4話 Re:Start - 4/4

エピローグに代えて 坂野輝旭編

※あくまで自己申告ですので話半分にお聞きください

 オレは小学生のときから野球をやっていた。リトルリーグに所属し獅子奮迅の活躍を見せ、中学生になってからもリトルシニアでチームの要として将来を嘱望されていた。
 オレの見据える先は甲子園、そしてその先のプロ野球。
 学校の部活? 軟式? くだらない。
 硬球でやる野球だけが野球なんだよ!
 ――と、ずっと思っていた。

 運命の出逢いは中学二年生の放課後。
 オレは早く帰って勉強をするつもりだった。推薦以外で名門校に行くには学力が必要だ。それに、一流っていうのは文武両道って相場が決まっている。
 でも、靴を履いて校庭に出たら騒がしい。いつもなら無視するはずが、その日はどうにも気になった。きっと運命の女神が糸を引いていたんだろう。
 オレはギャラリーの中にいた、同じクラスの男子に事情を聞いた。ソフト部の二年生が、一人で野球部と勝負するらしい。
 勝負だって? ソフト部ってあの『ボール遊び部』だろ。
 野球部はヘボいけど一応野球もどきのことはやってる。そんなの、勝負になるわけがない。野球部の奴ら、か弱い女の子に寄ってたかってサイテーだな。
 なんて、その子を見たらどうもそういうんじゃない。

 無造作にざっくり切った髪、高い背丈、小麦色の肌。
 セーラー服を着てなかったら男だと思うような女の子だった。
 正直言って、かなり格好よかった。

 でも、そうだよ、いくら何でも、女の子だろ。
 打てないよ。スカートだし。男共にやじられたら泣いちゃうかもしれない。あんまりひどいことになってきたら、オレが颯爽と助けてあげよう。
 そんなことを考えていたら、打者が制服の袖をまくりながらいきなり振り返った。
 表情は全然明るくはなくて、でもそれは不安というより完全に不機嫌で、今にも見せもんじゃないよなんて怒鳴りそうな感じだった。
 だけど彼女が言ったのは全く別のこと。
『おい。見るならそっち行け。当たっても知らねぇぞ』
 一塁側にいたオレたちを向き三塁の方に顎をしゃくった。なんだろう。首を傾げて移動した。
 余裕だなって捕手に皮肉られて、彼女は一瞬左の口角を上げたけどすぐに定位置に戻した。で、一年生っぽい細っこい子(今思うとアレ弟さんだよな)に鞄を押し付けて、代わりにメットを受け取った。バットは……うわ、自前かよ!
『よぉ待たせたなクソッタレ。せいぜい好きに投げろや』
 なんて喋り方だ。女子なのに。タメ口だったから、相手は多分同学年……ああそうだ、そういえばあのとき三年生も顧問も修学旅行でいなかったんだ。だからあんな勝手できたんだな。
 で。これといって特徴のない投手は、いきなり内角高めのボールを投げた。下手したら顔に当たりそうなコースの速球。その危険球といい、お前らは内野か? と思うくらい前で守ってる外野といい、バントシフトかと思うほどせり出してきてる内野といい、連中は脅かす気満々だった。汚い奴らだ!
 彼女は避けなかった。でも死球にもしなかった。ボールにさえしなかった。バットに当てた。
 当たったんじゃない。当てたんだ。顔をかばうためじゃない、最後までしっかりと球を見て、打ち返すために――当てたんだ、自分の意思で!
 打球はさっきまでオレ達がいた辺り、一塁側のネットを思いっきり揺らした。バシン! と激しい音がした。
 ファールボールにご注意ください、そんな放送が聞こえそうなほどのヤバイ打球。あんなの防球ネットがあったって、近くにいたら直撃する。
 彼女は振り切った格好のまま、審判をやってた奴に顔を向けた。
『コールは?』
 静かな声。審判は慌てて、ファール、と裏返った声で叫んだ。
 彼女はため息をついてバットを下ろし、無表情で足場をならした。
 投手は嫌そうな顔をして外低めに外した。そう、外したのに、野球部の連中は、ストライクの判定。
 当然ギャラリーは大ブーイングだった。
『うるっせぇ!』
 それに苛立ちを顕わにしたのは野球部員ではなく、彼女。
 舌打ちをしてバットヘッドをマウンドに向ける。
『大した制球力だな。ストライクゾーンも教わってねぇのか?』
 低くて、重い声。捕手は見るからにドキッとしてた。投手は――挑発に乗った顔だった。
 サインに二回首を振って、内角低めのストレート。
 バッティングセンターってあるだろ。機械からどんどん軟球が出てくる。ああいうのは盛り場にあるから中学生の頃のオレは行ったことがなかったけど、テレビでなら見たことはあった。音も聞いた。でも。
 軟球でも真芯を捉えると、あんなインパクト音がするものだなんて、初めて知った。
 ライトが本来いるべき位置より更に奥に落ちた打球に、キャンバス近くまで前進してた外野が間に合うはずなかった。彼女は形だけという感じで一塁を踏んで、足を止めずにUターンしてきて荷物持ちの少年にメットを被せた。
 バットを手早くしまって、学校の指定鞄を右肩に、バットケースを左肩に引っさげて、ぐるりと校庭を見回しながら、得意げな調子でも何でもなく、普通に一言。
『じゃ。お疲れっしたぁ』
 唖然としている野球部員とオレたちギャラリーには見向きもせず、ネットをばさっと跳ね上げて、彼女は堂々と歩み去っていった。
 オレはもう腰砕けになってしまった。
 無理のない腕の畳み方、鋭い腰の回転、しなやかな手首、最後まで安定した軸。
 もちろん感心するような技術だ。でも、あのスイングの魅力はそんなところじゃない。打席に立つ彼女には、人を惹きつけずにはいられない圧倒的な存在感があった。
 オレは確信した。
 ああ、オレが今まで野球を続けてきたのは、きっと彼女のためだったんだ。
 彼女と出逢うために、オレは野球と出逢ったんだ!

 近くにいた奴をつかまえて彼女の名前を訊いた。ギャラリーの半数以上がその名を知っていた。
 二年三組の桜原朔夜。高葉ヶ丘南小学校出身、この辺では一番荒れているタカナンの頂点に君臨していたとして、他校出身生徒からも恐れられていた。高校生とつるんでいるという噂もあった。彼女にケンカをふっかけた命知らずはその後、もれなく舎弟になっているとか、いないとか。
 聞けば聞くほどとんでもない人だった。だけど知るほどにオレは彼女が気になった。
 塾のない日は何か理由を作って教室に居残り、上からソフト部の練習を見つめていた。
 彼女はそこでも一人で目立っていた。輝いてるなんて次元じゃない。完全に浮いていた。日本の小学校にメジャーリーガーが迷い込んでしまったような。
 技術とか体型とかの違いは言うまでもない。そもそもの文化が違う。言語が違う。あそこは彼女のいるべき場所じゃなかった。
 ソフト部をやめたという話が入ってきたときも、やっぱりなと思った。
 彼女は天才だ。彼女にはあの実力に見合う『野球』を与えてあげなきゃいけない。オレなら、彼女を満足させられるプレーを、彼女を感動させられる野球をしてみせる。その翳った横顔を目映い笑顔に変えてみせる。
 でも今のままじゃ足りない。
 もっと練習してもっと上手くなって。
 彼女を超えるような素晴らしいプレーヤーになって。
 ――オレは必ず、君を迎えに行こう。

『あの! はじめまして』
 そして中三の、夏休みを目前に控えた、うだるような暑さの日。
 いつも友達と帰る彼女が、珍しく一人で歩いているのを見かけたオレは、勇気を出して声をかけた。初めて見たときより更に焼けた肌が、夏服の白さを際立たせてすごく綺麗だった。
『誰だよ』
 彼女は迷惑そうな顔で振り向いた。運動部にありがちな、怒鳴りすぎて潰れたハスキーボイスじゃない。長い声帯と不機嫌が出させた、クリアな低音。
『オレ、五組の坂野輝旭っていうんだけど。高葉シニアの……』
『で、そのシニアサンが何の用?』
 ああ、あの! って言ってくれるのをちょっと期待してたけど人生そんなに上手くはいかなくて、早く帰りたいんだけどって足をとんとんしながら言われてしまった。でもオレの熱い想いはそれくらいで折れはしなかった。
『オレ、去年君が野球部と勝負してるの見たんだ。すごく感動した。だから君が高校で野球をやるつもりなら、オレも一緒にやらせてほしいんだ。同じチームで! もしよかったらどこの高校受けるのか』
『高葉ヶ丘』
 彼女はオレの言葉を遮って、短く言った。オレの説明をどんな風に思ったのかも全然分からないような、静かな顔だった。言葉の内容でやっと、一応は聞いてくれてたんだって分かるぐらいの薄い反応だった。
 挙げた学校名といい、オレは絶対からかわれてるんだと思ってしまった。
『高葉ヶ丘? なんで』
『だから野球やるんだよ。自分の訊いたことも覚えてねぇのか、鳥頭』
『だってタカコーに野球部なんかない――』
『おい。もういっぺん言ってみろ』
 彼女は突然オレの胸倉をつかんだ。そのときオレと彼女の身長はほとんど変わらなくて、もしかしたら彼女のが高いぐらいだったから、どう見ても『女の子のゴキゲンを損ねちゃった』なんてぬるい雰囲気じゃなかった。彼女が右手をぎゅっと絞ると息ができなくなったぐらいだ。
 オレは激しくも美しい瞳を間近で見た。
『うちの父さんは高葉ヶ丘野球部の監督なんだ。私はそこで一緒に明石を目指す。それを馬鹿にする誰だろうと奴は許さねぇ』
『あかし、って……』
 オレが呟くと彼女は、そんなことも知らないのかって顔でオレから手を離した。
『明石公園球場。もうひとつの甲子園――高校軟式の全国大会をやる場所だ』
 ……なんてこった。軟式だって? オレはまる五年も硬式でやってきて、軟球なんかまともに触ったこともないっていうのに!
 彼女はオレの絶望的な気分を読んだみたいに、鼻で笑って鞄を背負い直した。
『そういうこった。シニアのお坊ちゃんなんかに用はねえんだよ。大人しく、赤い刺繍のかわいいボールでも追いかけてな』
 言い捨てて、一度だって振り返りもせず去っていってしまった。

 ああ、オレは運命に試されている。
 彼女への愛を! 野球への情熱を!
 シニア引退に向けての試合を前に、そして高校受験を前に、オレは悩みに悩んだ。食事も喉を通らなかった。身体の中が彼女の台詞でいっぱいになってパンクしそうだった。
 考えて、考えて、そして――オレは悟った。

 オレが本当に野球をしたければ、どこでだってできるんだ。
 名門? 私立? 甲子園?
 だから何だ。高校出てすぐプロになる奴ばっかりじゃない。大卒だって、社会人だって、硬式をやるチャンスなら自分で作れる。
 けど彼女との野球は、あそこでしかできないんだ。そう、高葉ヶ丘でしか。
 ボーイズもポニーも部活も選べた。だけど親が決めたリトルに入った。シニアでやることにも疑いなんて持たなかった。
 やっと気付いた。
 オレは自分が決めた野球なんか、一度だってしたことがなかったって。
 彼女を選ぶということは、つまり、野球を選ぶということだ。
 オレがオレの野球を、初めて決めるってことなんだ。

 もう迷いはなかった。
 今の仲間と共にした三年を燃やし尽くしたら、オレは新しい未来を目指そう。
 君の目指す場所まで、共に往こう。

 と思って高葉ヶ丘に入学したはいいものの、朔夜さんには『ホントに来たの? 気持ち悪!』とか言われるし、軟球って思った以上に跳ねるし何なのアレ?
 だけどオレは外野にコンバートなんて真っ平だったから、必死に練習して控えでも何でもサードに居続けた。
 朔夜さんはオレを罵りながらも楽しそうに、根気よくノックを続けてくれた。これって見込みあるんじゃないのか、って思って告ったら『お前はないわ』って真顔で言われた。二回言われた。
 でも大丈夫。オレ軟式じゃルーキーだから。
 頑張ってれば『私のためにあんなになってまで……!』とか、『こんなに上手になったのね。すごいわ、えらいじゃない』とかなるはず。オレは彼女の素晴らしいプレーを見て恋に落ちたんだから、オレがとび抜けたプレーをすれば彼女も同じように思ってくれるはず。『今日の試合、すごくカッコよかった……私、あなたのこと好きになっちゃった』とか、なる、はず! きっと!
 一年生が入ってきて、ポジション争いはなかったけど、弟さんはやたらオレのこと敵視してくるし(まぁあんな素敵なお姉さんだもん。とられたくないのは分かるよ)、朔夜さんは新田とかいうのっそりした奴やたら可愛がるし! 相模さんの後輩だか皓汰君のクラスメイトだか知らないけど、あいつ朔夜さんに対して態度デカすぎ! ていうかなんかもう……今年の一年、全体的に生意気すぎ!

 だけど負けない。これはオレが選んだ道だから。
 朔夜さんの傍にいるって、オレが決めたんだから。
 どんどん活躍してオレが中心になって勝ち進んでやる。

 君が信じるまで何度でも誓う。
 信じてくれるなら、もっと強く胸に抱いていこう。
 君の思い描く場所に絶対に連れていく。
 オレの歩く道は、君の夢に繋がっている。