6話 Trickstir - 5/5

エピローグに代えて 月村雪枝編

 思えば私は竜光を甘やかしすぎたのかもしれません。

 私たちは最初から恋愛関係にあったわけではないのです。
 近所に住んでいる、いわゆる幼なじみです。もっともいつもグループで遊んでいましたので、竜光だけが特別というわけではありません。岡本さんのお宅の堂弘(たかひろ)君や、竜光の実の弟である花臣(はなおみ)くんらと同じ、かわいい弟たちの一人でした。

 竜光がいつから私を意識し始めたのかは分かりません。
 あるいは初めのうちからかもしれません。子供にとって年上の異性というのは、それだけで憧れの対象になりうるようですから。
 竜光の熱心さに私が気付いたのは、中学に上がった頃でした。
 あの子は野球の試合がある度に、私を応援に呼んだのです。竜光は試合の後いつも、自分がどうだったかをしきりに訊きました。しかも当たり障りのない賛辞では納得しないのです。具体的に、かつ、個人的にどう思ったかを説明しないと引き下がらないのです。私は困って、次第に予定を入れ断るようになりました。
 そんな折、岡本史宏(ふみひろ)君に、野球部の試合に来てくれないかと声を掛けられました。同級の史宏君とは、竜光とより余程仲が良かったのです。人が多い方がいいと言うので、私は友人たちも誘って観に行くことを約束しました。
 竜光がまた、試合のことを言いに私のところへ来ました。私が先約のことを告げると、竜光は急に顔を赤くして、「ふみくんなんかよりおれの方がユキエのことが好きなのに」と叫んで駆け去っていきました。以来、ぱったりと私の家には来なくなりました。
 何となく勘づいていたことを、あらためて言葉にされたところで、然程衝撃は受けませんでした。事実であることを知って幾らか失望しただけでした。
 ユキちゃん、ユキちゃん、と私の袖を引っ張っていた幼い子が、いきなり私を呼び捨てにしたことの方がずっとショックでした。
 史宏君は試合に出ませんでした。
 そして私たちの中学が負けました。
 その年に、史宏君は野球をやめました。

 そのうちに、竜光も中学に入ってきました。
 見違えるほど精悍な顔つきになっていました。かつての子供らしい気忙しさや、傲慢な無邪気さはどこにもありませんでした。
 私のところへ来なくなった後、彼のお母さんが亡くなったのです。お父さんや花臣くんのためにも、彼は大人にならざるをえなかったのでしょう。
 最早、私を呼び捨てにしても何の不自然もないような人に、彼は育っていたのです。しかし彼は私をどんな風にも呼ぶことはありませんでした。私たちは声を交わすことなどなかったのですから。
 接触がなかったわけではありません。
 すれ違うとき、彼は私を見てかすかに微笑むのでした。紳士的な穏やかさを湛え、かつ、その奥に確かな情熱を込めた瞳で。
 後で知ったことですが、それらは偶然ではなかったのです。彼はいつも、私と出会いそうな道を歩いていたのでした。何故気付いたといって、いつの間にか、私も同じように行動していたからなのです――朝七時半の下駄箱、昼休みの図書室、放課後の西階段。
 私たちが交わすのは視線だけでした。二年間、互いを見かけ、すれ違い、ときに斜向かいの席に座るだけで過ごしました。
 なんという臆病。なんという滑稽。
 私たちにはそれが精一杯だったのです。

 ようやく言葉を交わしたのは、私の卒業式のときでした。
 制服のスカーフをくれないか、と彼は言いました。私の知らない落ち着いた声で。
 私に妹はありませんし、後輩の女の子にあげる約束をしていたわけでもありませんでした。その赤いスカーフを渡してしまうことには何の問題もありません。私は答えました。
「あなたの第二ボタンをくれるのなら」
 なんと酷い取引でしょう。
 私が待ったのはたった二年足らず。彼は三年、もしかしたらもっとずっと長い間、私を待っていてくれたのに。それを無情にも、更にもう一年待てと言ったのです。
 一体私のどこに、そんな価値があるというのでしょう?
「わかった」
 それでもあの人は、黙って受け入れたのです。
 次の年の三月から、私達はお付き合い――なんて恥知らずで喜劇的な響き――を、始めたのでした。

 思えば私は竜光を甘やかしすぎたのかもしれません。
 私もまた竜光に甘えすぎていたのですから。

 竜光は私と同じ高葉ヶ丘高校に入りました。ここしか受験しなかったのです。国立も私立も、願書は出しておいたはずなのに、試験をすっぽかしたようでした。
 全てを投げうってもいいほど私を想っていた、というわけではないのです。どこでもいいけど、どうせなら雪枝のいる学校にしよう……という程度の、軽い気持ちで選んだのに違いありません。
 竜光は高い学力を持っています。けれど彼が勉強をするのはただ、他にすることがないからなのです。机に向かっている間は大人から煩わしい話をされずに済むということに、気付いたからなのです。勉強した結果、何になりたいとか、どこの学校に行きたいとか、そういったことには全く興味を示しません。
 部活選びも似たようなものでした。
 その頃、彼のお父さんは既に再婚なさっていたのですが、竜光は新しいお母さんと折り合いが悪かったのです。なるべく顔を合わさないために、長時間家を空けていられる口実を探していました。
 何でもよかったのです。部活案内を見る竜光の顔は退屈そうでした。野球部に入ることにしたのも、経験があるからというだけの気紛れです。何事にも思い入れというものを持たない人でした。
 危うい竜光を傍で見守りたくて、私もマネージャーとして野球部に入りました。
 私は身体が丈夫でないので竜光は反対しましたが、監督さんは、無理をせず自分のできる範囲でやるのなら構わない、と受け入れてくださいました。
 監督さんも、先輩方も、竜光も、誰も私に無理を強いませんでした。
 そうです。私が勝手に無理をしたのです。自分を過信していたのです。
 肺炎でした。ただの風邪で済んだはずが、疲労のせいで抵抗力が落ちていたのです。それでもすぐに休養をとっていれば、ああまで酷くはならなかったかもしれない。「大会中だから休めない」なんて、傲ったことを思わなければ。入院までせずとも済んだかもしれないのです。
 監督さんはお見舞いに来てくださいました。部活中に倒れたわけではないのですし、そこまでする責任はないはずでした。それなのに、あの誠実な監督さんは、私に頭を下げておっしゃったのです。
 無理をさせてすまなかったと。気がつかなくてすまなかったと。
 違うのです。私が悪いのです。竜光に甘えすぎた私が悪いのです。
 竜光を甘やかしすぎた私が悪いのです。
 互いを、自分を、甘やかしすぎていたのです――私たちは。

 入院したのはたったの三・四日です。
 けれどその間に、竜光は別人のようになっていました。
 練習方法や部員の姿勢について、細かく口を出すようになっていたのです。それまでの竜光といえば、言われたこと以外はやらないし、必要がなければ誰とも話さないという態度でした。そんな人にいきなり批判されたところで、一体誰が聞き入れようと思うでしょう?
 上級生は、自分たちのやり方に対する愛着があります。下級生は先輩と争いたくはありません。元々あまり馴染んでいなかった竜光が、周囲から疎まれるようになるまで時間はかかりませんでした。
 でも、そう、でも、野球部を辞めた私にこのことを教えてくれたのは、残っていた部員の子たちでした。竜光は、完全に孤立したわけではなかったのです。身勝手な理由で勝利を欲している竜光を、許してくれる人もいたのです。
 見かねた監督さんに諭されて、竜光はやり方を変えました。
 コミュニケーションをとるところから始めようとしたのです。けれど、ええ、長いこと他人から距離をとってきた人ですから、どうしたらいいのか分からなかったのでしょう。急にみんなを下の名前で呼び始めて。
 いよいよ気持ち悪がった人もいました。でもほとんどの部員は、その滑稽なまでの必死さに、怒る気もなくしてしまったようでした。
 竜光は他人に信用されるために、どのような手段が有効かを学びました。
 つまり、親しげな態度を取り続けること。
 新入生には最初からその手を使いました。純粋なあの子たちは、竜光にすっかり懐いています。そのために彼はかえって、絶えず脅かされることになりました。
 あの子たちが信じているのは架空の自分。
 もし自分の本音を聞かれたら? 本来の性根を知られたら?
 卑怯で打算的な本当の自分に気付かれたら――。

 竜光は私に野球部の話をしませんでした。気遣いもあったのでしょうが、それ以上に恐ろしかったのでしょう。自分は本当にあの子たちを信頼しているのだと認めることが。 
 幸い先輩も同輩も黙ってくれているけれど、この仮面がいつ剥がされてしまうかも分からない。後輩に失望されたとき、自分もどうせ本心で接していたわけではないのだ、最初からフィクションの関係だったのだと――そうやって自分を守れるように。そのために、あの子たちには興味がないふりをしていなければならなかったのです。
 酷い弱さです。非道なまでの弱さです。性格以上に明るく振るまっていることなど大したことではない、あの子たちを信じないことこそが裏切りなのだと、気付けなかったのです。あるいは気付くことから逃げていたのです。
 それなら監督さんは、先輩方は、相模君は、朔ちゃんは、何もかも了承してそれでも竜光を受け入れてくれた人たちは、どうなるのでしょう。どうしてあの子たちもそうであるかもしれないと、思うことができないのでしょう。
 どうして私は、彼にそれを解らせることができないのでしょう?

 袋小路でした。
 別れた方がいいのかもしれないと何度も思いました。野球部を辞めさせた方がいいのかもしれないとも思いました。私がこの人をこんな風にしてしまったのかもしれないと思いました。
 私は二度目の二年生を終え、初めて三年生の春を迎えました。それまでに同学年の子たちがまた二人辞めました。
 そんなときです。竜光がぽつりと言いました。
「最近、朔夜がちょっかい出してる一年生がいるんだ」
 その子はどうやら野球部員ではないようでした。
 自分が関わったことのない子だから、油断していたのでしょう。竜光は少しおしゃべりになっていました。
 しばらくして、竜光は唐突に「あいつ野球部入ったよ。ユウシっていうんだって」と言ったのです。
 それ以来、「ユウシ」君のことはよく話題にのぼるようになりました。野球部のことを訊くと必ず話を逸らしていたのに、「ユウシ」君のことだけは素直に答えるのです。
 そのうち他の子のことを尋ねても、答えが返ってくるようになりました。進んで話してくれるようにすらなりました。
 あれだけ頑なだった竜光が、この短い間に心を開き始めているなんて。どんなに魅力的な子なのでしょう。私は一目「ユウシ」君に会ってみたくてたまらなくなりました。
 実際お話してみると、侑志君は想像以上にかわいらしくて、厳しくて、そして――優しい男の子でした。
「あ、ユキちゃんそのハンカチ、男物。森貞の?」
 お友達の深春ちゃんが言いました。私は笑って答えます。
「侑志君が貸してくれたの。ないと困るでしょうって言ったら、『今日は間違えて二枚持って来ちゃったんで』、ですって」
「いつも思うけど、新田少年ってよくそーいうフォロー、っていうの? とっさに出てくるよねぇ」
 彼女の話す「新田少年」が、竜光の言う「ユウシ」君と同一人物だと知ったのは、つい数日前のことです。
「ところでね、ユキちゃん」
 深春ちゃんは私に身体を寄せてきて、こっそりと言いました。
「あたし、好きな人ができたら言うねって、約束したでしょ。それでね、あたし、この間すっごい可愛い男の子に一目惚れしちゃったの。その子、年下なんだ」
「そうなの。じゃあ、私たちとお揃いね」
「ううん、二つ下なの。桜原皓汰くんっていう子でね……新田少年の友達なの!」
 私は思わず笑ってしまいました。だって、全ての嬉しいことが、侑志君に繋がっているみたいなんですもの。

 私は他の人より長く、高校生をしています。
 けれども悲しいことだとは思いません。そのおかげで私は、好きな人と同じ季節を過ごすことも、大切な友人を得ることもできたのですから。
 そしてこれから、永遠のような輝きを目にすることができるのですから。

 後悔はしていません。
 あなたに出逢えたこと。あなたを好きになったこと。
 今、あなたを好きでいること。
 だからあなたも後悔だけはしないで。どうか顔を上げて前を見つめて。
 そして、見届けさせてください――愛しい道化の、最後の夏を。