言葉の定義としましては

『今度いつ日本に帰ってくる?』
 名乗りもしなければ前置きもなく、ただ早急に用件を済ませたいという口調で神成岳志は言った。
 十二月十一日、深夜一時頃。電話を受けた澪は、目の前のモニタを見る。いつもなら無料通話アプリで連絡してくるのに、今日に限ってどうしたのか。
「先輩の気が変わらなければ年末年始はそっちで過ごす。ゾンビに噛まれたような声だが、ワクチンなら期待するなよ」
『ただの三徹だ。今日はほぼ定時で上がらせてもらったから帰ったら寝る』
 澪は頭の中で時差を計算する。午後六時ぐらいか。ベッドに横たわり、紅莉栖の融通してくれた毛布にくるまる。東京よりは随分あたたかいが、さすがに朝晩は冷えるのだ。
「外か? 運転中じゃないだろうな、事故ったら笑ってやる」
『生憎だが電車で帰る。今はまだ路上。帰ってからだとそっちは二時三時になるかもしれないから――』
「その時間なら起きてる」
『寝ろ』
「三徹が言うのか?」
『だから帰ったら寝るよ。それで、あー、結人くんが』
 お互いに混ぜ返しながら話が進む。多分向こうで頭をかいているなと思う。
『久野里さんが近いうち帰ってくるかどうか訊いてくれって。自分の口で本人に訊きなさいとは返したが、勇気が出なかったときのために保険で先に訊いた。覚えているうちに』
「相変わらず日本人らしい根回しご苦労だな」
『取り柄なんでね。これくらいの肩入れは別にいいだろう』
 澪はまたパソコンに視線を遣る。それで着信が被らないようにとあちらを譲ったつもりでいるらしい、気の遣い方が明後日なのも相変わらずだ。
『足はあるのか』
「ホテルまでは同行者の予定に合わせる。ただ東京に落ち着いてからのあいつの予定には、私は全く興味がないどころか巻き込みは御免被りたい」
 十二月、二十九・三十・三十一日。有明と秋葉原には絶対に近寄らない決意の澪である。
『じゃあこっちはこっちで予定を入れればいい。俺も都合がつけば、迎えを出してやるぐらいのことはする。宿は渋谷じゃないだろ?』
「なんで」
『なんでって、みんな帰ってくるの楽しみにしてるからだよ。さっきも』
「自分の言葉を拡大解釈するな。私が聞いたのは、結人が帰国日程を知りたがっているってとこまでだ。《みんな》ってのは、日本語の中でも私が三番目ぐらいに嫌いなやつだぞ」
 『みんな』。日本人が自分の主張を押し通したいときや、相手の意見を否定したいときに都合よく持ち出す、実体のない枠組みだ。開けてみればどうせ中身なんてありはしないのに。
 澪は枕に顔をうずめる。
 自分が、渋谷の連中に好かれているだなんて自惚れたことはない。そうするために振る舞ったこともないのだから。
 神成が、電話の向こうで小さく舌打ちした。
『そっちこそ、相変わらず言葉の定義にうるさい』
「なんだと?」
『わかった、《みんな》が嬉しいかは俺が勝手に断定出来ることじゃないから取り消す。だが、《俺》と《百瀬さん》と《結人くん》は確実に喜ぶ。……《三人》じゃホテルから引きずり出すには足りないのか』
「あんたも?」
 澪が鼻で笑えば、あーまあ多分な、と神成は煮え切らない。『確実に』と言ったのはどの口か。
『来るのか来ないのか、今すぐでなくても決めといてくれ。冷えてきたからそろそろ帰りたいんだ』
「電話代で寒いのは懐の方じゃないのか」
『うるさい』
 澪は返事をしようと軽く息を吸ったが、途中で考え直して発する言葉を変えた。
 毛布の端をぐにぐにと握り潰す。
「これは結人から私への質問なんだろ。あんたに答えるのは筋じゃない」
『そうだな。俺が最後まで聞いちまうのは、抜け駆けみたいなもんだ』
 じゃあ切るから、と神成がやわらかく言い、澪は黙って通話を終了させた。
 無礼を怒っているかもしれないが、観測範囲にないことだから気にしないことにする。次の連絡のときまでに、けろっと忘れていることを願う。
 いったん寝転んだら、急にまぶたが重くなってしまった。眠そうな声を聞いていたせいでもあるのかもしれない。
 大した時間ではないけれど、今夜はもう全部投げ出してしまおうか。目を閉じると暗闇の中にかすかな光が揺らめいていた。
 自分の状況は『幸福』と呼ぶにはあまりに頼りなく、しかし『不幸』を気取るには少しばかり与えられすぎていて格好がつかない。適当な言葉を探すとすれば何になるだろう。
 定義としては――。
 不確定なぬくもりを胸に抱いて、結論が出る前に澪は無意識へ沈み込む。
 十二月十一日も、今年はそう悪い日ではない。
 たとえば飯が紅莉栖のおごりだとかそんな些細なことでも。