9話 Short-ender - 2/6

今じゃなきゃダメかな

 ――しかし、どうしたもんかね。
 侑志はため息をつきながら、両手をこすり合わせた。手のひらを、甲を、透明な流水が滑り落ちていく。昼食の前に手を洗うのも気持ちがよい季節だ。丹念に洗うつもりはなくとも、つい長く水に触れてしまう。
 しかし、深春の件、本当にどうしたものだろう。協力するのは気が進まない。面倒くさい。第一、桜原が可哀想だ。それに三石(みついし)のことも気になる。あの調子では深春の想い人など知らないのだろうし。他人の色恋沙汰に巻き込まれると本当に面倒……。
 そこで侑志は、はたと止まった。
 そうだ。昨日柚葉(ゆずは)からもらったメールに返事をしていない。確か初戦の相手を訊かれた。柚葉はあれで返信ペースに寛容だが、甘えて放置するのも気が咎める。
 ようやく水を止めて振り返ると、真後ろに琉千花が立っていた。
「使う?」
 侑志は蛇口を指差す。琉千花は首を横に振った。順番を待っていたわけではないらしい。
「あの、ね。新田君」
 琉千花は真剣な面持ちで切り出した。侑志はハンカチで手を拭きながら、息を呑んで続きを待つ。
 そして絞り出された言葉は。
「ご飯って、何合ぐらい炊けばいいかなぁ?」
「はぁ?」
 侑志はお決まりの台詞を零してしまってから、はっと口を押さえた。それガラ悪いからやめた方がいーよ、女の子とか恐がるよ? と柚葉に言われたばかりだったのに。
 幸い琉千花は気にしていないようだ。ぐっと両手を握って前のめりに話してくる。
「おにぎり! 明日から私、作ってくる。一年生五人で、一人二つでしょ。どれくらいお米いるかな?」
「あ? あー」
 侑志は視線を泳がせた。
「るっちの家、何人家族だっけ?」
「六人。今、家にいるのは五人だけど」
「やめといた方がいいって。早瀬(はやせ)家の食べる分なくなるよ? 富島んとこは一人っ子だし、ご両親あんま米食わないっつってたからアレだけどさぁ。そもそも、明日からは各自でって話だったし」
 侑志はハンカチをポケットにしまった。使う前に手の水分を切らなかったせいでびしょ濡れだ。スラックスが湿って気持ち悪い。
「それぐらい自分たちでできるからさ。気ィ遣わなくていいよ、ホント」
「……そっ、か」
「え?」
 琉千花は急に言葉を切り、きびすを返して駆け出す。泣いていた。侑志は慌てて後を追う。
 走力そのものなら侑志に分があるが、人の間をすり抜けていくとなると話は別だ。小柄な琉千花と違って侑志はいちいちつっかえてしまう。それでも何とか、女子トイレに逃げ込まれる前につかまえた。
「新田君。せっかく手、洗ったのに」
 琉千花は顔を背けていた。侑志は腕をつかんだまま答える。
「また洗えばいいよ」
「私だって顔洗えばいいだけだもん」
「それは、そういう問題じゃない」
 侑志は琉千花を階段脇の談話スペースに連れて行き、木のベンチに座らせた。自分は隣に腰を下ろす。
「で、俺は何を間違えたんだろう? 教えてもらえないと、俺はまた同じことをしてしまいそうなんだけど」
 我ながら芝居がかった台詞だ。琉千花は答えてくれない。
 一年F組から賑やかな声が響いてくる。
 すごくねぇ? ヤベェじゃん! っていうかマジで?
 侑志は静かに目を閉じた。
 中にいない者にとって、あの言葉たちは何の意味も持たない。それがどんな昂ぶりによって発せられたものだったとしても。
「新田君はさ」
 琉千花の声で目を開けた。もう涙は落ち着いたらしく、琉千花はただリノリウムの床を睨みつけている。
「新田君は、朔夜さんのことどう思う?」
 唐突な問いに侑志は飛び退いた。思いきり座面についた右手が痛い。
「ど、ど、どうって」
「私はね朔夜さんのことすごいと思う。朔夜さんに憧れてるの」
 琉千花は侑志を見ずに早口で言った。侑志は姿勢を正して続きを待つ。
「朔夜さんって『分からない』って言ったことないんだよ。部活の仕事も野球のルールも、私が訊いたこと全部教えてくれる。何でも知ってるのに全然自慢にしないの。朔夜さんにとってはそんなの当たり前だから。私は当たり前のことすら知らないのに、それで許されてる。お客さんだから」
 険しい横顔を見ているうち、侑志にも彼女の言いたいことが飲み込めてきた。吐き出しきるまで口は挟まずにおく。
「富島君の言うとおりだよ。私みんなの言ってること、半分も分からない。これでも本読んだり、プロ野球見たりしてるんだよ? だけど出てくる言葉自体分からないの。だから辞書引いたりネットで調べたりして、でもその説明も分かんなくて、またさかのぼって。全然前に進めない」
 琉千花は両手を持ち上げ、指先を丸めたまま目許に押し付けた。細い肩が不規則に跳ねる。
「本当はねこういうの新田君に話してる自分も嫌なの、これだけ頑張ってるんだからって言い訳してるみたいで。だけどそうじゃなくて私、朔夜さんみたいになりたいの。みんなの役に立ちたい。私だってみんなと野球したい。私だけお客さんのままは、嫌なの」
 またF組が大騒ぎしていたが、今度は何を言っているのか聞き取れなかった。
 侑志はため息をついて後ろの壁に寄りかかる。淡いエメラルド色を塗り付けただけのコンクリートは、上がった熱をひやりと冷ましてくれる。
「俺もさ、朔夜さんに憧れてる」
 琉千花がびくりと顔を上げてこちらを見た。侑志は頭を壁に預けたまま苦笑を漏らす。
「だってさ、ピッチングもフィールディングもバッティングも一流、しかもあの人走れんだぜ? 何なら勝てるかって考えたら、敵う要素ひとつもないんだよ、俺。ときどき羨ましくてたまんなくなるんだ」
 琉千花は黙って俯いた。侑志は天井に目を向ける。剥き出しの蛍光灯は点いていないが、太陽光がたっぷり入ってくるので暗くはない。
「でもあの人、すげー努力してんだ。俺たちから見えるのの何倍も何十倍も、一人で努力してんだよ。しかも俺たちより一年早く生まれてる。向こうからすりゃ、周回遅れの俺たちに負けるわけにはいかないよな」
 悲愴ぶるなと自らを奮い立たせるような人だから。何度挫折しても立ち上がり、また歩き出すような人だから。
 今の自分では、あの人のいる場所に届くことなどできないけれど。
「だから俺、逆算するんだ。来年の俺は、今の朔夜さんと肩を並べられるのかなって。足んないとこ考えて、そこ頑張るんだ。そしたらいつか、俺もあの人に追いつけんじゃねぇかなって思いながら」
 侑志は身を起こして、琉千花の顔を覗き込んだ。
「るっちは、それじゃダメかな。今同じになれなきゃ、嫌かな」
 琉千花は首を振った。
「そうじゃないけど、だからって今何にもできなくてもいいってことにはならないよ」
「今だってあるじゃん。朔夜さんにはできなくて、るっちにはできること」
 侑志は椅子から降り、琉千花の前で片膝をついた。少しキザったらしいだろうか、まぁいい。
「例えば、帰る前に背伸びでグラウンドを見渡すこと」
 真正面からだと、琉千花が大きな目を丸くするのがよく見えた。
「あれって、忘れ物がないかどうか確認してくれてるんだよね。朝もみんなが来る前に、大きい石とか拾ってくれてるんでしょ? 朔夜さんに聞いたよ」
「そんなの、誰でもできる……」
「誰でもはできないよ。現に朔夜さんは、るっちがやってくれるまで気付かなかったんだから」
 琉千花はまた泣きそうになっていた。侑志はハンカチを取り出そうとしたが、まだ濡れている。代わりに、反対のポケットに入れっぱなしになっていた袋を出した。深春からもらった個包装のクッキーだ。
「朔夜さんは何でもできるかもしれないけど、何でも見えるわけじゃない。その分るっちが見てあげたらいいじゃん。できることならこれから増えるよ」
 琉千花の手にクッキーを握らせた。小さいけれど、無限の可能性を秘めた手だ。
 自分たちはこの先きっと、幾度となくこの手に救われる。
「大丈夫。俺たちも一緒だから」
 だからもう泣かなくていい。
 侑志は立ち上がり、琉千花の頭をくしゃりと撫でる。友達ならこれぐらいの気安さは許されてもいいだろう。
「落ち着いたら戻っておいで」
 琉千花はクッキーの袋を両手で包み込み、小さく頷いてくれた。
 教室に戻ると、岩茂組が桜原と共に昼食をとっていた。侑志は弁当箱を持って三人に近づく。永田が振り向く。
「新田君、遅かったじゃん。どこ行ってたの?」
「……便所?」
「何で疑問形なのさ」
 今お前の好きな子を泣かしてきたところだ、とは言えない。侑志は残っていたクッキーを一枚永田に渡した。
「やるよ」
「え、いいの? ありがとー。僕甘いもの好きなんだ」
「桜原も」
「……ありがと」
 最後の一枚を、桜原は気のない様子で受け取った。好物に飛びつかないとは、おにぎりを即決で受け取った今朝より重症だ。
 侑志は腰を下ろしてから、様子がおかしいのは桜原だけではないことに気がついた。左側の富島が、異様なほど規則的なペースで箸を動かしている。
「ちょっ、違うからな? イジメとかじゃねぇから、二枚しかなかったからチビッ子優先しただけだからな。他意はねーから、ホントに」
「ああそう、これが噂の『オニーチャンなんだからガマンしなさい』ってヤツか? 貴重な体験をありがとう。僕はてっきり気の利いた意趣返しかと」
「何の意趣返しだよ、怒んなって」
 侑志が困り果てていると、富島の真正面にいる永田が、クッキーを二つに折って片割れを差し出した。
「半分あげるよ。あっちゃん」
「おい同情のまなざしをやめろ」
 富島は左の拳を机に叩きつけた。永田は半笑いで、チョコチップクッキーを米飯の中に挿し込んだ。意外とやることがエグい。
 富島は真顔でクッキー周りの飯を持ち上げ、永田の弁当箱にごっそり移植した。
「あー! 何すんだよぉ」
「いや、僕は気持ちだけで充分だから。クッキーは慶ちゃんが食べなよ」
「やだよ。だってほらもうチョコ溶けてんじゃん、ご飯変色してんじゃん」
「そっちがやったんだろ」
「っていうかお前ら、食べ物で遊ぶんじゃありません」
 二人ともしょうもない子供だ。ちょうど戻ってきた琉千花が、苦笑しながらこちらを見ている。琉千花に気付いて崩れ落ちる永田を尻目に、富島は悠々と昼食の続きに戻る。
 くだらないやり取りが収束したのを潮に、侑志は弁当箱のふたを開けた。入れ替わりに桜原がふたを閉じる。
「桜原、もういいのか。全然残ってんじゃん」
「今朝おにぎりもらっちゃったし」
「昼減らしたら意味なくね?」
「でも、お腹いっぱいだから」
 桜原はぼそぼそ答えた。侑志はぐっと腹に力を入れる。
 触れずにおこうと思ったが、さすがに見ていられない。
「お前、やっぱりこないだのこと引きずってんの? あんなのさ、気にすること」
「そういうことじゃないんだよ新田」
 勇気は一瞬で跳ねつけられた。
 桜原は異常にはっきりと、一字一字確実に発音した。
「そういうことじゃないよ。新田が思っているようなことじゃないんだ。絶対に」
 侑志は目を伏せて口をつぐんだ。
 桜原の言い分に納得したわけではない。桜原姉弟を侮辱した椿と石巻を、絶対に許したくないと思う。
 けれど、桜原の意思は尊重したい。たとえ理解はできなくとも。
「とりあえず、それだけでも食えば?」
 クッキーを指し示す。桜原は気遣わしげに侑志を見てから、袋を手に取った。
「ありがとう」
「礼なら本人に言って」
「本人?」
「ミハル先輩」
 桜原は、口に入れかけていたクッキーを侑志の弁当箱に思いきり突っ込んだ。あまつさえそれを右に捻る。
「見たかよコイツ、ただ入れるだけじゃ飽き足らず飯にねじ込みやがった!」
「富島ぁ、食べ終わったんなら化学教えて」
「ああ」
「ちょっとこれ、どうすればいいの俺」
 我関せずな桜原と富島。途方に暮れる侑志の肩を永田が叩く。
「新田君。いっせーのでいこうか」
「え、食うのこれ? マジで?」
 永田が該当箇所を箸でつかんだので、侑志も覚悟を決めた。
「いっせーのっ」
 口の中に未知の感覚が広がっていく。さっくりとしたクッキー、とろけるチョコチップ、そして二つをねっとりと包み込む米飯が、絶妙なハーモニー……いや、絶望的な不協和音を奏でている。感想を求められたら侑志は一言、こう答える。
 ――人間の食うモンじゃねぇ。
 永田はすぐそばで目を瞬かせている。
「あ、意外となんとか」
「なってねぇよ!」
 侑志は口を覆いながら叫んだ。
 結局、柚葉にメールをするのを忘れた。