千々ノ一夜迄 - 5/5

「今日、後輩が泣きまして。高校時代に戻りたいって」
「ああ、わかる。わたしも高校時代が一番楽しかったです」
 二人が出逢った高台の神社を目指す。敢えて最寄りではなく、一つ先の駅から河川敷を歩いて戻っている。
 雅伸はひげを剃り、赤の他人の服を捨て、自分の服を着直した。未紅も紺色のワンピースに着替えて、先程の雅伸のシャツをアウター代わりに羽織っている。さらに薄手のコートも着てもらった。死にに行くのに防寒? と彼女は首を傾げたけれど、雅伸は潰えるその直前まで未紅の苦しみを和らげていたい。
 最後の買い食いがしたいという要望にも付き合った。コンビニで買い与えたのは無糖の炭酸水。
「これ、初カレがいつも買ってくれたやつなんです」
 土手を上がりながら、未紅はペットボトルを街灯に透かす。気泡を閉じ込めた水が虹色を含む。
「友達が毎日飲んでたから、好奇心で一回買ってみたんですよ。でもわたしの口には合わなくて。彼はね、その一回をたまたま目撃してたんです。それで『これ好きだよね』ってコンビニ寄るたび毎回渡されて。ほんとは好きじゃないって言えなくて。いつか慣れるだろうって思ってたけど、結局好きになれなかったな」
 目を細める未紅に、その彼とはどうしてとは訊けなかった。現実にその男はここにいないし、未紅は病気が発覚したとき処女だったと言った。傷を抉らずとも大方察しはつく。
「俺も高三の初夏ぐらいが一番よかったです。理不尽な命令をする先輩が出ていって、受験は少し先で、面倒を見させてくれる後輩がいて。無様な最後の試合のことなんてまだ知りもしなかった」
 一番高いところに着いた。危なっかしい足つきの未紅の手を取って、神社の方へ歩みを再開する。未紅が指先で手の甲をくすぐってくる。
「高校生の雅伸くん、見たかったな」
 向かいから制服のカップルが、おしゃべりしながら自転車を押してくる。女の子は手首にシュシュを巻いて屈託なく笑っている。雅伸は学ランの少年が二人とすれ違う幻影を見る。
 全部夢だ。戻れはしないし、彼女が高校生だった頃の三分の二、雅伸は中学生だった。隣を行くような『もしも』などなかった。
「未紅さん。ペットボトル貸してください」
 雅伸は炭酸水を持って、舗装された箇所を出た。ボトルを何度も振る。振って、振って、圧力が限界に近くなったところで蓋をひねる。鋭い音。泡が噴き出して空気中に散る。芝の上に溢れて濡れて消えていく。
「花火みたい!」
 未紅は手を叩いてはしゃいでいた。本当に子供みたいな人だなと思う。大人になる機会を奪われた子供。
「今夜は花火にまつわるしんどい話でもしますか?」
 雅伸が下ろした右手からはまだ炭酸水が流れ出ていた。宙に溶けていく気体と地面に吸い込まれていく液体。飲めない水なら持っていたって仕方がないから。
 未紅は両手を合わせたまま苦笑する。
「手持ち花火ってやったことないんです。打ち上げ花火も見に行ったことないし。だからもう、『しんど百物語』もおしまいですね」
 そうか、おわりか、と雅伸はあらためてその意味を噛み締めた。
 しんどいつらいを語り尽したなら、最後の火と引き換えに立ち現れる怪物も自ずから。
「最後に欲しいものだけ言わせてください。花火。やってみる時間ぐらいあるでしょう?」
 また河川敷を外れて、近くのホームセンターへ行った。買ったのは、時季外れで馬鹿みたいに安い花火と、ライター、蝋燭、バケツ、懐中電灯、一斗缶、燃料、レンガ、錐。全部抱えて川に一番近いところまで降りていく。
 未紅に照らしてもらいながら、雅伸は一斗缶の裏に錐で穴を開ける。
「何作ってるんですか?」
「焚火です。この辺で少年野球やってたとき、当時の監督に教わりました」
 穴だらけの缶をレンガの上に。これなら空気が入って燃焼が続くはず。火を点けて、安定してきたところで、雅伸は命より大事だったものを鞄から取り出した。
「そのグローブ、寄せ書きしてあるんですね」
 未紅が雅伸の横にしゃがむ。雅伸は頷いて手の中のものを見下ろす。
 使い込んだ内野用のグラブ。卒業直前に後輩たちが一言ずつ書いてくれた。朔夜も、侑志も、他の連中も。どこまでも抱えていきたい思い出だった。前回死に損ねたときに付いた血の跡を、未紅の指が丹念に撫でていく。雅伸の顎の傷に触れるのと同じ手つき。
 火を消さないよう慎重に一斗缶の中へ下ろした。すさまじい悪臭を発しながら、炎は革の表面を舐め後輩たちの言葉を焼き焦がしていく。
 冬に向かう乾いた川辺。風が通り抜け、葬った夢の跡で火の粉が爆ぜる。
「花火。やりましょうか」
 雅伸は立ち上がって未紅に手を差し出す。頷く未紅の頬には炎の色が映っていた。
 俺たちは今日もまた、終わりの終わりを先延ばしにしていくのかもしれない。きっと明日も死にたくて、あさっても、しあさっても苦しくて、そうしてしんどいことと欲しいものを少しずつ見つけて眠りにつくのだろう。ひとつ大望を抱いて突き進む器ではないから、千のささやかな望みをヒトに模して繋いでいくのだ。いつ崩れてもおかしくないものを。
「ねぇ、わたし鍵が欲しいです。世界でわたしと雅伸くんだけが持ってる鍵」
 閃を曳き、花を咲かせて落ちていく光。束の間の笑い声と黒く燃える熱。
 全てが千々に飛び散る夢は、まだ知らない夜の向こう。