14話 Faker’s Foolish Fest. - 3/10

木の葉の陰に

 皓汰が侑志の住んでいるマンションに来るのは、(うたい)和平(かずひら)の件以来二度目だ。気取った直方体の下には、公園と呼ぶにも覚束ない小さな広場がある。
 藤棚の陰に並んだベンチには、一緒に来た同期がいた。
「どうだった?」
 手前に座る永田が問いかけてくる。皓汰は首を振って彼の隣に腰を下ろした。
「侑志、知ってたよ。朔夜たちのこと」
 近くにいた富島・井沢・琉千花にも重い空気が落ちる。
 俺って損な役目、と内心でぼやいて、皓汰はベンチの木目をなぞった。
 坂野を殴った後、皓汰は永田に咎められ井沢に諭された。富島はそのことには触れず、深刻な顔で『朔夜さんたちのことを知った新田がどうするかが読めない』と呟いた。
 その憂慮は皓汰もしていた。もしかして侑志は野球部をやめてしまうかもしれない。
 琉千花と合流し、見舞いの名目でマンションまで来た。具合が悪いなら大勢で行っても迷惑だからと、皓汰が代表で部屋を訪ねてきたところだ。
『みんなして大袈裟なんだよ』
 困ったように笑う侑志は一見普段どおりだった。だがベッドに座る彼の額には冷却シートが貼られていて、昨日の夜からこっち体温が七度五分を下回らないのだと何でもないことのように言った。
『やけに暑い感じする以外は別にいつもと変わんねぇよ。ずっと部屋にいるから暇でしょうがねぇ』
 侑志はあぐらの上で本を読んでいた。題名を訊けば漱石の『それから』だという。どうしてこんなときに鈴蘭の水を飲むような真似をするのかと思った。
 皓汰が黙っていると、侑志は立ち上がって学習机へ向かった。戻ってくる手には見覚えのある装丁。
『木曜は部活出れると思うけど、ちょっと保証ねえわ。悪いけど代わりに返してきてくれるか。水曜以外ならミハル先輩いないから』
 祖父の『日輪』だった。読んだのと尋ねると全部とあっさり返される。どう思ったという問いにも、面白かったと平素の顔をするだけだ。
『この人の他のも読みたい。治ったら皓汰んち借りに行かせてくれよ』
 皓汰は絶句して侑志を見上げた。目の前の少年は怪訝そうに眉をひそめてベッドに座り直した。
 この本は皓汰の祖父が身内向けに編んだものだ。世間一般には出さなかった原稿も載っている。家のこと。息子のこと。息子の友人である片言の少年のこと。知っている者が読めばどこの誰のことだかすぐに推測できるはず。
 こんな距離にいながらまだ、遠い世界のこととして読むことなどできるのだろうか。
 皓汰は両手の指を組んでしきりに動かした。
『今日来たの、実は朔夜のことで』
 富島の心配した事態を避けようとする心は消えていた。むしろ彼が人並みに話を理解して動じるところを見たいと、ねじくれた根性から切り出した話題だった。
 侑志は落ち着き払った声で短く告げた。
『坂野さんとのことなら知ってる。見た』
 皓汰の願望はなおも容易く砕かれた。侑志は気持ちを表す言葉を口にしなかった。そもそも何も思っていないような顔だった。そして静かに母親似のまつ毛を伏せ、会話を続けながら読書に戻った。
『俺も――』
辻本(つじもと)さんと付き合うことにした、って言われた」
 皓汰が藤棚の下で絞り出すと、直接関わりのない永田と井沢がいろめきだった。
「え、え、朔夜さんたちのこと知ってて、ってことは、当てつけって、こと?」
「つまりあれ、どっちが先かでだいぶ事情変わってくるってことかよ?」
「やめて。俺が知るわけないじゃん」
 隣と正面から詰め寄られ、皓汰は顔を逸らす。意識せず向けた視線の先に富島の険しい横顔があった。
「わけが分からん。あの二人、昨日は手まで繋いでたくせに」
「あっちゃん、関係者多いから名指しで言って」
「新田と朔夜さん。帰りのバスで隣同士だっただろう。僕は朔夜さんの真後ろだったから座席の隙間から見えてた」
「本格的に混乱してきた……」
 皓汰は頭を抱えた。身内絡みのスキャンダルが次々に浮上してきて思考がついてこない。両親の件がやっと決着したと思っていたのに。
 一本向こうのベンチから琉千花の尖った声がする。
「あの子、試合のときわざわざ私に、新田君とは友達だって言ってきたくせに」
「そのときはまだ友達だったってことなのかな」
 事情を察していないのか、井沢が不用意に琉千花を振り返る。琉千花は限界まで眉を寄せ顔を紅潮させていた。
「知らない。そうなんじゃないの。新田君はその後も朔夜さんばっかり見てたし。お祭りのときだってそうだもん」
 開き直ってきたのか嫉妬を隠そうともしない。井沢だけでなく永田も琉千花の気持ちに気付いたのか、術後間もない肩を落としていた。
 いや、本当はずっと気付いてたのに、都合の悪いことは見えないつもりでいたのかもしれない。かつての故障のように。今の侑志のように。
 気の進まないながら、皓汰は状況を整理する。
「昨日のバスまでは多分あの四人は誰もくっついてなかった。坂野さんの言ってた朔夜に告られたっていうのは解散した後で、侑志がさっき朔夜たちのことを『見た』って言ってたのもこのときなんだと思う。で、辻本さんは侑志のお母さんと仲良しでよく家にも来るって聞いたから、きっと昨日も来てて」
「新田のザマを見ていられなくて慰めた、か。なんで同じような状態のクズ男にばっかり引っかかるんだあいつは」
 富島は大きく嘆息して自分の鞄に突っ伏した。『慰めた』が具体的にどういうことなのかは下衆の勘繰りにしかならないが、大切なものが眼前で崩れたときの侑志の弱さは皓汰も一応知っているつもりだ。逃げ場があればより頑なになることも。
 日陰とはいえ夏の終わりの野外は蒸し暑い。日向のコンクリートからはじりじりと陽炎が立ち上っている。
「オレ、今の新田みたいなやつ知ってるよ」
 井沢が腕で汗を拭った。暗い目で藤の葉の影を追っていた。
「一番好きな人を諦めようとして、自分を好きだって言ってくれる人と付き合ってさ。そんなに想ってくれるんなら、いつかこっちも好きになれるんじゃないかって一生懸命応えようとして」
「その人、どうなったの?」
 琉千花の切実な問いに、井沢はきっぱり首を振る。琉千花は自分の身体を抱いて俯く。永田は口早に話題を変えようとする。
「そもそも、朔夜さんはなんでいきなり坂野さんに――」
「知るかよ!」
 場が凍り付いてから、ああまた俺かと皓汰は喉を押さえた。部活以外では大声を出さないから突然だと驚く。自分なのに。
 皓汰は白々しく首を傾げた。
「このまま帰ってもみんなモヤモヤするだろうし、もっと明るい話しようよ」
 無意味な言葉を、四人とも意味あるものと仮定して進めてくれた。
 夏休みが明けた九月に開催される文化祭の話。
「オレのクラス、二教室ぶち抜きで迷路やるんだ」
「F組もぶち抜きでお化け屋敷。(けい)ちゃんは怖がりだから準備ずっとバックレてる」
「う、受付はやるって約束したし! るーちゃんのとこは?」
「B組は縁日だよ。私また浴衣着るけど、桜原君は?」
「俺も着る。じいちゃんのがあるから」
 皓汰は答えながら藤の葉を見上げる。父が侑志の母親をフジヤと呼んでいたのを思い出す。
 皓汰も藤の香りは好きだ。甘くて優しくて少し泣きたくなる。
 この藤棚も、盛りの頃はもっと美しかったのだろう。