6話 Trickstir - 2/5

キャラ作ってる?

 晴天から一転、体育祭の翌日は生憎の空模様だった。侑志は図書室のカウンターで数学の教科書を読んでいる。隣では委員長の金城深春が英単語帳をめくっている。
 中間考査一週間前、本を借りていく生徒はほぼいない。昨日までの熱気は嘘のように消え失せ、体育祭の余韻と言えば、騎馬戦で腰を痛めたので昼休みの当番を代わってほしいと二年生に頼まれたことぐらい。
 侑志は二つ返事で引き受けた。なんてことはない。どうせ昨日やるはずだった仕事だ。
「時に新田少年。君は野球部だっけ?」
 急な声に顔を上げる。委員長が単語帳を閉じて侑志を見ていた。
 図書委員長、という響きで連想されそうな眼鏡はかけていない。格別の美人ではないが表情に華がある。可愛いと呼ばれる部類だということに侑志も異論はないのだが、甘酸っぱい気持ちを抱いたことは一度もない。
 初対面で『君、「少年」って感じすんね』と言って、勝手に他人のあだ名を『少年』にしてしまうような最上級生は、いろいろと対象外なのである。
「それがどうかしましたか。ミハル先輩」
 名字の『金城』ではなく『深春』と名前を呼ぶのも、特別に仲がよいためではない。本人が『キンジョウ』という曰く『いかめしい』響きを嫌って、下の名前で呼ぶよう周囲に徹底させているだけだ。
 ともあれ生粋の文化系である深春が、運動部に興味を持つとは意外だった。深春は首を傾げ、ちょっとねと呟いた。
八名川(やながわ)くんっているでしょ、生徒会の。去年よく来てたんだけど、今年は見てないから。元気かなって」
「元気ですけど。女の人って好きですね、美形」  
「そういうんじゃないわよ」
 深春は口唇を尖らせる。
「確かに八名川くんはカッコいいけどさ。あたしは、もっと硬派で目立たない感じの人の方が好みなの」
「そっすか」
 侑志は再び教科書に目を落とした。深春のタイプなどには毛ほどの興味もない。
 なんかムカつくー、と深春が耳を引っ張ってくる。
「今回も図書室で勉強会するんでしょ、野球部は。よろしくお願いしますくらい言えないの?」
「なるべく騒がないようにはしますけど。別にミハル先輩の家じゃないし」
「ぐっ、正論なのが悔しい……」
「っていうかいい加減放してくださいって」
 侑志は身をよじって深春の手から逃れた。
 テスト前になると、野球部は決まって図書室で勉強会を行うらしい。主のように入り浸っている深春だから、その様子も大体知っているのだろう。
 深春は単語帳を開き直した。
「少年もそうだけど、野球部の子ってみんな大人しいよね。シマウマの群れみたい」
「シマウマって。図書室なんだから普通静かにするでしょ」
「でも三石(みついし)くんとかさ、いつもすごい無口じゃん。廊下で話しかけても、ハイとかイイエぐらいしか言わないよ」
「はい?」
 侑志も『はい』しか言えなかった。
 無口? この前も、『オレ朝すっげー長いミミズ見た!』と大騒ぎしていた三石が?『ミミズにオシッコかけるとチンコ腫れるって本当か知りたいんだけど、カワイソウだしコワいから試せないけどやっぱ気になってる』と公道で繰り返していた三石が?
「誰かと覚え間違えてませんか」
「え、ウソ、三石くんだよ。ツンツンの金髪の子。去年八名川くんにくっついてよく来てたもん。野球部で、テストじゃない時季にも来てたのあの二人だけだったし」
「だってミツさんが図書室に用あるとは思えな――」
 失礼なことを言おうとした報いなのか、侑志は筆箱に肘を引っ掛け、中身を床にぶちまけてしまった。
「あ、あー」
「何やってんの、もー」
 深春の呆れた声が耳に痛い。侑志はカウンターの下にもぐってペンをかき集める。面倒なことに、シャープペンシルの芯までばらばらだ。誰かが入ってきたが、対応は深春に任せることにする。
「ご苦労様。ユキちゃんなら今日は学校来てないわよ」
 深春は随分とげとげしい声で言った。相手の返事が聞こえないまま、再びドアの蝶番が鳴り、深春は一層不機嫌になる。
「ちょっと。教えてあげたんだからお礼ぐらい言いなさいよ」
「俺は頼んでない」
 低い、うんざりした声が聞こえたと思えば、侑志の頭上がいきなり揺れる。深春がカウンターを叩いたのだ。
「なんなの、ほんとかわいくない!」
「おかげさまで」
「あーら、ずいぶん謙虚じゃないの」
「お前と違ってな」
「くぁっ、ふてぶてしい……!」
 侑志は完全に出るタイミングを逸してしまった。カウンターの下で膝を抱え、それにしても、と耳の裏をかく。
 この声、絶対聞いたことあると思うんだけどな。
「ねぇ、少年も何か言ってやってよ。君んとこの身内でしょ?」
 急に火の粉が降りかかってきて、慌てて立ち上がろうとしたら頭を打った。痛みでまた座り込む。
 相手の少年もようやく侑志の存在に気付いたらしく、上から覗き込んできた。
「侑志?」
「……きゃぷて」
 侑志は涙目で森貞を見上げた。
 知っているどころではない、しょっちゅう会っている相手だ。分からなかったなんてどうかしている。
 でも、だって、と侑志は自身に言い訳した。
 こんな話し方してんの聞いたことないよ。だって、森貞さんの機嫌が悪かったことなんか、一度もないじゃないか。
 森貞は決まり悪そうな表情で上体を起こした。半分だけいつもの口調に戻って言う。
「ごめんなぁ、騒いで。もう行くから」
「まーた後輩の前でカッコつけるー」
 深春が批難がましく腕組みをした。森貞は笑顔で侑志の頭を撫でる。
「委員会の仕事頑張れよ!」
「あ、はい。ありがとうございま」
「ほーら新田少年はちゃんとお礼言えるんだよー。森貞先輩はどうして言えないのかなぁ?」
 深春の腕が侑志の頭を奪い取った。森貞は舌打ちをして、侑志を深春から剥がした。人の頭の所有権を争うのはやめてほしい。
「じゃーな。きん、じょう」
 森貞はやけにはっきりと、深春の嫌いな姓を呼ばわった。むっとする深春を鼻で笑って、大股に図書室を出て行く。侑志はカウンターにしがみついて森貞の後ろ姿を見ていた。
 うわぁ、あの森貞さんがチッって言った。イヤミ言った。見下した顔した。うわーうわー。
「やなヤツ。やーなーやーつー」
 深春は座ったまま脚をばたつかせた。侑志はおずおずと椅子にかけ直す。
「あの、森貞さんと仲悪いんです、か」
「よかないけどさ。しゃべるだけマシな方よ。あいつ、ほとんど誰とも口利かないんだから」
「誰ともって、ノブさんとも?」
「ノブさん? ああ、相模くんね。あんまり一緒にいるの見ないかな。たまに揃ってても、すっごいつまんなそうにブツブツ会話するのよねー、あの二人」
 深春はカウンターにどっかと肘をつく。閲覧席から離れているからと動作も遠慮がない。
「森貞って超エエカッコしいだもん。部活のときだけキャラ作ってんだよ」
「キャラ……」
 それを言ったら、深春の証言する三石も随分キャラが違っている。どうやら先輩たちには、侑志の知らない面がたくさんあるようだ。
 もやもやしながら、侑志は教科書に目を落とした。先程まではかろうじて意味がつかめていた数式が、今や謎の記号になって目の前で踊り狂うものだから、すっかり嫌になってしまった。

「俺、図書室行くの初めて」
「入学のオリエンテーションで行ったろ」
「連れて行かれたことはあるね。行くのは初めてだよ」
 桜原(おうはら)の屁理屈に侑志は肩をすくめる。
 今回も二年生は勉強会をするというので、侑志たちも参加させてもらうことにした。元々は、勉強嫌いの三石と朔夜(さくや)を何とか机に向かわせようと八名川が始めた会らしい。基本的には自由参加だが、単位の危うい二人だけは半強制だそうだ。
「俺、数学で分かんないとこあんだよな。先輩たち、教えてくれるっつってたけど、誰に訊けばいいのかな」
「にゃーさんと岡本(おかもと)さんは理系だよ。あと、数学だったら朔夜もできるけど」
「へぇ」
 勉強は苦手だと聞いたのに。
 言外の疑問を感じ取ったのか、桜原は鞄を提げていない方の肩を上げた。
「頭が悪いっていうより、嫌いなことは全然やらないだけなんだよね。数字いじりは好きでさ。ニヤニヤしながらスコアブック見て何か計算してたりすんの。もう変態の域」
「それ、数字好きっていうかただの野球好きなんじゃ……」
「だから変態なんだよ!」
 桜原はむくれる。何だか分からないが怒られるのも気乗りしない。侑志は少し話題を変えた。
「お前は? 姉ちゃんに数学教わったりしてんの」
「いや。あいつは数字なり空間なりを自分だけの概念で認識してるから、俺の言語感覚では全く理解できない」
 桜原はきっぱり言い切った。逆にすごいのでは? という気もしたが、教師として期待できないことは確かだ。
 図書室の前に来たところで、桜原が急に声を上げた。
「あー、ゴムの木。あれ本物?」
「ああ、うん。司書さんがいつも水やってる」
「へー」
 桜原は入り口脇にある植木鉢に駆け寄ってしゃがみ込んだ。大きな葉の裏をまじまじと見つめている。
 侑志は手持ち無沙汰でかゆくもない後頭部をかいた。
 桜原はときどきこうなる。気になるものを見つけると、今までしていたことを忘れて寄っていってしまう。まるで子供か散歩中の犬だ。
 侑志が突っ立って待っていると、ドアが開いて誰かが出てきた。深春だ。こんなところで背を丸めている桜原が気になったのだろう。
 侑志は謝ろうと前に踏み出す。それより早く深春は桜原に向けて両手を伸ばし、彼の頬を挟んだ。
「君、お名前は?」
「え?」
 桜原は無理やり顔を上げさせられた状態で硬直している。
 深春は真剣な表情だ。
「緑の上履き。一年生? クラスは? ねぇお名前は?」
「ちょ、あの」
「な・に、やってんスか!」
 侑志は桜原から深春を引き剥がした。桜原は侑志の背中に逃げ込む。
 あっ、と深春が指を差す。
「新田少年! 知り合いなの? ねぇずるい、何でこんな可愛い子隠してたの?」
「はぁ?」
 侑志は不遜な声を出しながら、背後の桜原をちらりと見た。侑志の背にしがみついて小さく威嚇音を発している様は、小動物じみていて可愛いと言えなくもないかもしれないが――。
 侑志は、いつになく瞳を輝かせている深春に向き直る。
「別に、俺の友達いちいち先輩に紹介する義理ないでしょ」
「今は目の前にいるんだから、紹介するのが社交上の義務でしょ。はじめまして、あたし三年F組の金城深春ですっ」
 深春は途中から声のトーンを上げ、侑志の脇の下から右手を突っ込んだ。社交上云々というなら人の身体越しに自己紹介しないでほしい。
 桜原は侑志の服を放すと、鞄を置いたまま脱兎のごとく駆け出した。深春が右手を浮かせて呟く。
「シャイなのね」
「怯えてたんですよ」
 侑志は間髪入れずに訂正した。シャイなのよ、と深春は強硬に主張した。
「見た? あの後ろ姿。超かわいい」
「先輩から逃れるべくあらん限りの力で走り去ったあの後ろ姿ですか?」
「違うの、ここでしゃがんでたときの! きゅうってなってて、きゅんてなるでしょお?」
「なりませんし意味わかりません」
「いいから、ちょっと少年もやってみてよ」
「嫌ですよ」
「いいから!」
「何で俺が……」
 侑志はぶつぶつと文句を言いながら、植木鉢の脇で腰を屈めた。深春が盛大にため息をつく。
「やっぱ全然違う」
「当たり前でしょうが!」
 侑志は顔を真っ赤にして深春を図書室に押し戻した。
 桜原が捨てていったスクールバッグを拾い上げる。外ポケットからネイビーブルーの携帯電話が覗いている。連絡ができないということは、足で捜さなければいけないのか。
 途方に暮れていたら朔夜がやってきた。
「ん、新田。メール見たか」
 開口一番問われ、侑志は自分の携帯電話を取り出す。八名川からメールの着信がある。思ったより人数が増えたので、周囲に配慮し勉強会の会場を二年A組に変更するとのことだった。
「図書室だし、マナーにしてて気付かないやついるかもっつーから、見に来た」
「そうなんですか。参ったな」
 侑志は桜原の鞄を見る。朔夜が首を傾けて手元を覗き込んでくる。
皓汰(こうた)のじゃん。どうしたの」
「あーっと、俺、代わりに中見てくるんで荷物お願いします」
 自分のスクールバッグも廊下に置き、侑志はドアの向こうに駆け込んだ。
 朔夜は追っては来ない。テスト前の教科書が詰まった鞄を、大事な両肩に担ごうとは思えなかったらしい。
「あ、少年戻ってきた。教えてくれる気になった?」
 深春を無視して閲覧席を見渡したが見知った顔はない。カウンターの前を通るとき、再び深春に声をかけられた。
「ねぇあの子、野球部の子じゃなかったっけ?」
 また桜原弟のことかと思ったが、視線の向きからして朔夜のことのようだ。
「知ってるんですか?」
「しゃべったことはないけど。テスト前だけ他の子たちと連れ立って来てた。もっと髪長くなかったっけ?」
「この間切ったんですよ。邪魔だからって言って」
 朔夜を知っているのなら、弟を見て思い出してもよさそうなものだが。見る側の性別が違うと印象も違うのだろうか。
 深春はまたカウンターに頬杖をつく。
「そっかー、切っちゃったんだ。三つ編みにしてるときとかあってね、可愛かったんだけど」
「みつあみ」
 侑志はぼんやりした声で呟いた。
 今年の春先も朔夜の髪は長かったが、ヘアゴムで簡単にくくっているだけだった。丁寧に編んだ髪を垂らしているところを想像する。
 おさげ、セーラー服、一年生。
 金城深春は、侑志のガードが甘くなったのを見逃してくれるような先輩ではなかった。
「情報料」
 と手を出す。失態に気付いて侑志は渋い顔をした。とはいえ食い逃げができるほど図太くもない。
「二年の桜原朔夜さん。さっきのは桜原皓汰、朔夜さんの弟です」
「弟くん! あの子も野球部?」
「黙秘します。もう聞いた分は返しました」
 際限なく質問を繰り出しそうな深春を置いて、侑志は図書室を出た。朔夜は仁王立ちで侑志を迎える。
「先輩待たせといて話し込むとか、いい度胸だなぁ?」
「すみません」
 平謝りして荷物に手を伸ばし、右に自分の鞄を、左に桜原の鞄をかける。
 朔夜はつま先で廊下のタイルをしきりに叩いた。
「で? 皓汰は」
「いや、いきなりどっか行っちゃってですね。携帯置いたまま」
「は?」
 また怒られたと思って侑志は首を引っ込めたが、どうやらそうではない。朔夜は下唇を突き出してうなじをかいている。
「ごめんなぁ。あいつ変な子だから。ときどき、意味わかんないことすんだよね」
 今回は桜原のせいではない気がするのだが、説明しづらいのでそのままにしておいた。
 朔夜が歩き出したので後に続く。
「朔夜さん、今の人知ってますか? カウンターにいた」
「図書委員のお姉さん? 何となくしか知らないけど。なんで」
「いえ、あの」
 侑志は足を止めた。階段まではまだ距離がある。
 朔夜が訝しげに振り返る。侑志は反射で目を逸らす。
「あの人、金城先輩、森貞さんの知り合いらしいんですけど。森貞さんいつもは全然しゃべんなくて、部活じゃキャラ作ってるって言って――」
 最後まで言わせてはもらえなかった。いきなり近くの特別教室のドアに叩きつけられた。二つの鞄が落ちる。鈍い衝撃が背中で反響している。
「それ、誰かに話したか?」
 身体の芯に沈み込ませるような低い声だった。鋭利な視線と硬い右手が侑志の首元を脅かす。
 逆光に縁取られた艶やかな黒髪や、焼けた肌や、セーラー服の紺色。鉄製の扉に体温を奪われながら、侑志は色彩と情動の鮮烈さに見惚れた。
 朔夜はさらに力を込めて侑志の胸倉を締め上げる。
「他のやつにも言ったのかって訊いてんだよ!」
 甘やかな痺れが失われ、切迫した危機感のみが頭を支配する。感情ではない理由で顔が熱くなる。必死で彼女の右手の甲を叩いた。朔夜ははっと息を吸って指先を緩める。侑志は喉を押さえて咳き込んだ。
 目算でも十センチ、十五キロ近く体格差がある男子を、片手で扉に叩きつけ絞り上げる。侑志はこんなことのできる女子高生を他に知らない。桜原弟の『あいつ人類の女じゃないからゴリラだから』発言にも今なら同意できる。
「ごめん。大丈夫?」
 だが朔夜のしおらしい顔を見たら、その意見も一瞬で消し飛んだ。
 やっぱり朔夜さんは女の子だ、ゴリラはこんな風に優しく襟を直してくれたりはしない。
 女子が他人の胸倉をつかむかどうかは考えないことにした。
「ごめん。あとでちゃんと話すから。とにかくその話、誰にもしないで」
 朔夜は先程の剣幕からは想像もできないほど静かに言った。弟の鞄を持ち上げ、両手で遠慮がちに差し出す。
「持ってってくれる? 私、皓汰捜してくるから」
 侑志が頷くと、ありがとうと少しだけ笑って朔夜は身体の向きを変えた。
 淡い光の中を小走りに行く。リノリウムが鳴る。短い黒髪が風を含む。プリーツスカートの裾が揺れる。
 侑志はその後ろ姿をじっと見送った。捜すったって男子便所とかにいたらどうするんだろうと、正直思いながら。

 桜原弟は部室で無事保護され、勉強会自体も問題なくお開き。
 全員で下まで降りて靴を履き替えた。六時を回り陽はまだ落ちていないが、元々曇っていた空はさらに鈍い色だ。
「教科書忘れた。みんな先帰ってて」
 朔夜は鞄から大きな巾着袋を取り出し、弟に押し付けた。校舎に戻っていく姉を見送る弟は不本意そうである。
「俺は待ってろってことだよね。いいけどさ」
「ていうかその袋についてんの、もしかしなくてもスラィリー……だよな」
 何とも言えない青緑に見覚えがある。坊やではなく敢えてこちらなのか。首をひねる侑志に桜原は呆れ顔だ。
「知ってんの? 体育着の袋に球団マスコットつけるのどうかしてるよね」
「いや、ジャビットとかレオならつけてるやつ結構いるんじゃねぇかな」
「体育着に?」
「体育着かはちょっと知らんけど」
 そうか、広島か、覚えておこう。侑志は頷いて携帯電話を取り出した。すぐにしまい直して、桜原にだけ聞こえるよう囁く。
「俺もちょっと教室寄ってくるわ。朔夜さんが先に戻ってきたら、帰っちゃっていいから」
 まだだらだら話し込んでいる先輩たちに気付かれないよう、そっとガラス戸の向こうに身を滑り込ませた。
 上履きを履き直して、ひやりとした廊下を踏む。階段の踊り場に朔夜が立っている。侑志が近づくと小さく首を傾けた。
「来るかなって思った」
「俺がメール気付かなかったら、どうするつもりだったんです」
 侑志はわざと不機嫌な声を出した。朔夜は何でもない顔で返す。
「そしたら教科書取りに行くだけ」
「マジだったんですか?」
「わざと置いてきた」
 朔夜は軽やかに段差を上がり始めた。侑志も黙ってついていく。
「リューさんは、元々すごく無口で、不器用なひとなんだ」
 三階にさしかかる頃、朔夜はぽつぽつと切り出した。自分の言うことを確かめるように下口唇に触れている。
「ウチの野球部は何年か前まで、試合ができる状態じゃなかった。リューさんはそれをどうにか変えようとしてるうち、ああいうキャラになってったんだよ」
 二年生の教室がある四階に着いた。A組は中央階段から見て一番奥だ。侑志は静かに話を聴きながら、歩き慣れない上級生の廊下を行く。
「今の二年は、リューさんのこと最初っからああいう人なんだと思ってる。岡本でさえ、高校入って明るくなったって言ってるぐらいだから。リューさんはそれぐらい抜け目なく『森貞キャプテン』を演じてる。みんなを何とかまとめておくために」
 侑志は俯いて曖昧な相槌を打つ。
 自分の知っている森貞と、深春の前での森貞。朔夜の語る森貞はその齟齬を上手く埋めてはくれない。ただ自分の性格を偽り続ける日々を想像して気が遠くなった。
 二年A組の前で足を止める。ここ、と朔夜が示した金属のロッカーは、ちょうど桜原弟と同じ位置だった。朔夜はロッカーから生物の教科書を取り出す。二年から始まる科目なのに、既にページの角が折れている。
「リューさんの明るさがつくったもんだって分かっても、いまさら動じるような連中じゃないとは思うよ。でもあれを押し通すのが、なんていうか、リューさんの意地なのかなとも思うし。だから私は、最後まで黙っててあげたいんだ」
 分かるかな、と朔夜はロッカーの扉に手をかけたまま、侑志を見上げた。ええ、と侑志は抑えた声で答える。朔夜は薄く微笑んで小さな箱に鍵をかけた。
「他に何か訊きたいことある?」
 侑志は口ごもり袖のボタンを指先でいじる。
 訊きたいことならたくさんあった。
 それだけであんなに怒ったんですか? あんなに必死に隠そうとして、その理由がただの意地なんですか? それが、森貞さんの意地だからなんですか?
 侑志は疑問の山から、朔夜をなるべく刺激しないような、知りたくはあるが返答がなくとも構わないような、無難なものをひとつ摘まみ上げた。
「ユキちゃんって人、知ってますか」
「ユキさん? それも図書委員の先輩に聞いたのか。おしゃべりなんだな、あの人」
 朔夜は眉をひそめて足早に歩き出す。侑志は慌てて追いかけて、森貞が昼間図書室に来たのは『ユキちゃん』を捜していたらしいということを説明した。
 朔夜は階段を下りながら、気のなさそうな返事で頭をかいた。
月村(つきむら)雪枝(ゆきえ)さん。リューさんのカノジョさんだよ」
「はっ?」
 侑志は危うく段差を踏み外しそうになった。
 周りに『あっちゃん』だの『慶ちゃん』だのがいるせいで、すっかり感覚が狂って『ユキちゃん』が女子である可能性を全く考慮していなかった。
 よろけて手すりにしがみつく。
 しかも、カノジョ。カノジョさん。ああ高校三年生ともなるとカノジョの一人もいるもんなのか。忙しい運動部の部長でも付き合う時間が取れるのか。漫画みたいに一緒に弁当食べたり、試合の前に『頑張ってね』とかってお守り渡されちゃったりするのか。
 なんか八名川さんのときより何十倍もショックなんだけど、何でなんだろう。
「どうしたよ」
 朔夜が顔を覗き込んできた。侑志は今度こそ足を踏み外す。幸い手すりをつかんだままだったので、尻を打っただけで済んだ。
「さっきから何やってんだって。危ないぞ」
 朔夜が目の前にしゃがみ込む。近い。黒髪の先が今にも頬に触れそうだ。
「痛いのか? 腰とかぶつけた? 立てる?」
「痛くないですぶつけてません立てます」
 侑志は這いつくばって朔夜の腕から逃れ出た。そのままでいたら、腰より心臓の方がおかしくなりそうだ。朔夜は立ち上がって苦笑した。
「まー、分からんでもないけど。身内の恋バナって、いきなり聞くとギクッとするもんな」
「そ、そうです」
 よね、と続けようとした侑志に、朔夜が再び接近する。上体だけを突き出して、まるでキスをせがむかのような体勢。
 キス! 自分の考えた単語に侑志は激しく動揺する。朔夜がいたずらっぽい表情で囁く。
「でもユキさんのことでからかうと、リューさん、キャラ忘れてマジギレすっから。三石とか一回泣かされてるし。お前も命惜しかったら黙っときな」
 この台詞で一気に頭が冷えた。
「気をつけます」
 誰にでも踏んではいけない地雷というものはあるのだなと思った。
 これ以上質問する気になれなかったので、朔夜の他愛もないおしゃべりに頷きながら最後まで階段を降りる。外に出ると桜原が段差に座っていた。鞄を脇に置き、朔夜の巾着袋はその上に載せてある。
「遅かったけど、寄り道してないよね。図書館とか」
 桜原が呟く。朔夜に勘繰られないよう、慎重に言葉を選んでいる様子だった。
「五時で閉まってるよ」
 侑志は肩をすくめる。朔夜が身体ごと割り込んでくる。
「なに。何の話?」
「朔夜にはカンケーないのっ」
 桜原は姉にマスコットのついた袋を投げつけた。朔夜は簡単にキャッチして、なんだよと口唇を尖らせる。
「最近コータ反抗期だよ!」
「自我のめばえ」
 桜原は育児書の小見出しのようなことを言って、ふいと歩き出した。朔夜は短く文句を言い、走っていって弟に抱きついた。
 侑志もゆっくり後を追う。
 雲越しの星の下、また心臓が奇妙に弾んでいた。