4話 Re:Start - 2/4

かわいいね

 教室の真ん中に大きな段ボール箱が鎮座ましましている。B組のクラスカラーであるオレンジ色のTシャツが、次々と飛び出してくる。体育祭実行委員がそのたび名簿にチェックを入れている。
「緑ジャージにオレンジTシャツってさぁ、高崎線じゃない?」
 桜原は隅っこで膝を抱えて、またわけの分からないことを言っていた。
「永田に高崎線って言ったら何それって言われた。ブルジョアジーは知らないの高崎線? 何線なら知ってんの、有楽町線?」
「俺は分かるよ高崎線。使わねぇけど」
 侑志は屈んで桜原の背中をさすってやった。揃いの服による一体感も嫌いとなると、いよいよ運動部に向いているとは思えない。
 しかしいつTシャツを取りに行こうかと、侑志は顔を上げた。目の前に見えたのは脚。さらに顎を上げると、ショートカットの少女が微笑んでシャツを差し出してきた。
「はい。新田君と桜原君の分」
 鈴が転がるような声、という月並みな表現が頭に浮かぶ。ころころ、ころころ、角ばったところのない愛らしい響き。
 ありがとう、と間の抜けた声を二人重ねて、侑志と桜原はそれぞれシャツを受け取った。桜原が体育座りのまま、おずおずと彼女の顔を覗き込む。
「あの。レイジさんの妹さん……だよね?」
 え、と侑志は硬直する。そうなのと言うのも憚られ、知っていた風を装えるほど図太くもない。
 小柄な少女は頷いてから、両手を重ねて頭を下げた。
「早瀬琉千花(るちか)です。お兄ちゃんがいつもお世話になってます」
 内巻きの癖毛が揺れる。耳の上にシェルピンクのヘアピンが覗く。
 早瀬琉千花がゆっくり顔を上げた。大きくて印象的な目だ。兄と似ているが目尻がつり上がっていないので、余計にぱっちりして見える。
「ねぇ、新田君たちは野球部なんだよね?」
「うん」
「そう」
 侑志たちは愛想をよくする余裕もなく、つまらない答え方をした。琉千花も、うん、とよく分からない返事をしたきり何も言わない。黙って両手を腹の前でこすり合わせている。
 指定のハーフパンツから伸びる脚は細く、上履きはおもちゃみたいなサイズだ。同じ女子でも朔夜とは全く違う。
 あのね、と琉千花は羽織ったジャージの裾を握り締めて真剣な目をした。
「あの。……野球部のマネージャーって、もう間に合ってる?」
「やってくれるの?」
 侑志は思わず立ち上がった。
 手が増えればその分、朔夜の練習時間が増やせる。記録員をしてもらえれば、朔夜も永田も侑志もユニフォームを着ることができる。
 逸る侑志の袖を桜原が強く引き、腰を上げながら琉千花と向き合った。琉千花は、侑志はもとより桜原と比べても頭一つ分以上背が低い。
「部としては正直助かるけど。結構しんどいはずだし、個人的にはあんまり勧めたくない」
「大丈夫! 私これでも中学では卓球やってたし、体力には自信あるよ。厳しいのは全然平気。だから……」
 だめ、かな。
 琉千花は上目遣いに二人の顔を見た。肩をすぼめて両手を握り締めると、華奢な身体には随分な重荷であろう胸で、世界一有名なビーグル犬が歪む。目を逸らすタイミングが一緒だったため、侑志と桜原は顔を見合わせるかたちになった。
「お、願いしたら、いいんじゃね? 人足りてねぇんだし、助かる……よな」
「そ、う、だね……早瀬さんがいいなら」
 声が薄っぺらい。言葉そのものに偽りはないが、二人にだけ通じ合う本音がある。その上に貼り付けた台詞である。
「本当? ありがとう」
 琉千花の顔にぱっと赤みが差した。
 理科の授業で扱ったホウセンカの実を思い出す。触れて弾ける。小さな種が根付いて、まっすぐな茎にふわりとした花が咲く。
「今日あいさつに行っても平気? それとも、新田君たちから話してもらってからのがいいかな」
「いや、早瀬さんが平気なら、早速でも」
「よかった。そしたらまた、後でね」
 琉千花は小学生サイズの手を振ってきびすを返す。駆け去る足音は軽やかだ。
「かわいいね」
 桜原がしみじみと呟いた。侑志は間の抜けた声で、うん、と答える。どうして今まで存在に気付かなかったのだろう、と自分の不注意を省みた。
 もう一度、うん、と呟く。
 早瀬先輩も面倒見がよくなるわけだ。あんな妹なら、俺だって世話焼きたくなる。絶対なる。
 春の名残を引きずりつつ、陽気は既に初夏を匂わせている。

「ちゃーっ」
 部室のドアを開けると、体育会系特有のはっきりしない挨拶に迎えられた。
 首からTシャツをぶら下げた井沢が笑顔を向けてくる。
「なーっ、おうはらぁ! 今センパイたちとしゃべってたんだけどさぁ」
「とりあえず通してくれる?」
 桜原がそう言って脱ぎ捨てたスニーカーを侑志が揃えた。部室は決して広くない。侑志と桜原は、井沢の後ろを抜けて奥に入っていく。
 各壁に沿って三×三マスの木棚がある。一年は右側の一面。桜原は奥の一番上、侑志はその下、井沢は侑志の隣のど真ん中だ。それぞれ名前を書いた紙をセロテープで貼っている。
「んでさ。今朝の試合、朔夜さんカッコよかったよな。あのまま被安打ナシだったじゃん! しかも四打数三安打、二打点」
 井沢はアンダーシャツに手を伸ばす。侑志も着替えながら、試合の様子を噛みしめ頷く。
「すごいよな。投打ともに隙なしって感じで」
「しかし朔夜さんのすごさをあの程度だと思ってもらっちゃ困るな」
 突然間近から聞こえた声に、侑志はびくりと振り向いた。
 腰に手を当てて立っているのは二年生の坂野(さかの)輝旭(てるあき)。身長は平均よりやや上、肉付きは並、顔は美形でも不細工でもない。全体的に特徴がないが、一つだけ他の部員の追随を許さない点がある。
「朔夜さんは選ばれた存在なんだ。オレの運命を変えた人なんだから」
 朔夜に向ける尊敬と情熱である。
 坂野はさして跳ね除ける必要もなさそうな前髪を指で払った。
「いいかい? そもそも朔夜さんは――」
「着替えたんなら早く出て行ってくれませんかね! 狭いんで!」
 桜原が激しい声で話を遮る。怒っているときの姉と同じか、それ以上に鋭い目で坂野を睨みつけている。坂野は一転小さくなって、ごめん、と俯いた。
 侑志たちは戸惑って言葉を失ったが、斜め向こうから聞こえる三石の声は全く普段どおりだった。
「坂野ぉ、出るなら手ぶらで行くなよぉ」
「分かってるよ!」
 坂野はボールのかごを持って部室を出て行く。桜原は舌打ちして着替えを再開した。
「大した仕事もしてないくせに、よくあんなデカい口叩けるよな」
「誰ンだって調子悪いときはあるよ」
 井沢は苦笑して練習着を羽織った。正面は無地だが袖に『馬淵学院』の刺繍がある。初日こそめずらしがられたがもう誰も何も言わない。
 話を続けつつ、侑志も手早く着替えてしまうことにする。
「運命変えたって何?」
「別に。そんな大袈裟な話じゃないよ」
 桜原は強くベルトを引き絞った。
 坂野は桜原姉弟と同じ、高葉第二中学校の出身なのだそうだ。リトルリーグ・リトルシニアと硬球で野球してきた彼だが、ある日学校のグラウンドでプレーしている朔夜を見かけて一目惚れ。受験するはずだった名門私立を捨て、朔夜と同じ高葉ヶ丘高校を第一志望にしたらしい。
「すっげぇ。情熱的ぃ」
「ただのストーカーじゃねぇか」
 冷やかす井沢に、桜原は低く吐き捨てた。普段の彼にも似ず汚い言葉遣いだ。
 しかし、と侑志は脱いだ服を整え直す。
 中学の頃の朔夜はどんな少女だったのだろうか。顔立ちは、背の高さは、髪の長さは、投法は、打法は、今と違っていたのだろうか。一目で人生を変えてしまうプレーとは、一体どんな――侑志は中途で手を止めた。
 ちょっと待て。俺だってそうじゃないのか。あのとき、グラウンドの脇であの強烈な打球を見て。心の奥を揺さぶられて。
 俺もあの人に、一目で人生変えられちゃったんじゃないのか?
「朔夜さん、意外と魔性だな」
 井沢の一言で手が滑る。右手の甲を棚の天板に思いきりぶつけた。
「っていうか新田、何してんの?」
 桜原が眉をひそめて帽子を被る。何でもねぇよ、と侑志はうめく。手の甲はうっすらと赤くなっていた。
 外に出ると琉千花がいた。ハーフパンツから長ズボンになっている。共用の更衣室で履き替えたらしい。
「グラウンドって結構遠いんですか?」
「慣れれば大したことないよ。荷物多いときは車に乗ってもいいし」
 琉千花は朔夜と話し込んでいる。仲良くなれそうなら何よりだ。マネージャーたちを横目に、侑志は用具を監督の車に積み込む。
「あのコ、かわいいね」
 永田が部員の鞄を持ったまま耳打ちしてくる。富島が永田に手を貸しながら、意地の悪い笑みを浮かべる。
「自分より低い身長、それなりの顔、しかも女子マネ。慶ちゃんに都合のいい妄想が詰まってるんだもんなぁ。そりゃあ嬉しいよなぁ」
「そんなんじゃないよ」
 永田は乱暴に誰かの鞄を置いた。よく見たら侑志のだった。文句を言うほどのことでもないか、と座席の三列目を取り払ったところに用具を下ろす。富島が身を乗り出して、その箱を奥に押し込む。
「こういう無自覚のバイアスが一番性質が悪いな」
「なに男女平等ぶってんのさ。あっちゃんの言うことのがひどいじゃん」
「ああそうだ、僕は自覚的に差別をするよ。それが何か?」
 富島は身を起こして胸を張る。呆気に取られる永田と侑志のそばで、八名川がくっくっと笑った。
「富島君、それ、個人的には興味深いけどさ。レイジに言うなよ。ブッ殺される」
「早瀬さんですか。遅いですね」
 富島が肩をすくめたとき、ちょうど早瀬がやってきた。
「琉千花? こんなとこで何してんだよ」
 目を丸くする早瀬。琉千花は不機嫌そうに振り返る。
「何って言い方ないでしょ。私、今日から野球部のマネージャーだもん」
「はぁ!?」
 早瀬が大声を出して前に出た。
「っざけたこと言ってんじゃねーよ! お前、野球なんかコレっぽっちも分かんねぇだろうが」
「そんなのこれから覚えればいいでしょ? 私、もう決めたんだから。お兄ちゃんが何て言ったって絶対やるんだから!」
 琉千花は兄を指差して叫んだ。早瀬はたじろいだ様子で、監督に顔を向ける。
「監督からも言ってやってくださいよ。こいつにはマネージャーなんて無理なんですよ」
「ん、ああ……」
 監督は早瀬兄妹から目を逸らし、頭をかいた。
「無理、かどうかは、やらせてみないと分からんしな」
「私がちゃんと教えりゃいいんだろ。責任持って預かるから安心しろよ、オニイチャン」
 朔夜がにやりと笑った。鶴の一声だ。早瀬は黙ってため息をついた。
「じゃあ監督、私、琉千花ちゃん連れて行くんで」
 マネージャーたちが先に発つ。残っていた物を積み込むと、監督も車を出した。
 選手たちは他の面々が揃うのを待ち、各々身体を温めている。
「しかしるっち、急にどうしたんだろうね」
 八名川は両腕を身体の前でクロスさせ、左腕で胸に引き付けた。肩のストレッチだ。
 るっちというのは琉千花のあだ名らしい。早瀬兄と幼なじみなら、妹とも面識はあるのだろう。
「野球なんか全ッ然興味なさそうだったのにさ。どうしてまたいまさら」
「好きな人だったりして」
 井沢が笑ってアキレス腱を伸ばす。前屈をしていた永田がよろける。幸いというべきか、早瀬は遅れてきた岡本たちと一緒に離れたところにいた。
 八名川は腕を入れ替える。
「新田ちゃんて、るっちとクラス同じだっけ?」
「桜原もですけど」
 侑志は深い伸脚をした姿勢から桜原を見上げた。桜原は足首から下を持って太ももを伸ばしている。
「俺も新田も、彼女と話したの今日が初めてですよ」
「んじゃあ追いかけてってわけでもなさそーね。謎だなぁ」
 八名川は続いて手首の柔軟を始めた。永田は、すぐにまた乱れるのだろうに、前髪を整えて帽子を被り直している。
「好きな人とは限らないんじゃないですか? ほら、何かの気まぐれでテレビ見たら意外と野球面白かった、とか」
「顔のいい選手に惚れたとか、好きなアイドルが元野球部とか。幻滅されないといいな、慶ちゃん」
 富島はやけに楽しそうだ。永田は野良猫のように富島を威嚇したが、最後の理性か手は出さなかった。
 侑志はこっそり嘆息し、空を仰ぐ。
 朔夜さんはどうなんだろう。マネージャーになったのも、やっぱりお父さんの影響なのかな。野球を始めた理由、直接聞いてみたい気がする。好きな選手とかいるのかな。あの人を魅了するプレーヤーって、どんなかな。
「新田ちゃーん、心がお散歩してるよ?」
「あっすみませんっ」
 八名川にからかわれ、侑志は慌てて意識を下に戻した。
 ほどなく全員が揃い、グラウンドに向けて足並み揃えて走り出した。