私は貴女にはならない

「ねぇ、ミオも大人になったら、お酒を飲んだりタバコを吸ったりするの?」
 エリザベスの唐突な問いに、澪はひとまず瞬きをすることでしか返せなかった。
 中庭では他の子供たちも遊んでいるが、二人が並んでいる木陰には誰も近づかない。彼らは自分の世界に干渉されない限り、『外』に働きかけることはあまりないのだ。
「私が? なんだってまたそんなことを思いつく」
 澪は立て膝の上で頬杖をつく。このテストで満点取れたらおしゃべりに付き合って、なんてつまらない取引に応じるのではなかった。エリザベスは知能に障害がないから、教わった内容なら通常のテキストもすらすら解いてしまう。
「えっとね」
 少女はスカートの裾ごと両膝を抱えた。まつ毛の長い横顔は、時折年齢以上に大人びた色に翳る。
「クレアは、ときどきタバコのにおいさせてることあるでしょ? ミオもクレアみたいなお仕事をしたいなら、ああするのかなって、思った」
 澪は眉をひそめて所長室を見遣った。クレア・コールマンは相変わらず愛息子の世話を焼いているようだ。誰も何も言わないが、所内喫煙の件は周知の事実である。
 ただ、澪の知る極めて狭い範囲では、クレアが酒のにおいをさせていたことはない。エリザベスが『タバコ』より『お酒』という単語を先に持ってきたのは、明らかに違う人間――違う『大人』を想起している為なのだ。
「飲酒も喫煙も、脳や内臓を蝕むだけで何のメリットもない。あんなものを殊更シンボリックに騒ぎ立てるのはただのプロパガンダで、ストレスの緩和をそんなところに求めるのは思考放棄だ。現にあれらの中毒者は低所得者層に多い。現状を嘆くばかりで、成功体験に繋がる努力は決してしないような連中だよ。反吐が出る」
「よくわかんないけど、ミオはお酒とたばこ嫌いなんだ」
 エリザベスはころころ笑い、自分の膝に顎を載せた。いつもながら品のいい服に包まれた、まだ女児の域を出ない四肢は、わずかに震えているようであった。
「あたしは、どんな大人になるのかなぁ。全然わかんないや」
「ベス」
 澪は少女の膝の裏に片手を滑り込ませ、手のひらに小さなものを握らせた。ルイスが『おやつのじかん』に配っていたキャンディを、二つほどくすねてきていたのだ。
 目を丸くしていたエリザベスも、包み紙の感触でそうと気付いたか、ミオってやっぱりわるい子じゃんと共犯者の表情。澪も軽く笑い返して、別の一粒を口に放り込む。
「心配しなくても、お前は母親とは違う人間だ。遺伝子は似ていても、別の個体で別の生育環境にある。大人になっても、お前は母親にはならない」
 私もだ。風に散るほどかすかに呟く。エリザベスも深く頷き、キャンディの包みを開ける。
 狙ったわけではないけれど、ちょうど彼女の好きなピンク色の粒だった。エリザベスは押し殺した歓声を上げ、他の所員や子供たちに見咎められないうちに口の中へ入れてしまう。
「あのねミオ、決めたかも。なりたい大人」
「へぇ、私より先にか。どんな?」
「うん! あたしね、いくつになっても、お酒よりタバコより、キャンディの方がステキって言える女の人になりたいな」
「なんだそれ。ばっかばかしい」
 澪は木漏れ日を仰いだけれど、意外と悪くないとは思う。
 彼女はきっと、何歳になってもかわいげを残した、とびきりの美人に育つだろう。
「それでね、ここを出たらやりたいことも、いっぱいあるけど一番にすることも決めた」
 謳うような声が続いた。陽の光を梳いて集めたような金髪が風に揺れていた。夜の色を削り取ったような黒髪もそよいでいた。
 アメリカ人の少女は日本人の少女に、何の隔てもない笑顔で言った。
 
『                 』

 そんな簡単なことをどうして叶えてやれなかったのだろう。

 

「澪、どうしたの? 苦しい?」
 ――眠いときと調子が悪いときの区別がつくとは恐れ入るしかない。机に突っ伏していた澪は、うめきながら身を起こした。
 ヴィクトル・コンドリア大学。事件後またアメリカに渡ってきて、出戻りのように居座った研究室だが、いつの間にやら澪の席はきちんと作ってあった。誰の差し金か見当はついている。
「なんでもない、紅莉栖……。慣れないもの食ったら胸が悪くなっただけだ」
「え、まさか拾い食いとかしてないでしょうね」
「犬か私は。買ったものが合わなかったんだよ」
 金属製の小箱を紅莉栖に向けて放る。中にはピンク色の飴玉がぎっちり詰まっているはずだ。
「めずらしいわね、こんなの買って。缶がかわいいから?」
「かわいいと思うならもらえ。においを嗅いでるだけで吐きそうになる」
 本気で呟いて、澪は鼻ごと口許を覆った。
 気まぐれで買った菓子が、こんなにまずいとは予想外だった。香料がきつすぎるし舌がぴりぴりする。確かに、澪はアメリカでこの手のものを口にする機会があまりなかった。だが不慣れを差し引いても、この製品はひどい味だ。食品に偽装した劇物としか思えない。
「捨てちゃうなら、もったいないからいただこうかな。……ん、別に言うほど悪くないじゃない。おいしいおいしい」
 紅莉栖は小箱を検分しながら、頬ごしに居場所が分かるほど大きな飴を舌の上で転がしていた。ご満悦というほどの表情ではないが、あの刺激物を意に介していない様子である。ああもアメリカナイズされていると、日本での暮らしも長い澪にはついていけない。
 立ち上がるとき、また甘ったるいにおいで立ち眩みそうになった。
「帰る。あんたがそいつを舐めようが噛もうが構わないが、私の前では一切食わないでくれ」
「そんなに? じゃあうちで食べる用に一応もらうわ、精神的な損害と併せて補填はまた今度させて。ごちそうさま」
 ひらひらと手を振る紅莉栖。本当は缶が欲しかったんだろとからかう気力すらなく、澪は呼ばれていたわけでもない研究室を出ていった。
 街の様子は月並みにクリスマス一色だった。
 重みで枝が折れそうなぐらい電球の巻き付けられたツリーもあったし、日本のラブホテルよりけばけばしい個人邸宅もあり、金のカマキリの孵化にしか見えない流星アーチで入り口を飾ったビルもあった。
 澪は自分の部屋に戻らず、夕闇の浮かれトンチキな街を歩き回った。
 ショーウィンドウ越しに、首を斜めに傾けたウサギのぬいぐるみを眺めた。子供の背丈ぐらいあって、レースのついたリボンで飾られ誇らしげに見えた。
 家族連れに混じって、ポップコーンとコーラをお供にショートムービーを観た。ネコとネズミが追いかけっこする典型的なカートゥーンで、SEのボリュームがいやに大きかった。
 出てきて耳に届いたクリスマス・ソングは『This Christmas』。もう日本でも流れすぎていて、かえって奇妙な感じ。
 道端で、サンタクロースの格好をした小太りの男から、真っ赤な風船を差し出された。無視してもよかったが何となく受け取ってしまった。赤い球体が、ふわふわと澪の後をついてくる。
「ベス」
 橋の上で立ち止まり、澪は風船を持った手を高く高く空に差し出した。
 既に真っ黒な空。木漏れ日はここにはない。葉擦れの風も。甘い声も。
「悪いな。やっぱりどこにもなかったよ」
 ゆっくりと指を開く。風船はどこかへ消えていく。天に吸い込まれることは決してないと、知っていて放した。離した。
 きっと澪の知らないところで、割れるか萎んで寂しく終わるのだろう。大地に帰ることもない。
『ミオはあたしを、行きたいところに連れ出してくれたでしょ? だからいつか、今度はミオの行きたいところに、一緒に行こうね』
 上着のポケットに両手を入れ、澪は俯きがちに歩き出す。
 あては依然ない。帰りたい場所もない。ただ止まっていることに耐えられないから進んでいるだけ。
 母親にも。紅莉栖にも。クレアにも。エリザベスにも。
 大人になってみたところで、久野里澪は彼女たちになることはない。永遠に。