2017年5月21日

 独房での接見なら何度か経験したが、宮代拓留は今日初めて、面会室に踏み入った。
「やぁ、久しぶり。せっかくの機会なのに、華がなくてすまないね」
 神成岳志は、最後に会ったときと変わらず気安い調子だ。拓留は苦笑して軽く会釈する。
 もう何ヶ月も誰ひとり訪ねて来なかったのに、どうやって許可をもぎ取ったのだか。強引なところは健在らしい。
 二人で向かい合って――透明な壁を隔て――腰を下ろし、拓留から切り出した。
「何かあったんですか。わざわざこんなところまで」
「俺には何もないけど。君は今日二十歳になるはずだと思ったから顔を見に来た」
 神成は気まずそうに笑いながら肩をすくめる。拓留も、ああ、と納得して頷いたきり何も返せなかった。
 今となっては特に意味もないことだ。法的には重大な意味を持つかもしれないが、どのみち拓留に下る判決など、裁判の決着する前から分かりきっている。
 先に話を再開させたのは神成だった。二人に許された時間はそう長くない。
「せっかく大人になったんだから、一緒に酒でも飲めたらよかったのにな」
「なら泉理と飲んでください。もう誕生日過ぎたでしょう」
「彼女は六月生まれだと聞いたけど?」
「あ、そうか、四月なのは乃々で……そしたら僕の方が兄さんなんじゃないか。あいつ、自分の方が早く生まれたからなんて言ってたくせに」
「どっちにしろ、頭が上がらないことに変わりないと思うけどなぁ」
「確かに」
 また沈黙。神成は視線を彷徨わせながら、遠慮がちに尋ねてくる。
「何か困ってることとか、ないか」
「言っても神成さんにはどうにも出来ないでしょう?」
 嫌味のつもりではなかった。余計な気遣いは必要ないと告げただけだ。
 まぁな、と神成は首の後ろをかいた。そういえばスーツのジャケットを脱いでいるなと今更気付いた。
「俺が警察官として出来ることは、残念ながらもうほとんど残ってない。せいぜい証言台に立つぐらいのもんだ」
 よく見るとネクタイも記憶にあるものと違う。趣味が変わったのか、それとも『今日だけ』なのか。
 観察を止める為でもないのだろうが、神成の視線は拓留の顔に戻ってきた。相変わらず濁りのない、他人のことばかり考えている目をしていた。
「ただ。状況がどうにもならないからって、心情までどうにも出来ないわけじゃないと、俺は思う。個人的に愚痴ぐらいこぼしたって、咎められるようなことでもないだろう」
「そうですね」
 拓留は小さく笑う。
 詭弁が得意なのもあの頃のままだ。彼はそれを『ずるい』と自己評価したが、まぁ間違ってはいないのだろう。ただ反発はもう感じなくなっていた。
 手錠をかけられた先にある、両の指を軽く組む。
「愚痴は特にないです。困ってることも。でも一つだけ、神成さんが構わなければプレゼントをねだってもいいですか」
「ああ。えらいひとに取り上げられないものなら」
「そんな大仰なものじゃないですよ」
 だから、そんなおどけたふりで身構えなくてもいい。
 拓留はそっと目を伏せた。症候群から快復しても、充分な運動を許されなかった脚はひ弱なままだ。
「手紙。泉理たちの手紙に、神成さんたちのことはほとんど書いてないから、結構気になってて」
「……俺は、ともすれば君と共犯と見なされてもおかしくない立場だった。そんなもの届く前に握り潰される」
 神成の声が硬くなる。保身かもしれないしそうでないかもしれない。どちらでもいい。拓留は笑いまじりに続ける。
「でも今日だってどうにかして会いに来た。前から得意でしょう、そういうの」
「あのなぁ」
「一通でいいんです。しかも、事件とかじゃなくて、最近枕からお父さんの匂いがしてきたとか……そういうどうでもいいようなやつ。それ以降は、『便りのないのはいい便り』って言葉を信じることにしますから」
 書いてある情報にはさほど意味がない。拓留が、メールではなく手紙というものをもらうようになってやっと解ったこと。
 誰かが自分の為にペンを執り、その筆跡が手元にあるということの重み。データとしての文字からは感じられない熱量のようなもの。
 証明。自分も誰かに何かを残していけたという、ほんの些細な。
 神成は聞こえよがしに嘆息し、拓留に顔を上げさせた。頭をかく彼の表情は不機嫌そのものだ。
「いいか、宮代くん」
「はい」
「第一に、俺はまだ加齢臭は出てない」
「みたいですね。第二に?」
「そこまで筆不精じゃない。年に……一、二通ぐらいは」
「ありがとうございます」
 充分不精じゃないかとは言わずにおいた。拓留もあまり人のことは言えない。
「最後に」
 神成は立ち上がる。どうやら機嫌を損ねたまま帰してしまうことになりそうだ。せっかく来てくれたのに悪かっただろうか。
 だが彼は、人工灯を浴びたまま泣きそうに笑って。
「俺は、その文通を長く続ける気はない。以上だ。誕生日おめでとう」
 そう言い残し、去っていった。
「強情だな、あの人も」
 拓留も立ち上がり、また見張られ……その表現はよくない、付き添われながら独房に戻っていく。
 もういいと僕は受け入れているのに、と歩きながら思った。それでも彼はどうにかして、彼が『理不尽』と感じるものを糺さんと戦っている。拓留にとっては申し訳ないことに。
 佐久間恒の死について、あれは正当防衛だと神成は主張している。よしんば罪に問われそうになっても、ディソードは一般常識で『凶器』として認識されない。佐久間の所持していた疑似ディソード――実際の刃物からも、指紋が検出されず、また刺し傷の形状の一致しない以上、いくら状況がそうであったとしても証拠不十分で不起訴になるはずだと。
 その他の事件の証拠も捏造なのだから、根気強く抗えば『真犯人は不明』のまま拓留が無実になる道もあるはずだと。
 では、と問いたい。そうしたら、『誰が本当に再来を起こし』『誰が伊藤真二を追い詰めた』ことになるのかと。はらわたをほじくり返されるぐらいなら、拓留はこのままでいい。
 佐久間恒は自分が殺した。物証の問題ではなく事実として。再来で多くの人間が犠牲になったのは、『自分の望んだこと』の結果だ。把握していなかったから潔白だなどと、どの口で言える。委員会だとて、単に『ゲーム』を後押ししたに過ぎないのに。
 『ニュージェネレーションの狂気の再来の犯人は宮代拓留』。そればかりは、自分に近しい者よりも、かつて情弱と拓留が嘲った世論と意見が一致している。皮肉なことに。
 それでも神成が彼女のことを全く口にしないでいてくれたことに感謝はしているし、拓留もそのことをねだらなかった自分については、少しぐらい誇ってもいい気はしているのだ。
「おめでとう、か」
 学生の時分なら、『何がめでたいものか』と言葉尻に噛みついていたろうが。今は、そう言葉を発してくれる人間のあることこそ確かに祝福だと感じる。
 そういえば、とふと思い出した。中学生の頃、自分と同じ日に生まれた偉人はいないかと調べてみたことがある。もしいれば、ちょっと優越感に浸りたかった。幼い虚栄心。
 ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ。フランスの物理学者。
 世の中から離れて浮きすぎた自分は、地球の自転から置き去りにされたまま大人になった。いつか地面に下りて、この慣性から解き放たれる日など来るのだろうか。
 今日の東京はどうも猛暑らしい――みな身体を壊さなければいいのだが。蒸し風呂のような独房に戻って、拓留はひとり格子窓を見上げた。