6話 Trickstir - 4/5

ついていきますから

 朝陽に光る並木道から折れて、侑志は緑の少ない大通りに出る。車ばかりで人の少ない道を、セーラー服の女生徒が一人で歩いていた。
「おはよう。侑志君」
 月村雪枝だ。向かいから来て侑志の正面で止まる。
「昨日はごめんなさい。ボタン、間に合わなかったのね」
 昨日と同じ指で胸を差され、侑志は慌ててワイシャツのボタンを握った。
「いえ、あの。ボタンはちゃんとつけ……て、もらったんですけど」
 つけたとは言えなかった。朔夜が昨日の勉強会中に気付いて、さっと直してくれたのだ。マネージャーなんてボタンつけ係だからなと笑っていた。
 それから、気付くと第二ボタンを触っている。幸い昨日は誰にも指摘されなかったが、今日は自信がないので置いてきてしまった。
 月村はゆっくりと身体を反転させ、侑志と同じ方を向いた。
「歩きながらにしましょうか。テスト前なのに、あまり時間を取らせたら悪いもの」
「でも先輩、あっちに用があるんじゃ」
 ここから学校までは一本道だ。遠ざかってきた人が、同じ道を引き返すというのはおかしい。
 月村は曖昧に笑いながら前髪を横に流した。
「侑志君はいつも早いって、深春ちゃんに聞いたの。高葉二中の方から通っているんでしょう? 校門でただ待っているよりと思って来てしまったのだけれど、迷惑だったかしら」
「いやっ、そんな、全然!」
 侑志は激しく首を振った。美人に来てもらって迷惑なはずがないです、とは言えない。赤くなって目を伏せる。
「それより、何か、用が」
「少しお話がしたくって。構わない?」
 侑志はすぐに頷いた。月村に促され、並んで歩き出す。
「竜が――竜光(りゅうこう)がね。野球部のことあまり話さないのだけど、侑志君の話だけはするの。あなたが入ってから部の雰囲気が変わったって。明るくなったって、嬉しそうにしているのよ。だから私、あなたにお礼を言いたいって、ずっと思っていたの」
 ありがとう、と頭を下げられ、侑志は恐縮した。控えめなのねと月村が笑う。心なしか翳が差して見える。
「ただ、竜があなたに期待を押し付けてないか心配で。熱くなると周りが見えなくなる人だから」
「とんでもないです。森貞さんはいつも優しくて、みんなに気を遣ってくれて」
 侑志はまくしたてかけたが、ふと違和感を覚えて口を閉ざした。
 どうしてこの人、こんな言い方をするんだろう。恋人というより、これじゃまるで――。
「保護者みたいだと思った?」
 心を読んだような問いに、侑志の足が止まる。
 月村雪枝は再び侑志の正面に立ち、光を背に負った。
「相模君が私に敬語を使っていたでしょう? 私ね、本当はあなたの前の緑学年だったの」
 新入生は、その春に卒業した生徒たちの学年カラーを引き継ぐ。侑志たちが緑を使っている以上、他の学年と色が被ることはありえない。
「二年前には野球部のマネージャーもしていたのよ。竜たちが一年生のとき。でも体調を崩して、入院して、退部して。退院した後もあまり授業に出られなくて、そのまま二年生を二回やったわ」
 月村は強い口調で自分の腕を抱いた。居直っているようにも、自分を咎めているようにも聞こえた。
「そのことと森貞さんのことと、何の関係があるんですか」
 侑志が絞り出すと、月村は何故か表情を和らげた。
 青になったわよ、と侑志の手を引いて横断歩道を渡る。今まで水に浸かっていたと言われたら、うっかり信じてしまいそうに冷たい手だった。
「竜はね、あれから変わったの。勝つことに固執するようになった。勝ってさえいれば、私が責任を感じずに済むと思ったのね」
「それって悪いこと、なんですか」
「わからないわ。でも極端だった」
 月村の手はいつの間にか離れていた。もう校舎は目前に見えている。
「それまでは、時間が潰せれば野球も勝敗もどうでもいいと言っていた人だもの。急に勝ちたいなんて身勝手でしょう。竜のやり方を嫌って辞めた子が何人もいたわ。冬には部員が八人になって、もう試合も組めなかった。私とあの人で、野球部を壊してしまうところだったの」
 ごめんなさいと月村は顔を伏せた。誰に謝罪しているのか侑志には分からない。関係ない。誰であっても筋違いだと思った。
 たった数年前のことでも、入学する前のことは侑志には全部昔話だ。蒸し返されて得することなどない。
「森貞さんはまた変わったじゃないですか。今は、あの人がいるから野球部が成り立ってるんです」
「やり方を変えただけよ。本質的には何も変わってない。勝つためにあなたたちを利用しようとしている」
「本当に変わってないと思ってるなら、どうして俺に声なんか掛けたんです?」
 侑志は校門の前で月村を見下ろした。彼女は侑志の視線から逃げた。
「目立つわね。中で話しましょう」
 月村は目を逸らしたまま、足早に高葉ヶ丘の敷地内に入っていく。侑志は彼女の後を追い、腕をつかんだ。月村が怯えた顔で振り向く。今度は逃げられないよう、侑志はしっかりと彼女の瞳を見据える。
「森貞さんだけが勝ちたがってるわけじゃありません。俺たちだって勝ちたいんです。だから俺たちは、勝とうとしてるあの人についていくんです」
 月村は瞬きを止め侑志を見上げていた。瞳を潤ませる涙は頬を濡らしてはいない。
 侑志は視線を外さず静かに月村の腕を放す。
「俺たちは今の野球部で勝っていくんだ。あなたや森貞さん自身がどう思っていようが関係ない」
 利用してたって、演技だって、何だっていい。
 侑志はできるかぎり明瞭に宣言した。
「俺たちのキャプテンは、今の森貞さんだけです」
 月村は震えていた。
 短く息を吸い、両手で顔を覆う。
「勝たせてあげて」
 竜を勝たせてあげて。
 私のためじゃなくて、あの人とあなたたちのために。
 頼りなく揺れる細い肩を見つめながら、同じだと思った。どうにもできなかったことで自分を責め、絡め取られて動けなくなっている。四月までの侑志と同じ――いや、表に出さなかった分だけ、この二人の方がずっと苦しんだのだろう。
 お願い、と月村はかすれた声で言った。
「一緒に勝ってあげて。もう彼を、ひとりに……しないで」
「はい」
 侑志は力強く頷いた。
 自分に桜原たちがいてくれるように、彼女たちも互いがいる限り、独りにはならない。一人ではないのなら、恐れることなどない。この空の蒼さにも、高さにも気付くことができる。
 侑志は月村にハンカチを差し出した。月村は目を丸くしたが、すぐに笑みを浮かべて受け取ってくれた。
「優しいのね。こんなところを誰かに見られたら、誤解されてしまうかもしれないわよ」
 月村はハンカチで目許を軽く押さえる。そして間の悪いことに――お約束と言ってもいいようなタイミングで――森貞が現れた。
「何してんだ?」
 どちらに言ったのだか分からないが、引っくり返る直前の危うい声だった。鋭い眼光と口唇の端に引っかけた笑みがアンバランスだ。
 侑志はつい後ずさった。やましいことはないが、怒られる恐怖はまた別だ。月村は呆れたように笑っている。
「竜のことをお願いしていたの。あなたがどれくらい仕様のない人か説明していたら、私、情けなくって泣けてきちゃって」
「えぇ?」
 森貞はあからさまに眉根を寄せた。両手の親指をスラックスのポケットに突っ込んで、右のかかとでコンクリートをしきりに擦っている。普段のどっしり構えた主将とは大違いだ。
 不機嫌を隠さないその姿は、何の肩書きもない素のままの森貞竜光だった。
 侑志は力を抜いて微笑む。
 朔夜があれほどムキになっていたわけも、今なら解る気がする。間違えて、後悔して、つくり直して、必死におどけて。そのいじらしさが明らかになる日がいつか来るにしても、役目を負うのは侑志たちであってはならない。
「遅れずについていきますから。リューさん」
 あなたが思っているより、みんなあなたが好きなんですから。
 森貞は寄っていた眉を離し、二重のまぶたをすっかり上まで見開いた。
「今、何て言った?」
「え、ついていきますから、って」
「違う、その後。俺のことなんて呼んだ?」
「え、あの、ごめんなさい。リューさん、て……」
「イエス!」
 森貞は両手でガッツポーズをした。逆転タイムリーヒットの瞬間みたいに。
「やっと雅伸と同じ地平に立った! あいつだけ、侑志♪ ノブさん♪ なんてずるいもんな。さぁこれで俺も今日からリューさんだ。侑志との目くるめく愛の日々のスタートラインだっ!」
 天に向かって吠える森貞。侑志と月村は顔を見合わせて笑った。森貞がまた拗ねたような顔をしたので、侑志は神妙な態度で挨拶をして二人の前を辞す。
 走り出すと、革靴のかかとがコンクリートに当たって硬い音を立てた。こんな靴じゃ嫌だな、と思う。
 黒いスパイクシューズだ。あれで走り回るんだ。
 マウンドを削るみたいにして、投げるんだ。
 昇降口のガラス戸を開ける前に、一瞬だけ朝陽に目配せした。曇り空でも変わらず、一生懸命に明るかった。