうな」
 ライは二の腕の飾り紐を、反対の手でいじっていた。足元のなめらかな紺色を見つめながら言う。
「でも、オレがそんなことさせないよ。オマエやリィレに手を出そうとする奴は、その前にオレが全員ブッ潰す」
 レテが思わず笑うと、なんだよとライは口を尖らせた。
「なぁライ、ありがたいついでに一つ頼みがあるんだが」
「一つと言わず、何個でもお伺いしますよ。レテ様」
 拗ねているのか無駄に大仰な言い方をする。レテはそんなライの胸を、手の甲で軽く叩いた。
「国に帰ったら、リィレと踊ってやってくれないか?」
「――それは」
「解ってる」
 ライはどんな陽気な祭りの夜でも、自分に本気の想いを寄せている女の手は取らなかった。それは彼自身の逃げでもあったし、名乗りをあげることすら出来ない者への、見当違いの気遣いでもあったのだろう。
 レテも知っている。だからもう、切ない優しさを終わりにしたい。
「キサとは私が踊るから。その後で、昔みたいに私とリィレが一緒に踊れば、お前とキサが組んだって別に誰も何も言いやしまい」
 二人を平等にしてやりたくて、ずっと遠慮をしていたのなら。
 そんな必要はないと言ってやりたい。
「なるほど。そりゃあいいな」
 ライは屈託なく笑った。
 妹や親友の想いが叶うかどうかは別にして、それだけでレテは救われる気がした。
「オレからも、いっこお願い。聞いてもらえる?」
「まぁ、ものによるかな」
 顔を覗き込まれ、レテは意地の悪い答え方をする。大概のことは聞いてやるつもりだった。
 ライはとろけそうなほど甘い笑顔で言う。
「ベオクの親友に、オマエを見せたい。今ガリアで一番美しい女を、見てもらいたい」
 レテは息を止めて黙った。否とも応とも言えない。
 この衣装の特別さを知っていればこそ、軽率に返事が出来なかった。
「オレが手を引いてやることは出来ない。だから自分の足で行くんだ、レテ」
 静かだが強い想いのこもった声に押され、頷くことすら忘れてレテは身体を反転させた。
 色とりどりのベオクの塊は、目に痛いほどだった。あの中心にきっと、彼がいる。分かっていても踏み出す一歩がとても遠い。
 肉球もないのに、ふかふかの絨毯は足音を吸い込んだ。歩いている感覚がしない。歩き方を忘れそうになる。
 ベオクの酒の芳醇な匂いがした。ガリアの原始的な酒よりやわらかかった。それでいて、飲んでもないのに酔いそうだった。
 ベオクたちは誰もレテの接近に気づかず、振り向かなかった。
 だというのに。彼は人垣をかき分けて、レテの目の前に姿を現した。
「……アイク」
 アイクは一目で最上質と分かる、光沢のある黒の上下に、濃紺の丈の長い上着を羽織っていた。銀色のボタンと純白の刺繍。立て襟のシャツは少し苦しいのか、一番上を開けてある。青い髪はざっと後ろに流し、前髪は軽く崩している。
 まるで上流階級の人なのに、眉間にしわを寄せた表情だけは間違いなくアイク。
「レテ」
 アイクは上体を曲げて左手で自身の膝を掴むと、右手をレテに差し出した。
「疲れた。連れ出してくれ」
 レテは苦笑してその手を取る。こういう気の利かないところさえ微笑ましいのだから、自分もよくよく病気だと思う。
 アイクの手を引いて、するするといくつもの人だかりをすり抜けた。まだ破壊の爪痕も生々しい庭に出る。けれど崩れた完璧は気安い滑稽にも見えて、飾られたものに辟易していたレテを安心させた。
「助かった、ありがとう。……飯を食わしてくれるのは嬉しいが、ああ挨拶ばかりじゃ腹に入れてる暇がない」
 アイクは嘆息して、シャツのボタンをもう一つ外した。レテは肩をすくめる。
「外に出てしまっては、いよいよ食べ物にありつけんぞ?」
「面倒な社交辞令から解放されただけでも僥倖だ」
 アイクは、せっかくまとめていた髪をぐしゃぐしゃとかき回した。半分ぐらい乱れて、いつもの彼に近くなる。
 月明かりの中で、アイクの蒼がレテを見つめた。
「その衣装、ガリアのか?」
「ああ。親友が届けてくれた。……似合わないか?」
「いや。ただ、いつもと雰囲気が違うから驚いただけだ」
 真顔で言う。レテは苦笑した。自嘲しないと間が持たなかった。
「本当は、これはその年、集落で一番美しい娘が着るんだ。妹のものでね。借り物だから落ち着かないが」
「――そうか」
 アイクはレテに歩み寄ってきた。一歩引いたところに立ち、見下ろされる。
 相変わらず嘘のつけない瞳だった。
「そういうことなら、よく似合ってる」
 レテは真っ赤になって俯く。勢い任せの世辞なら笑い飛ばせるのに、そんな言い方をされると言い返せない。上手くからかい返すことも出来なかった。
「お前は、その、それでベオクの女と踊ったのか?」
 クリミアの女性たちは、あんな重い衣装で、蝶みたいに軽く舞っていた。
 決まって男性がリードしていた。壊れ物のように丁寧に。
「まさか」
 今度はアイクが肩をすくめた。
「俺は踊れない」
「そうか。私もだ」
「国でも踊らないのか? こういうのは踊りの衣装に見える」
「そうだな、国では踊るな」
 袖に触れてくるアイクに。レテは何の気なしに答えた。しかしアイクはぐっと布地を握り、声を硬くする。
「ライと?」
「いや? あいつは女を取っかえひっかえだが、私はあいつと――というか基本的に父以外の男と踊ったことがない。いつも男装で妹たちと踊っていた」
 ライは顔も実力も性格も女受けする。付き合いで何人かとは踊るので、なかなか飲んでいる暇がないと贅沢なことを抜かしていた。
 ちなみにライと踊りたがる女と、レテと踊りたがる女はだいぶタイプが違う。両方というのはリィレだけだ。
「あんたらしいな」
 アイクは呟き、袖を放した。代わりにレテがアイクの手を取る。アイクがはっとして顔を上げる。
「私たちも踊るか?」
「だから、踊れないって」
「ガリアの踊りならモゥディも出来るぞ」
 こう言うと、アイクはむっとした顔でレテの手を握り返した。
 負けん気の強い奴だ。レテは笑いながらアイクを導く。
「簡単だ。我らの踊りは、恵みを感謝し勝利を称えるだけのものだから」
 足を踏み鳴らす。手を放して打つ。アイクはたどたどしくレテの真似をする。しかし元から身体を動かすことに長けているからか、単純な動きはすぐ覚えてしまう。
 レテは腰を左右にひねりながら地を踏んだ。さすがにそれは恥ずかしいと見えて、アイクはやらなかった。
 下げられた腕に腕を絡ませ、囁く。
「ここで一周」
 腕を組んだまま二人で回った。一歩離れて一礼。上体を起こす。
「以下繰り返し」
 二回目からはアイクもスムーズだった。元々子供でも踊れる原始的な踊りだ。技術は大して要らなかった。必要なのは気持ちだった。
 祭りに付きものの篝火こそないけれど、胸はいつよりも熱かった。肌に汗がにじむ。アイクの真剣な顔がすぐそこにある。
 足が軽い。揺れる尾が気持ちいい。リィレのためによき戦士として踊るのとは、まるで違う楽しさだった。
 生まれて初めて、ただ娘であることを享受した。今宵限りの夢だと解っていたから、余計に幸福だった。
 二度と来ないこの日だから、心底、全てが愛しかった。
『さぁ踊れや かわい あの子の 手を取り』
 よく通る声が響く。ライだ。彼は歌い手としても優秀だった。
 たくさんの兄弟を魅了してきた声で、朗々と歌っている。
『一歩二歩 尾を振り 三歩四歩 足踏み』
 獣牙の民が現れ、手拍子をしてくれた。まるで、本当のガリアの祭りだ。
 驚いて止まりそうになるレテを、アイクが強引に踊りに戻す。
 意外だった。馬鹿らしくなってやめるのは、アイクの方が先だと思ったのに。
『火の粉 空に 舞い散り 星に なって 歌う』
「アイクー! レテちゃん抱っこしろー! お姫さま抱っこー!!」
 バルコニーからガトリーが叫ぶ。隣でシノンがニヤニヤしている。何を勝手なことを、とレテは狼狽した。
 アイクの腕力では、いかな小柄なレテでも獣牙族は持ち上がらない。だがアイクは、レテの肩と膝の裏に腕を回してきた。
「……ふッ……!!」
 顔が真っ赤だ。レテも別の意味で赤くなる。
「無理するな! 腰を痛めるぞ」
「黙って……ろ!!」
 震える手で、ついにアイクはレテの足を地から離した。すれすれだが、何とか持ち上がっている。
 やんややんやと歓声が上がり、指笛も鳴った。レテは失神しそうだった。
 ――この純白の衣装は、集落共通の花嫁が着るもの。
 それを一人の男が抱き上げるということは、即ち、求婚を意味する。この娘を自分だけが貰い受けたいと、そういう意思表示になる。
 アイクはそれを知らずにやった。兄弟は知っていて囃し立てている。
 そして、これはただのレテの希望かもしれないが。教えられたとしてもきっとアイクは、構わないと言うだろう。
「もういいから下ろせ!!」
 混乱しながら怒鳴ると、アイクは止めていた息を吐いてレテごと崩れ落ちた。
 げらげらと笑われているが、本人は満足げであった。
「そのうち、あんたを抱えて戦場を駆け回れるようになるな」
 そんな『そのうち』なんて、来ないのに。そう思うとかえって笑みがこぼれた。
「アイク」
「うん?」
「ありがとう。お前に出逢えた奇跡は、私にとって一生で一番の宝物だ」
 心から言ったのに、アイクは少しも嬉しそうな顔をしてはくれなかった。乱暴な手つきでレテの身体を引き寄せる。苦しいほどの、貪るような口付けでレテの言葉を奪う。
 皆が見てるのに、とも、どうしたんだ、とも、問う間がない。考えることすら禁ずるような愛の証。
「出逢ったことが、一生で一番、だと」
 アイクの声は震えていた。
 けれど蒼の瞳は揺れていない。深く深く、レテを貫く。
「そんなもの、いくらだって書き換えてやる。持ちきれないほどたくさんの宝物をあんたにくれてやる。だから」
 レテは背中を弓なりに反らし、アイクの頬にそっと触れた。
 このままではきっと泣いてしまうと思ったし、それに。
「続きは。太陽の下で、聞かせてくれ」
 月光では、その輝きを引き出すには不十分だと感じたから。
 逃げる訳ではない。その口唇が告げる、どんな理想もちゃんと受け止める。
 だから今夜は。せめて甘い夢幻のまま、眠らせてほしい。
「今日のお前は、獣牙の兄弟みたいだったよ」
 誰かのいたずらだろうか、アイクの頬骨から走った朱をなぞる。
 今夜限りの、同胞の化粧けわい
「楽しかった。おやすみ、アイク」
 しん、と、ガリアの森と錯覚するような静寂が、耳を打つ。
「たーいしょー! お料理持ってきたよー!!」
「おー、お前らまた何かケンカして……って、いちゃついてんのか。飽きねぇなー」
 それもワユとボーレが大皿を両手に持ってきたおかげで、終わってしまった。
 レテはアイクから離れ、立ち上がる。
「飯だ! ありがたくいただくぞ、兄弟!!」
 レテが煽ると、生来色気より食い気に重きを置く獣牙族は、わっと料理に群がっていった。
「あっ、おい、俺の分!」
 アイクは慌てて腰を上げたが、気遣わしげにレテを見て動かなかった。
 レテは手を振って促すと、追いつけないようそっと姿を消した。
 歌を届けてくれたライのところに行く。
「……もういいのか」
 ぽつりと問われ、一つきり頷いた。さっきまでアイクと繋いでいた手を差し出す。
「髪飾り。着替えるから」
「うん」
 ライもまた言葉少なだった。レテの手の平に翡翠の玉が落ちてくる。
「そんな顔をしなくても、私は明日からただのガリアの戦士に戻るさ」
 おどけて言ったつもりだが、声は乾いていた。
 ライの声も淡々としている。さっきまでお祭り騒ぎを先導していたとは思えなかった。
「勘違いしないでほしいんだけど。オレたちは何も、無条件でオマエたちを応援していたんじゃないんだ」
「知ってる。アイクだからだろう」
「半分はそうだ。でも、もう半分はそうじゃない」
 祭り用のバンドでは、いつもの帽子ほど目深に表情が隠れない。ライの両目が沈んでいるのがよく見えた。
「オマエがどれほどのものを犠牲にして国に尽くしてきたか、オレたちはアイク以上に知っている。その過程で欲しがるものが、いつも兵士としての範疇を超えなかったことも。だから初めて、オマエが『レテ』として欲したものに、一時でも触れさせてやりたいと思っていた」
「違うな。私はお前たちが考えているほど、禁欲的ではなかったよ。いつかは」
 いつかは、お前を、欲しがった。言いかけた口唇を、ライは人差し指で塞いだ。
 片方だけレテと同じ色をした瞳に、弱い光が反射している。
「わかってたよ。だから言わないでくれ。オレもそうであったことを、忘れてしまえるように」
 突然の告白に息が止まる。だが、言えばよかったとか、言ってくれればよかったとは思わなかった。
 想い合いながらもすれ違ったこと。それ自体が、互いにそういう相手ではなかった証明だと、レテと違う色の瞳が言っていたから。
「オマエがガリア軍に復帰してくれることは、素直に嬉しい。だが、こんなことを言っちゃ怒るかもしれないが――やはりあいつの傍にいたいと願い国を離れたとしても、オレたちは誰もオマエを責めはしない。オマエは自由だ、レテ。自らの意思で王に仕えることを選んだように、どこで生きるかを決めるのもまたオマエ自身だ。縛るものなど何もない」
「ありがとう」
 レテはまっすぐにライを見つめた。
 気まぐれで、気難しくて、ふざけていて、真摯な色違いの双眸を。
「だが私はまだ、お前やモゥディや、キサやリィレたちと共にいたい。お前たちの生きている国を守りたい。縛られているのではなく、これが今の私の一番強い願いだ」
 不意に、アイクの声が甦る。余裕のない声だった。
『一番なんて書き換えてやる』
 そうかもしれない。アイクならば、やるかもしれない。
 けれど彼が傭兵団を捨てることが出来ないように、レテもまたガリアを捨てられない。
 今は互いを、一番にはし合えないのだ。
「未来は?」
 ライが尋ねた。唐突すぎて意味が解らなかった。だがすぐに、そうだな、とレテは返す。
「夜にはあんまり考えたくない」
「そっか」
 おやすみ、とライは微笑んだ。おやすみ、とレテも笑う。
 絡まっていた糸がほどけた。
 二人にとって、次の夜明けは、きっと未来になるだろう。
 他の懸念はひとまず留め置き。おやすみと、彼女は一人夢を見る。
 クリミア戦争最後の夜。もう訪れることのない、遠い遠い夜。

 

「忘れ物はないか?」
「オぉ」
 クリミアを発つ日は、生憎の曇天だった。太陽の下でと約束したのに間が悪い。
 雲の具合程度でアイクが言い分を変えることはないだろうけれど、すっきりしない気分だった。
「雨の匂いはしないのにな。しけた空だよ」
 ライが眉をひそめ先頭を歩いていく。
 クリミア王城の廊下を行くのも、ひとまずはこれが最後だろう。外に待たせてある皆のことも気になるが、レテは今少し感傷に浸らせてもらうことにした。
 こうしていても、またアイクに呼び止められるのではないかという気がする。用件は大抵鍛錬だったけれど、口実だったこともきっとあるのだろう。
 無愛想だった。泣きそうだった。嬉しそうだった。苦しんでいた。
 たくさんの表情を見て取った。さまざまな感情を受け取った。
 その手の力強さも。腕のあたたかさも。心臓の鼓動も。匂いも。少し癖のある髪も。蒼の瞳も。ひたむきな想いも。
 全身で感じた。
 一つの個体の情報を、こんなにも多く得たことはなかった。
 ひとつひとつ大事に、宝箱にしまう。
 アイクの欠片。抱いた気持ち。こぼれてしまわぬように、なくしてしまわぬように。
 ガリアに帰り、また戦士として日々を暮らしても、取り出して懐かしむことが出来るように。
 目を閉じる。
 ありがとう、と心の中で呟いて、瞼を上げる。
 ――クリミア解放軍の先鋒は終わりだ。今日からレテは、ガリア軍の一兵士に戻る。
 ライがしきりにジフカに話しかけるのを聞きながら、レテはアイクの待つバルコニーへと次第に近づいていった。

「ジフカ殿、あんたにも世話になった」
 アイクの様子は平素と変わりなかった。冷たいというのではないが、湿っぽい言動はしない。
 晴れの日のようにからりとした態度は、レテからしても好ましいものだった。
 この少年――否、青年になったアイクに、もう自分は必要ない。力量は勿論のこと、精神的にも。
 レテの庇護はもう要らない。心は凪いだように静かだった。
「ガリアは俺にとって大事な場所だ……また、ちょくちょく遊びに行っていいか?」
「いつでも来るがいい。王も喜ばれるだろう」
「あ、そうそう。オレにはすぐ会えるぞ。ガリアはクリミア復興にも、助力を惜しまないって話だからな。大勢の労働力引き連れて、すぐに戻ってくるから、期待してろよ」
「労働力はありがたいが、お前とはもう向こう三年ぐらい会わなくても……」
「なんだとぉ!」
「冗談だよ。楽しみにしてる」
「アイク! モウディもクリミアの復興を、手伝いにクるぞ。力を、イっぱい貸すぞ!」
「ありがたい」
 男たちとの会話を終えて、アイクがレテを向く。
 その蒼い色が濁るのを、レテは見たくなかったから。
「いつになるかわからんが……例の約束、果たせるといいな」
 そう先手を打った。アイクは何か言いたそうにレテを見つめ続けている。瞬きすらせず見つめ続けている。
 レテはゆっくりと目を閉じ、開ける。蒼は変わらずそこにあった。それだけでいいと思って、息を吐いた。
「では、またな」
「ああ、また。……元気でな」
 そんな決まりきった挨拶さえ、嘘のつけない彼だから嬉しかった。
 下へ降りて、庭を歩き始める。壊れた園はすぐにでも修繕されて、アイクとレテが命を懸けた痕もやがて消え去るだろう。そんな風に時は流れ、季節は移ろっていく。想い出はきっと風化していく。
 それでも、これ以上に価値のある一年を過ごすことは、この先二度とないだろうから。
 せめて彼の色だけでも、褪せずに覚えていたいと思った。忘れる前に、会いに来てくれたらいいと思った。
 空を見る。クリミアの空。狂王を破った日に似た曇天だった。何とはなしに右手を伸ばす。
 あのときは、アイクの神剣が雲を切り裂いて――。
「レテ」
 ――呼ばれた気がして、振り向いた。
 自分を最も惹きつける声がその二音を落としたのを、レテは聞き逃さなかった。
 その途端、厚く鈍い雲に亀裂が走り割れる。雨より速く光が降り注ぐ。
 世界が、色づく。
 そうだった、とレテは鼻をすすった。
 お前の蒼は、あんなに暗くはなかったよ。もっと、そう、こんな風に。
 ――海みたいに、輝いていた。
「レテ!!」
 アイクの言葉を聞く。一言だって漏らさぬように。
 陽射しのカーテンは眩しいけれど、恋した色は何よりもはっきり見える。
「全てが終わって、クリミアにも、傭兵団にも俺のいる必要がなくなったら……俺は残った何もかもをあんたにやりたい!! おっさんになってるか、じいさんになってるかも分からないが、それでもまだあんたが俺のことを愛してくれていたなら……」
 レテは滲む視界にアイクを捉え続けた。
 私もほしいよ。お前の全てが。渡したいよ。私の全てを。
 今度こそごまかさない。嘘もつかない。
 だから、最後まで聞かせてくれ。
「共にいてくれ! ……俺と手を携えて、生きてくれ!!」
 どんなに遠回りだって構わない。時間がかかったって構わない。
 お前が老いて動けなくなっても、私は最期までお前と共に在ろう。
「私の気持ちは変わらない」
 終のときまでその手を握ることを誓う。
 もう迷うことなく世界に叫ぶ。
 ――私はお前を愛している、アイク。
 レテは両手を一杯に伸ばし、笑った。
「楽しみに待っている。ずっとずっと、待っているから!!」

 

 この後彼らは、大陸全土を巻き込んだ戦いに、再び身を投じることになる。
 女神の怒りに触れ、慈しみを取り戻すためにその痛みを越える。
 役目を終えた勇者は新天地を求め、猫もそれに従った。
 その二人について語るとき、ガリアの民は決まってこう言う。
 あいつらならば、きっとそのうち帰ってくるさと。
 沈んだ太陽も、昇らぬことなどないのだからと、気安く笑うのだ。

 

To SIDE Ike

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