11話 The Eleven

ジ・イレブン

 馬淵(まぶち)神社には相変わらず人がいなかった。雨となればなおのこと。夏を感じさせる日も増えた五月だが、陽射のない夕方は淡々と体温を奪う。
 井沢(いざわ)徹平(てっぺい)は傘も差さずに参拝を済ませる。かつてはカトリックであったが今となってはどうでもいいことだ。どうせ日本古来の神仏も本気で信じているわけではない。
「徹平くん」
 呼びかけられて振り返ると、三住(みすみ)茗香(めいか)が立っていた。
 ピンクの傘。色の趣味は相変わらずだと思ったが、花模様に縁取られた生地は以前より落ち着いた彩度に見えた。
 茗香は黒目がちでまつ毛が長い。白い肌も、伸ばしたまっすぐな黒髪も、人形のようだと皆が褒めそやす。大人が、男が、理想として思い描く『少女』――憐れなくらいその枠の中で育ってきた娘だ。少なくとも傍目には。
 茗香の口唇は何度も開かれるのに、言葉は一向に届かない。
 電話は今でも月に一回必ずかかってくる。日常を綴ったメールも週に一回は届く。徹平は一度も返事をしていないくせに、着信拒否の設定もしなかった。
 茗香はその理由を問い詰めたいはずだった。それ以上に、何故茗香たちの前から消えたのか知りたいはずだった。だが促してやらなければ何も言えはしない。解っているから徹平は、自分について何も言わずにいた。
「風邪ひいたら椎弥(しいや)が心配する。帰りなよ」
 参道から外れて砂利を踏みしめながら、徹平は茗香の横を通り過ぎようとした。
 傘が差しかけられる。前髪から滴る雨に目を眇めて顔を上げる。茗香の眼差しは決然としていたのに、柄を支える手つきはひどく控えめだった。
「……和世(かずよ)ちゃん、は?」
 徹平が彼女の兄の名を出したのと同様、茗香が口にしたのも結局は徹平の妹の名前だった。
 げんきなの、と続ける声は雨音よりかろうじて大きい程度で、元気だよ、と返す徹平の声も常より小さくなった。もっとも茗香と話していて大声になったことなど一度もない。
 徹平は傘をそっと押しのけ、道の端に寄ったまま鳥居をくぐった。
 茗香は迂回してついてくる。鳥居の下を通らないことに信教以外の意味があるのか、徹平には分からない。
 徹平も彼女に言いたいことがあるような気がする。責めたいなら口で言えと肩をつかんで揺さぶりたいのだろうか。もう忘れてほしいと彼氏気取りの憐憫を見せたいのだろうか。どちらも違うようでどちらも少しは望んでいる。
 確かなのは、何を言っても後悔するということだけ。
「しいちゃん、が」
 下り坂の途中、振り仰いだ茗香の頬は傘があるのに濡れていた。幼い頃、双子の兄に置いていかれたときと変わらない表情。
「試合、観に来てほしいって……絶対、甲子園行くからって」
「行けない」
 あの頃、茗香の手を引いて椎弥のところまで連れて行ってやったのは徹平だ。
 子供だから許された。修道女を思わせる黒の制服を着た茗香に、男になりつつある少年の手では触れられない。
「オレにも行くところがあるから、行けない」
 意識して感情を排した口調に、茗香は目を大きく見開いた。ぴんと張ったまつ毛から雫が弾けていく。座り込んでしまうかもしれないと思った。そうしたら駆け寄らざるを得なくなる。茗香が意図的にやったのではなくとも。
 だが茗香の膝は崩れなかった。品のいいローファーは確かな足取りで坂を下りる。徹平と視線の高さを合わせ、茗香は小さな口唇をはっきりと動かす。冷えて色を失った口唇を。
「わたしも、ついていく。徹平くんと同じところに」
 瞳の光は吸い寄せられそうなほど強い。
 茗香が見かけよりずっと頑なだということを、徹平はずっと前から知っていたはずだった。
 茗香がこちらに手を伸ばそうとする。振り払うより先に足が下がった。もし傷ついた顔をしていなかったらと考えると、かえって茗香を見ることができなかった。
 気の利いた言葉ひとつ残せず、徹平は雨の中駆け出した。逃げ出した。今まで彼女にしてきたのと同じように。
 風が顔に当たるたび、濡れそぼった青草の匂いがした。