4話 Re:Start - 3/4

マジになろうぜ

 五月六日。振替休日で授業はないが、月曜なので部活の朝練がある。学校に来たからには体育祭の練習にも出ることになるだろう。
「新田君、おはよっ」
 校門をくぐったら高い声に呼び止められた。
 琉千花が笑顔で駆け寄ってくる。青い花柄のTシャツに白いカーディガン、揺れる水色のスカート。女の子は休みの日も気合入ってるな、と侑志はワイシャツの肩を軽くさすった。
「早いね。お兄さんは?」
「置いてきちゃった。グズグズしてるんだもん」
 琉千花はむくれて侑志の隣に並んだ。侑志は苦笑して首を傾げる。早瀬兄はいつも早い時間に姿を見せている。妹が気合を入れすぎなのだ。
「昨日大丈夫だった? いきなり働かされて疲れたんじゃない」
「ううん、平気。大変は大変だろうけど、頑張れそう」
「よかった。朔夜さんも褒めてたよ。てきぱきして素直で、見込みあるって」
「ホント? 嬉しいな」
 部室はまだ開いていない。鍵は毎回森貞が職員室から持ってくる。侑志は彼の来る数分前を狙って登校する。
 右腕を曲げて、祖父が入学祝に買ってくれた黒い盤面の時計を確認。今日も定刻どおりだ。
「俺ちょっと待たなきゃいけないし、早瀬さんは着替えに行っちゃっていいよ。女子更衣室、ここからちょっと遠いでしょ」
「私は下にジャージ穿くだけだもん。すぐだよ。今ここでも着替えられるよ」
 琉千花は自慢げにカーディガンの前を開き、中のシャツを見せた。布地はぴったりと身体のラインに沿っている。鎖骨の下の、弾けそうなほど発育のいいところも全部だ。
 侑志は斜め上に視線を逸らした。朔夜といい琉千花といい、男兄弟のいる女子はみなこんな風にあけすけなのだろうか。『無自覚のバイアス』という富島の言葉を胸中で繰り返し頭をかく。『普通の女の子』を把握するには、侑志のデータはあまりに少ない。
「ねぇ。新田君って背、高いよね。何センチあるの?」
 琉千花が首を反らして尋ねてくる。侑志にとっては聞き飽きた質問だ。四月の身体測定の数値を答える。
「百八十二だけど」
「うわっ、すごい! いいなぁ。私、百四十八センチしかないんだよ」
「ひゃっ、く、よんじゅうはちぃ?」
 思いがけない答えに声が裏返る。琉千花は指を折って苦笑した。
「八十二、引く、四十八でしょ。えっと、三十四センチも違うね」
 三十四センチ、と侑志は呆けた声で繰り返す。
 同じ高校一年生で、三十四センチの身長差。片手でつかめてしまいそうな首、侑志と比べて一回りも二回りも狭く見える肩幅。身体のパーツ一つ一つが、精巧なつくりもののように細かい。
 嘘だろう、と思った。バイアスなんて知らねぇよ。こんなに小さくって、かわいいって思わない方が嘘だろう。
「あのね、新田君。ちょっと気になってたんだけど」
「えっ、なっ、なにっ」
 侑志は片腕で顔を隠した。変な表情をしていたかもしれない。
 あのね、と同じ前置きで琉千花は続けた。
「大したことじゃないの。『早瀬さん』ってお兄ちゃんと一緒でややこしくないかなって。琉千花でいいよ」
「えっ」
 そんな、いきなり下の名前でなんて。いやでも、朔夜さんのことだってみんな下の名前で呼んではいるけど。
 侑志は朔夜を思い浮かべた。マウンドで笑う姿に胸がうずく。つい眉を寄せたのをどう受け取ったか、琉千花は軽く手を振った。
「『るっち』でもいいよ。たぁ君みたいに」
「たぁ君?」
「あ、タイチ君。二年の、八名川為一君」
「ああ……」
 仲いいのか。好きな人って八名川先輩だったりして。
 侑志は首の後ろに触れた。今朝は昨日より涼しく汗の気配はない。
「そのうち馴染んだ方で呼ばせてもらおうかな」
 風が吹く。琉千花がカーディガンの前をかき合わせる。寒いのと訊くと、ううんと首を振る。
「ねぇ、新田君。野球って、楽し?」
 カーディガンを握ったまま琉千花は言った。侑志は知らず微笑んで答えた。
「楽しいよ。ラクではないけど」
 ほんの少し前までは、喉の奥で淀んで言えなかった言葉なのに、今は自然に口からこぼれていた。
 空の色、土の匂い、流れる汗、ボールの形、革の光沢、バットのグリップの太さ、止まっていた時計を強引に動かしたあの音。
 そんなものが今、たまらないほど。
「俺は好きだよ」
 琉千花はしばらく侑志のことを見つめていたが、やがて、そっかと笑って目を伏せた。侑志は頬をかく。一人で浸りすぎたかもしれない。
 琉千花は何故野球に興味を持ったのだろう。ずっと関心がなかったようなのに。兄の反対を押し切ってまで入部する情熱はどこからきたのだろうか。
 そわそわしていた永田のことを思い出す。あいつのためにと言い訳しつつ、琉千花に入部の動機を尋ねてみた。
「うん、あのね。ホントは卓球部とかバド部とか、いろいろ見たんだけどね」
 琉千花は俯いたまま、しきりに指先をこすり合わせる。
 見学に行ったどのクラブも肌に合わなかったのだと言う。侑志には意外だった。人懐こく、すぐに誰とでも馴染める少女だと思っていたのに。
「友達は部活の話ばっかりだし、家にいてもつまんないし、それで野球部のこと思い出したの。……お兄ちゃん、すごく楽しそう、だから」
 話し終えた琉千花は真っ赤だった。侑志は笑いそうになって口許を隠す。
 井沢、当たりだよ。やっぱ好きな人が理由みたいだぜ。
「お兄さんのこと、大好きなんだ?」
「ちがうよ、お兄ちゃんなんて口うるさいばっかりなんだから! お風呂が長すぎるとかね、最近太ったとかね、すぐ言ってくるのっ」
 琉千花は小さな拳を大きく振った。侑志は堪えきれず震え出す。もうっ、とかわいい声で怒られた。
「おーなんだ、仲良しだなぁ」
「森貞先輩。おはようございます」
 侑志は涙を拭いながら礼をした。琉千花も慌てて頭を下げている。
「じゃあ新田君、また後でね。先輩もいったん失礼します」
 ぱたぱたと駆け去る琉千花。森貞は半笑いで部室の鍵を開ける。
「お邪魔だったか?」
「お兄ちゃんとのノロケ聞いてただけですよ」
 侑志は後について中に入った。森貞は中央の机に鍵を置く。
「妹はなぁ、かわいいぞぉ。ホントかわいいぞ。弟もかわいいけどな」
「両方いるんですか? いいですね、賑やかで」
「うんもう、ホントかわいい」
 会話が噛み合っていないので、侑志は意思の疎通を諦め着替え始めた。
「おはようございます」
 めずらしい、しっかりした発音の挨拶に驚き入り口を見る。坂野がドアのそばに立っていた。何故か自分のロッカーには行かず侑志に向かって歩いてくる。侑志は肩から落としていたワイシャツを何となく元に戻す。
「おはようございます。坂野せんぱ」
「新田」
 侑志の台詞を途中で遮り、坂野はやけに真剣な顔で告げた。
「今日の昼休み、ちょっと付き合ってもらう」
 嫌ですとも何故ですとも言わせない口調だった。侑志は頷くことも忘れて、先輩を眺め下ろす。森貞がこちらに顔を向けて何か言いかけたが、入ってきた早瀬兄が声を上げる方が早かった。
「おう坂野、後輩絡んでんじゃねぇぞ」
「早瀬こそ口悪いの直したら? 後輩が恐がる」
 坂野もふいと二年のロッカーへ行った。
 残ったのは呼び出された事実だけだ。

「新田はさぁ、朔夜さんにヒイキされてるよね?」
 昼休憩中、坂野についていったらひどい言いがかりをつけられた。
 坂野は腕組みをして首を傾けているが、侑志の方が長身なので見下ろせてはいない。
 高葉ヶ丘の校舎には、中央階段の脇に談話スペースがある。廊下との仕切りはないが三方を壁に囲まれており、教室や階段からは死角だ。休日の昼休みにここを通る生徒は皆無で、込み入った話には最適だった。侑志としては込み入られても困るが。
「そんなことはないと思いますけど」
「さ・れ・て・る・よ・ね?」
 坂野は険しい顔を近づけてきた。侑志は思わず肩を引く。
 何がなんでもそういうことにしたいらしい。事実を言っても通用しないタイプだ。かといって肯定するわけにもいかず、侑志はいつものように、はぁと濁した。
 坂野は都合よく受け取って先へ行く。
「でも勘違いしちゃいけないよ。朔夜さんは女神のごとく慈悲深い人だ、特に立場の弱い一年生には優しい。君は弟クンと同級だからその点でも気を遣われている。それだけなんだよ」
「はぁ、まぁ、そうかもしんないです」
「まぁ入学したてで高校にも野球部にもまだあまり馴染めていない君が、朔夜さんを一筋の光明のように感じ崇め奉りすがりついてしまう気持ちは解らなくもない」
「いや、別にそこまで切羽つまっては……」
「しかぁし! 朔夜さんはね、新田。本当にすごい人なんだ!」
 坂野は右手を胸に当て左手を天井に向けた。この人すげーな絵に描いたようなアレだな、と侑志は遠い目をした。
 長い話の要点を整理するとこうだ。
 朔夜がいかに素晴らしいプレーヤーであるか。朔夜がいかに素晴らしいマネージャーであるか。朔夜がいかに素晴らしい女性であるか。そして、そんな朔夜をいかに自分が想っているか。
「オレは誰より朔夜さんを想ってる。幸せにする自信がある。だから新田がただの憧れだけで朔夜さんを慕っているのなら、彼女のことは諦めた方がいい」
「は?」
 さすがに何言ってんだこの人。
 絶句している侑志に向けて、坂野は人差し指を振り下ろした。
「宣言しよう。朔夜さんは――絶対に渡さない!」
「うるっせぇよ真っ昼間っから廊下で人の名前連呼しやがってクソッタレが!」
 怒号と共に、坂野の身体が勢いよく前に折れた。侑志は悲鳴を上げ身体を捻る。坂野は顔面から床に突っ込んだ。受け止めてやればよかったと後悔するが、ただただ恐怖だったのだ。
 視線をめぐらせると、ジャージ姿の朔夜がいた。坂野の背中に蹴りを食らわせた姿勢のままだった。
「後輩呼び出してまた一人で無駄にテンション上げやがって。何のつもりだ、ああ?」
 口角は上がっているが目は笑っていない。朔夜の右手にはコンビニの袋。確かに坂野の声は少しずつ大きくなっていたし、外から戻って階段を上がってきたのならよく聞こえたはずだ。
 侑志は巻き込まれないよう奥の壁際まで退避した。
「てめェさ、今度フザけたことやらかしたらマジでシメんぞって言ったよな? なぁ私、言ったよな?」
 朔夜はじりじりと坂野に詰め寄っていく。坂野は床に座った状態でずるずると後退していく。絵面が完全にカツアゲだった。
「ふっ、ふざけてなんかいないよ。何度も言ってるじゃないか、朔夜さん、オレ、真剣なんだよ」
「なお悪いってこっちも何度も言ってんぞ。そろそろ試合出停にしてもらうからな」
「さっ、さくやさぁん、オレちゃんと役に立つからそんなこと言わないで」
 坂野は朔夜にすがりつこうとした。朔夜は無造作に足で振り払い、教室を顎で示した。
「二度は言わねぇ。戻れ」
 坂野は力なく立ち上がった。侑志は呆然と様子を眺めていたが、ふと我に返ってしょぼくれた背中に声をかけた。
 坂野が恨めしそうに振り返る。侑志は一つ唾を飲み込んで、眉間に力を入れた。
「坂野先輩。俺、朔夜さんにはお世話になってるんで、すごく感謝してはいますけど。先輩の思ってるようなのではないんで」
 そういうことで、お願いします。
 侑志は深々と腰を折った。遠ざかる足音しか聞こえなかった。坂野が立ち去っても、侑志は下を見つめていた。
「ごめんな。変な言いがかりつけられて、ビックリしたろ」
 後頭部をぽんと叩かれて顔を上げる。目の前で朔夜が苦笑している。いえ、と呟いて侑志は目を逸らした。
 どっちかっていうと朔夜さんにビックリしました、とは言わないでおく。身の安全のため。
 朔夜はあたたかい手で侑志の曲がった背を撫でる。
「坂野っていつもあんなでさ。私が誰かと話したりしてっとすぐ難クセつけにいくんだよ。まぁ誤解が解ければ根に持つタイプじゃないから」
「あの」
 侑志は上体を起こした。そのくせ視線は割れかけた床のタイルから離せない。
「朔夜さん、は、坂野さんのこと、どう思ってるん、ですか」
「だからそう深刻に取るなっつーのぉ」
 朔夜は舌打ちしながら、投手板の土を払うように足でタイルを擦った。
「ときどき鬱陶しいけど。悪い奴ってわけじゃないし、嫌いじゃあないよ」
「好き、とか……付き合ってる、とか、じゃ」
「お・ま・え・な!」
 朔夜は侑志の耳を両手で引っ張る。そうして広げておいて、よくよく言い聞かせる口調で言った。
「あのな、お前には、私が惚れた相手にあんな態度とるような女に見えてんのか? こちとら華の女子高生だぞ」
「で、ですよねぇ」
 華の女子高生の台詞ではないなぁと思ったのだが、坂野の一方通行だと確認できて顔がにやけてしまう。ただし耳は痛い。
 まったく、と口唇を尖らせて朔夜は手を離した。立ち去りかけ、コンビニの袋に手を入れて振り返る。下手で何か投げてきて、侑志は慌てて受け取った。
「やるよ。それでチャラにしといてやって」
 朔夜は弾けるように笑って駆け去っていく。
 手の中に残ったのは、ツナマヨネーズのおにぎり。
「え、なに」
 侑志は信じられない思いで自分の頬に触れた。
 先輩におにぎり一個もらっただけで顔が熱いなんて、きっと何かの間違いだ。しかもツナマヨ。全く何もかわいくないし響く要素なんて皆無なのに。
 その後、体育祭の練習がどうだったかさっぱり記憶にない。覚えているのは桜原におにぎりの経緯を一部始終説明させられたことと、二つに割ったうちツナの多い方を奪われたことぐらいだ。
 部活に行く途中、井沢と行き会った。桜原は早速その話を吹聴している。
「でさ、新田ってば坂野さんに絡まれてるとこ朔夜に助けてもらったとか言ってんの。なんなの? 姫なの?」
「桜原だって、俺が教室戻ったら琉千花ちゃんと昼飯食ってんだぜ。ちゃっかりしてんよな」
 侑志も負けじと井沢に告げ口する。井沢は鷹揚に笑っている。
「もう『るちかちゃん』って呼んでんの? 新田こそ結構ちゃっかりしてんな」
「ちゃっかりじゃねぇし。ややこしいから下の名前で呼んでいいって、本人に言われたんだよ」
「ややこしいって、レイジさんと? そっか。新田は名字で呼んでるから」
 桜原が口を挟んでくる。井沢は、んーと首を捻る。
「じゃあー、早瀬さんを桜原みたいにレイジさんって呼んでー、早瀬さんをルチカちゃんって呼べばいいの?」
「ちょっと待って頭を整理するから」
「まぁ言いたいことは分かる……」
 ごちゃごちゃしているうちに着いた。
 ドアを開けると、当の早瀬と八名川が着替えていた。
 まず脱ぐ井沢。先に練習着を出す桜原。侑志は毎度違う散らかり方をしている周囲を軽く片付ける。
 八名川が苦笑混じりに振り向いた。
「ごめんねぇ、新田ちゃん。いーよどうせすぐ戻っちゃうから」
「いえ、癖なんで。気にしないでください」
「オメーもちったぁ見習え、タイチ」
 早瀬は黒いアンダーシャツから頭を出した。侑志と目が合うと、裾をしまいながら歩み寄ってくる。
「あのよ。ちょっと訊きてぇことあんだけど」
「はい」
 侑志は身体を起こして早瀬を見た。着替えかけの二人も振り返る。早瀬は誰とも視線を合わせず後頭部をかいている。
「あいつ、どうだった?」
「あいつ?」
「だから! あいつだよ。疲れてなかったか? ……琉千花」
 早瀬はもどかしげに侑志を見上げた。ああ、と侑志も得心がいって頷く。
「元気でしたよ。頑張れそうだって」
「レイジさん、自分で訊いたらいいのに」
 桜原はさらりと言い放つ。早瀬は舌打ちして椅子の背を指先で叩いた。
「オレには言わねぇんだよ。意地っ張りだから」
「どーせ意地張ってんのレイジの方だよ、なーっ」
 八名川が後ろから早瀬にしなだれかかる。重いんだよクソ野郎、と言いつつ早瀬は振り払おうとしなかった。井沢はじゃれ合う犬でも見る笑顔だ。
「仲いーっスねぇ」
「それ、オレとレイジの話? るっちとレイジの話?」
「両方っス」
「だってさ。よかったねぇ~レイジ」
「よくねぇよ、バカ!」
 扉が開きまた誰かが入ってきた。富島だった。
「余裕ですね。早瀬さん」
 今日は一人だ。永田はまだ個人競技の練習だろうか。
 富島はロッカーの中を手で払ってから鞄を置いた。
「妹の心配してる場合ですか。昨日の失点、覚えてますよね?」
 無機質な口調に、早瀬は沈んだ顔で俯いた。
 昨日岡本についた失点一は、早瀬の失策が発端だったのだ。もしあそこで後逸しなければ、結果は違っていたかもしれない。
「あと少しでもう一点入れられるところだったんですよ。そうしたらあのメンタリティの岡本さんがどうなっていたか、分からないわけじゃありませんよね」
「ミスのイメージほじくり返すなよ。次はやれるって信じなきゃ進めねぇじゃん」
 井沢が厳しい顔つきで帽子を被った。富島は一笑に付して上着から腕を抜く。
「事実を受け入れなきゃ対策も取れないだろう。お前もだぞ、桜原」
「ぅえっ?」
 椅子に座ってストッキングを履いていた桜原が変な声を上げた。完全に他人事だったようだ。富島は上着を畳みながら桜原を見下ろした。
「三遊間。抜かれすぎじゃないのか? アレで済んでるのは相手があの程度だからだぞ」
 岡本が浴びた安打は全て左方向だった。桜原と坂野の連携が上手く取れていれば、止められたであろう打球もあった。
 富島は冷めた表情で続ける。
「姉貴を好くのは勝手だがな、あんまり私情を挟むなよ。ミスのイメージが云々って言うんなら、それを染み付かせるような真似はするな。周りにも響く」
 桜原の顔がかっと赤くなった。だが言い訳も謝罪もしない。スパイクに足を突っ込んで、紐も結ばずに出て行った。
 富島は何事もなかったかのように着替えを再開している。
 やっと支度を終えた侑志は、帽子の唾を握りしめた。
 何か言った方がいいのか、それとも桜原を追いかけた方がいいのか。決める前に八名川が富島に声をかけた。
「富島君さぁ。オレ、キミの言ってること間違っちゃねぇと思うのよ。だけどね、言い方をもう少し考えてあげてもいいと思うワケ」
 幼子を諭す言い方だ。富島は首だけで振り返り、小さく鼻を鳴らす。
「そうやってなぁなぁでやって来たから伸び悩んでるんですよ、このチームは。本気で勝つ気があるんなら、そろそろ現実に目を向けたらどうです」
「んまー、耳が痛いこと言ってくれちゃうのはこの口かい?」
 八名川は眉をひそめて口角を上げ、富島の頬を軽く引っ張った。すぐに高い音が鳴る。先輩の手を払った富島の腕は本気の勢いだった。目を丸くして止まる八名川の代わりに、早瀬が富島の左肩をつかんだ。
「おい。あんま調子乗んなよ」
「怜二。よせよ」
 八名川は真面目な声で早瀬の腕を引いた。富島は平然と早瀬を見下ろしている。
「図星を指されて癇癪ですか? 随分と子供じみた振る舞いが許されてるんですね、ここは」
「てめェっ、オレだけならともかく、チームのことまで悪く言いやがって……!」
「怜二、よせって。怜二!」
 つかみかかろうとする早瀬を八名川が抑えている。富島は動かなかった。険しい顔でじっと先輩二人を見つめていた。
 どうする。
 三年生を呼びに行った方がいいんじゃないか。
 侑志と井沢が目で言い合っていたら、森貞がいつもの調子で入ってきた。
「ちわーっす!」
 二年生は慌てて富島から離れ、森貞に礼をした。侑志たちと、最後に富島も頭を下げる。森貞は大柄な体に似合わない軽やかな足取りで、奥にある自分のロッカーへ歩いていく。
「怜二お兄ちゃーん、できれば妹ちゃん見ててやって? 危なっかしくて敵わんよ」
「あ、はい!」
「オレも行きます」
 早瀬も八名川も顔を伏せて部室を飛び出していった。
 扉が閉まる。侑志は帽子を目深に被った。
「彩人」
 森貞は穏やかに笑って富島を手招いた。富島はあからさまに嫌そうな顔で指示に従う。
「キャプテン!」
 井沢が出し抜けに大声を上げた。驚いた様子の森貞へ、硬い表情で問う。
「何か運ぶ物ありますか」
「いや、もうないな。積み込み手伝ってやってくれ」
「分かりました。行こう、新田」
 井沢は侑志の右腕をつかみ、足早に外へ出た。侑志はつんのめりそうになりつつ後を追う。
「なぁおい、井沢。駐車場こっちじゃ――」
 井沢が急に立ち止まる。侑志は止まり切れず衝突してしまう。振り返る井沢の目は鋭かったが、ぶつかったことを怒っているのではなさそうだった。
「ありがとうって」
「なにが」
「森貞キャプテン。富島に、ごめんって顔しながら、ありがとうって言った」
 井沢は主述をはっきりさせて繰り返した。出際に聞こえたのだろうか。侑志は全く気付かなかった。何故井沢がそんなに難しい顔をしているのかも、よく分かっていない。
「みんな勝ちたいと思ってる。でも勝とうとしてない。意識が足りない。森貞キャプテンは多分、この部をチームって呼べるレベルまで持っていくので精一杯だったんだと思う。富島はそれ、ちゃんと知ってる。だからその分まで全部本当のこと言う。勝つことに本気だから変えようとしてる。キャプテンはあいつにその役をさせちゃったこと、ごめんって思いながら、ありがとうって言ったんだ」
 井沢は真剣だった。単なる夢ではなく、現実的な目標として全国を見据えてきた井沢や富島にとって、この部の現状は馴れ合いに見えても仕方ないだろう。
 侑志の背中のくぼみを冷や汗が伝っていった。
 井沢は語気を緩めない。
「なぁ新田。オレたち、富島を悪者にしてていいのかよ。まだ身体はエンジンかかってねぇけどさ、ここはすぐにでも動けんだろ」
 井沢の拳が軽く当たった。接しているのは第二関節だけなのに、心臓が焼かれるように熱い。
「マジになろうぜ」
 侑志はぐっと息を呑んだ。井沢の手ごと胸が上下した。
 全国なんて、お題目だ。富島みたいに連れていきたい相手も、井沢みたいに行く実力も覚悟もない。
 けれど。それでも。
 近づこうとあがくことぐらいは、俺にだってできるはずだ。その権利さえ許されなかった人の代わりに。
 侑志は顔を上げ、足を踏み出した。
「サボってる暇、ねぇな」
「おう!」
 井沢がいつもより力の入った声を上げた。
 まだやれることはあるはずだ。
 胸の内で繰り返して、足早に駐車場へ向かった。

 木曜朝。いつもより早くついてしまった校門で、侑志は早瀬兄妹に会った。
「早ぇな新田、いつもこんなか?」
「あ、はい。今日は少し早いですけど、大体こんなです」
「新田君は真面目だもん、ねぇ」
 琉千花は兄の顔を覗き込む。早瀬はうるさそうに手を振っている。
「悪かったな、不真面目で」
「でも今日は心入れ替えて早めに来たよね」
 琉千花は昨日より格段に機嫌がよい。対して早瀬兄は複雑そうだ。侑志と目が合うとすぐに逸らした。富島の台詞を思い出し、侑志も何とも言いがたい気持ちになる。
 琉千花一人が楽しそうにしゃべっている。兄の代わりに、うん、うん、と気のない相槌を打っているうち部室の前に着いた。既に一年全員が揃っている。
「だからぁ、永田は打たせるタイプだからバックがしっかりしてないと投げにくいんだって、なぁ?」
「うん、守備崩れてると僕、すごい困る」
「要するにお前がしっかりしてないとまずいんだ。桜原」
「努力はしてみる」
 四人はこちらに気付くと早瀬に礼をして、三人――富島以外は侑志たちにも挨拶した。
 侑志は眉をひそめて近寄っていく。
「っていうかお前ら、急にどうしたの?」
「だって早く来た方がさ、準備も早くできるから練習長くできるじゃない!」
 永田が頬を上気させて力説した。バリバリ意識してんなぁ、と侑志は背後の琉千花を盗み見る。残念ながら永田の期待したほど効果はないようだ。じゃあ私も早く着替えてくるねー、と立ち去られていた。
 気の毒ではあるが少し面白くもある。遠慮なくにやついている富島はもちろん、桜原と井沢も侑志と同じ感想らしく、笑わないよう必死に上下の口唇を押し付けている。
 どうやら話題を変えてやった方がよさそうだ。
「桜原が来てるってことは、朔夜さんももう来てんのか?」
「ああ、うん。今着替えてる」
 答えた桜原の後ろから、不意に現れたのは当の本人……ではなく、彼女に心酔しているサードだった。
「朔夜さんが何だって? 何で何の脈絡もなく朔夜さんの名前を出したんだい新田!」
「坂野さんうるさいです」
 桜原は地声よりも低いトーンで言った。
「朔夜はいつも俺と一緒に来てるんだから、今日も二人で来たんだろうと新田が推測するのは自然です。何の脈絡もないとは思えませんけど」
「あ、はい……ごめんなさい」
 坂野はびくびくと肩をすぼめた。未来の義弟? には強く出られないらしい。弟君は何かあれば警察に通報しかねない雰囲気だが。
「桜原」
 富島が呟いて一瞥を送った。聡い桜原は、聞こえよがしにため息をついてから愛想笑いを浮かべた。
「坂野さん今日は早いですね。どうなさったんですか?」
「え? いや、オレはいつもこれっくらいだけど」
「そうなんですか、俺も見習いたいです」
 桜原は口角を上げているが、坂野はかえって怯えているようだった。三遊間の関係修復は容易ではなさそうだ。
 姉に言い寄る相手が気に入らないにしても、桜原のそれは行き過ぎた態度のように思える。きょうだいのない侑志には想像しかできないけれど。
 侑志たちが着替えを済ませた頃、件の朔夜も姿を見せた。
「何だいっぱいいんな、めずらしい」
「さくやさぁあん! おはよう今日もがんばっ」
 坂野は胸の前で両手を組んで声の方を振り向いたが、途中で言葉を失って凍りついた。侑志も喉が引きつって何も言えなかった。
 早瀬はいたって普通の様子で肩をすくめる。
「そのカッコ、久しぶりに見んな」
「だろ? マネジ入ったから気合入れちゃった」
 朔夜はプリクラを撮る女子高生のように(事実女子高生だが)、顔の横でVサインを裏返した。しかし問題はそのポーズではない。ジャージでなく練習着に身を包んでいるのも、置いておくとする。
 しかし、しかし。
「朔夜さん、髪……?」
 侑志は震える指を朔夜に、正確に言えば朔夜の首に向けた。昨日まであった長いおさげがない。あっさりと切り揃えた襟足があるだけだ。
 朔夜は二本の指を立てたまま、左手を侑志の方に突き出した。
「切った!」
「見りゃ分かりますけれども!」
 切ったとか切らないとかいうことは見れば分かる。
 そうではなくて問題は。
「朔夜さんどうして切っちゃったのあんなに綺麗だったのに! せっかくあそこまで伸びたのにぃ」
 坂野が泣き崩れんばかりの勢いで嘆いた。侑志は坂野から遠ざかり、一瞬でも彼と同じ考えを持ったことを後悔した。
「邪魔だから」
 朔夜は左手を腰に当てると、首を傾けてきっぱり言い切った。
 そんなぁ、と絶望的な声を上げて坂野は顔を覆い、座り込んだ。朔夜は相手にせず荷物の積み込みを指示する。
 みなが動き出す中で、侑志は恐る恐る朔夜に問いかけた。
「いつから、伸ばしてたんですか」
「私しかいなくなってから」
 即答だ。表情はなく、聞き取ることを拒むようなひどい早口だった。侑志は口唇を噛んで下を向く。
 部員が朔夜だけになったことなどないはずだ。朔夜が髪を切らなくなったのはきっと、『マネージャーが自分しかいなくなってから』。『マネージャー』を一人で引き受けていた間、彼女はずっと『女子』だった。長い髪とジャージで皆に尽くしていた。練習を続けながら、練習試合で投げながら。
 今やっと、『選手』に戻ろうとしているのだ。桜原朔夜は。
「似合いますよ」
 勇気を出して顔を上げた。
 朔夜が不思議そうに侑志を見る。人を褒めるには硬すぎる表情で、侑志はその目を見つめ返す。
「カッコいいです」
「ありがと」
 瞳に愁いを漂わせ、朔夜はそれでもうっすらと笑った。
 坂野が負けじと連発する賛辞に、微笑みも、二人の間にあった淡い空気も脆く崩れてしまった。侑志はその名残を肺の奥深くまで吸い込んだ。
「うわ! 何? みんないるし。今日何かあったっけ? もしかしてオレの時計、狂ってる?」
 八名川は現れるなり叫んで、携帯電話を取り出し腕時計と見比べた。同時刻らしく首を捻っている。
 朔夜がいつもの調子で腕組みした。
「お前らこそ何だよ、急に早く来ちゃって。昨日の午後練から妙に気合入ってんよな」
 八名川は目をしばたかせながら朔夜を見、それから早瀬を向いた。早瀬は拗ねた顔をしている。八名川は富島に視線をやると、へにゃりと笑った。富島は気付かないふりをしている。侑志と井沢は顔を見合わせて笑った。
 物事には始まりと終わりがあるというが、終わらなくとも始まることはある。
 いつか終わらなければいけないことを知っているから、人はまた始まりを書き換える。望む道程を歩み、願う結末へ辿り着くために。
 やがて来る夏を夢見る束の間の春、空には明るい声が弾けている。