澪標

 病室のドアをノックする。彼女は病人ではないのだけれど、研究室としてこの個室を使っていた。
 いつものように、誰だと無愛想な声がするので、俺だよと答える。開いているよと当たり前の返事が聞こえて、いい加減符丁でも決めようかと神成岳志は苦笑した。今だとて、俺だの一言で入室を許可してもらえる男は、きっと世界中で自分一人なのだろうけれど。
 スライド式のドアを横に滑らせ、神成はその部屋に踏み入った。痛いまでの清潔。彼女の住んでいた四畳半とは比べ物にならない。それでもパソコン周りは彼女の空間然と散らかっているので、神成はそんな些細な日常感にどこか安堵するのだった。
「何の用だ」
 相変わらずご挨拶な少女である。パソコンに目を向けたまま振り返りもしない。
 神成もこの頃は口うるさく言い返さなくなっていた。無駄だと悟ったのもあるが、単純に慣れてしまったのだ。
 それに彼女は、神成を見下すだけの手腕と知識を持っていた。おかげで一応若手のホープのつもりでいた神成の自負は、ぼろぼろになったわけだが。
「宮代くんに会いに。それと、久野里さんに差し入れ」
 神成がコンビニのビニール袋を掲げると、ようやく久野里澪はこちらを向いた。しかし見ているのは神成の顔ではなく右手の袋である。いつもの栄養ドリンクと固形ブドウ糖――お洒落なスイーツより結局これが一番気に入るようだったから――だと分かると、久野里はまたモニタに向き直ってしまった。これも毎度のことなので、神成は肩を軽くすくめて歩み寄っていく。
 研究の成果には、今日は触れないことにした。
「警官が勤務時間中に女子高生に会いに来るとはな」
「おいおい、君は本当の高校生じゃないだろ」
「年齢的にはそうだろう?」
「まぁ、その。……ただの労いだよ。今日は非番だし。ちょっと無理を言って通してもらっただけで」
 左手で後頭部をかく。久野里は再び首をめぐらせ、今度こそ神成の顔を見た。目を細め、口唇を意地悪く歪める。
「未成年に勤務を装って接触してきたわけか。個室で? いろいろと倫理的に問題のある行動だな。条例にも引っかかりそうだぞ、公務員」
「そう言うなよ」
 神成は恭しくビニール袋を差し出す。久野里は礼も言わず引っ手繰ると、栄養ドリンクをかちりと開けていきなり呷った。手の甲で濡れた口許を拭いながら問う。
「本当の用件は? 袖の下まで持ってきたなら言いたいことがあるんだろう。これまでも脱法行為で真相を追った仲だ、告げ口ぐらいはしないでやるさ」
「まったく、君は相変わらず随分だな」
 神成は開いた両手をスーツのポケットに突っ込んだ。型が崩れるからやらない方がいいのだろうが、そして極力やらないように気をつけてはいるのだが、よくない予感の前に逡巡するとき、尊敬していた先輩刑事の癖を何故か真似てしまう。
 久野里は笑みをやめてじっと神成を見つめていた。有村の値踏みするような目とも違う。プログラムを精査するような視線。
 肩越しに見えるモニタに映っているのはトップシークレットのはずなのに、久野里は神成に対してそれを隠そうともしない。その信用が、時に胸を抉るように痛い。
「映画を――観たよ」
 ただそれだけのことを言うのに、舌が鉛のように重い。神成は床に視線を落とした。
「初めて会ったときに言ってた、ヴィンチャーの。レンタル屋で見つけて借りたんだ」
「そうか」
 久野里は静かに呟いた。問うというより探し求めるような、控えめな口調で。
「感想は?」
「ハリウッド俳優ほどイケメンな刑事でなくてよかったと思った」
 神成のつまらない自虐に、それでも久野里は頬を緩めた。
「そうだな。あんたはブラピとは程遠い」
「おい、確かにあれほどとは言わないけど。少しはフォローする姿勢ぐらい見せたって」
「あんたはいいとこ『精悍』ってとこだ。『イケメン』って柄じゃない。だからラースにはならなかったろ?」
 神成は押し黙った。精悍と言われたのが少しも嬉しくなかったわけではない。だがそれよりも、『怒りに任せて犯人を殺すような刑事に堕ちなかった』ことを評価されているようだというのが、妙に誇らしかったから。相手はたかだか十七歳の少女だというのに。
 つまらない自己肯定感を捨てるように、神成は暗い口調で続ける。
「三階の最奥の部屋で皮肉られた意味も解った。渡部は――あの憐れなマスコミ気取りは、ジョン・ドゥではなかったがね」
「どうかな。渡部は充分に、あのクソッタレな戯曲で踊る名無しの一人だった。宮代もあの映画を見たことがあるようだったし、『あいつ』もそれを知っているんだから、喜んで渡部も柿田も仕掛けに組み込んだんだろうさ」
 久野里は学者の顔つきで脚を組んだ。
 彼女が指しているのは、恐らく一人の少年の産んだ妄想のことだけではなくて。その夢を歪めた、『邪悪なオトナたち』も含んでいるに違いない。
 ただ何が正だとか邪だとか、そんな風に断じるには、神成はもういろいろと知りすぎているし、大人になりすぎている。それを断罪できるのは、きっと彼らぐらいの青少年までなのだろう。久野里は既に境界に在って、どちらの立場も取れないのかもしれないが。
 彼女の長い睫毛が下を向き、美しい両手に視線が落ちる。
「……ラースになりかけたのはあんたじゃない。私の方だよ、神成さん。アメリカの平原なら間違いなくトリガーを引いていた。連中相手にそんなものが通用するかは別の次元の話だが、そういう存在に堕ちていたのは間違いない」
 『碧朋学園』の地下でのことを言っているのだと、すぐに解った。
 神成はあのとき何があったのか、宮代から断片的に聞いているだけだ。しかも彼は途中から、久野里を認識できなくなっていたらしい。彼女自身が語ろうとしないから、神成は結局真相を知らないままだった。
 けれど何もかもを露わにすることだけが正義ではないと、あまりに思い知らされて。聞き出すことがついに出来ていないし、この先も自分からそうすることはないだろう。
 神成は椅子の背もたれに片手を置いて、梳ればもっと輝くはずの黒髪を見下ろした。
「守れなかった。物理的には傍にいたはずなのに。すまない」
「何を勘違いしてるんだ」
 顔を上げた久野里は口唇こそ嘲弄のように上げていたが、眉が悲痛に寄っていた。
「目の前でも止められないことなんていくらでもあるだろう。ましてベテラン刑事が出来なかったことを、あんたが出来なくて謝る? 自惚れが過ぎるなエリートさん」
 神成は表情を強張らせ、椅子から手を離して半歩後ずさった。
 久野里は映画の中の、定年間際の老刑事のことを言ったに違いない。そうに決まっている。それでも彼女には何もかも見透かされているようで。事件半ばで不審死した先輩刑事のことを指摘されて、生き残っただけで上出来だと皮肉られたようで、動悸がおかしくなる。
 久野里は神成の様子を見て、表情を消した。
「映画でも、観るか。投獄された元精神科医のを観たことは?」
 フォローしているつもりなのか、椅子の向きを変えてパソコンに向き直る。神成は苦笑して頭をかいた。こんなときでさえ猟奇的な映画を選ぶのだから困る。
「有名な一本目ぐらいは。続編は観てない」
「じゃあそちらを。カーテンを閉めろ」
「昼間からこんなところでカーテン閉めて、それこそ未成年者と何をしてるんだって話になりそうなもんだがなぁ……」
 ぶつくさ言いながらも、神成は窓際まで歩いていって言うとおりにした。逆らっても、結果が変わらないのに労力を使うだけだ。
 電気も消せと言われたのでそうした。頼りはモニタの灯りだけになる。ディスクはあるのかと問えば、アメリカで焼いたのがハードディスクにあると言う。問題はある気はしたが、海の向こうで起きた違法行為は日本の法律で裁けない。
 
 パソコンをベッドに向けて――ここは病室だから――並んで座る。二時間立ち見はごめんだったし、どっちにしろ低い位置の小さなモニタを二人で見るには、こうするしかない。
 音声出力端子は一つしかなかったが、途中で二股になるケーブルを久野里が持っていたので、片方は彼女が自分のヘッドホンを繋ぎ、もう片方に神成が私物のイヤホンを繋いだ。
 彼女が再生のクリックを終えて、神成の左隣に戻ってくる。
 どうして俺は若い女の子とこんなことをしてるんだろう、と薄暗い部屋で薄暗い画面を見ながら、神成はぼんやりと思う。
 二作目は一作目と比すると数段落ちる、と久野里がもっともらしく言う。じゃあ傑作を選んでくれよと言えず、ポップコーンの代わりに携帯食のカロリーブロックを半分差し出した。久野里は文句も礼も言わずにぺろりと食べ切った。
 確かにじっとりと嫌な感じばかりで気分のよくない映画だった。救いがないとか、そういう娯楽的な話ばかりではなく。陰惨な現実にくたびれた瞳には、虚構の薄っぺらさばかり目障りに映る。
 実際に人が死ぬってのはこんなもんじゃない。人が殺されるっていうのは。
 人を殺すっていう人間はこんなもんじゃない。全部作りものの嘘っぱちだ。
 ここのところ神成が必死に追ってきた事件たちだって、全部悪趣味な劇だったのに。こんな、フィルムに収まった脚本と特殊メイクなんて、陳腐すぎて。好奇心の権化のようだったあの少年が、その願望を叶えることだけを至上とした少女が、満足し切れなかった気持ちも今なら解るような気がする。
 神成は途中からイヤホンを片方外してしまった。
 久野里はつまらなそうに画面を見つめていた。だがそのうちに少しずつ、左手の親指の爪を噛むようになってきた。神成は映画の内容そっちのけで、久野里の手ばかり気にしていた。手入れが雑とはいえ、若いだけ以上に美しい指が、あんな風に傷ついていくのは見たくない。
 初めのうちこそ声をかけたり肩を叩いたりしていたものの、久野里は画面を食い入るように見つめ始めると共にそれを意に介さなくなってきて、神成は実力行使に出るしかなくなった。彼女の手が上がる度、払う。何度も。何度も。何度も。足りなくなって、神成はぎしりとスプリングを軋ませながら、左脚をベッドに乗せた。
 後ろから左手を握り込んで抑える。久野里は抵抗しなかった。
 彼女はなおも画面を見つめていた。パソコンの小さなモニタの中の、作家の妄想をそれらしく飾っただけの、彼女が軽蔑しているはずの猟奇映画。初めて見たはずはないのに。本物の変死体を見て顔色一つ変えない彼女がこんな子供だましで怖がるはずはないのに。
 いつも鋭いその瞳は見開かれたまま、瞼がずっと震えていて。画面の中で頭蓋を開かれた男は自分の脳を食べていて。
 神成は残っている右手で、彼女の目元を覆った。やがて手の平が湿ってきたのは、神成が汗をかいてきたのか、それとも彼女が。
 左手で彼女の手を握って。右手で小さな頭を包んで。まるで後ろから抱きしめるように。彼女が震えているようだったから、自分は震えないようにしようと思った。
「原作と……」
 彼女がうわごとのように呟く。うん、と神成は静かに頷く。
 画面の中ではドレスを着た女性捜査官が、猟奇殺人犯である元精神科医に手錠をかけている。
「原作と映画は、結末が違うんだ。映画では二人は、決別する……」
「ああ。原作では?」
「二人は、二人だけが解り合って、ずっと共に……狂気の檻で……幸福に……」
「――そうか」
 神成はそっと彼女のヘッドホンを外し、膝の上に置く。片耳のイヤホンの中では女性捜査官が叫んでいる。
「彼女は一緒には生きないって。俺は原作のことは知らないけど。俺が今見ている彼女はそう拒絶してるよ。久野里さん」
 痛む心と裏腹に、神成は微笑んでいた。
 ――ああ、薄っぺらなのは俺だった。戯曲を安っぽいと感じるのは観客のやること。彼女は興じるには舞台裏を知りすぎて、客の驚くような演出には動じない。
 だが、だからこそ作家の意図に敏感で。自らが出演することだけは避けたくて。かつて、そしてきっと今も、登場人物であることをずっと捨てたくて。それは客には知りえない事情で。見ているだけの無責任な部外者には、破綻しているようにしか見えない。あるいは退屈なほどに。
 神成は知らない。元精神科医がどうやって倒錯していったのか。何故あの女性捜査官は、原作では狂い堕ちることを選んだのか。
 和久井修一は彼女に何をし、何を言ったのか。久野里澪は何故、委員会のこととなると冷静さを欠くのか。佐久間恒は何故凍結されたプロジェクトにあそこまで固執したのか。宮代拓留が何を見て育ち何に刺激を受けたのか。尾上世莉架は何を汲み取りどこまで反映させたのか。
 神成岳志は、知らない。知らないことに、なっている。だから。
「久野里さん。映画を止めて、カーテンを開けよう。こんなところを誰かに見られたら、俺も宮代くんと同室になりかねないよ」
 ――だから、道化でいられる。無知だから。無知だと知っているから。場違いなことを言っても、許されて、いられる。
 久野里の右手が動き、神成の片耳にまだ差さっていたイヤホンを払う。
「合意があっても?」
「合意の有無に関わらず、片方が成人していた場合は婚姻かそれに近い関係であると法的に証明できなければアウトだ。どっちみち男が結婚できるのは十八からだから、若年同士のカップルでない限り、十六から十七歳の極めて特殊な環境下にいる女の子にしか適用されないけど。それぐらい賢い君なら知ってるんじゃないのか?」
「そうだな。何かあったとき立証できるように法律知識は一通り入れてる」
 つまらなそうに呟く様子は、もう完全に神成の知っている久野里澪だった。安堵して力を緩めたとき、何かが起こった。バランスを崩してベッドに背中から倒れる。彼女に護身術をかけられたとすぐに了承したのは、今日は非番で油断していたとはいえ神成が刑事だったからだ。
 久野里は両手を突っ張って、神成の手首を押さえつけていた。捕食者のような目つきで見下ろしてくる。
「じゃあ、私は自分の意思で犯罪者を一人生み出すこともできるわけだ?」
「ちょっ、と、まて」
 洒落にならない。なっていない。洒落だと信じたいがこの少女は企業の株価ぐらい涼しい顔で暴落させるツワモノである。どこまで本気か分からない。
「大人をからかうのは、よしなさい」
「声が情けないですよ、『オニイサン』」
「こんなときばっかりしおらしく敬語なんてつかっ――!」
 がばりと覆いかぶさられ、神成は言葉を失った。
 首筋に生温かく湿った何か。文字通り舐められている。ぐっと目を閉じて煩悩を追い出そうとした。
 神成とて童貞ではない。今はこんな生活で相手がいないが、恋人と睦み合ったことぐらいある。これしきで動じてやるわけにはいかない。
「『性交又は性交類似行為』――類似っていうのはどこまでだ?」
「口淫手淫等性器接触行為をはじめ客観的に性交に近いと判断される行為、合意がなけりゃ青少年保護条例違反だけじゃなく強姦罪や強制わいせつ罪も適用される! 言っとくが実行したら俺が権限を失う前にお前に手錠をかけるぞ、見逃してる罪状ならごまんとあるんだからな!」
「大きな声を出すなよ。本当に人が来るぞ」
 くっくっと喉を鳴らして久野里は身を起こし、神成から離れた。そのままパソコンの方へ歩いていく。
 神成も毒づきながら起き上がる。心臓がうるさかった。照れ隠しならもっと穏便にやってほしい。これ以上寿命が縮んではかなわない。
 久野里はマウスに手を伸ばし、とっくに終わっていた映画の再生ソフトを切った。
「あんた、しょっぱかった」
「人間の汗のナトリウム含有量なんて、君の方が詳しいだろ」
「反応が処女みたいだったぞ」
「俺は君と違って何事にも紳士的に当たる主義だから押し倒したことも押し倒されたこともないんだ」
 嘘だった。押し倒したことはある。まだ初心だったとき。誘われて辛抱ならなくなったから。
 久野里は見透かしたように鼻で笑った。
「私はヴァージンだが?」
「……知らないよ」
 神成はもぞもぞする首筋をこすりながら言い捨てた。ベッドから忙しなく立ち上がって窓辺に歩いていく。
「その映画、消した方がいい」
「そうする。違法ダウンロードだしな」
 そういう意味で言っているのではないことを、彼女はきっとよく解っている。解っているから茶化してごまかしている。頭がいいくせに、そういうところがまだ子供だと苦笑しながら、神成はカーテンをそっと開けた。
 もう夕刻になっていた。白んだ茜と薄紫。少しずつ熱を失う空気。何かを見送る色だなと、神成はぼんやり思う。口に出していたら、何かではなく太陽をだろうと久野里にまた笑われただろう。
「神成さん」
「うん?」
 呼びかけられて振り向く。そのくせ彼女は神成を見てはいなかった。壁の方を見ている。恐らくはそこに何かあるからではなく、虚空を求めた先に壁があっただけ。
「私のファーストネームを、知っているか」
「何を今更、唐突に。百瀬さんがいつも呼んでるじゃないか。久野里澪さん、だろ」
「ああ」
 彼女らしからぬ気の抜けた返事があった。
 神成は眉をひそめる。彼女には神成の思考が丸分かりでも、逆はほとんどあり得ない。今度も彼女の真意が読めなかった。だから黙って、続きが紡がれるのを待った。その涼やかな声で紡がれるのを、待った。
「向こうに……アメリカにいたときは、みんな私をファーストネームで呼んでいたんだ。クノサトって響きは連中の言語に馴染まないしな。クヌサトゥって具合になる奴らばかりだ。ミオでいいとずっと言ってた。さっき映画を観ていて思い出した」
「そうか」
 彼女は彼女の導きたい結果に至るだろう。神成は今一時、じっと彼女の流れを促すのみ。それが久野里澪という少女との、恐らくは最も理想的な関わり方。
「最近はみな私をファミリーネームで呼ぶから、ああここは日本だなとつくづく思う」
「君の苗字は特に珍しいからな。印象に残るんだよ。下の名前はどちらかというと、そう……気を悪くするかもしれないけど、ありふれてるから」
「別に、気を悪くはしないさ。だから百瀬さんは私を下の名前で呼ぶんだからな」
 久野里が口角を上げて神成を見た。その後ろの夕陽が眩しいのか、わずかに目を眇めている。
 神成も背中の西日がじわじわと熱を持つので、スーツのジャケットを脱いだ。左腕にかけて彼女と再び向き合う。
 ここから動いて距離を詰めようという気は全く起こらなかった。
「親しみを込めて?」
「その憐憫を孕みながら、日本では『久野里』と呼ばれる暴君が、アメリカで『ミオ』という取るに足らない研究者であったことを絶えず思い出させるために」
「百瀬さんはそんな意地の悪い人じゃないよ」
「そうだとも。だから『ちゃん』をつけるだろう。とても酷だが優しい人だから」
 歌うように言う姿は、神成に反論など望んではいない。あるいは返答さえ。彼女にとって今のは井戸の底に向かって吐いた台詞と同じだから。
 アメリカで彼女の常に上を行ったという『天才』のことも、神成は新聞の紙面の端で名前を見た覚えがあるぐらいで、細かいことはネットで検索したことの範疇を出ないし。かつての宮代の好んだ言葉を借りるなら、神成は『情弱』で。
 彼女の本当に望むことなど、解りはしないから。
「ありふれてはいるが。俺は、いい名前だと思うぞ。似合ってる。君に」
 ――せめて本当に思ったことだけ、言わせてほしい。
 彼女が暗く沈んでいた瞳を神成に向ける。逸らしたい心を奮い立たせて、努めて大人らしく、否、彼女は大人の正論を振りかざす割にそれが好きではないから、ただ人として真っ直ぐに言い切る。
「酒かなんかの名前で気になったから調べたことがある。『澪』っていうのは水路のことなんだろう。君は渋谷の穢れた淀みを、濁流かもしれないが解き放った。路になった。君にしか出来なかったことだ。誇っていいんじゃないのか」
 彼女はぼうっと神成を見つめていたが、やがて笑い出した。初めの押し殺していたのが、腹を抱えて声も上げて。
 神成はかっと顔を赤らめて怒鳴った。
「た、確かに柄にもないことも言ったとは思うが、人の精一杯の誠意をだな――!」
「ああ、そうだな、別にあんたの気遣いを無碍にしようってんじゃない。ただ、私は『自分の名前が嫌いだとは一言も言ってない』んだよ」
 あ、と神成は彼女の発言を思い返す。確かに彼女は、言っていない。勝手に神成が読み違えただけだ。右腕で顔を隠しながら毒づいた。
「紛らわしいことを言うから」
「あんたが勝手に突っ走って恥ずかしい台詞を並べ立てたんだよ、神成さん」
「……もう帰るよ」
 わざとらしい咳払いをして、神成は彼女を見ずに病室を横切った。ドアに手をかけようというところで、急に肩を掴まれて振り返らされる。
 口唇に何かやわらかい感触。そして舌には異物感。
「なんっ」
「キスはやれないが、チョコレートぐらいなら。バレンタインでなくて恐縮だがね」
 眼下で彼女が笑っていた。あの意地の悪い笑い方。粘膜をかすめた細い指に、先ほど熱い舌が触れた首筋がうずいた。
 ごまかしたくてどうでもいい不平を述べる。
「いやに苦いぞ」
「カフェイン含有量が多いんだ。最後の一粒だからじっくり味わいながら帰ってくれよ」
「……君ホント、俺のこと嫌いだろう」
 彼女は否定せずににやにやしているだけだ。
 相手にするだけ時間の無駄と悟り、一応チョコレートの礼だけ言って、今度こそ神成はドアに手をかけた。
 だが引く前の一瞬に。逡巡、のような。悔恨、のような、寂寞のようなものに、襲われ。
 どういう顔をするべきか迷ったけれど、結局彼女に微笑みを向けた。
 久野里澪という、特別他に付随するものもない少女に。
「また来るよ。……澪さん」
 彼女もまた合わせ鏡のように微笑み、ゆったりと落ち着いた声で答えた。
「はい。では、悔いのない毎日を。岳志さん」
 神成は動揺して勢いよく出てきてしまった。急に異星人と出くわしたような気分だった。いきなり大人の女性になるなというのだ。あれは誰なのだ。『ケイさん』か。
 そのくせドアを開けてひょこりと顔を出す彼女はいつもの久野里澪で。
「あ、そうそう神成さん」
「なんだよ」
 神成は身構えて、一メートルほども離れた、首から上しか見えない彼女を睨んだ。
 彼女はしれっとこう言った。照れもなく。悪びれもせず。あの尊大で人を小馬鹿にしたトーンで。
「私はもう十八になってるぞ」
「……」
 神成はその意味をしばし考えてしまった。考えて、気付いて、思い出して、一瞬で全身の血が沸騰する。
「だからなんだよ!!」
「大声出すなよ、院内だ」
 お決まりの喉で笑う声を残して、彼女はドアの持ち手から手を離した。それだけですうっと二人の間に物理的な壁が出来る。
「だからなんだよ……」
 神成は呻きながら、頭を抱えてぐったりと座り込んだ。
 今更、もう合法だと言われたって。そんなの。未成年は未成年だ。それ以上でも以下でもない。彼女はまだ子供だ。『まだ』。
「まだって何だ……」
 舌の上でざらつくチョコレートは薬みたいに苦い。自分はきっと思春期の少年みたいに情けない顔をしていると思う。
 スタッフに出くわす前に、さっさと病院の外に出た。
 数歩歩いて、建物を仰ぎ見る。あまりにも陰謀と怨念にまみれた場所。本当は一秒だって、彼も彼女もここに置いておきたくはないけれど。
 彼らは選んだ。未成年なりに。青少年なりに、自らの選択の上に立っている。ときに取り乱すほど幼い心を、懸命に剣と変えて。それはきっと、妄想よりも得がたい刃。だから。
「……守るさ、俺は。君たちが名実共に大人になるまで。首を突っ込んだからには放り出さないのが、俺たち大人の責任だからな」
 もうほとんど落ちかけた、角度のない陽射しが眩しい。神成は目を細めて笑った。
「その代わり、君たちが大人になったら。酒でも飲めるようになったら、保護者を卒業して――対等な友人にならせてもらうよ」
 それまでは、流れを間違わせないための、せめて標で在ろう。
 スーツのジャケットを羽織り直し、神成は長い影を連れて歩み去っていった。

 

引用:
・デヴィット・フィンチャー『セブン』
(久野里が出会い様に引用した台詞は二人の刑事が最初に向かった現場で聞くことが出来る。『カオスチャイルド』の作中では「ヴィンチャー」の『エイト』。ちなみに七つに統合される前の枢要罪には「嫉妬」がなく、「虚飾」「憂鬱」が含まれている)
・リドリー・スコット『ハンニバル』
(原作はトマス・ハリスの同名小説。『羊たちの沈黙』の続編で、そちらに登場する殺人鬼たちは、それぞれ実在の殺人鬼、エド・ゲインとヘンリー・リー・ルーカスの影響を強く受けていると言われている。宮代や伊藤もこの一作を観たのだろう)