青い首輪をいつ外す

 神成は『パリピ』や『陽キャ』、『リア充』などの表現を他人に用いたことはないが、周囲の客席は他にどう呼んだらいいか分からない人種ばかりだった。
 二〇一八年の六月上旬、渋谷のビアガーデン。小洒落たテラスの椅子が固くて、さっきから何度も座り直している。
 目の前には久野里澪。マリンストライプのブラウスはノースリーブ、この時季さすがにまだ涼しすぎる装いではないだろうか? 本人は平気な顔で中ジョッキをテーブルに置く。
「あまり旨いもんでもないな。ビールってのも」
 そうは言いつつ、たった今三杯目を空にしたところだ。神成は眉をひそめてメニュー表を持ち上げた。
「なら俺のペースに付き合って無理に飲まなくていい。ジュースでも頼め」
 数日前、そろそろ暑いしビアガーデンなんていいわねと百瀬克子に切り出され、ええいいですねとつい安請け合いしてしまったのが運の尽き。知り合って長いというのに、酒の席に誘われることなんて初めてだった。何か裏があるとは覚悟していたが、まさか当日になって去年二十歳になったばかりの小娘を代打で寄越すとは思わなかった。
 神成は受け取られる気配のないメニューをたたみ、テーブルの下の収納スペースに滑り込ませる。
「というか、いつ帰ってた。日本に」
「ときどき呼ばれて戻ってる。毎回知らせるような仲でもないだろ」
 久野里はフォークを動かす手を緩めずに答える。
 料理は二品目。しかし神成はお通しのピクルス三切れしか口にしていない。焼き肉店の教訓からBBQを避けてコース制にしたのに、これではあまり意味がなさそうだ。
「確かに俺はあんたの何ってわけでもないが、猫を預かってやってるんだぞ?」
「猫の世話ぐらいで女の予定を押さえられると思ってるから、決まった相手がいないんじゃないのか」
「一人暮らしにペットを押し付けて、婚期を遠のかせてる張本人が言うな」
「そういうとこだぞ」
 神成はぐっと言葉に詰まった。サラダの強奪を目論む気力もなくなり、視線を空に逃す。
 都会の無個性な夜に、赤い色だけが年々毒々しく自己主張を強めている。綺麗なままのテーブルナイフでオーロラを示した。
「なぁ学者先生、あれが不吉に見えるのは俺がナーバスになってるせいなのか? どうもあの下で酒飲んでバカ騒ぎしようってテンションにはなれない」
「二つまでならタダで答えてやる。まずテンションの件はあんたの性格の問題で、あの赤いのが気になるんなら早く携帯電話からポケコンに乗り換えた方がいい」
「なんで」
「近いうちまた大規模な太陽嵐が来るようだ。そうしたら奇跡的に十五年クラッシュを乗り切ったあんたのクズみたいなガラケーが、今度こそ掛け値なしのクズになる」
 三品目がテーブルに並んだので手を伸ばそうとしたら、久野里に皿ごと持っていかれた。
「何するんだよ」
 今までの前菜ならともかくやっと腹にたまる飯だ。そろそろ胃に入れておきたいのに。
 久野里はこんがり焼けたソーセージを、悪意を感じる角度で食いちぎった。
「三つめのアドバイスだから追加料金だ。特別に現物でいい」
「ここの代金は俺持ちなんだぞ」
「ああまたそうやって金だの恩だので女を意のままにできると思ってる、嫌な男だなあんたも」
「そっちが金の話にしたんだろうが!」
 久野里澪と話していると万事が万事これだ。もうさっさと勘定を済ませて、一人で飲み直した方がマシでは――目を動かさず指先だけで財布の中身を数え、神成は懐より胃を犠牲にすることを決めた。
 先程無視されたメニューを手に取り、飲み放題の欄を見る。いろいろあるけれど、やっぱりビアガーデンでビール以外を飲むのは邪道な気がして実質一択。
「次に料理が来たらドリンク頼むけど、久野里さんは?」
「あんたと同じでいい」
「わかった。ウーロン茶だな」
 一択なのはあくまで自分だけ。脂質を独占している奴にはこれで充分だ。
 久野里はつまらない嫌がらせには乗らなかった。紙ナプキンで口を拭って、ゆっくりと立ち上がる。
「トイレ」
「……そうか」
 神成は眉をひそめ、背の高いメニューに顔の下半分を埋めた。
 女の言う『トイレ』が、男の同じ言葉ほど単純でないことぐらいは一応承知している。とはいえ今更赤くなられたって困るだけなのに、少しは恥じらえよと思ってしまうのだから我ながら身勝手だ。
 右手のメニューを戻す。左手側を久野里が通り過ぎようとするのが、見るでもなく目の端に映っている。不意にハンカチ一つ持たない長い指が揺れて、神成は考えるより先に思いきり左腕を突き出した。
「おい!」
 とっさに抱き留めた身体には力が入っていない。息も不自然に浅くなっている。
 神成は人工芝に膝をつき、久野里をあらためて抱え直した。
「久野里さん!? 大丈夫か、久野里さん!」
 冷たい腕を叩きながら呼びかける。長いまつ毛が上がり、瞳が神成を捉える。いつもの怜悧な色はなかったが、焦点はしっかり定まっていた。
 ひとまず安堵して質問を重ねる。
「記憶に何か混乱は? ここがどこかは分かるか? 俺のことは?」
「渋谷のゴミ溜め、あんたは一緒にビールを飲んでた無能刑事」
「とりあえず、意識障害はなさそうだな」
 ひどい言い草も、それだけ頭が回っていると考えれば腹は立たなかった。起きられるかと問う前に久野里は立ち上がり、自分でテーブルの上のお冷を飲んだ。
 そのうちに店員が飛んできた。隣の席のカップルが呼んでくれたらしい。神成は彼らに頭を下げ、二組分の会計を済ませて店を出た。久野里がどう嫌がっても、彼女の腰を支える手だけは外さなかった。

 

「事務所、まだ開いててよかったよ」
 というより会場をフリージアの近くにしていてよかった。
 珍しく社長不在の事務所では、数名の社員が残業をしていた。神成が久野里を抱きかかえてきたときは面食らったようだが、酔ってしまったと説明したら応接間を借してもらえた。
 弱った彼女を何となく外にさらしたくなくて、神成はカーテンを全部閉めた。それからソファに歩み寄り、横になっている久野里のそばに腰掛ける。
「まだ寒いか?」
「暑い。もう血圧も戻ってる、大袈裟なんだよ」
「逆だろ。無頓着すぎたからこうなった」
 細い手首を取る。健やかな熱と規則正しい脈があった。
 神成は測り終えても指を開かず、薄い皮膚に透ける血の管を見ていた。
「本当にすまなかった。向こうでは酒は二十一からだって、すっかり忘れてた。初めての酒なら、大人がもっと監督しておくべきだったのに」
 起きようとする気配。肩に触れて留めようとしたが、言うことを聞きそうもない。仕方なく手を貸して座らせる。少しでも楽なようにこちらの身体へもたせかけてやった。
 甘い匂いが立ち上っている。アルコールだとは思うが酒ではない。藤のような、どこか懐かしい花の香りに、その追憶を嘲笑うようなスパイスの刺激。淡く霞んでは感覚の奥を強く掴む。
 彼女はもう、十八歳のあの少女ではない。大人になりかけている。なろうとしている。
 比べて、自分はどうだ。毒づいて主導権を握ろうとするばかりで、少しも彼女を気遣えなかった。
「嫌な男だな、俺も」
 力ない手つきで長い黒髪を撫でる。
 久野里が笑った。息が首元にかかってくすぐったい。
「私の過失だ。あんたが気に病む必要はない」
「いいんだ、庇わなくても」
「庇ってるんじゃない」
「じゃあ、慰めてるのか?」
「それも違う。よく聞けよ」
 妖艶な声で、彼女は囁いた。
「演技だった」
「――は?」
「演技。芝居」
「演技」
 鳩が豆鉄砲を食らったって今の自分より随分マシなリアクションを取るだろうと思う。
 神成は黙って彼女の顔を見る。彼女も神成の顔を見る。お互い無表情だった。
「なぁ、久野里さん」
「ああ。お察しのとおり、酔ってはいない」
「じゃあよろけたとき俺が助けなかったら?」
「普通に受け身を取ってた」
「受け身」
 処理しきれずまたオウム返しになった。そのまま人工芝に叩きつけられてしまえばよかったのに、と言わなかっただけ褒めてほしい。
 神成は彼女から手を離し、自分の頭をがしがしかいた。あのとき抱き留めた感触も重さもまだこの腕には残っている。だというのにあれが全部演技?
「一体、何でそんなバカなことを……」
「受け身のことか?」
「受け身のことじゃない! 受け身は取れ、重要だ!」
 どうでもいいところに話を持っていかれて埒が明かない。
 これ以上混ぜ返されないよう、久野里の肩を掴んで目を覗き込んだ。
「そうじゃないのは解ってるだろう。なんでそんな、俺をだますようなことを」
「だから大袈裟だと言ったんだ。からかっただけだよ」
 久野里は顔を背けて神成の胸を強く押した。神成はむしろ身を乗り出して答えを迫る。
「俺が動転したから引っ込みがつかなくなって続けた?」
「逆だ。予想より食いつきがよかったから続けた」
「それでいい加減可哀想になったからやめた?」
「どうだかな」
 どうもこうも、抵抗する腕はどんどん力をなくしているくせに。
 よそを向いたままの彼女の頭。神成はそのこめかみの辺りに口唇でそっと触れた。一瞬硬くなった身体はすぐに緩んだ。
 ――ああ、なにもかにも、それが答えか。
「ふらついたのは、本当に演技か」
 剥き出しの肩に額を押し付けて呻いた。久野里は静かに返事をするだけで振り払わない。
「そうだ」
「だが、酔ってないと言ったのは嘘だな?」
 久野里は答えなかった。ハッタリをどれだけ言えても、嘘を突き通すほど悪どくはないのだ。
 そして神成も、ここまできて事実を認めないほど卑怯では在れない。
「いくら君が女優でも、体温までは操れないだろう。――あのときは冷たかった」
「そうだな」
 突きつけたのは神成なのに、肯定する声は酷薄に響いた。実体もなくゆらめく花の香は、いくら男を惑わせようとしても偽物だった。
「若気の至りってやつだろ、酒の失敗なんて」
 久野里の手が乱暴にネクタイを掴む。絞め殺しそうな剣幕。なのに台詞は悲痛に響く。
「誰にでもある。一度他人を上手く監督できなかったぐらいで、いちいち落ち込むな」
「そう言えたら楽だったかもな。俺は首輪付きだから、アルコールに関するしつけは子犬の頃からされてるはずだったんだよ」
 自嘲すれば、久野里はなおさら不機嫌に顔を歪めた。
「その枷なら、いつも世間の目を盗んで緩めてるだろう。今更になって重いふりか?」
 ネクタイが見る間に解かれていく。襟の裏をこする音がして、武装が完全に剥ぎ取られる。
 公人の青い枷は彼女の手中で枝垂れる。美しい藤のように。命の残骸のように。
「こんなもんどうでもいい。お前の本音を言ってみろ、神成岳志」
 鮮烈な命令にも、神成の喉は喘ぐように一度引きつっただけだった。
 こぼす本音も残された個も見つからない。欲望だけが強烈に五感を揺さぶる。アルコールで頭をやられたのはどうやら自分だったのかもしれない。
 手を伸ばして、先程よりは赤みの薄らいだ細い首に触れた。何の枷もない首に。
 元々ざらついた男の声は、受け入れがたい現実にやすられて粗く空気を引く。
「演技だろうと、本当だろうと」
 結論は変わらない。酒を注文したのが彼女自身だろうと、口をつけたのが彼女の意思だろうと関係ない。向かいで見ていたのに飲むのを止めなかったのだから。
 おかしくないのに笑みが浮かんだ。
「俺は君に、優しくできなかった。君が急性アルコール中毒になりかけたのは、紛れもなく俺の不注意だ」
「それはもう済んだ事実だろう。私が言えと要求したのは今の感情だ」
 彼女の表情は間違いなく本物だった。そんな慈愛みたいな微笑み方ができるなんて、知らない。
 折れそうな鎖骨を撫でる。そのまま自分の手の甲越しに口づけた。涼やかな声を宿す喉に、やわらかく。
「これからは庇われる前に、自分から気遣いたい。男らしく、大人らしくいたい」
「まだ着飾ってる。もっと脱げよ」
「……ああ、そうだ。認めるよ。綺麗に言い換えた。本当は、首輪をつけて管理したい。君がつらい目に遭わないように、しっかり見張っていたい。ずっと」
 結局、一番醜い本音は影に隠して、神成は緩慢に身を離した。立ち上がりワイシャツとジャケットの襟を正す。
「今夜はどこのホテルを取ってるんだ。前と同じ御茶ノ水か?」
 下心もないでもないが、それを抜いても彼女の体調が心配だ。今は安定して見えるが、シャワーや睡眠でまた悪化しないとも限らない。できれば朝までそばに付き添ってやりたい。しかし一人分で契約したのに後から追加で入るのは違法なので、一度キャンセルしてどこかで二人分取り直さなければいけないのだ。
 久野里はにっと笑って脚を組む。
「帰るのは明後日の便だが、今日はどこにも宿を取ってない」
「……こいつ」
 神成は引きつった笑みを返した。
 こっちが何の気も起こさなかったら一体どうするつもりだったのか。いや、この女ならあるゆるケースで二手三手読んであるか。
「言っとくが俺んちはダメだぞ。他の犬がときどき巡回に来る」
 わざと舌打ちをして、殊更不機嫌なポーズで首の後ろをかいた。久野里も、あ? と首を傾けながら腰を浮かす。
「自分の庭にいる時点で譲歩しろよ。だったらあんたのオトモダチがもっとうろついてるラブホ街に行こうってのか?」
「なんでいかがわしい方のホテルなんだよ! ビジホのダブルとかでいいだろ」
「ダブル? ツインですらないのか、とことんケチな野郎だな! あんたこそ随分とヤる気満々みたいじゃないか!?」
「違う、俺は酔っ払いの介抱をするだけで寝ないんだから最低限でいいんだ!」
 胸同士がぶつかりそうな距離で言い合っていたら、騒ぐなら出て行けと事務所を追い出された。内容も内容だったので異議も唱えられないし、同じ勢いのまま外で争うこともできない。
 スラックスのポケットに両手の指を引っ掛けて歩き出す。示し合わせたわけでもないのに彼女もジーンズのポケットで同じことをしていた。ネクタイを持ったまま。
 週末の渋谷は夜でも眩しい。
「……ものを壊したりとかしないなら来てもいい」
 早口で言い捨てる。今走り去った車のバカみたいに大きなエンジン音で聞こえなかったかもしれない。それならそれでもいい。
 久野里は口を尖らせて、もう閉まった店のシャッターを睨んでいる。
「ゴムなしでしないなら行ってもいい」
「だ、か、ら、しないって言ってるだろ」
「ゴムを?」
「その有無じゃない、何もしない!」
「介抱はしてくれるんじゃなかったのか? それも含めて何もしないのか、そうか」
「ああ言えばこう……!」
 怒鳴りかけて、途中で力が抜けてしまった。首を振って左手を出す。
「ネクタイ、いい加減返せよ」
「明日の朝になったら返してやるよ」
 久野里は他人の首輪に音を立ててキスをすると、自分の左手にぐるぐる巻き付けた。
 怒る気力もなく引っ込めようとした左手に、何かが触れる。思い直してネクタイを返してくれたのではなかった。久野里の右手。傲岸な表情の割にひどく控えめに、神成の指先を掴んでいた。
 神成は勢いよく息を吸ったが、何も言えなかった。犬のように低く唸って、彼女の手を強く握る。顔も見ないでどんどん先へ進む。
「絶対に一線は越えないからな」
「しつこいな、何度念を押すんだよ。操を守りたい相手でもいるのか?」
「いるよ」
 だから。神成は歯噛みして俯く。
 だから、冗談みたいに本音を探って、そのくせ今更手を引っ込めようとするのなんかやめろよ。
 手を繋いだまま振り返る。通り過ぎたオートバイのテールランプさえ目に染みるけれど、彼女の顔を真っ直ぐ見る。
「管理して守りたいって言ったろ。お互い素面で、関係をはっきりさせて、そんな風に試さなくても信じてもらえるようになるまでは何もしない」
 久野里は目を丸くして固まっていた。
 神成はそっと指を開き、彼女の手にあるネクタイを抜き取った。彼女の首にかけて、ゆっくりと丁寧に結んでいく。小剣を引いて、ブラウスの襟を直して、形を整えた。
「ああ、意外と似合うな。青いのも」
 さっき彼女が口唇で触れたのと同じ箇所にキスしてみた。自分のネクタイなのに、不思議な気分だ。
 久野里はノットに左手をやったが、解こうとはしなかった。
「私も言った。明日の朝になったら返すと」
「そうだな」
「だから」
 久野里は胸を張って歩みを再開した。神成の家など最初から知っている足取りで。
「明日になったら、私はこの首輪を引きちぎる」
「残念ながら恐らく君の肝臓じゃ朝までにあの量のアルコールを分解しきれない。うちにはチェッカーがあるから疑うなら試してみるといい」
 神成も大股で抜き返した。いつもより首元が涼しくて、声も軽やかに躍り出る。
「だが追加の情報をひとつ。俺は明日久しぶりの全休で、買い物以外で家からは出ないつもりだ」
「……自堕落エロオヤジ」
「何だと?」
 性懲りもなく、取るに足らない口喧嘩が勃発。コンビニでスポーツドリンクとアイスを買って一時休戦。食べながら帰路につく。小さな箱の入手は……保留。
「なぁ神成さん。あんたは初めて酒を飲んだときどうなったんだ?」
「黙秘」
「潰れてカマを掘られた?」
「いいか、今は何でも下ネタに持っていくのを酔ってるからだってことにしといてやる。素面で同じことを言ったらひっぱたくぞ」
「その度胸もないくせに」
「それより、今日は何で香水なんかつけてるんだ? 急に色気づいたりして」
「うるさいひっぱたいたぞ」
「今時ひっぱたいてから言うベタが……待て『ひっぱたいた』って言ったか?」
 参った、こんなの完全に酔っ払いだ。どうでもよくなって、二人で忍び笑いしながらドアを開けた。
 あと少し、ふわふわとじゃれ合うことを許されていたい。
 首輪に慣れきった俺たちは、まだ自由の味わい方もおぼつかないんだ。