仮想彼岸のフローラルトリビュート - 5/5

H区画

「もうやだ……ぼ、僕みたいな出不精のオタクがこんな陽射しに耐えられるわけがないよ……帰りたい……クーラーギンギンにして非エコに努めつつ、キンキンに冷えたコーラ片手にエンスーやり込んで、地球たんにドSに自分に甘く生きたい……」
 ぶつぶつと意味の分からないことを呟きながら、一人の青年が立ち止まる寸前のペースで横に振れながら歩いている。神成としては、彼がどいてくれないとこれ以上向こうに行かれないのだが。
「アイス食べたい……はっ、ミルク味のアイスキャンディを、エロシーンに合わせてリアル女子にくわえさせつつ、白い液体がお手々やお口を汚して……! 待ってコレ僕天才じゃね?」
 青年は右手をいきなり振りかざす。いよいよ危険人物にしか見えない。
 その右手の中には、やはり花束ではなく、一輪の白く美しいスイレンが握られていた。
 更に先を歩いていた女性が振り返り、知り合いなのだろう、困ったように呼ぶ。
「タク!」
 神成はどきりとした。それは、別のある人物を示す名として、神成もよく耳にしていたものだったから。
 ついに座り込んでしまった青年の顔を、こっそりと見る。確かにずっと見守ってきた少年ではなかったが、かつてどこのチャンネルでも報道されていた人物の面影があった。
「いつまでもそんなペースで歩いてたら、日が暮れちゃうよ?」
 女性が片手を腰に当てて、青年に顔を近づける。もう片方の手には、羽と見紛うほどたくさんの白いキキョウを集めた、花束。
 青年は右手のスイレンをぞんざいに差し出す。
「へ、変な気を回して来なかった七海も悪いんだ。これは梨深に預けるから、あと、よ、よろしく」
「ダメーッ! だったら、なおさらナナちゃんの分も一緒に行かなきゃっ!」
「ああんらめぇ! そんな風に引っぱったら、ポケットから星来が落ちちゃうぅ!」
 何がどうなったのか、青年は女性に引きずられていった。
「いや、いよいよもって最近の人は……理解出来ない」
 昭和生まれの神成は、自分も昭和の記憶などほとんど持たないことを棚上げして、よく分からない人種をとりあえず『最近の人』とカテゴライズする。
 この定義も場合によってあやふやなのだが。

 首を傾げながら歩いていると、一人の女性が一生懸命墓石を磨いていた。
 足元には白い花束。グラジオラス――今日は詳しくないはずの花の名前がすらすら出てくる。
 長い黒髪の女性は、何だか誰かに似ているような気がした。そんなはずはない。彼女はここに立ち入る資格が――資格? 資格とは?――ないはずだから。絶対に別人なのに、似すぎていて。神成はぼうと突っ立って、彼女の作業を見つめていた。
「何だ?」
 女性が視線に気付いて顔を上げる。刺すような眼光までそっくりだったけれど、彼女ほど物騒ではない。もう少しとっつきやすそうな顔立ちと、声だった。
「いえ。不躾に申し訳ない。人違いでした」
 ふんと鼻を鳴らして、女性は神成に興味を失ったように、墓石の掃除に戻る。その横顔にもう不機嫌さはなく、慈しみと哀惜に満ちた微笑。神成も、それで女性に興味を失った。
 目的の場所はもうすぐそこのはずだ。記憶――記憶?――なら。

 どん詰まりのはずの場所から、一人の女性が向かってきて、神成は心底驚いた。
 緩やかに波打つ髪の、眼鏡をかけた大人しそうな女性。両手で白いユリの花束を抱え、伏し目がちに歩いてくる。
「あの……」
 何と切り出していいのかも分からないまま、神成は女性を呼び止める。
 女性がはっとして顔を上げる。あちらも、この先に進もうとする者がいることが意外なようだった。質問を発したのは向こうが先。
「もしかして、警察の方ですか」
「はい――そうです」
 この期に及んで嘘はまるで役に立たない気がして、神成は素直に頷く。
 女性は難しい顔で黙った後、神成の手の中の白いキクに視線を落とした。
「わたしの持ってきたお花、お邪魔でしたら捨ててください」
「え?」
「それでも、わたし、お礼も言えなかったから。『ここが開いている』うちに、『おかしくても』ご挨拶に来られてよかった。……あの人も貴方のこと、待ってたのかもしれませんね」
 理解不能のことを言って、女性は微笑んだ。その笑みは自分に向けられたものではないと、それだけは神成にも解る。恐らく彼女は、神成と同じ相手を悼みに来た。
「先輩のこと、あなたは……どう思ってましたか」
 神成のつまらない問いを、つまらないと一蹴せず、女性は誠実に神成の目を見つめる。
「わかりません。それほど長くはいられなかったから。でも、優しいひとでした。それだけは間違いなくて。だから……もっと早くわたしが『目覚めていれば』あんなことにはならなかったのかもしれないって、それだけが、ずっと、胸に刺さって」
 白すぎるブラウスのギャザーを潰すように握り締めて。女性の頬に一筋だけ涙が伝う。
 あんまり厳粛にしすぎるのも、あの人らしくないと思ったから。神成は努めて道化らしく肩をすくめる。
「君のせいじゃない。かわいい女の子に助けてもらいましたなんて、それこそ恥ずかしくって自分から墓穴に入っちまう。そういうもんです、刑事なんてカッコつけの生き物はね。ですから」
 あなたの、せいなんかじゃ、ないんだ。たとえ先輩がどんな風に、旅立っていったのだとしても。
 神成が真面目なトーンで締めると。
 ありがとうございますと、女性は儚く笑って、一礼を残しいずこかへ歩み去っていった。あの様子では、まだ他に回る先があるのかもしれない。

 

 神成は今度こそ、目指していた墓石の前に立つ。
 七年ぶり――いや、前にも来たことがあったろうか? どうにもこの場所は記憶が曖昧で――とにかく、七年越しの宣言をする。
「ニュージェネレーションの狂気は終わりました。見届けましたよ、最後まで」
 彼に対する言葉ではなかったのかもしれない。神成の自己満足に過ぎなかったのかもしれない。
 それでもきっと、そうか、よくやったなと褒めてくれるような気が、していて。
 別に喜んでもらえそうにない、他に何を選んだらいいのか分からずに持ってきてしまっただけの、つまらない白いキクを供える。美しい、白バラの隣に、ひっそりと。
 膝を曲げて、安物の切子硝子二つに、彼の好きだった焼酎を注いで。あの頃より、酒の味も分かるようになったから。
「呑んでも、いいですか。久々に、一緒に」

 黙祷を。彼だけでなく、地震でも、事件でも犠牲になった人たちのこと想いながら。
 すっと目を開けて、グラスに口をつける。
 焼けるような喉の熱さは覚えているのに。

 ここがどこであったのか。いつ行ったのか。誰と会ったのか。
 気付いた時には、神成も誰も――あるいは、彼女たちなら?――覚えていないのだ。