11話 The Eleven - 4/9

「若いな」

 もうひとつの七月二十四日。
 試合帰りの電車内、徹平は周囲を見回す。時間的に他の乗客はほとんどいない。あるいは男子高校生の集団を認めて他の車両に移ったか。
 新田と桜原はまた一緒にいる。今日は琉千花もだ。監督と平橋が妙な空気だったから、マネージャーも車には同乗しなかったらしい。二年生は二年生で固まっているし、三年生は揃って単語帳を見ている。
 徹平は永田(ながた)と富島のペアに近寄っていった。本日の岩茂八王子戦の功労者だが、通り一遍の称賛を素直に受け取ってくれる相手共でもない。直截に用件に入る。
「なぁさっきの女の子知ってる? 新田の彼女なん?」
「なわけないじゃん。あっちゃんの元カノだよ」
 永田は眉をひそめて振り返った。ドアのガラス部分に息を吐いて落書きした跡がある。神経を尖らせていた件はどうやら吹っ切れたようだ。
 富島は黙って苦い顔をしていた。不都合でも嘘はつかないのが富島の長所だと思う。
「何で別れたの?」
「よくある話だよ。愛情の不均衡」
 富島は意外にもまともに答えた。理由を自覚しているのもなかなかに意外だ。
 確かに幼なじみのために進路も棒に振る男が、恋愛に向いているわけがない。付き合い始めたきっかけも気にはなるが、徹平の最大の関心事はもっと別にある。
「ヤッたの?」
「それなりには」
 富島は小さくため息をつく。この手の質問を茶化さないのがもう非童貞の風格だ。真っ赤な顔で言葉を失っている永田の前で、徹平は肩をすくめた。
「オレ、富島のことなんか誤解してたわ」
「今まさに誤解が進行しているような気がするんだが気のせいか?」
 カーブで電車が揺れる。つんのめりかけた永田を富島が片手で支える。裏切り者の手を振り払い、永田はドア横の手すりを両手で握りしめた。
「大して好きでもない女の子と寝るような男が綺麗に別れて、関係ない僕が胸倉つかまれて『死ね』って言われたのホント納得できない」
「いいじゃん、富島も永田のためなら他人の胸倉ぐらい平気でつかむっしょ」
「つかまなくていいよ。そこが納得できないんじゃないんだけど」
「それぐらいで済むんだからかわいいじゃん。その子」
 徹平は笑ったが、富島はにこりともしなかった。からかわれて怒っている様子でもない。座席側の手すりを抱き込むように腕組みしている。
「それぐらいで済まない女でも知ってるみたいな言い草だな。井沢」
「オレがされたんじゃないけどさ。聞いた話」
 外を見る。面白いものもない。低い建物と河川敷。すぐに別の場所の景色に溶けてしまう。
 この話も記憶の中で、いずれ無数の雑談に埋もれる。
「女は怖いよ。中絶できなくなるまで黙ってたりするんだから」
 移動中の沈黙は無音にはならない。そこかしこから無機物の、有機物の、発する声が絶えずある。
 二年の一団が笑うのが聞こえたので、徹平はそちらに突っ込んでいった。その程度の無礼が許される後輩だという自負はあった。
「何の話っすか? まざってもいいですか?」
 富島たちの顔を確かめる気はない。
 それから遊び同然のメニューをこなして、徹平は野球部の面々と別れた。
 寄り道をすることは滅多にない。少なくとも、一人で遊び歩いたりはしない。今日もいたのは学生らしく図書館。閉館したのでやむなく駅へ向かった。
 唯一現存する都電。高校からは駅がやや遠く、野球部の中で利用しているのも徹平だけだ。ひとつきりの車両に乗ってまず、安定して立っていられそうな窓辺を探す。流れる景色を眺めていると少しは安らげる。
 車と変わらない道を行く不思議な電車。高葉ヶ丘の最寄りを通る地下鉄は未来的なデザインだけれど、この路線はレトロだ。ドアが閉まるたびにベルが鳴る。バスみたいに停車駅前で宣伝のアナウンスが入る。
 高葉ヶ丘に通い始めてから、徹平はほとんど毎日この電車に乗っている。朝と晩。帰りは妙に感傷的になる。三十分ほどの間、窓を開けたら飛び込めそうなほど近い民家を、制服警官が外に立つ交番を、春にはにぎわう桜の名所を横目に通り過ぎるごと、このままどこか知らない世界に連れて行かれるのではないかと空想する。生憎それより先に神社の前で降車するので、別世界に行けたことはない。
「ただいま」
 停車駅から歩いて十数分、1Kのアパートに着く。徹平が払っているわけではないので家賃は知らない。開業が延期されている路線が正式に通ればともかく、現時点では決して高くないだろう。
「おかえりぃ」
 妹の和世はテレビの画面から目を離さず言った。徹平はスニーカーを脱ぎ、三和土の端に寄せる。
 和世が見ているのは民放のバラエティだった。徹平はメディア、特にテレビが嫌いだが、家族が見ているのは止めない。クラスの話題についていくために『予習』している小学校三年生の妹を、いじらしいとさえ思う。
「徹平、おかえり。ご飯食べるでしょう」
 母が徹平の夕食を持ってきた。こたつ机にやわらかい手つきで食器を置いていく。老けてんな、とあらためて感じた。
 母は高校を中退して徹平を産んだ。新田の母も若そうに見えたが、まさか年下ということはないはずだ。なのに自分の母は、あの女性より随分年上に見える。
「和世ちゃん、お母さんお天気見たいの。少しテレビいい?」
 母がエプロンをしたまま正座する。体育座りの和世は、口唇を尖らせチャンネルを地元ローカルに合わせた。常に画面の上部に天気予報が出ているのだ。
 徹平は近隣のニュースにも興味がないので、いい加減鞄を下ろして食事をとることにした。早く片付けなければ。終わったら入浴を済ませて湯船の栓を抜かないといけない。
「あれ、これ椎弥ちゃんじゃない?」
 和世の騒ぐ声に顔を上げる。
 スポーツニュース、全国高校野球選手権・東東京大会の様子だ。硬式は全国大会も早い分、地方予選も軟式より進んでいる。馬淵学院高校の注目選手として一瞬映った少年は、確かに三住椎弥だった。
「やっぱり椎弥ちゃんだよね。ねえお兄ちゃん」
 徹平は、食べているというアピールのために米をかき込んだ。兄が相手をしてくれないと分かるや、和世は母に身体を向ける。
「お母さん、椎弥ちゃんに電話して。テレビ見たよって言う」
「よしなさい、ご迷惑でしょう」
「だって勝ってるんでしょ。おめでとうって言うぐらい、いいじゃん」
 母は嘆息して立ち上がり、固定電話の前に立った。徹平が三住兄妹を避けていることは勘付いているようだが、それを和世に知られる方が厄介だと思ったのだろう。ほどなく、よそ行きの声で椎弥たちの母親に挨拶しているのが聞こえてきた。
 茗香はあの五月の雨の日のことを椎弥に話しただろうか。きっと黙っている。そうでなければ徹平は椎弥に殺されていてもおかしくない。冗談ではなく本気で。
 切り替わったプロ野球のニュースが耳障りで、徹平はリモコンをたぐり寄せ電源を切った。『椎弥ちゃん』と会話が弾んでいるらしい和世の声もうるさくて、かき消したくてまたバラエティを流した。
 何が楽しくて笑っているのか全く共感できなかった。

 七月二十五日。
 侑志は鳴り喚く目覚まし時計を叩いて、いつもどおりだなぁと目をこすった。
 両親と揉めようと、両親の過去に何があろうと、夜は当たり前に更けるし当たり前に明ける。つまらない事実を再認してベッドから降りた。
「おはよう、侑志」
 居間には父が立っていた。
 左手に白いカップ、右手に新聞。英字なら様になったかもしれないが、日本語の新聞を座らずに片手で読んでいるとものすごく通勤電車っぽい。侑志はラッシュ時に電車を利用しないので、あくまで偏見に基づいた想像だが。
「ママはまだ寝ているから静かにね」
 仕事は、と訊きかけてやめた。普段は朝早く出ていく父が、平日にゆっくり家にいるというのがもう答えだ。
「侑志もコーヒーを飲むかい」
 父は新聞をキッチンカウンターに置いた。いつもここに置きっぱなしにする、と母がしょっちゅう憤慨していることは言った方がいいのだろうか。
「いる」
 無難に質問の内容にだけ触れると、父は青いクジラのマグカップにコーヒーをなみなみ注いで持ってきた。この子供っぽいマグは最近使っていないのに。母が未練がましく洗っているから汚れはないはずだと意を決して飲んだ。
 相変わらず、父の淹れるコーヒーは酸味が強くて薄い。
「桜原のことを避けていたのは僕なんだ」
 何の前触れもなく父は言った。二人とも立ったまま話すのも間抜けなようで、侑志はテーブルにつきながら曖昧な相槌を打った。
 昨日の夜、侑志が帰ってすぐ寝てしまったのは怒っていたからではなくて、疲れてどうでもよくなってしまったからだ。肉体の疲れが抜けた今は余計にどうでもいい。だがそれでは両親がすっきりしないのかもと、遮らずに聞き続ける。
「在学中にいろいろあって、それきりだった。今年高葉ヶ丘に越してきてからも、もう地元を去っているだろうって決めつけて捜しもしなかった。美映子さんは僕に気を遣って黙っていてくれたんだと思う」
「そうなんだ」
 侑志はまたコーヒーを口にした。
 父の中の真実がそうなら、わざわざ訂正しなくていい。いや、父も本当は解っているのかもしれない。だったらなおさら黙っているべきだ。侑志が母にできることはそれぐらいだから。
 父は苦笑してカップを右手に持ち替えた。白球をマウンドに返すときみたいに。侑志と同じ左利きの投手に、何度も何度もそうしてきたのだろう。
「昨日の夜、電話で声を聞いて拍子抜けしたよ。『おう、新田か。桜原だけど』って、高校のときと同じ調子なんだから。笑っちゃったね」
「そっか」
 座ろうとしない父を見上げ、侑志も小さく笑った。
 夏の朝陽はこの時間からうるさいほどだ。
「今日も桜原お気に入りの公園で朝練かな」
「学校。夏休みだからグラウンドとかもみんな空いてない」
 侑志はコーヒーを胃に入れて、カップを流しに持っていく。予洗いだけでもしておかないと、また母の頬が膨らんでしまう。
「母さんには、帰ってきたらちゃんと謝る。柚葉も気にしてたから、連絡だけでもしてやってって伝えといて。俺から説明すると多分また心配する」
「ユズハ?」
「俺の友達。昨日母さんと一緒に試合観に来てくれた」
 父はもの問いたげな顔で頷いた。男と女だとこういうところでも誤解を受けるんだなと、母への態度を自省しつつ内心でため息。
「じゃあ俺、そろそろ支度して行くから」
「うん。次の試合は父さんが応援に行くよ」
 いつもなら朝は顔を見ない父に見送られるのは妙な気分だった。
 まぁ、嫌ではなかったけれど。

「新田。昨日大丈夫だった?」
 一番に声をかけてきたのは井沢だった。硬式・軟式テニス部に遠慮しながら、学校のグラウンド――体育棟の屋上で朝練の準備をしている最中だ。侑志は階段の裏からバッティングネットを持っていくところだった。
「なんかすげー機嫌悪そうだったじゃん。お母さんとケンカになんなかった?」
 井沢はネットの反対側に回ってくれた。一人でも持てないことはないが、必ず二人以上で持っていくよう指導されている。引きずっていくと人工芝が傷つくとか、移動中に転倒すると危ないとかいうのが学校側の言い分だ。
 せーの、と用具を持ち上げる。重量ではなく気分の問題で言った。
「井沢って意外とそういうとこちゃんと見てるよな。別に平気。俺、親とかが観に来るのあんまり好きじゃないから。そんだけ」
「ふぅん。一緒にいた女の子は? 新田のカノジョ?」
 本当の興味関心はそっちらしい。移動しながら侑志は首を振った。
「違う。友達。将来お袋と同じ業界目指してるから話聞きたいっつわれて、紹介したらそのまま妙に仲良くなってんの」
「それあれだよ新田、娘にするならああいう子がいいわ~とか言って息子とくっつけようとするやつ」
 井沢の口調はやけに断定的だった。実例でも知っているのだろうか。今のところ母が柚葉を勧めてくる気配はないが、用心はしておこう。
 ネットを置く。あと二つあるので駆け足で元の場所に戻る。
「で、さー。あの子、富島の元カノって聞いたんだけど」
 物陰に来るなり井沢は声を潜めた。
 そういえば、最初に柚葉が襲撃してきたとき井沢はいなかったのか。あまり吹聴することでもないので適当に濁す。
「俺と知り合ったときには別れてたし、詳しくは知らねぇよ。もう吹っ切ってるんじゃねぇの」
 また気のない『ふぅん』が来ると予想していたのに違った。井沢は準備を手伝いもせずに、そうなんだ、と沈んだ口調で呟いた。目を伏せ、しきりに指先のストレッチをしている。
「井沢、いいから手伝えって」
「へ? あ、そーだな。どうでもいい話だわ」
 何か妙だとは思ったが、昨日見たバラエティの話をものすごい勢いでされて、そのままにしてしまった。普段あまりテレビを見ないようだし、つまらない番組でも新鮮だったのかもしれない。

 練習の途中で雨が降ってきて校舎に退避した。午後のメニューをどうするかという問題もあるが、とりあえずは昼休憩が先だ。
「あ、新田少年! なんだ来てるんじゃん」
 玄関で靴を履き替えていたら、階段を降りてきた深春(みはる)と目が合った。いつもは下げている髪をポニーテールに括っている。服も標準服ではなくラフなシャツと派手な色のスカートだ。
「図書委員の当番。いるなら出てよ」
「俺、大会中は委員会免除してもらうって届、出しましたけど。ミハル先輩に」
「あっそうだよね、野球部って今地方予選? だっけ。次は応援に行くからね皓汰くん~」
「俺が返事してるのに、桜原に向けて話つなげるのやめてもらっていいですか?」
 桜原は侑志を盾にして小さくなっている。どうしたものかと視線をさまよわせていると、大声を聞きつけたらしい相模(さがみ)がやってきた。
金城(きんじょう)さん、委員会の仕事は? 部で侑志借りてるんだから人足りないんじゃないのか」
「名字で呼ばないでって言ってるでしょ! 司書さんいるしお昼買いに出るとこなの」
 吠える深春をあしらいながら、相模は片手を背中に回してぱっぱと振った。侑志と桜原は小さく頭を下げて離脱する。バックアップ要員なのか、森貞も渋い顔で成り行きを見守っている。
「ねぇ新田、俺こんなにノブさんたちに助けてもらってんのに、来年いなくなっちゃったら生きていけるかな」
「安心しろ。来年にはミハル先輩もいない」
「盲点」
 どのみち侑志が面倒を見ることになると思う。かなりの確率で。
 調理室まで弁当を取りに行く。衛生上、持参の生徒は冷蔵庫で預かってもらうのだ。先頭に二年生と琉千花が固まっていて、少し離れたところを永田と富島が歩いている。
 井沢は一人だった。人懐こく口数の多い彼が、誰ともしゃべらず一番後ろを歩いているのはめずらしい。
「井沢。お前今日マジでどうした」
「は? びびった。何が?」
 井沢の肩が勢いよく跳ねる。侑志たちが隣に来たことも気付かなかったらしい。
「何がじゃねえよ。ずっと上の空じゃん」
「そうかなぁ。部活は集中してただろ」
「井沢のそういうとこすごいよね。野球は別回路で動いてんの?」
 桜原の疑問も耳に届いた様子はなく、井沢は背後に首を巡らせる。案の定穏便には済まなかったようで、森貞が相模と深春の間に割って入っていた。
「つかミハル先輩、声でけーな……ヒートアップしすぎじゃねぇの」
 侑志は片耳を押さえた。もう随分離れたのに、深春だけ何を言っているのか大方分かる。自分の行き過ぎた言動に対する行き過ぎた開き直りだ。
 桜原は腰を落として自分の腕を抱き、早足になった。
「あのひと普通にいつもでかくない? めちゃくちゃ遠くからでも俺の名前呼んでくるもん。声量がやばい。あれで文化部とか嘘でしょ」
「お前は当事者だからそう感じるよな。まぁ普段から明るい人なんだけど、桜原が絡むとミハル先輩は特にうるっせ」
「あのさ新田」
 井沢が唐突に会話を遮る。桜原と侑志が話していたことさえ意識していなかったのかもしれない。
 井沢はずっと向こう側を見たままだった。
「新田って、結構女子のこと下の名前で呼ぶよな」
「別に俺が馴れ馴れしいから呼んでるわけじゃねぇよ。向こうからそう呼べって言われたときだけ」
「そうだよな。普通だよな」
「どしたの井沢、熱とかあんの?」
 桜原が訝しげな顔で手を伸ばす。額に指先が届きかけたところで、井沢の目が桜原を捉えた。
「なぁ。桜原監督ってヒゲでごまかしてるけど、結構若いだろ」
「え、なに急に? 高卒ですぐ結婚したはずだから、若いとは思うけど」
「新田のお母さんも」
「うちは専門出て……親父はまだ大学生だったから揉めたって言ってたな」
 できちゃった結婚らしいというのは何となく伏せた。しかし桜原家も両親は既に社会人だったとはいえ、長子の朔夜は侑志より年上だ。事情は似たり寄ったりだろう。
 本格的に雲がかかったようで外の暗さが増した。雨足が強まりガラスを叩く。会話に鋭いノイズが走る。
「若いな」
 井沢のそれは笑みだったのだと思う。侮蔑の色をしていた。似合わしくない表情だったし、明らかに不慣れがにじんでいる。侑志の心臓を刺す真似をする人差し指もぎこちなかった。
「新田は、ウタイカズヒラって知ってる?」
「うたい――」
 侑志が間抜けに繰り返したとき、森貞の大声が廊下に響き渡った。
「まだこんなとこにいんのかー、飯食う時間なくなんぞぉ!」
「すみません。すぐ行きます」
 井沢は真っ先に返事をし、侑志から指を離して足早に去った。
「侑志、皓汰。ふざけて立ち止まってたわけじゃないだろう。どうした」
 相模が事情を尋ねたが、桜原は首を振って井沢に続いた。侑志も、なんでもないですとしか言えなかった。森貞は何も訊かずにそっと背を押してくれた。
 これだけ気遣ってもらっているのに、曖昧な情報で先輩たちの負担を増やせない。二人にもいろいろ込み入った事情があるのは、何となくわかっているから。
 けれど代わりに寄りかかる先はいくら考えても思いつかなかった。