14話 Faker’s Foolish Fest. - 4/10

彼の戴く女神の像

 休み中は部活が朝からである分、上がりも早い。夕方のセール品がまだ残っている時間にスーパーに寄れる。 
「朔夜さんはいつもこうやって帰りに買い物してるの?」
「毎日じゃないよ。二日に一回ぐらい」
 朔夜は汗で貼りつくスカートの裏地を気にしながら言った。他の服は全部ズボンだからと、セーラー服など着てくるのではなかった。冷房でそのうちましになるかと諦めて、横を歩く坂野に視線を向ける。
「持ってくれてありがと。坂野は買い物よく来るの」
 坂野は店に入るなり自然にかごを持ってくれた。朔夜の長考にも文句を言わず、急かす様子もなくそばに留まる。皓汰はすぐに飽きてしまって、他の売り場をうろつき始めるのに。
「たまにしか来ないよ。うちは母が専業主婦だから、買い物は大体平日の早い時間に済んでる。オレが駆り出されるのは米とか醤油とか、重いもの持つときだけ」
 全然軽いねと坂野はキャベツが一玉入ったかごを持ち上げる。朔夜は笑みを浮かべ、精肉の陳列棚に向き直るとき真顔に戻った。
 付き合いはそれなりに長いのに、坂野から家族の話を聞いたのは初めてだ。専任で家事をする母というものを朔夜は知らない。幼い頃よく世話になった神崎のおばさんも、長北先生の奥さんも、家と職場が重なっていた。最近『理想』と捉えた侑志の母親も、普段は外で忙しく働くキャリアウーマンだという。
 坂野はいずれ、彼の母親と同じように家を守る妻を求めるのだろうか。
 朔夜は脂身の多寡を比べていた視線を止め、グロテスクな肉の繊維をぼうと見下ろした。
 彼女たちの誰にも、自分の未来を投影することができない。このまま何もしなければ、母と同じ女になる予感がした。夫を支えず、帰る家を持たず、生きるための手段に身を置くしかない大人に。
「朔夜さん? 買わないの」
 坂野の声で、とっさに豚こま肉のパックを取る。脂身どころかグラム数すら確かめなかった。乳製品の棚に向かって歩き出す。
「坂野の家族のこともっと聞かせてよ。お父さんのこととか」
 顔も見ず発した問いにも、坂野は律義に付き合ってくれた。そうだなぁと呟く声は沈んでいる。
「朔夜さんのお父さんみたいに自慢できるような人じゃないんだ。冴えない地方公務員だよ。誰かがやらないといけない仕事だっていうのは理解してても、オレはああはなりたくないって思うな」
「もしかして、プロ選手になりたいって言ってたのそのせい?」
 振り向いた拍子に目が合う。坂野は彼らしからぬ臆病な素振りで視線を逸らした。朔夜の方でも、うかつに踏み込むべき領域ではなかったと覚る。謝罪する代わりに牛乳の賞味期限を比べ始める。
 それでも、坂野は答えを返した。はっきりと。
「そうだと思う。そうだ。評価されなくても社会に尽くすなんて生き方はしたくなかった。オレは、自分が頑張っていることを周りに認めてもらえる大人になりたかった」
 坂野の左手が伸びてきて、奥にあった一番日付の新しい牛乳パックを取った。近づいた横顔は見慣れた彼とは別人のように大人びていた。
「普通、そういう夢はもっと早くに卒業するんだろうね」
「諦めるの?」
 朔夜はつい坂野の左腕に触れる。数えきれないほどの打球を捕ってきた手だ。朔夜の口汚い罵倒に耐えながら、軟球の慣れないバウンドに苦戦しながら。
 坂野は一リットルの紙パックをかごの底にそっと横たえる。口唇に浮かべた苦笑は、ショーケースの蛍光灯に青白く光っていた。
「オレのクラス、夏休みの宿題に進路希望調査票も入ってたんだ。大学調べながらいろいろ考えてさ」
 彼はとても大切なことを言おうとしている。聞かなければならない。
 そう思うのに、朔夜は剥き出しの肌に吹きつける冷気にばかり気を取られて自分の腕を抱いた。坂野は遠慮がちに朔夜の背を押し、常温の食品棚に移動していく。
「プロとして野球をやるって、いつまで持つか分からない身体を頼みにして、長い間家を空けっぱなしにするってことだろう。それって結局父の仕事と同じだと思えてきたんだ。オレはこれでも父を尊敬してるけど、自分の子供に同じ思いはさせたくない。だから赤の他人に認められるより、家族のそばにいられる仕事を目指したい気持ちが強くなってきた。ごめん。朔夜さんからしたらこれも諦めだね」
「なんで謝んのさ。すごい立派じゃん」
 励まそうとしたのに、口から出る言葉まで寒々しい。
 進路。子供。家族。仕事。坂野の言葉は異国語のように耳に響いた。
 彼は外の世界を見ている。朔夜の知らない場所を。
 野球。父の母校。監督。皓汰。朔夜の夢見た『未来』はやっと『今』になったのに、終わった後のことなんて考えられない。考えたくない。
 坂野は頬を薄く染めて笑った。
「あと買うもの、ある?」
 朔夜は首を振って、まだ一行残っている買い物メモを後ろ手に握り潰した。
「おわり。会計して帰ろう」
 ――隣の薬局でプロテイン。
 どうでもいいものに思えた。自分には必要ない。皓汰も家にいるときは嫌がるのだ。どうせ。
 今年も高葉ヶ丘の野球部は、新人戦だってろくに勝ち進めはしない。

 坂野は家まで荷物を持って送ってくれた。上がっていけばと朔夜は言ったのだけれど、今日はいいよとやわらかく残して帰った。後ろ姿が視界から消え、朔夜は浅く息をつく。
 気付かれたろうか。恋人同士ならきっと部屋に誘うのだろうと、乗り気でないのに切り出したことを。
 買い物袋を台所に運ぶ。食材を冷蔵庫に入れているうち玄関で音がした。手を使わずにスニーカーを脱ぐ音。野菜室のドアを閉め、振り返ると皓汰が不機嫌そうに立っていた。
「おかえり。遅かったじゃん」
「そこで坂野さんとすれ違った」
 皓汰は挨拶もせずに言った。弁明を求めない突き放した口調だった。朔夜はかえって言い返したくなる。
「なんで皓汰は坂野ばっか嫌うの? 他の人にはそこまでしないじゃん」
 自分で言うのも憚られたが、朔夜に好意を寄せていた男は他にもいる。川西も、侑志も。皓汰は二人には同情的ですらあった。
「なんでって。今日もカレシカノジョで放課後デートしてたんでしょ? いい加減わかったんじゃないの」
 皓汰は口唇を片側だけ歪める。温厚なはずの弟はときどき悪魔のように底意地が悪い。
「どこまでしたわけ? あの人と」
「お前、そういう言い方やめろよ」
 あまりの言い草に朔夜は手を出しかけた。皓汰は朔夜の右手首を平然とつかむ。左手で。
「ほら。それが朔夜じゃん」
 皓汰は笑っていなかった。冷めた視線で朔夜の瞳の底を見下ろしている。
 高い。ほんの数センチだが目の高さが違う。入学したときは同じだったのに、今はもう。
「坂野さんが妄想で話す朔夜はね、いつも女言葉なんだよ。俺は朔夜がそんな口調で話すのは一度も聞いたことないのに」
「だったら、なに」
 皓汰の手を振り払う。思いのほか簡単に外れてたたらを踏んだ。皓汰は落ち着き払って一歩前に出る。
「坂野さんは朔夜に人生を変えられたなんて言ってるけど、そんなのただの回り道じゃないか。あの人は自分の行き先をもう決めてる。そのシナリオに朔夜を組み込もうとしてる。ヒロインのオーディションに受かったのが朔夜だってだけで、あの人の未来図は他の女でも成立するんだよ」
 朔夜は後ずさったが、背中はすぐ冷蔵庫にぶつかった。慣れない感触に全身が粟立つ。目の前に立っているのは朔夜の知らない男だった。ここは自分の家なのに、前にも後ろにも親しんだものはない。
 朔夜は金切り声で叫ぶ。
「だとして皓汰に何の関係があるの!」
 認めてしまえば悲鳴だった。
 もう解放してほしい。朔夜の馴染んだ皓汰に戻ってほしい。母を知る弟なら自分の苦悩を理解できるはずなのに、どうして両親にしていたように放っておいてくれないのか。
「関係? あるだろ。誰よりも」
 耳のすぐ横で激しい音。朔夜は身をすくめて座り込む。追いかけるように皓汰が覆い被さってくる。脚に血の通った肉塊が押し付けられている。朔夜にはないもの。いつか死ぬほど欲しがったもの。今でも本音では持たないことを恨んでいるもの。
 皓汰の瞳には怒りも情欲もない。揺れているのは祈りにも似た切実さ。
 鼻先の触れ合いそうな距離で、皓汰は低く、重く、囁いた。
「俺はあんたに人生を明け渡したんだ。いまさら一人だけ別の道に行けると思うなよ、姉さん」
 朔夜は目を瞠って、弟の顔を見つめた。
 そうだ。読書だけしていれば幸せな皓汰を、嫌いな野球に巻き込んだのは朔夜だ。男に生まれた弟を身勝手に恨んだ姉だ。それでも皓汰は『朔夜』を生きると言ってくれた。朔夜は今、皓汰を借りて高葉ヶ丘で『野球』をしている。
 そんなことさえなければ。こんな姉さえいなければ、皓汰はもっと自分に合った友人たちを得られていたに違いないのに。同じ本好きの――例えば新田侑志のような。
 脚の圧迫が消える。
「ごめん、朔夜。泣かすつもりじゃなかった」
 朔夜の頭を抱く皓汰はいつもの優しい弟だった。
 その優しさに浸されて朔夜はずっと許されてきた。母が二十年間父にそうされてきたように。
「ごめんね。皓汰」
 朔夜は震える両手を皓汰の背に回す。
 母の言ったとおりだ。自分は生きているだけで周りの男の人生をめちゃくちゃにしていく。弟も。川西も。坂野も。
 せめて侑志を守りたい。皓汰が自分からつくった初めての友達。あの子なら野球がなくても皓汰と一緒にいてくれる。私からこの子を助けてくれる。
 自分が消える術を朔夜は知らない。死んだところで存在は消せない。坂野が与える役割がこのかたちを変えてくれるなら、それに殉じよう。皓汰たちを全て解き放った後で。
 父の帰って来た音がする。この有様を見ればどうしたのかと尋ねるだろう。腕を緩める。皓汰も姉を助け起こして、そっと台所を出て行った。
 父を煩わしいと思ったのは、十七年の人生で初めてだった。

 八月下旬、秋季東京都高等学校軟式野球大会ブロック予選が行われた。
 エース永田は肩の術後で欠場。新田侑志は発熱していて、本人は試合に出たがったが監督も部長の平橋も許可しなかった。三遊間の連携は取れず、主将八名川も仲裁に入らない。最悪の空気の中で岡本は十三失点。
 打線も繋がらないまま、高葉ヶ丘高校は一回戦で敗退した。