生まれるのではなかった
安アパートの換気扇は音の割に仕事をしない。フライパンから上がる湯気はずっと徹平の顔に当たっている。
「焼きそば、においすごい。お兄ちゃんがお当番の日そればっか」
「だよなぁ。ごめん」
妹の指摘は至極もっともで、料理をするようになったこの数ヶ月、徹平のレパートリーはほとんど増えていない。
和世が腰元にまとわりついてくる。振り払う方が危ない気がして好きにさせておく。
「カズねぇ、明日ハンバーグ作るよ。お兄ちゃんお肉好きでしょ」
「また、きーちゃんママに教えてもらった?」
本名は知らないが、きーちゃんは和世がよく名前を出すクラスメイトだ。興奮して要領を得ない長話を続けるものと覚悟していたのに、和世は急に口を尖らせて兄から離れた。
「きーちゃんちはもう行かないの」
「なんで。ケンカでもした?」
「してない。きーちゃんとは遊んでいいけど、きーちゃんママはやだ」
「お料理教えてくれるし優しいって言ってたじゃん」
「やさしくない」
和世は壁際まで走っていき、徹平に背を向けたまま両手を握って俯いた。
「きーちゃんママ、カズとお兄ちゃんのことかわいそうって言った。カズもお兄ちゃんもかわいそくない」
意図しない空気の塊が滑り込んできて喉が詰まった。
和世の怒りは正当だ。その同情を受け入れれば自分たちはきっと卑しくなる。だが本当に『かわいそう』ではないのかと問われたら、徹平は最後まで否み続けることができない。
他にこの現実をどう言葉にすればいい。『清貧』という欺瞞を認めるほどの余裕などあるはずもないのに。
「和世。ご飯できた」
気休めひとつ言えずに火を止めた。妹も洟をすすっただけで兄に何かを求めようとはしなかった。
「お兄ちゃん、いつもの白いお皿でいいの」
「オレが出す。机拭いて」
盛り付けている途中で電話が鳴った。狭い和室に響く無機質な電子音は、古ぼけた黒電話よりよほどみすぼらしい。
「カズが出るね」
「和世、名前は」
「言わない。『どちらさまですか』が先」
和世が受話器を取るのを横目で見ながら換気扇を切る。
早く食卓に運んで替わってやらなければ。
「もしもし。え、椎弥ちゃん?」
和世の呼んだ名に、皿を持ちかけた右手が滑った。
白く丸い皿に納まった二人前と、シンクに落ちて生ゴミになった一人前。
「うん、元気だよー。昨日お話できなかったもんね。かわる?」
和世の声には邪気がない。母は昨晩、息子を電話口には立たせずにいてくれた。同じ気遣いを期待するには妹は幼すぎる。
徹平は振り向いて、和世の小さな手から受話器を取り上げた。
「久しぶり」
自分の声があまりに平板で、オレってこんなだったかなと違和を覚えてすぐ思い直した。
これが本来の井沢徹平だ。学校にいるときのオレがずっと嘘つきなだけだ。
『てっぺー? しーやだけど……』
ああ、椎弥だな、と強く目を閉じた。二重母音が苦手で長音の発声をしてしまう。自分の名前ですら言えていないときがある。こんな風に。
『てっぺー、なぁ、おれ』
「元気だよ、最近忙しくてさ。茗香も元気?」
椎弥の話を遮って明るい声を出した。高葉ヶ丘野球部の補欠の口調。
「うん今ちょうど飯、食ってからでもいい?」
『おまえ、何だよいきなり!』
椎弥が声を荒らげる。徹平は身体の向きを変え声を低めた。
「和世に聞こえる。ここで話したくない」
『なんだよそれ。おれの妹さんざん傷つけといて、自分の妹にだけなんも知らせたくないって? どんだけずるいわけ?』
震える嘲笑。椎弥の言い分はもっともだが、それでも和世は自分の不始末とは関係ない。心を歪ませるような言葉を聞かせたくない。
玄関先で物音がする。母が帰宅したなら和世を一人にしなくて済む。
「携帯にかけて」
早口で言い捨て受話器を置いた。鍵と携帯電話をポケットに押し込み、母と入れ違いに外に出る。昼に降った雨のせいか風は多少涼しいが、その分湿気が重くまとわりつく。
錆びた鉄階段の陰から公道に出る。ずっと無視し続けた番号から着信があって、歩きながら電話を耳許にやった。
「昨日はごめん。和世が急に電話かけて」
『カズちゃんにはなんも怒ってないよ。もっと先に謝ることあんだろ』
「それ以外は、謝って済むことじゃないから謝らない」
少しずつ感覚が戻ってくる。椎弥とはときどきこんな風になった。
後ろ暗い冷え冷えとした会話。凍えさせているのはお互い相手ではない。
「椎弥。
『ダメだった。先輩じゃなくて、やっぱ、おれが』
椎弥の声は消え入りそうだった。並んで座っていれば慰めになった沈黙も、電話越しでは無意味な空白だ。
『ほんと、おれが、他の人好きになれなくて、だめで。だめなやつで』
「それは椎弥がダメなせいじゃない」
そうなのだろうか。わからない。でも徹平はそう言いたかった。異性とも同性とも恋ができないことが、三住椎弥の持つ全ての価値を貶めるとは思いたくない。
近所の公園には人がいなかった。現れたとしてもこの時間なら通り過ぎるだけだ。オブジェの陰に腰を下ろし、椎弥が泣き止むのを待った。
『てっぺー、おれのこと、気持ち悪くてもいいから、めーかを一人にしないで』
椎弥の嗚咽はむしろ激しくなっていった。答えられないまま受話音量を上げて聞いていた。
『おれ、やっぱ秋から寮に入る。今なら、野球に集中するためだって、みんな思ってくれる』
「本当のことだろ。椎弥は、真面目に野球してるんだから」
オレと違って、と出かかって、知らないうちに飲み込んだ。椎弥は気付いていないようだった。
『あの夢、どんどん回数増えて、おれ、もうめーかに近づくの、こわくて。くるしいよ』
「椎弥」
名前を呼んでやるのが精一杯だった。
中学二年生のとき、冬の音楽室で椎弥は、妹を穢す夢を見たと打ち明けて泣いた。あのとき徹平が弾いた曲は、茗香の好きな『雨だれの前奏曲』は椎弥の耳にも残っているだろうか。
誰かを好きになる気持ちに貴賤はないと言えるほど、徹平も楽天家ではない。和世に劣情を抱くようになった自分など、考えるだけでもおぞましい。徹平に椎弥を嫌悪する気持ちがなくとも、椎弥が自身をどれだけ憎悪するかは想像がついてしまう。
せめて一時の気の迷いであればと願う。
『戻ってきて、てっぺー。野球なんかしなくていいから。おれのこと軽蔑していいから。おれからめーかを守って、お願いだから。世界で一番大切だから、壊したくない』
「野球『なんか』とか言うなよ。それだって椎弥の大切な夢だろ」
見上げる空には月も星もなかった。グレーの雲に分厚く覆われているだけ。
頬骨の辺りがかゆくて、指先で触れたらやけに滑った。いっそ全身濡れてしまいたいのに雨は降らない。
「ごめん、椎弥。オレにはできないよ。オレも茗香のそばにいるの、こわい」
『なんで! めーかはお前のこと、あんなに、ずっと好きなのに……!』
「好きなら何してもいいのかよ!」
腹の底から叫んでいた。何もない公園で。誰もいない夜空の下で。
家々から漏れる灯りから顔を背けた。
「椎弥と同じだよ。オレも茗香も高校生になった。茗香はどんどん綺麗になって、母さんがオレを産んだ歳に近づいてく」
小さいうちは深く考えたことがなかった。現代の日本で、十七歳での出産がどれだけ社会的に異常なのか。高校生はほとんど大人に見えていた。勘違いだと年々分かった。背が伸びてきただけで、高校生はまだずっと子供だ。
大通りの方から誰か入ってきた。二十代ぐらいの若い男が一人と、しなだれかかって歩く同じぐらいの女。一つしかないトイレに二人で入っていった。
どうして待てないのだろう。どうして堪えられないのだろう。
あともう何年か、待ってくれたら。あともう何年か、遅く産まれていれば。
『なぁ。やっぱり、一緒に教会――』
「行かないよ」
徹平は光に群がる蛾を見上げ、蚊の腫らした腕を血の出るまでかきむしった。
「天にまします我らが父は、オレがいくらパンを欲しがっても石しかくれなかった。オレの父親がそうだったみたいに」
立ち上がり公園を出ていく。家ではなく神社に向かって歩いていく。
「『生まれ来ぬ方が、その者のためにはよかった』」
椎弥がよくするように聖書の引用をして電話を切った。電源も落とした。目指した鳥居をくぐれる気は全くしなかった。
喉を引きつらせてひとつ息を吸う。口にしかけた独言は、恐ろしい四文字の枠に収まりかけて崩れる。
もう一度頬に触れる。均一に濡れている。ただの汗だ。これならあの部屋に戻れると思った。家と呼ぶには狭すぎる、帰ると言うには救いも安らぎもない場所へ。
「いってきます」
一〇二号室を出るとき、徹平はいつも肌が張り詰めて関節が硬くなる錯覚に陥る。同時に筋肉と内臓は元の大きさに戻るような感じがする。
休んだらどうかと母には言われた。隠しおおせないくらい顔色は悪い。しかしあの部屋で一日中和世と二人でいるなら、学校に行って部活をやる方がマシだった。
設備も支援もない学校。指導能力のない監督。馴れ合いばかりで熱意のない先輩たち。実力のある同輩たちは挫折で精神が弱っている。
誰も徹平に平均以上を求めない。常勝は義務ではない。試合に負けることへの恐怖も、身体が鈍っていくことへの焦りも次第に薄れていった。
電車で立ったまま少し眠ったが、一睡もしていない頭はまだぼんやりしている。別にいい。高葉ヶ丘野球部のメニューなら手癖でもこなせる。気が紛れて時間が潰れるなら何でもいい。
学校に着いた。いつもよりずっと早く出たとはいえ、試合前日にもかかわらず部室の鍵は当たり前に開いていなかった。馬淵学院ならありえない。五時に集合だし、四時半には誰か来ている。
吹奏楽部はもう集まっているようだった。カーテン越しだが人影が見える。徹平も陽射を避けて校舎に入る。金管の音がはっきりと聞こえる。不意に、ピアノがないな、と馬鹿なことを思った。吹奏楽だ。普通、鍵盤は入らない。
吹奏楽部が使っているのは外に面した第二音楽室。廊下側の第一音楽室なら空いているはずだ。考えた瞬間、足が動いていた。鍵がかかっていてくれと願った。ドアが滑らかにスライドして、無駄なあがきだったと悟った。
黒く光るグランドピアノの前に座る。くたびれたエナメルバッグを脇に置くと無粋な色が脚に映り込む。どうせ周りは雑然としていて全てが無粋だ。
何を弾くかは迷わなかった。あの日と同じ一曲。
白鍵に指を叩きつける。こういう弾き方をする曲ではない。殴るように奏でてはいけない。解っている。解っている、全部。
音楽なんていらない。ただ音の暴力にさらされていたいだけだ。頭よりも手が覚えてしまった動きのままに、指を、ぶつける。
「え、あれ、井沢?」
嵐の中でも、その呼びかけは徹平の耳に届いた。新田侑志の声はいつだって通りがいい。
新田は練習着姿で現れて、徹平に歩み寄ってきた。
「ショパンの前奏曲作品二十八の十五番……お前、それじゃ『雨だれ』っていうか豪雨じゃん」
両手が鍵盤から滑り落ちる。
またか。新田は徹平の見る汚い世界のことは知らないくせに、ささやかに握り締めている綺麗な世界のことは何でも知っている。少なくとも徹平にはそうとしか思えない。
「井沢も早く来すぎたのか? 更衣室なら開いてっから、着替えたいなら行ってこいよ。今ちょうど他の部いないし」
何度も聞かされた一節。
『神は真実である。貴方がたを耐えられないような試練に遭わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである』。
それが本当なら、自分や椎弥ばかりこんな道を行くのが『耐えられる』からなのだとしたら、もっと弱くてよかった。耐えきれないからと試練を与えられることのない、愚かで情けない子供の方がよかった。『逃れる道』を見つけられるほど賢くもないのなら。
教会に行けばまた、そうではないと神の愛を説かれる。この期に及んで解釈なんてどうでもいい。
正しき御言葉は井沢徹平の救いにはならなかった、それが動かない事実。
「あのさ」
返事をしなかったためか、新田は窺うようなトーンで別の話題を出した。
「昨日、三住から電話がかかってきたん、だけど」
急に立ち上がったせいで頭がぐらついた。構わず新田に詰め寄る。
「なんで椎弥がお前に電話するんだよ」
「俺の去年までのチームメイト、今三住と同じ高校で――」
「そんなこと訊いてんじゃねぇよ! 何の用でって言ってんだ!」
嫌だ。聞きたくない。
椎弥があのことを打ち明けてくれたのはオレだけだったし、オレの家の事情を一番知ってるのは椎弥と茗香のはずなんだ。新田は関係ない、外の人間のはずなんだ。
「知るかよ! 一方的にべらべらしゃべるだけしゃべりやがって、俺だってワケわかんねぇよ!」
新田は顔を赤くして怒鳴った。そういう感情に任せた振る舞いが様になる奴だ。醜いだけの自分とは違う。
そして激しい返し方をするということは、とりもなおさず椎弥が新田に重大な何かを話したということだった。
「そうかよ。新田はいつだってそうだもんな」
喉から笑い声が漏れていた。熱くなる目の縁を持て余して床を睨んだ。
「心配そうにしてれば向こうから教えてくれるんだもんな。桜原のときも、永田や富島のときだってそうだったんだろ。そうやって誰とでも『自分たちだけの秘密』つくって、誰かの特別でいられるんだもんな」
「じゃあお前はどうしてほしかったんだよ」
新田が一歩踏み込んできた。目の前に首元。
「俺にごちゃごちゃ質問して、父親の名前ちらつかせて。言ってみろよ。そういうの、構ってほしいんじゃなかったら他に何なんだよ?」
練習着の第一ボタンが跳んだ。新田の喉仏が変な動きをした。
「おまえっ、おまえみたいなのに、何がわかんだよ! どうしろって言うんだよ、オレに!?」
つかみかかった両手をどうするかなんて決めていない。とにかくこいつを黙らせたい。殴ってやらなければ気が済まない。腕を握る手指を思いきり振り払った。
新田が苦しげに名を呼ぶ。
「おうはら……!」
「――え」
新田の視線を追えば、桜原が片手を押さえて床に座り込んでいた。
「一応さっきから止めてたんですけど。やっぱ気付いてなかったよね」
桜原が徹平を見上げて不器用に笑う。指が緩んだ。新田は慌てて桜原に駆け寄っていく。
「今、椅子に思っきり突っ込んだろ? 保健室……いや先生いないよな、監督に電話、いや朔夜さんの方が」
「とりあえず新田は落ち着いて。ちょっと転んだだけ。平橋先生来てるかもしんないから、職員室か社会科教員室見てみる」
新田はもう徹平を見てはいなかったし、桜原は新田の手だけを借りて立ち上がった。徹平は何もできなかった。桜原を突き飛ばしたのは自分なのに。
桜原は一人で出口まで歩いていく。光射す出口。確かな足取りで、徹平の傷つけた手首に逆の手を重ねながら、去り際に振り返り穏やかに言った。
「井沢。新田も、たぶん井沢が思ってるほど恵まれてるわけじゃないから。ぶつけるなら俺とかにしてよ」
「桜原!」
追いかけていったのもやはり新田で、徹平は暗い部屋の中に立ち尽くす。
隠していたのは右手だった。桜原の利き手だ。
桜原はスタメンで、試合は明日。したいはずの少年から野球を奪って、その居場所に入れるのは恐らく――自分しかいない。
無事な両手で首を覆い、徹平は引用ではなく己の言葉で心から呟いた。
「生まれるんじゃなかった」