9話 Short-ender - 3/6

満足すんのも、納得すんのも

 家に帰って、やっと柚葉に連絡をした。
 メールを打つのが億劫だったので電話だ。近況を聞かれて適当に答えているうち、桜原が落ち込んでいるようだという話になった。じゃああたしなんかと電話してないでとっととあの子のところに行きなさいと怒鳴られた。
『多分だけどあの子、自分からはそういうの言わないよ。侑志が話聞いてあげなきゃ。友達なんでしょ?』
 とはいえ、やっぱりどうしたもんだろう。
 侑志は近所の和菓子屋で買った羊羹を片手に、桜原家の門前に立ち尽くしていた。
「あら。うちに何かご用かしら」
 侑志は肩を震わせて振り返った。ボブカットの女性が紙袋を提げて微笑んでいる。監督の奥方――桜原姉弟の母親だろう。侑志は慌てて腰を折った。
「遅くにすみません。あの、高葉ヶ丘高校野球部の新田と申しますが」
「新田くん?」
 侑志の足元に紙袋が落ちた。何かと思う暇もない。桜原母は侑志の右手を、両手で強く包み込んだ。
「新田くん? 新田くんなのね? ああ、本当に……」
 声は熱っぽく、侑志を見上げる瞳は潤んでいる。まるで運命の恋人との再会だ。侑志は気味が悪くなって口ごもる。
「あの、皓汰君は」
 桜原母の温度が元に戻った。真意の読めない笑みを浮かべて手を放す。
「ええ、皓汰ね。いると思うわ。暑いでしょう? ぜひ上がっていって」
 固辞するのも気が引けたので、とりあえず靴脱ぎ場まで上がらせてもらった。
「皓汰、皓汰いるんでしょ。お友達来てくれたわよ。新田くん」
 息子を呼ばわりながら、桜原母は玄関脇の階段を上がっていく。
 正面に見える扉は居間への入り口だろうか。ガラススリットから男性らしき影が見える。監督だろう。
 桜原母が、ちょっと待ってねと下りてきた数十秒後、桜原弟が姿を見せた。よれたTシャツにナイロン製のパンツ、縁なしの眼鏡。完全なる家モードだ。
「どしたの、新田」
 侑志はどうしようか迷って、とりあえず紙袋を持ち上げた。
「おみやげ」
 桜原は目で合図して階段を引き返す。侑志は急いで靴を揃え後を追う。
「俺の部屋こっち」
 案内されたのは、二階の洋室だった。ベッド、学習机、本棚、たんす。これだけでいっぱいの手狭な部屋だ。しかも床が散らかっている。
「適当にどかして座って」
 と、言われても洗濯物を踏みそうだし、鞄を潰しそうだ。物の少ない場所を探して部屋を見渡したら、一箇所だけ様子が違っていた。
「桜原ってホントに本、好きなんだな」
「何で?」
「本だけは床に置いてないから」
 整った本棚に歩み寄る。文庫、新書、大判、ペーパーバックからハードカバーまで。古さや装丁は様々だったが、全て活字のようだ。
「誰が好きなの」
 侑志の問いに、桜原は投げ遣りな声で答える。
「イアン・マキューアン」
 侑志は硬直した。どうせ言ったって分からないでしょ、という桜原の口振りどおり、侑志には聞き取ることすらできなかった。
「ほ、他には?」
「ガルシア・マルケスとか。サリンジャーとか、ベタだけど」
「……日本人は?」
「司馬遼太郎」
「あ、それなら俺も読む」
 聞き覚えのある名前がやっと出た。声を弾ませた侑志とは対照的に、桜原は冷ややかだった。
「それで、どうしたの」
「どう、っていうか。特に何、ってわけじゃないけど」
「何でもないけどお菓子持ってきてくれたの」
「お前が元気ないから、心配で」
「話でも聞いてやろうと思ってきたんだ」
 桜原は、一人分だけ空いた定位置らしき場所に座り、濁った目で侑志を見上げる。
「それでまた、『とりあえず食えば』って言うわけ? それって満足すんのも納得すんのも新田だけでしょ。俺の現状なんて何も変わらないよ」
 侑志はただ黙って口唇を噛んだ。感情が、そんなのは違うと叫んでいる。だが理性は反論を許さない。
 ――一方的に知りたいだけだろ。柚葉に言われてきただけのくせに、一丁前に友達面して。
 桜原は顔を背け、薄っぺらい座布団を投げて寄越した。
「ごめん。別に心配してもらうのが迷惑とかじゃなくて。こんな風にしてもらったことないから、どうしたらいいか分かんない」
 侑志は俯いたまま、床のプリントをどかして桜原の正面に腰を下ろした。
「なぁ上手く言えないけどさ。俺は単純にお前といるの楽しいし、好きだし、だからお前がヘコんでんのとかつらいし、でもこれは全部俺の理屈で、俺とかお前はその度にどうしたらとか考えなくちゃ友達やってけねぇのかな」
 桜原は深いため息をつき、力なく首を振った。
「俺は新田が優しいの知ってるから、聞いてもどうしようもないこと話して余計に悩ませるのが嫌なだけ。どうせ新田には何もできないし、何も解決なんてしない」
「けど」
「うん。けど。それでもいいんなら話すよ」
 桜原の譲歩に、侑志は神妙な顔で頷いた。
 つったって何も大袈裟な話じゃないけど、と前置いて、桜原は壁の向こうの向こうを見るような、遠い目をした。
「朔夜は椿さんのことすごく憎んでるけど、俺は本当にそういうんじゃないんだ。椿さんは初めて俺のこと認めてくれた他人だったから」
 桜原は運動が苦手だ。野球もまともにできなかったらしい。その桜原を集中的に鍛えてくれたのが椿直也だった。
「あの人だけが、いてもいなくても関係ないような俺のこと、『その他大勢』とか『朔夜の弟』じゃなくて『桜原皓汰』として扱ってくれた。言い方は罵倒だし、やってることはいじめみたいだったけど、あの人がいたから俺は今ショートなんてやってられるんだ。だから次の試合は無様な姿見せられない。ちゃんと成長したとこ見せて、恩返ししないとって思う」
 そんな実力がついているかは分からないけど、と桜原は締めくくった。
 侑志は相槌も打たずにじっと聞き入っていた。
「あのさ」
 左手の爪で、フローリングの隙間に詰まった埃をほじくり返す。
「やっぱ、上手く言えねぇけどさ。お前の言うとおり俺には何もできないし何も変えられねぇけど、少なくとも俺は、お前が話してくれて少し救われたような気がするんだ。勝手だけど」
「うん。俺も一方的に喋り散らしただけなのに、少し楽になった気がする」
「そっか」
 侑志は掻き出したゴミをティッシュで集めた。
「じゃあ、差し当たってそれでいいんじゃないかな」
「いつもの『とりあえず』を言い換えただけじゃん」
 桜原は笑いながらゴミ箱を差し出してくる。
「でも新田の言うとおり、考えてること話すのって何も変わらなくはないのかなと思った」
「そうだろ」
 侑志の落としたティッシュペーパーが、ゴミ箱の中でふわりと咲いた。
 その後、緑茶とお持たせの羊羹をご馳走になって、夕食の誘いを断り桜原家を辞した。しかし桜原母、あれほど感動するとは、息子を訪ねてくる友人がそんなにめずらしいのか。
 六月の末。陽が落ちると外はまだ涼しい。
 信号で、桜原は少し元気になったようだという旨のメールを、柚葉に送った。マンションに着く頃になって返信があった。

『よかった(*^-^*)
 でもまだしばらく気をつけててあげなね。
 ため込んじゃうタイプだと
 元気なフリで全部隠しちゃう子とか
 いるからね……』 

 足が止まる。頭から冷や水を浴びせられた気分だった。
 鼓動がどんどん速くなる。
 嘘だった? 空元気だった?
 俺の方を、励ますための?
 ――何も変わらない。何もできない何も解決なんてしない。新田に話してもどうしようもない。
 満足すんのも納得すんのも、
 侑志は叩きつけるように携帯電話を閉じた。荒い息でふらりと前へ踏み出した。早く家に帰りたい。帰って夕食を食べて風呂に入って、それで。それで?
 『とりあえず』だ。現状は何も変わりはしない。変わらないのに、侑志は家の明かりを目指して歩くしかない。

「皓汰。新田、何の用だったの?」
 皓汰の部屋は相変わらず散らかっていた。朔夜は整理の行き届いた状態が好きだが、弟の占有空間まではさすがに手を出せない。
「別に。用なんかなくても友達の家ぐらい行くでしょ、朔夜だって」
 皓汰は古ぼけた紙に視線を落としたまま言った。また櫻井(さくらい)(はじめ)の本だ。日に一度は目を通していそうに見える。朔夜には理解できない世界。本を読んでいる人に声をかけていいのかも分からなくて、毎回ためらう。
 皓汰は外れそうな頁を慎重にめくった。
「お茶ありがとう。出してくれて」
「なんで私に言うのさ」
 朔夜は皓汰のベッドに腰掛けた。
 部屋の前に盆を置いていったのは確かに朔夜だ。しかし声はかけなかった。
「羊羹の口直しに塩昆布つけてくれたじゃん。新田が甘いもの苦手だからじゃないの? お母さんてそういう気の遣い方できないもん」
 皓汰の手が眼鏡の位置を直す。雑な扱いでつるが歪んでいて、すぐにずり落ちてしまうらしい。
 皓汰が外ではコンタクトレンズをするようになったのは、椿との練習中に前の眼鏡を壊してからだ。そのときも皓汰は恨み言ひとつ口にしなかった。放任主義の父でさえ気を揉むような状況で、黙って二年間耐えきったのだ。
 あの期間が終わって、朔夜は心底安心した。
 なのにどうして今になって。
「そんな顔しなくていいよ。俺が代わりに勝ってくるから」
 皓汰の手が本を閉じる。会話まで終わらせるような音に抗い、朔夜は鋭い声を上げる。
「代わりってなに」
「朔夜は椿さんぶっ潰したいんでしょ。だから俺が勝ってくる。今までどおり」
 あんまり静かな声に胸が詰まった。
 当てこすりではない。一片の皮肉もなく皓汰は本気だ。朔夜を見上げる瞳は黒々と美しかった。
「俺は元々、そのために野球してるんだから」
 否定してやらなければならなかった。自身のために勝てと怒鳴りつけてやるべきだった。
 それなのに朔夜にできたのは黙り込むことだけ。
「ありがと。だいじょうぶだよ、朔夜」
 双子のように近しい弟の抱擁に、身を任せることだけだった。
 夏が、夏が来てしまう。
 もう感傷を待ってはくれない。