母という女
七月二十四日。
「ゆーしー」
片付けを終えて出ていくと、いきなり名を呼ばれた。
球場を擁する公園の端、声の主は母ではなく
「お前、こっちまで来んなよ。つか大声で呼ぶな」
「なによ、応援してあげたのに。おばさまが飲み物差し入れに行くって言うから、一緒に持ってきてあげたんじゃん」
「それは……どうもだけど」
膨れ面の柚葉からビニール袋を受け取る。五〇〇ミリのペットボトルが五・六本入っている。もう半分は母が持っているのだろう。
「
「今日俺あんまり動けなかったから平気。るっちこそ、元気ないけど大丈夫?」
「あ、ううん。平気……」
琉千花は俯いてしまった。応援席には日除けがなくて暑かったのかもしれないと、袋からスポーツドリンクを一本出して渡した。
「そんで柚葉、母さんどこ」
「あっち。監督さんと話してる」
柚葉の指した先を見れば、母はビニール袋を監督に差し出していた。監督もわざわざ帽子を脱いで答えている。
意味があってないような、いかにも大人らしいやり取り。そこへ
「二人とも、何いまさら他人行儀なことやってるんですか。どうもお久しぶりです、平橋ですー」
「お久しぶりね、平橋君。全然変わってないからすぐ分かった」
母は困ったような笑顔で、平橋の挨拶に応じていた。
「おばさま、先生と知り合いなの?」
「知らねぇ」
柚葉に返事したのはほとんど無意識だった。
平橋の顔は、普段生徒たちと接しているときよりずっと親しげだ。
「
知らない情報が大量に流れ込んできて、頭の中をぐちゃぐちゃにかき回す。
平橋先生、何で母さんの下の名前知ってるんだ? 新田センパイって父さんのことか? 母校って……どういうことだ?
母は居心地が悪そうに、白い帽子のつばに触れる。
「平橋君。あのね」
「え、もしかしてセンパイと何かあったんですか?」
「そういうわけじゃないんだけど、実は――」
「
母の旧姓を知っている人間はほとんどいないはずだ。母方の祖父母は早くに他界し、昔からの友人というのもいないようだった。少なくとも
監督は目を背けて帽子を被り直した。
「『新田さん』。差し入れ、ありがとうございました。選手たちを学校に戻らせますので、失礼します」
「ええ。よろしくお願いします、監督さん」
見ている方が痛々しくなるような取り繕い方だった。平橋はもの言いたげな表情で黙っている。
侑志は柚葉にもう一度礼を言い、琉千花と共に部員の輪に戻った。
「ごちそうさまです! ありがとうございました!」
礼が崩れてから桜原がやってきて、侑志の右側にぴたりと貼りついた。
「なんだよ桜原。暑苦しいな」
「ううん。新田、大丈夫かなと思って」
「何が『ううん』なんだか全然わかんねーよ」
「うん。俺は大丈夫」
「だから、全然わかんねーって」
文句を言いつつ、桜原がそばに来てくれて正直助かった。この気持ち悪さを共有できるとしたら、彼と、彼の姉だけだ。
しかし
夏休みに入って地域の子供たちが公園を使うため、高葉ヶ丘高校野球部は一番必要なときに広いところでの練習ができない。
事前に申請して外部のグラウンドなり河川敷なりを押さえていることもあるが、さすがに試合の日は時間が読めず、校舎でミーティングや筋トレをするぐらいで終わった。素振りはいけるんじゃないかというような話も出たが、過去にガラスを割って校長に絞られたことがあるらしく、平橋に全力で止められた。
『ていうか、早くおうち帰ったら?』
遊歩道のベンチには、桜原姉弟と別れてから戻ってきた。
ぼーっと見上げていた夏空はいつの間にか赤い。最初こそ親身に電話に付き合ってくれた柚葉の声にも、疲れがにじみ始めている。
「ホントに母さん何も言ってなかった?」
『言ってないし、聞けるわけないじゃん。あたし他人だよ?』
実の息子抜きで勝手に仲良くなっていたくせに、そこだけ分別があるのがいっそ恨めしい。空いている手で意味もなく膝をこすった。
母が過去にどこで誰と何をしてきたか、侑志は特段興味がない。語られたところで聞き流していただろう。だが、侑志の今の人間関係を変えかねないことを、母が意図的に黙っていたなら話は別だ。
監督も監督ではないのか。あんな剣幕で母を呼び捨てにして、ただならぬ空気にしたくせに何の説明もないなんて。
柚葉のため息が、携帯電話越しに割れて届いた。
『でもおばさま、かなりしんどそうだった。誰かに話したいんだと思う。あたしは聞いてあげられないけど、侑志とか侑志のパパは助けてあげられるんじゃないの?』
「そう、なのかな」
『どっちにしたって、あたしは答え分からないんだから、本人に聞いてみるしかなくない?』
「そう……だよな」
『うん。それでしんどくなったらまた電話してよ。侑志の話ならあたし、聞いてあげられるつもりだしさ』
今度は侑志が深く息を吐く番だった。一方的にお悩み相談をされる立場だったのが、すっかり逆転しているとは。
とにかく柚葉は情が深い。
「ありがとな。柚葉いてくれてマジで助かったわ」
『なに、急に? 侑志のそういうこと普通に言ってくるとこ割と困るんだけど』
じゃね、と突然素っ気なく電話が切れた。侑志も柚葉のこういうところに多少困りはするが、嫌いではない。
携帯電話をポケットにしまって立ち上がる。歩きながら何を聞こうかシミュレーションする。
まずは平橋との関係? 母校のことについて? それとも……。
生ぬるい風に視線を上げる。木の葉は今日も変わらず豊かに揺れていた。
そういえば、引っ越してくる前もこの道を歩いた。並木の風景を気に入って、『あのマンションならいい』と両親に言った記憶がある。
そうだ。あのマンション『が』、ではなく、『なら』と言った。確かに。自分から頼んだのではなく同意した。
あんなにぐずついていた足が、こらえきれずに走り出す。エントランスのロックを開け、エレベーターを待てず階段を駆け上がった。チャイムを押しておいて自分で玄関の鍵を開けた。
「どうしたの、侑ちゃん。そんなに息切らして」
出迎えた母はいつもと変わらないように見えた。いつもと変わらないことにしたいのだと思った。
「母さんはこの家、好き?」
侑志の唐突な質問に母は眉をひそめる。ニセモノの空気が整う前に次をぶつける。
「キッチンがどうとか日当たりがどうとか言ってはしゃいでたじゃん。それまでずっと『任せる』とかしか言わなかったのにさ」
父が長期の海外赴任から戻った後、新田家は転居することになった。侑志は野球をやめたばかりで、今までのチームメイトと顔を合わせる可能性が減るならどこでもいい、早く決めてほしいと考えていた。
新居選びが難航したのは母のためだ。侑志に引きずられたのか、あの頃はふさぎがちだった。どこへ行っても、ここで構わないわと口では言っていたし、押し切ることもできたのだろうけれど、父はいつだって母の気持ちを世界で一番尊いもののように重んじる。
父がいろいろな物件を提案しては自ら却下して、最後に途方に暮れた表情で母と侑志を連れてきたのが、このマンションだった。
母の顔は分かりやすく輝いて、ここがいいわと両手を組んだ。父は笑い返しながら、喉がつかえたみたいな声で頷いた。
――美映子さんがいいなら、僕はそれでいいよ。
「父さんはいつも俺と母さんのワガママ、できるだけ叶えようとしてくれる。こうしたいって伝えて、顔が強張ったの……この家を決めるときと、俺が高葉ヶ丘受けるって言ったときだけだ」
あのときも、高葉ヶ丘が都立だからかと思った。それまで検討していた私立ではないからかと。きっと違ったのだ。他の都立高校なら、父はあんなぎこちない認め方はしなかった。
――侑志がそうしたいなら、父さんはそうしてほしいよ。
「変だろ、どっちも。おかしいよ」
「侑志、いい加減にして。言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうなの」
母の口調は強かったが視線は床に向いている。一つに括った髪が流れる。そのままでいいと言ってくれた人がいたから染めずに伸ばしているのと言った。
それって父さん? と侑志が尋ねたときも、父はやはり苦しそうに笑っていた。
「俺、野球部のこと、話もしてたし連絡のプリントとかも渡してたよな。知ってたんだよな、平橋先生のことも、桜原監督のことも」
いい加減重くなった鞄を玄関先に置く。母はそれだけで肩を縮ませる。威圧するつもりはなかったのに、つい声が大きくなる。
「知る前から、いるかもって期待してたんだよな? だからここに住みたがったんだろ、高葉ヶ丘に!」
「やめて、侑志。知り合いだってこと隠してたのは謝るけど、桜原君とは何でもないのよ」
母は俯いて目許を片手で覆っていた。そうまで俺を見たくないのかと侑志は冷たく母を見下ろす。
少女みたいで手に負えないこともあるけれど、仕事もできる立派な女性だと尊敬していた。同級生の母親よりずっと身綺麗で若々しいと、内心少しも自慢でなかったと言えば嘘になる。
今の母は、安っぽいドラマの中の女みたいだ。
「おうはらくん、だって。なんだよその呼び方。関係ない柚葉まで利用してさ。気持ち悪いな、あんた」
自分が口にした台詞も、奥歯を噛んで嗚咽をこらえている女も、全部茶番だ。
立ち尽くす侑志の後ろで、施錠を忘れたドアが開いた。
「侑志? どうしたんだい、靴も脱がずに……」
父の声を耳にした瞬間、全身がかっと熱くなった。
そこにいる女性が誰で、自分がどれだけ醜いことを言ったのか、急に生々しさを増した事実が胸を襲う。
「父さ、俺」
「美映子さん」
父は侑志を見もしなかった。何度も名前を呼びながら、愛する女性の涙をただまっすぐに拭いに行く。
「美映子さん。どうしたの、美映子さん」
侑志は制服のまま通学路を引き返した。駆け出した。血の上った頭も風が冷やしてくれると、つまらない妄想にすらすがりたくてできる限り速く走った。
何が聞きたかったんだ、俺は。
くだらねぇこと言った。ひどいこと。泣かす必要なんか全然なかったのに。
しんどうそうだった、助けてあげればって、柚葉にも言われたのに。
「おい、新田!」
右腕を強く引かれ振り返る。朔夜だった。どうしてと言いかけたけれど、学校指定ではないトレーニングパンツですぐ思い出した。彼女の練習時間はいつも部活の後で、この道はお決まりのランニングコースだ。
桜原監督が現役の頃に確保した練習場所の前。
朔夜に初めて声をかけられた道。
「どした、泣いてんの? 水いる?」
朔夜は下から侑志の顔を覗き込み、左手にペットボトルを押し付けてくる。動転しているのか、表情も言動も弟みたいだった。
「えっどうする、どうしてほしい? とりあえず座る?」
「朔夜さん」
「なんだよ。水飲むのか?」
呼んでみてよかった。普段どおりの口調に、強張った筋肉がじんわりとほどけていく。左手に触れたペットボトルの表面には、まだ結露が残っていた。
「泣いては、ないんですけど。水だけ、ちょっともらっていいですか」
「いーよ。それごとやる」
朔夜は苦笑を浮かべて、侑志の目許を親指で軽く擦る。こういうところで勝てない。というより勝てないことだらけだ、身長以外。
ペットボトルは飲みかけだった。あまり気にせず口をつける。スポーツドリンクの甘さが喉を潤して、舌には苦味がざらりと残った。
「お母さんのことか?」
朔夜はぽつりと言う。侑志は頷いてボトルを返す。
今日の件では朔夜も当事者だ。家を空けているのは自主練のためだけではないのかもしれない。
「桜原は?」
「
つまり朔夜は気にしているのだ。
侑志は水気を帯びた指先を、意味もなく揉み合わせる。朔夜もドリンクをあおって、力強くふたをしめた。
「よし、学校行こう。
「平橋先生に?」
「だって今日のは映ちゃんが余計な絡み方しちゃったせいだろ、多分。すぐ次の試合なのにさ。私はともかく、新田に影響出たりしたらたまんねーし」
行こう、と朔夜は左手で侑志の右手を取ってくれた。自分が大切にしなければならない手を使って、侑志の大切にしなければならない手を使わなくてもいいようにしてくれた。
それだけでかかる問題の大半がどうでもよくなってしまうなんて、俺はどうしようもない自己中のバカだと思った。
せめてあの繊細な変化球を投げ分ける指先を守りたくて、なるべく負担にならないよう朔夜の駆け足についていった。