千々ノ一夜迄 - 4/5

 未紅の家から雅伸の自宅まで、電車に揺られて四十分ほど。直線距離なら大したことはないのに、迂回ばかりの線路だと時間がかかる。奇しくも高校のときと同じ経路で家を目指す。もっと郷愁に駆られるかと思ったが何のことはない。ただの見飽きた景色だ。
 平日の明るいうちなら誰もいるまいと踏んだのだが、自宅には母がいた。シフト制の仕事は在宅時間の読みも難しい。
「どこに行ってたの、こんな何日も。お母さんまた警察に連絡するところだったわよ」
 おかえりもなしに開口一番これだ。雅伸は仁王立ちの母の横をすり抜け自室に向かう。
理奈(りな)に連絡入れただろ。バイトだって」
「あんたみたいな子を住み込みで雇うところなんてあるわけないでしょう」
 険こそあるが悪意はない口調だ。雅伸が他人と話すとき、言葉少なになる原因。誰かを今の自分のような気持ちにさせるなら、黙って誤解された方がましだ。
 自室のドアを開ける。右手に置いてあった荷物がなくなっていた。
「理奈なら帰ったよ」
 母が廊下から教えてくれた。婚約の件で実家に寄った妹は、既に二人の愛の巣に戻ったらしい。ここからいなくなったことを『帰った』と表現するのなら、妹はもう完全に相模家の人間ではなくなったのだろう。そして雅伸も。
「マサ。なにやってるの」
 母が血相変えて雅伸の腕を握る。本人としては至極普通のことをしていたつもりだ。疑問の目で母を見上げる。
「荷物を詰めてるだけだけど」
「そんなもの持ってどこ行くの! うちの何が不満だっていうの、どうしてほしいか口で言いなさいよ!」
 母は甲高い声で怒鳴った。どちらが精神をやられてるんだかわからないな、と胸中で呟き、雅伸はなるべく静かに母の手を剥がす。母をこうしてしまったのは自分かもしれないが、それは大概お互い様だ。
「放っておいてくれればいい。俺が『ああするまで』そうだったみたいに」
 母は口唇をわななかせて雅伸から離れた。蒼白な顔色を気の毒と思えど申し訳ないとは感じなかった。
 財布。通帳と印鑑。数組の着替え。高校のとき使っていたグラブ。持っていくものと持っているものはほとんどイコールだ。雅伸はずっと最低限のものしか持たずに生きてきた。いつ死んでも邪魔にならないように。
「もう行くよ。今までありがとう」
 黒い鞄を担ぎ、母を振り返らずに家を出た。施錠した後で鍵をドアポストに放り込む。キーホルダーが余ってしまって、何度か目の前で揺らしてみた。小さな恐竜のフィギュア。まだ小学校に上がる前、博物館で母にねだって買ってもらったもの。
 団地の廊下から地上を見下ろす。四階というと結構な高さだ。二十才になる年、自宅のベランダから飛び降りて死ななかったのは本当に奇跡だった。不精ひげに埋もれた傷痕を指先で探る。傍目には分からないくらい薄いものだけれど、未紅は執拗に撫でてくるから気付いているのだろう。
 下に誰もいないことを確認して、雅伸はキーホルダーを外に向けて投げ上げた。放物線の頂点、金属のリングが太陽光を弾いて鋭く光る。その残影も、一瞬で落下して見えなくなった。自分が落ちたのと同じ高さ。葉の揺れる音。手を離れたものは消えたも同然だ。
 未紅の家の最寄りまで戻ってきた。夕と言うにはやや早い。セールの時間も外しているし、冷蔵庫にはまだ食材が残っている。無理にスーパーに行かずともネットでレシピを検索しようか。
 歩き出そうとした雅伸の前を、見知った長身が横切る。朔夜だった。雅伸に気付いた様子もなく、覚束ない足つきで進んでいく。つい追いかけて右腕を取った。
「危ないぞ」
 朔夜が弾かれたように顔を上げる。どうやら転がったペットボトルは踏まずに済んだようだ。雅伸は朔夜ごと道の端に寄る。
「早いな。休みか」
「あー、インフルの予防接種で半休取ったんです。撒き散らすと困る……」
 朔夜が耳に髪をかけながら浮かべた愛想笑いは、語尾を待たず消えた。怪訝そうに眉を寄せて雅伸を見る。
「ノブさんこそ、なんすかその荷物。旅行でも行くんすか」
「まぁ、そんなとこ」
 露骨な話題逸らしに律義に付き合ってやることもない。雅伸はスーパーの看板を親指で指す。
「ちょっと座るか。調子戻るまで」
 幸い今日は自分の金を持っている。後輩にも多少格好をつけられるはずだ。朔夜は淡く苦笑して頷いてくれた。
 フードコートはそこそこに混雑していた。朔夜は何も注文せずペットボトルを目の前に据え、雅伸はカウンターで頼んだコロンビアコーヒーのカップを小さなテーブルに置いた。
「結構子連れ多いっすね」
 朔夜はキッズスペースで遊び回る幼子たちを、暗い表情で眺めている。
「ノブさんも、いつかは子供欲しいですか?」
「いや」
 質問の意図をつかむ前に、否定だけはきっぱりとしておいた。自身を生かすことすらままならないのに、他の命を引き受けるなど論外だ。
侑志(ゆうし)に何か言われたのか」
 番になった後輩の名を出したら、朔夜の顔は一層曇った。雅伸の問いに首を振りかけて、結局ゆっくりと首肯する。
「今、妊活? みたいなことしてて。侑志はずっと、付き合ってた頃から結婚したら子供作るもんだって疑ってなかったし、義実家からも何となくそういう圧を感じるし。もう若くもないんで、産むなら早くしなきゃなんですけど」
「お前は?」
 お前の気持ちは、と問い直す。朔夜はルイボスティーの、雅伸が聞いたこともない名前の茶のボトルを握りしめる。一口も飲んでいない液体を。
「私を産んだ人も、旦那に頼まれたからって理由で子供作って、結局世話はしなかったんですよ。顔を思い出そうとしても後ろ姿しか浮かばないのに。私にできると思いますか。母親なんて」
 雅伸は答えられなかった。他人の世話を焼くのが得意な朔夜だ、産めば産んだでそれなりに母親の役はこなすだろう。だがその雑な推察が一切彼女を救わないことも、痛いほど解っている。
「やだな、ノブさんにこんな話してもしょうがないですよね。すみません」
 朔夜は俯いて謝った。悪くもないのに。
 雅伸は、かつて母に『女に産んでやればよかった』と泣かれた。貰い手があれば少しは楽に生きられたろうと。未紅は父に『子が産めないなら男並みに働いて社会に貢献しろ』と言われているそうだ。朔夜は女に生まれ、健康に社会で働き、連れ合いを見つけ、子を宿す器官を無事に持っている。自分たちの根幹にある問題を全てクリアした目の前の女性を、しかし雅伸は幸福のモデルケースとは思えない。
 鞄を漁る。駅の自動販売機で買った、未開栓のスポーツドリンクが入っている。十代の朔夜が好んで飲んでいたもの。ハンドタオルで結露を拭い、後輩の前にボトルを立てる。
「朔夜。今欲しいものあるか」
 朔夜は顔を上げ不思議そうに目をしばたかせた。これは別枠だけど、と雅伸はドリンクを朔夜の側に押し出す。
「しんどい話をひとつしたら欲しいものをひとつ言う、ってルールなんだ」
「なんすかそれ」
 朔夜はようやく口許を緩ませてくれた。そうですね、と頬杖をついて考えている。その間、朔夜の視線は再び子供たちを追っていた。
「何でもいいんですか? たとえば、実現できないようなこととか」
「言うのはタダだろ」
 柄にもない理屈に笑顔を添えて、雅伸は先を促す。そんな質問が出ること自体、既に追い込まれている証左だから。希うことぐらい自由でいい。
 朔夜は雅伸に真っ直ぐ顔を向けたけれど、きっと見ているのは雅伸ではなかった。
「時間。侑志がまだ彼氏で、ノブさんが先輩で、一緒に泥まみれになってた頃まで戻したいです。もう、ずっと、そこを繰り返してたい」
 朔夜の黒い瞳から透明な雫が一筋伝う。
 朔夜は優秀なマネージャーであり、非凡なプレーヤーだった。雅伸は練習試合で朔夜の後ろを守るたび、打線を彼女に繋ぐたび、公式試合でも共にやれたらと願った。雅伸はいつか彼女のなりたがった『男子』だ。だが雅伸が朔夜を憐れむように、朔夜も雅伸を羨みはしないだろう。
 畢竟行きつくところは同じなのだ。
「朔夜。侑志にはちゃんと話せ。本当の気持ち」
「でも、結婚するときも何度も話し合ったんですよ。今更」
「できてからの方が今更になる。存在しない人間と目の前の人間を量り間違えるほど、俺の後輩は馬鹿じゃない」
 雅伸は朔夜の頭をぽんぽんと叩いて立ち上がった。この状況をとやかく言うような世間なら、そっちこそクソ食らえだ。
 少し離れたところで朔夜の亭主に電話をかける。番号が変わっていなくてよかった。場所を手短に伝えて、迎えに来いと最後の先輩命令を下した。十五分内に来ると言うので、席について冷めたコーヒーをさっと流し込む。朔夜の携帯が震えたところでフードコートを辞した。
 未紅の暮らすマンションに戻る。エレベーターで六階に上がったら、外廊下で見知らぬ男とすれ違った。折れて右側にあるのは未紅の部屋だけのはずだが。
 鍵を挿してドアノブを回す。がちゃがちゃと引っかかる。施錠は確認していったはずなのに、開いていたのか。あらためて鍵を回す。今度は無事にドアを押せた。
 三和土に未紅のパンプスが転がっている。胸がざわついて、雅伸もスニーカーを放って大股にキッチンを通り抜ける。
「未紅さん?」
 入ってつま先に当たったのは、開きっぱなしの女物の長財布。それよりも部屋の中央を見て息が止まった。未紅が、鼻から血を流して倒れている。
 安い愁嘆場といってしまえばそうなのだろう。だが雅伸は蹴つまずきながら彼女に駆け寄る陳腐な振る舞いを選んだ。未紅が息をしているのを確かめて、これもまた月並みに、さっきの男を追いかけて殺そうと思った。
 腰を浮かしかけた雅伸の手首を未紅がつかむ。
「いー、から、鼻血、とめて」
 弱々しい声に、沸き立っていた血が急激に鎮まった。殺意は変わらずあるが、未紅を冷たい床に寝かせてはおけない。
 抱きかかえて起き上がらせる。そのまま背もたれを務めつつ小鼻を押さえた。血が、皮脂が、ファンデーションが指につく。呼気が手のひらを熱く湿らせる。抱え込んだ肩はずっと微弱な振動を雅伸に伝えている。
 何でもいい。全て受け留めるから全て預けてほしい。
 二十分経って指を離すと血は止まっていた。レンジで湯を沸かして未紅の身体を拭く。ボタンの引き千切れたブラウスや、ホックの歪んだスカート、裂かれたストッキングの代わりに、鞄から出した自分のシャツを着せる。淡いブルーのオックスフォードシャツ。小柄な未紅が着るとミニ丈のワンピースみたいだ。
 ソファに運んで、外れかけていたシュシュを抜き取り髪を結び直してやった。未紅がいつもしているように、一つに括って前に垂らす。
「何か淹れましょうか。紅茶とか」
 雅伸の提案に未紅はかぶりを振り、身体を傾がせた。こうして雅伸が抱き留めることを確信している動きだった。
「わたし、乱暴にされるの好きだったんです。求められてるって感じてる間は、自分は女だって胸を張れるような気がして」
 雅伸は黙って頷いた。今の彼女に必要なのは雅伸の意見ではない。何もかもを吐き出すときを待つ。
「勘違いだった。痛いのも恐いのも好きだったわけじゃない。気付いちゃったの。雅伸くん、優しいから。こっちのが嬉しいって、わたし、わかっちゃったの」
 ラグの上で潰れたケーキの箱から、色鮮やかな果物たちの死骸。飛び散った鞄の中身と、まとっていた服。
 潮時だ。夜が終わる間際に見るのが夢。
 縋る両手に応えられるのもまた抱擁だけだった。