第四章 雪に紅 - 1/4

SIDE Rethe

 

 

隷属と所属

 

「雪か」
「見たことはあるのか?」
「いや。初めてだ」
「そうか」
 デイン領トレガレン長城。アイクとレテは並び立ち、これから落とすべき城を見上げた。
「これからこの白を紅に染めるのだな」
 レテの呟きにアイクは答えない。仕方ないので、そのまましゃべり続けた。
「私はこの頃、自分のやっていることが正しいのか自信がなくなるときがある。もっといい選択を出来たのではないか、自分は間違った道を歩んでいないだろうかと」
「俺もだ。だがもう、後には引けない」
 アイクは雪と同じほどに真っ白で、冷たい言葉を吐く。
「俺たちはもう、進むしかない」

 

 作戦はほどなく開始された。
 国境線の急襲。まずは拠点を奪い、兵を休ませ物資を押さえなければならない。軍という単位は生物ではないが、それを構成するのは人である。生命活動を十全に行えてこそ勝利に近づく。
 城内になだれ込むまでは然程の苦労もなかったが、室内戦は苛烈を極めた。キルロイやミストが、傷を負った兵を絶え間なく癒し、また前線へ送り出している。
 レテも疲弊して下がっていたが、いつまでも休んでいるわけにもいかないらしい。体力も戻ってきたことだ、それそろ戻らねばなるまい。そう化身しかけたところで、ヨファが血相を変えて走って来た。
「レテさん! ぼくも前線に連れて行って!」
 レテは黙って眉をひそめる。正直に言えば気は進まない。だが。
「乗れ。勝手の責任は取ってやる」
 結局、レテはそう答えた。半端な常識よりも、激しく叫ぶ己が直感を信じようと。
「だいじょうぶ。責任ぐらい自分で取るよ」
「一丁前な口は、一人で勝手を出来るようになってから叩け」
 ふっと、両手――前足を床に着いた。ヨファが背に飛び乗ったのを確かめ、走る。援護をしている魔術師たちを追い抜く。防衛線で踏ん張る戦士たちより前にヨファを降ろす。
 入り組んだ通路。ヨファは角を飛び出し、向かってくる男の喉を射抜いた。続く第二射。もはや流麗としか言えない手さばきで、道を曲がって来た男の眉間を貫く。
 深紅の髪をした男が、一人だけその場に残った。薄い口唇をどうやら命乞いではない調子で開く。
「……ヨファ」
「やっぱり、シノンさんだ!」
 喜色を隠さないヨファに、男が笑い返した。
「いっちょまえに、弓構えた格好が様になってんじゃねぇか」
「そ、そう?」
 ヨファは珍しく歳相応に照れた。男が頷く。ひっつめた深紅の毛が揺れる。
「お前は昔から、筋が良かった。オレの言った通りだったろ。鍛え方を考えれば、二人の兄貴共より伸びるってな」
「先生が、よかったからだよ」
「そりゃ、そうだ。お前、そのことを他の奴にバラしてねえだろうな?」
「うん、言ってない。ぼく、約束はちゃんと守るよ」
「そっか。えらいぞ」
 男の口調は、敵兵とは思えないほど、終始穏やかだった。だがヨファは、ふと、声を陰鬱な色に染める。
「ねえ、シノンさん。シノンさんは……敵?」
 ヨファにとっての『敵』の定義は以前聞いた。『敵』とは味方を害する者で、射殺さなければならないと。
 今もそれが変わっていないのだとしたら。
「ああ」
 きっぱりと、男は断言した。そこには最早、情はなく。ヨファは俯いて何かを言おうとしていたが、喉は引きつった音を漏らすだけだった。
 男が舌打ちして首の後ろをかく。
「泣くな。こういうこともあるって教えてやったこと、忘れたのか?」
「おぼえてるよ」
 ヨファは泣き笑いで、男の顔を見つめた。
「シノンさんの言ったことは、ぜんぶ、おぼえてる」
「それなら、もういいだろ?」
 男の瞳は、まるで獣牙の民が同胞を見守るときのようなぬくもりに溢れていたのに。瞬き一つで、氷に変わる。
「さぁて。師弟対決といきたいとこだが――」
 男が弓を引いたのは。両手を下げたままのヨファではなく、少し離れて会話を聞いていた、レテだった。
「やめた。先に邪魔な獣野郎を殺す」
 風鳴りと共に矢が放たれる。レテはその軌道を確かめる前に跳ぶ。男の狙いは正確無比だった。射られる矢の全てが、レテが一瞬前々いた場所に刺さっていく。しかも所作が速い。止まって休むことを許されない。これでは長くは――!
「ちょこまかと鬱陶しいん、だよッ!」
 一際速く強烈な一撃が放たれる。ヨファの悲鳴を聞きながら、ああこれは避けきれないなと、レテがひどく冷静に思ったとき。
 唐突に現れた一振りの剣が、レテの眼前でその矢を弾いた。
「アイク……」
 現れた少年の名を呼び、男は暗い笑みを浮かべた。
「やっぱりな……てめえとはいつかこうなる気がしてたぜ」
 アイクは答えない。ここは問答の場ではなく戦場だと承知しているかのように。
 男にも、ヨファを突き放せなかった弱さなど、今はどこにもない。陰惨な狂喜を瞳に宿し、最後の矢をゆっくりと引き抜く。
「行くぜ!」
 アイクが走り出す。矢は真っ直ぐにアイクの額に――向かう途中で急激に進路を変え、壁に刺さった。アイクと男の距離はほぼゼロ。刃が弓を両断。男はすぐさまナイフを抜き放ったが、アイクほどの剣士の前で、狙撃手の剣技など児戯に等しい。ナイフは軽々と跳ばされていった。
「ふん縛れ!!」
 ボーレが叫びながら躍り出てきた。ガトリーが泣き笑いで、オスカーは真面目な顔で後に続く。狼狽する男と迫る縄。
「何だお前ら! くそっ、離――いっそ殺せ!!」
「ごめんだね!」
「おれもイヤっす!」
「まぁお互い頭を冷やして語るには、この場は相応しくないですからね」
 あっという間に男を簀巻きにすると、後方に送ってきまーすとガトリーが運んでいった。
 ……何だったのか?
「昔の仲間だったのよ」
 ティアマトが呟いた。複雑そうな声だった。
「まさかデインについているとは思わなかったわ。ヨファが、シノンを見たと言ったとき、みんな疑っていたもの。それが本当なら、私たちは戦わなくちゃいけなかったから」
 レテは、足元で草むらのように茂っている矢を見た。確かに、これは洒落にならない。ティアマトはひとつため息をついて、くすりと笑う。
「けれどやっぱり私たちは、シノンを殺したくなかったのね。ヨファを追いかけて、アイクとシノンが対峙しているのを見たとき、思わず『外して!』と祈ってしまった。まさかシノンがアイク相手に、手心を加えてくれるとは思わなかったけれど……」
「何を言っている?」
 レテは化身を解いて、彼女に通じる言葉で言った。ティアマトからは死角だったかもしれないが、レテはその現場を確かに見たのだ。
「あの男は本気でアイクを殺そうとした。その上で、『アイクに届く前に、ヨファの射た矢があいつの矢を弾いた』んだ」
「……え?」
 ティアマトは表情を凍らせた。そんな、と白い息で反論する。
「放たれた矢に合わせて横から命中させるなんて、そんなこと……!」
「出来るよ。ぼく、天才だもん」
 ヨファはさらりと言って立ち上がった。さっきまでぐずっていたくせに、もう復活している。本当にこの少年は立ち直りが早い。
 否。立ち回り方を、よく知っている。
「先へ行こうよ。アイクさんに置いていかれるよ」
 あれはあれで、ヨファの戦士としての在り方なのだろう。レテは肩をすくめてヨファに続いた。
 

 

 デイン国旗が降ろされ、クリミア国旗が揚がった。
 終わったのだ。レテがどうという感慨もなく旗を見つめていると、ヨファがやって来て隣に立った。
「さっきはありがとう。……何も訊かないでくれて」
「構わん。お前一人運ぶぐらいどうということもない」
 まぁ将がアイクでなかったら二人共、今頃首が繋がっているか分からんなと、レテはわざとらしく肩をすくめる。そうだねとヨファは気の入っていない笑い声を上げて、すぐに陰鬱な表情になった。
「でもあのままじゃ、仲間の誰かをシノンさんに殺されるか、シノンさんが仲間の誰かに殺されてたかもしれない。それはぜったい、いやだった」
「そうだな」
 レテはベグニオンの方角を見遣った。同胞殺しを背負うには、この少年はまだ幼すぎる。
 ヨファは沈んだままの声で続ける。
「レテさん。もうひとつだけ、お願いがあるんだ。シノンさんがぼくの――」
「師だということなら、伏せておく。約束なんだろう?」
 皆まで言わせずレテは問う。ヨファは一瞬表情を歪めた後、かなわないな、と笑った。
「シノンさん、昔ラグズにおそわれたことがあるんだって。だからレテさんたちには特に態度わるいと思うけど、ゆるしてあげてね」
「度合いにもよるな」
「そっか。でも、怒ったら負けだよ。聞きながすのが『オトナのたいおう』だよ」
「お前にそれを言われてるって、大人としてどうなんだ……?」
 レテが眉をひそめると、ヨファはようやく子供らしい表情を浮かべ、相変わらず大人びたことを言う。
「シノンさんのこと、よろしくね。レテさん」

 

 そしてレテはアイクを捜した。件の不始末について、まだ伺いを立てていないのだ。ヨファに対して『責任は取る』と大見得を切った以上、しかるべき処分を言い渡されねばならない。
 と、そこでムワリムを見掛けた。先日のこともあって少し躊躇ったが、結局声をかける。
「調子はどうだ?」
 我ながら凡庸な切り出し方だと思った。もう少し気の利いたことは言えないものだろうか。
 ムワリムは少しだけ微笑んで、目を伏せた。
「おかげさまで、随分この軍にも馴染んできた。他のラグズの目にさらされるのにも……随分、慣れたつもりだ」
 ベオクの、ではなく、ラグズの、というところが引っかかった。
 だが、それよりも気になるのは、ムワリムが右肩に担いでいるものだ。
「また荷物運びか? 急ぎでないのなら、そんな物資を運ぶことなど、他の兵にやらせておけばいいだろう」
 ムワリムは目を閉じて、小さく首を横に振った。
「目に付いてしまうからな。そのまま見過ごして去るのには、恐怖すら感じる」
「恐怖……?」
「産まれたときからそういう環境で育てば、骨の髄まで染み込んでしまうものだな」
「……そうか」
 レテは小さく短く呟いて黙った。『奴隷根性』、そう嘲ってしまえたら、どんなに楽だったろう。
 ムワリムは胡乱げにレテを見た。
「お前は、罵らないのか? ラグズとしての誇りはどうしたのかと」
「いや……」
 今度は、レテが目を伏せる番だった。
「昔の私であれば、言ったかもしれない。しかし今は……アイクの元に身を寄せて戦うようになってからは、ラグズとベオクの関係について、いろいろと考えることもあってな」
 ラグズを知らなかったベオク。ラグズへの偏見を刷り込まれたベオク。
 ラグズをラグズだというだけで迫害するベオク。ラグズを救おうとするベオク。
 ベオクと友好を築こうというラグズ。ベオクへの偏見が薄いラグズ。
 ベオクの理不尽を受け入れたラグズ。ベオクに服従し、ラグズに劣等感を抱くラグズ。
 そして、条件付でベオクを信用する、自分。
 問題はかくも複雑でややこしい。一方的な正義を振りかざし、それを恥とも思わぬことなど、もう出来ない。
「何よりも、とっくに諦めているお前に、何も言うことはない」
 レテに彼を侮蔑する気持ちはなかった。
 ムワリムは、レテが想像するよりずっと過酷な人生を歩んできたのだろう。その果てに辿り着いたのが、いつかレテが抱きかけた『諦念』という結論だったのならば、その生き方を否定はしない。
「だが……ひとつだけ。お前が全てを受け入れ、諦めたのなら、そんな卑屈な態度を取らないでくれ。気になって、仕方がない」
 ムワリムは瞠目して、何かを言いかけたが、結局足早にその場を去ってしまった。重い荷物を肩に載せたまま。
 レテは、泣き出しそうな曇り空を仰ぐ。
 同胞よ、迷いがないと言うのなら、私の目を見て話してくれ。私はその視線を受け止めよう。
 獣牙の兄弟よ、未練があるのならその手を差し出してくれ。私は、必ずその手を握り返す。そして引っ張り上げてやる。
 アイクが私にしてくれたように。――光ある場所へ、きっとお前を連れて行くから。
 

 

 更に歩き回っていたら、共犯者――というか主犯――のヨファを見つけた。
 捕虜から傭兵団に復帰した、あのシノンという男と一緒にいる。
「あ! ねぇねぇレテさん、こっち来て!」
 手招きされた。気付かれないうちに去ろうと思ったのに、目ざとい。
 レテが歩み寄っていくと、木箱に座っていたシノンは露骨に嫌そうな顔をした。もうベオクからそうされるのも慣れた。
 問題はヨファの方だ。ささくれ立った木の枝を掲げ、高らかに問う。
「これ、何に見える?」
 何って。枝だろう。それ以外の何だというのか。ベオクの使う道具の中に、同じ材料で違う名称のものはあったろうか。
 レテは散々首を捻って、結局こう答えた。
「……棒?」
「棒だ!」
 シノンは膝を叩いて大笑いしている。
「いいね半獣、よく言った!」
「ラグズ、だ。次その呼び名を使ったら、二度と言えぬように喉を噛み潰す」
 レテは淡々と述べた。シノンは白けきった顔をして、聞こえよがしに悪態をつく。重い空気の流れる中、ヨファが明後日な抗議の声を上げる。
「レテさんまでひどい、これは弓! ぼくが作ったの」
「そうなのか? すまない、私の知識不足だ……私の見知っている弓の中には、そのような形状のものはなかった」
 シノンがまた笑い出した。腹を抱えてレテを指差している
「すげェなお前、マジで言ってんのか? ちょっと待て、腹いてェ……!」
「ひどいよシノンさん! ぼく、一生けんめい作ったのに」
「わかった、わかった、あー……」
 深いため息を最後に、ようやく真顔になってシノンは言った。
「大体、木の選び方からして間違ってる。こんな硬い木じゃ話にならねえ。出来るのは枝か、いいとこいって、やっぱ棒だ」
「弓だってば! ちゃんと研究したもん。ぼく用のとそっくりにしたもん」
「寝言いうな。お望みなら、そこにいる猫娘に再ジャッジをお願いしたっていいんだぜ」
「う……」
 でもでも、と不満気なヨファを見て、シノンは舌打ちをしながら弓? を弄んだ。
「仕方ねえな。今度、ちょっとだけ手ほどきしてやるか」
「ほんと!? ぼく、すごくうれしい! 約束したからね。レテさんも聞いたよね? ぜったいだよ」
 ヨファはがばりとシノンに抱きついた。実の兄たちに取る態度とは大違いだ。
「ああ、わかったからよ。……ったく、猫の次は犬ころかよ。旅芸人一座かここは、くそっ」
 シノンが毒づいている。レテは短く、だが深刻に問うた。
「もう行っていいか?」

 

 再び、人から人へとアイクの居場所を尋ねながら、レテは歩いていく。
「レテ」
 声をかけてきたのは、捜し人ではなく先程別れたムワリムだった。
 どういう態度で接したらいいのか迷った挙句、レテはこう言うしかなかった。
「何か用か?」
 ムワリムは頷き、よくベオクが見せるように、腰を深く折った。レテの記憶が正しければ、これは謝罪の姿勢だ。
「不快な思いをさせてすまなかった。諦めているくせに……私はやはりお前のことを羨ましいと思っていたようだ」
 そうか、としかレテは言えない。恵まれた側が何を言っても、それは皮肉にしかならない。
 ムワリムは堰を切ったように話し続ける。
「ベオクに怯むことなく、対等に接することが出来る。お前から見れば当然のことだろうが、私はそんな事を考えたこともなかった」
 確かにムワリムは、慎重に慎重に、他人と、特にベオクと目を合わせることを避けていた。
 レテは深く息を吐いて、それから浅く吸う。
「ならば……考えさえすれば、出来るようになれるんじゃないのか?」
 安易な考えかもしれない。それでも、動き出すことをムワリムが望むのならば。
「ああ、そうかも知れない。いや……そうしなくてはいけないのか」
 顎に手をやり考える姿。こんなときにまで顔を出す怯え。
 義務ではないと思うが、と、やんわり前置きをして、レテは辛抱強く続ける。
「しかし、そうした方がきっとお前が楽になれると思うのだ。お前が穏やかな顔でいるときを、私は見たことがない。それが気になって……」
 つらい、と呟いた。そう、つらいのだ。同胞が苦しんでいるのに、何も出来ない自分が歯痒い。自分の都合だ。ムワリムの都合ではない。だから押し付けたくはなかった。
 けれど。
「なあ、つらいかもしれんが……お前がどんな風に暮らしてきたのか、聞かせてくれないか? 少しでも、お前の考えてることが解るようになるかも知れん」
 ムワリムは何も言わない。
 やはり独善だったか、とレテが内心で自嘲したとき、彼は顔を上げた。
「今すぐには、難しいかもしれない。だが検討しておく。……私もお前に聞いてほしいことや、聞いてみたいことが、ある」
 初めて、正面から目を見つめてくれた。ああこれでやっと同じ地平に立てたのだと、レテは思った。
 通路の壁に寄りかかって、他愛もない話をした。
 レテはモゥディのことを。ムワリムは奴隷解放軍にいるカラスの少女のことを。
 ムワリムは最初ぎこちない口調だったが、だんだんと舌の動きも滑らかになっていった。ベオクにも慣れたが、同胞と語らうのはやはり楽しい。まして、頑なに心を閉ざしていたムワリムが自分から話してくれることが嬉しくて、レテはその度に喜んで相槌を打った。
 アイクのように、自分でも誰かの心に希望を灯せるのだと思うと、誇らしかった。
 ただこのとき少しばかり、レテは油断していたらしい。
「……お前に客のようだな。すまない、長話が過ぎた。私は坊ちゃんを捜してくる」
 ムワリムが壁から背を離し、襟元を正した。その後で、またたどたどしい口調に戻って、問う。
「今日は、ありがとう。レテが迷惑でないのなら、出来れば、また」
「ああ。次はガリアの話でもしよう」
 レテは微笑んで頷いた。ムワリムも小さく笑って、ベオク式の礼をして去る。
 入れ替わりにやって来たのは、ようやく会えた、アイクだった。
「邪魔したみたいだな」
 アイクは相変わらずの仏頂面で言った。ムワリムと話していたのを聞いていたのかもしれない。
 レテはムワリムが気付くまで、アイクの存在に気付かなかったのに。
「いや。そうか――鈍ったな。私も」
 レテはばつが悪くて頭をかいた。
「お前の気配がするのが当たり前すぎて、逆に感じなくなってしまっていたようだ」
 アイクは軽く目を見開いて硬直している。こんな反応をされては、レテも対処の仕様がない。
「今後気をつける! それでいいだろう。文句があるなら口で言え!」
「いや、その――文句は、ない」
 アイクは口許を右手で覆った。目が泳いでいる。いよいよもってレテには、何が何だか解らない。
 が、もういい。先に自分の用件を済ませてしまうことにする。
「今日の独断先行についてはヨファの分も謝罪する」
「そうだ。ヨファは?」
 アイクは顔から手を離した。レテは腕組みをする。
「弓の練習の時間だそうだ。『ごめんなさい、もうしません。でもシノンさんを仲間にできたんだからいいよね?』と言伝を頼まれた」
「まったくあいつは……」
 アイクは一度だけため息をついたが、それ以上言及する気はないようだった。レテは腕を解き、直立の姿勢を取る。
「これは総指揮官への背反行為にあたる。いかなる処罰も受ける覚悟だ」
「そんな覚悟は要らん。シノンを仲間に出来たんだから、いい」
 アイクはヨファの言い分を採用したらしく、レテは咎を免れた。
「それより、俺もあんたを捜してたんだ」
「私を?」
 レテは小首を傾げた。また鍛錬の誘いだろうか?
 アイクは、あー、ともったいぶりながら、ひとつひとつ確かめるように言葉を並べた。
「ベグニオンが正式にクリミアの支援をしてくれることになって、今まで日和っていたガリア上層部が、ついに重い腰を上げたらしい。今後の俺達の活躍次第では、ガリア参戦も夢じゃない、そうだ」
 途中引っかかるところはあったが(日和るなどと簡単に言ってくれる)、レテにとっては吉報だった。
 ガリア参戦。クリミアへの貸し出し戦力ではなく、正規軍としてデインと交戦する。想像しただけで武者震いがくる。
「嬉しそうだな」
 アイクの顔は無愛想だったが、声はやわらかかった。
「――ライに会えるからか?」
「ライ?」
 この文脈でライの名が出てきたのは不思議だった。立場上、確かにライは来るだろうが。
「個人は関係ない。ガリアの名を背負って戦えるかもしれないことが、嬉しいのだ。まぁ、強いて言えば」
 キサに会いたい、と言おうとして、声が止まった。
 よく考えろ。キサが来るということは、取りも直さず、同じ隊に所属している妹も来るということではないか。あのリィレが、自分と同じように、血みどろの戦場に足を踏み入れる……?
 先程とは違う震えが、レテを襲った。
「私情を挟むことを、許されるのなら……妹には、来て欲しくない」
 先程までと一転、囁くような小声で発した言葉に、そうだな、とアイクは答えた。
「俺も本当なら、ミストにはいつまでも陽だまりみたいな場所で生きて欲しかった」
 切実な呟きを落とすと、アイクは目を閉じた。涙なく泣いているような顔だった。レテは知らぬうち、模様ひとつないアイクの頬に触れていた。
 いくつもの問題を先送りにしてきた、魅力的で不器用すぎる手段をまた、提示する。
「鍛錬をしないか?」
 ああ、と虚ろな声を出しながら、彼は首肯した。