香雪蘭の根元で

「は? 誕生日? 誰の」
 神成は渋谷駅前の人混みをかき分けながら、眉をひそめた。12月の夜気は、身を切るようとまではいかないまでも、軽い痛みを感じるほどには冷たい。真後ろの久野里澪は、神成のつくった空白を悠々と歩いてくる。
「私だよ。肉体的にそうなった時間は知らないが、書類上は本日午前0時に満19歳になった」
「なんでそれ、今言った?」
「理由は特に。強いて言えば、クリスマスソングが耳障りだった」
 久野里は淡々と答えた。自分の誕生日にキリストの誕生日が祝われているのが気に食わないのだろうか、相変わらず何を考えているのか分からない女だ。
 確かに渋谷はもうクリスマスムード。他の繁華街も同じ。お決まりの曲が、うんざりするほど延々と流れている。工事中の警視庁とどっちが、と問われたら、神成も本庁の方にいたいぐらい。
 彼女がどんな言葉を求めているのかは分からないが――というより何も求めていないのかもしれないが、気を遣ってとにかく言葉を継いだ。
「そんなロマンチックな日に、調査に付き合わせて悪かったな」
「今日の件は、百瀬さんからあんたへの依頼だろう。私はたまたま代理で行かされただけだし、謝られる筋合いじゃない。自分に責任がないことで下げた頭は軽く見られるぞ。覚えておけよ、刑事さん」
 しかしご本人には通じないものらしい。久野里は意地悪く口唇を歪め、肩をすくめてくる。怒るのも大人げないので、神成も肩をすくめ返すに留めた。
「もう店ほとんど閉まってるけど。腹でも減ってれば、何かおごるぐらいはするよ」
「今は飯をたかるような気分じゃない。さっき、あるお節介がメールを送ってきてね――今では唯一、私の誕生日を祝い事として記憶してる奴なんだが。そこでようやく、自分がひとつ歳を取ったらしいということを、客観的事実として再認した。それだけの話なんだ」
 人通りの多い区画を抜け、街灯の下、久野里は神成を追い越していった。出逢った頃と変わらないように見える黒髪が、乾いた風に流れる。送ってやると言っているのに、先に行かれてはとっさのときに守りきれない。神成も小走りに追いかける。
「なぁ、久野里さん。それってさ」
「あ?」
 柄の悪い相槌に怯むのも、もうすっかりやめてしまって。神成は前に回り込み、彼女の顔を正面から見つめる。
「難しい言い方してるだけで。要するに、『実感はないけど、覚えててもらえて嬉しかった』ってことじゃないのか」
 久野里は否定も肯定もしなかった。ひどく不味いものを口に入れられた人間の顔をしていた。
「あんたのそういう脳内お花畑フィルター、たまに恐れ入るよな」
「お褒めに預かりどうも」
「褒められたものか」
「知ってる。こっちも皮肉で言ってんだよ」
 神成はふいと視線を逸らし、彼女の先を歩き始める。
 百瀬のことだから、戻ってきた久野里を祝う支度ぐらいはしてあるのだろう。案外その為に、神成を使って当人を連れ出させたのかもしれない。
 そう、もうすぐフリージアだから。今日は、彼女を送り届けたらすぐに帰庁しなくてはならないから。神成は、まだ白いほどではない息を吐いた。彼女の剥き出しの細い首と、上着のポケットに突っ込まれたままの両手を、ちらと気にする。
「明日、時間つくってマフラーと手袋届けに来てやる」
「は?」
「でも、今日のうちにこれだけは言っておこうと思う」
 フリージアの入っている雑居ビル。階段を上がらずに、立ち止まって彼女と向かい合った。
 そんなに訝しげな顔をするなというのだ。難しい顔の自身を棚に上げ、神成は咳払いする。
「今年からは、俺もこの日を祝い事として記憶するよ。だから――」
 お誕生日おめでとう、久野里さん。
 頬を緩めて呟けば、彼女はいつも鋭くしている目をあどけなく見開いて。どうも、と礼なのだか困っているのだか分からないことを言いながら、わずかに微笑んだ。