子供はまだ微睡の中

僕は大人になりたかった

 二〇〇九年十二月。地震の割にさして――中身は知ったことではないが、少なくとも建物自体には――被害のなかった雑居ビルの前で、神成岳志は安いステンレス製の腕時計を見下ろした。嘆息して、二十二歳の青年刑事は、ビルの中に踏み入っていく。
 この階段を上るときは、いつだって冒険心と引け目でドキドキした。今はもう何も感じない。堂々と前を行く背中がないだけで、こんなにも心持が違うものかと、神成はぼんやり考える。
 『先輩』のようにいきなり開ける無作法はせず、大人しく扉を叩いた。会社を名乗るなら呼び鈴ぐらいつけたらいいのにと思わなくもないが、このドアをくぐるような連中に、そんな気遣いは無用なのかもしれない。中から顔見知りの事務員――ミホちゃん、と社長は呼んでいた気がする――が出てきて、応接スペースまで案内してくれた。といってもあまり広いオフィスではないから、待つまでもなく社長は神成に気が付いたようだったけれど。
「あら神成ちゃん、よかった。来てくれたのね」
 信用調査会社フリージアの女社長・百瀬克子が、恰幅のいい身体を揺らしながら、自分のデスクを回って駆け寄ってきた。神成はお愛想の笑みを浮かべて、スーツのズボンのポケットに、両手の親指を引っかける。
「どうも、お久しぶりです百瀬さん。ご存知だと思いますけど暇じゃないので、なるべく手短にお願い出来ますか?」
 ここを訪れるのはいつも『彼』の都合だった。百瀬から単独で呼び出されるなど、以前からは考えられないことだが、今の神成にはどうでもいい話だ。ニュージェネの捜査が強引に打ち切られても、渋谷地震直後に急増した各種事件で、警視庁勤務の公務員が忙しいのは事実。
 百瀬は苦笑して、片手で長椅子を示す。
「そうカリカリしないの。座んなさい、今お茶淹れてもらうから」
「いえ、すぐ帰りますから、立ったままで。お気遣いなく」
 神成は、言葉こそ丁寧だが険のある口調で答えた。にもかかわらず、緑茶は運ばれてきてしまうし、お茶請けまでローテーブルに並んでしまう。百瀬は神成に構わず、椅子に腰を下ろした。
「ここの和菓子屋さんのきんつばね、すごく美味しいのよ。営業停止してたのが、やっと再開したの」
 こうまでなっては、神成も意地を張って立っているわけにいかなくなった。眉をひそめて、向かいに浅く座る。
「申し訳ないですけど。甘いものは最近控えてます。カフェインも」
「そう」
 百瀬は小さく呟いて、一口茶をすすった。
「荒れてるのね。胃腸」
 何気ない一言に、ぎりと神成は奥歯を噛む。糖分を摂りすぎれば腹を下し、カフェインを摂りすぎれば胃が痛む――元々消化器官のあまり強くない神成ではあったが、日常生活に支障が出るほどになったのは、明らかにここ一ヶ月のことだ。『控えている』と告げただけで見抜かれてしまう自分の浅さが、心底恨めしい。
「せめて何か水分摂りなさいな。冬でも脱水は起こすのよ?」
 百瀬はウォーターサーバーから白湯を持ってきてくれた。水を随分混ぜたようで、ぬるい。猫舌の人間に出していたときの癖だろうかと、神成は邪推した。
「それで、用って何ですか」
 もうあの人もいないのに、とは続けず、先を促す。百瀬は神成の目を見つめて、やわらかく返す。
「様子を見ておきたかったの。最近、捜一の極端に若い刑事さんが、死にそうな顔で働き続けてるって、小耳に挟んだもんだから」
「そんなの――!」
 神成は、立ち上がりかねない勢いで顔を赤くした。いつもそうだ。この女性は何でもお見通しだという態度で、神成の隠そうとする何かを暴いてくる。
「俺だけじゃないでしょう! 警察も自衛隊も、被災者の保護と事態の収拾の為に死ぬ気で動いてるんです、それを……!」
「神成ちゃん」
 百瀬は静かだが有無を言わせぬ声で、神成の怒鳴り声を遮った。視線はあくまでも神成の瞳に向けられている。
「違うのよ、あなたのそれは。誰かの為じゃない、自分の本音を隠す為でしょう。それは本質的に、『働いている』という行為じゃないのよ」
 喉が引きつって反論が出来なかった。違うと叫びたかったのに、息が詰まって何も出てこない。その間に、百瀬の台詞は続く。
「『働く』って行動はね、『目的』の為になされるべきことなの。お金の為、生活の為、あるいは誰かを救う為、守る為。今の神成ちゃんは、それを『手段』に置き換えてしまっているようにしか見えない。……それはあの人が、あなたに望んだ姿じゃないわ」
 『彼』のことが話題にのぼった途端、それまでとは違う意味で神成は動揺した。ワイシャツの胸の辺りを強く握る。
 逃げるなよ、と『彼』に言われているような気がした。真実から目を背けて、思考停止の為に忙しいふりなんざするな、と。
 百瀬はきんつばに手を付け、ああ美味しいと満足そうに言った。
「これ、あの人がよく袖の下に持ってきたのよ。私が和菓子に目がないの知っててね。手段はめちゃくちゃだったけど、目的だけは絶対にぶれない人だった」
 神成は俯いて、きんつばとお茶を睨み付けた。散髪も忘れた前髪が目許にぱらぱらと落ちかかってくる。
「百瀬さん。俺」
「ええ。なぁに?」
「社会人になって、まだ遊んでる同い年の大学生たちよりも、一足早く大人になった気でいました」
「ええ」
「同期よりも出世は早かったし。驕っていたつもりはありませんけど、立派に働いていると思っていました」
「ええ」
 百瀬の相槌は穏やかだ。だからこそ心臓が絞られていくように、鼓動は悲鳴を上げる。
「なんで、俺は、子供なんでしょう。酒なんて、煙草なんて、権利なんて、結局意味なんか、何もなかった」
 俺は何も変えられない。何一つ。何も守れなかった。誰一人。ずっと説教を受けるだけの、愚かな子供のままだ。
「早く――本当の大人に、なりたい」
 涙さえ出せずにこぼした本音を、百瀬は笑わなかった。あくまでも静かな声で、目の前の子供に言葉を紡ぐ。
「そう考えているうちは、いつまでも子供ね。でも、そう願わない人は、永遠に大人になれないのよ」
 神成は胸を押さえたまま、百瀬の顔を見上げた。地震が起きる前から変わらない、姉のような、母のような微笑みがそこにはあって。
「あのね、神成ちゃん。あなたは確かにまだ子供。だけど今、一生懸命育っていこうとしているでしょう? だからこそあの人は、あなたのことだけは最期まで巻き込むことなく、無事に守り切ったのよ。自分をしっかり持ちなさい。下も後ろも向かずに、ただ胸を張って、真っ直ぐ曲がらず、前に進みなさいな」
 神成は答えなかった。納得出来なかったからではなく、何かが溢れてきてしまうのが怖かったから。これだってきっと子供の所業なのだろうけれど、せめて今ぐらいは。
 百瀬は笑いまじりにため息をついて、立ち上がる。
「少し休んでいく? 毛布ぐらいなら貸すわよ」
「でも、仕事が」
「十五分ぐらいの仮眠なら、かえって効率が上がるでしょ。あの人もちょくちょくそこで昼寝してたわよ、ガースカいびきかいて」
 百瀬は怒ったように腰に手を当てた。はは、と神成は苦笑する。でも起こさなかったんでしょう、と訊かない程度には、これでも子供を脱しているつもりだった。
「じゃあ、お言葉に甘えて少しだけ。……本当は、この頃ちっとも寝てなくて」
 でしょうね、と百瀬は肩をすくめた。これだからこの女社長には敵わない。
 神成は革靴を脱ぎ、遠慮がちにソファーに身を横たえた。少しくたびれた毛布をかけてもらったら、最近の入眠困難が嘘のように、すぐに睡魔が襲ってくる。
 寝入り様、閉じかけたまぶたの隙間から、百瀬の横顔が見えた。何かをひどく我慢しているのでも、殊更に無関心なのでもなく、ただ事実を受け入れたような落ち着いた表情。憂いを帯びながらも沈むことのない瞳。
 ああ、あれが本当の『大人』の顔なのかな、と――まぶたの裏に焼き付けながら、神成はそっと目を閉じた。
 もうすぐ年が明ける。来年度には同い年の大学生も卒業し、社会に出てくるだろう。神成も夏には二十三になる。ここから、今度こそ、自分は大人として生きていくことが出来るだろうか。いつか憧れてきた大人たちと、肩を並べられるように。