9話 Short-ender

ショートエンダー

「朝練終わるとお腹空くよね」
「早弁でもするか?」
「そんなことしたら放課後の部活までもたないよ」
 椿(つばき)直也(なおや)に接触されてから三日。侑志(ゆうし)の見る限り、桜原(おうはら)はいつもどおりに過ごしていた。もっと正直に言えば、いつもどおりを保つことに腐心しているように見えた。
 侑志も中身のない会話に付き合い続けている。踏み込んで傷つけてしまうぐらいなら、空々しくともお互い笑顔でいたい。
 教室に着くと、先に戻っていた琉千花(るちか)が入口まで駆けてきた。
「おつかれさま、新田(にった)君、桜原君。元気ないけど大丈夫?」
「おなかすいただけ」
 桜原は温度のない声で答える。取り付く島もないが、琉千花も桜原の不愛想に多少慣れたようで、構わず青い袋を差し出してくる。
「飴じゃ足りない、よねぇ」
「ありがとう。糖分あるだけで違うよ。なぁ桜原」
 侑志は琉千花の手元から、ソーダ味の飴玉をひとつ摘まみ上げた。桜原に渡す前に後ろから奪われる。何かと思えば富島(とみじま)だ。
「そんなものばかり食ってると倒れるぞ」
 富島はいきなりB組に踏み込んできて、肩にかけたクーラーバッグから何かを取り出し桜原の手に握らせる。アルミホイルの塊だ。
 桜原は説明を待たずにおにぎりを食べ始めていた。
「こぶすき」
「そうか。もう一個あるぞ」
「ください」
 二個目が桜原の手に渡る。富島は勝手に侑志の席まで歩いていき、机にバッグをでんと置いた。
「いやなんだよ、いきなり!」
「配給。これからは練習がより厳しくなる。このままじゃお前らはやせ細る一方だ。炭水化物をくれてやる」
永田(ながた)は?」
井沢(いざわ)を呼びに行ってる。あいつも新田も、どう見たって飯が足りてないからな。本当ならたんぱく質もつけたいところだが」
 侑志は反論しようとしたが、おにぎりを二つ押しつけられ黙った。空腹で困っているのは事実だ。お恵みに感謝こそすれ文句は言えない。
「まぁ、栄養まで計算しようとすると親御さんに負担がかかる。とにかくジャンクフード以外ならいい。量を増やせ。特に米と肉だ。飴で身体はできないからな」
 富島は侑志から奪った飴の小袋を、琉千花の持っている大袋に戻した。琉千花があからさまに嫌な顔をする。
「どうせ私はお菓子しか持ってませんよ。ごめんなさいね」
「自分の不明が惨めだからって僕に当たるなよ。あんたが三年間御用聞きのままでいいならそれでもいいが」
 富島は涼しい顔で言い放った。先日琉千花が、一年生の注文を取って回ったことを指しているらしい。公式試合で着るアンダーシャツの枚数。あれは確かに朔夜(さくや)の指示で、琉千花が自分で気付いたことではない。
 俯いた琉千花の小さな拳は震えていた。
「食事管理ぐらい自分らですりゃいいだろ。変な当てこすりやめろよ」
 侑志は二人の間に割って入る。富島はゆっくりと侑志に顔を向ける。
「『やらない』と『知らない』は違う。携わることを選んだ以上、最低限の知識と行動力を持つべきだ。歩み寄る努力もしない奴を部員と認めるほど、僕は偽善的にはなれない」
 憐れむような蔑むような、冷たい目だった。
 琉千花はやはり下を向いたまま何も言わない。
 言い方はともかく、富島の言い分にも同意できる部分はある。侑志は嘘をつかずに上手く琉千花を慰める方法を思いつかなかった。
 富島はおにぎりをまた一つつかんで、琉千花の前にすっと出した。
「だから、あんたにも体力つけてもらわないと困るんだ。半人前な分、人一倍働いてもらわないとな」
 意地の悪い笑顔を浮かべて、急に棘の抜けた口調で、こういうことをやってのける。侑志は少しだけ、ほんの少しだけ、この天然タラシ野郎と叫びながらおにぎりを投げつけたくなった。食べ物を粗末にしたくないのでやめた。
「わかった」
 琉千花はまだ不満そうに両手を出した。二人の指が偶然触れ合う。
 桜原がぽつりと呟く。
「あ、永田きた」
 永田が井沢を連れて一年B組に入ってきた。
 琉千花はおにぎりを持ってきょとんとしていたが、富島は勢いよく手を引っ込める。そして何を思ったか、いきなり別の米の塊をつかんで永田に投げつける。微動だにしない永田の胸でおにぎりは弾かれ、床に落ちる前に井沢がキャッチした。桜原と琉千花が拍手する。が、永田は動かない。
「とれよぉ!」
 富島が悲痛な声で叫んだ。彼なりに『やっちまった感』は抱いているようだ。侑志は一連の不幸な事故に合掌した。
 ともかく、野球部一年の緊急ミーティングである。桜原監督は余裕を持って朝練を終わらせるので、多少は時間が取れるのだ。
 侑志の席を中心に、左に桜原と井沢、正面に富島、右に琉千花が座り、永田は富島と琉千花の間を遮るように立っていた。
「っていうかさ、シオコーって近いのに練習試合したことねーよな。何でかな」
 最後に来たはずの井沢は二つのおにぎりを真っ先に食べ終え、ホイルを丸めて遊んでいる。富島が無造作にゴミ袋を突き出す。
「去年まではしてたみたいだぞ。試合外の侮辱行為があって、それに対する謝罪がないとかで、現在は冷戦状態らしい。詳しいことは教えてくれなかったな」
「誰が?」
「監督とキャプテン」
 富島も自分の分のおにぎりを片付けた。侑志も最後の一口を嚥下する。
「あそこ偏差値高ェけどガラ悪いよな。俺、学校見学のときガンつけられたし」
「新田は見てくれだけだとただのヤンキーだからな」
「うるせぇな。好きで身長伸びたわけでも、好きで茶髪なわけでも、好きでツリ目なわけでもねーよ」
「でも、私の友達も、塩川(しおかわ)の見学行ったら廊下にガムが吐いてあったって」
 琉千花が両手の指でおにぎりを支えて言った。ほら見ろ俺のせいじゃねー、という侑志の台詞を無視して、井沢が勝手に話を戻す。
「野球部のレベルは? 確か硬式ねぇよな」
「ああ。昨夏は二回戦、昨秋初戦、今春三回戦まで。今季の選手データは揃ってないから、はっきりとは言えないが……穴がない代わり、全体に小粒な印象だな」
 富島は鞄からクリアファイルを取り出した。細かい字が書き込まれた紙が透けている。
「過去二年、在校生分のデータだ。高葉ヶ丘(たかばがおか)との非公式戦の分しかないが、一応まとめてきた」
「すご……」
 琉千花の漏らした声を、富島は聞き逃さなかったらしい。コピー用紙を振りながら笑う。
「こういうのは本来、マネージャーないしスコアラーの仕事だと思うんだがね」
 永田にじとりと見られすぐ顔を背けた。頭がいいくせに何故学習しないのか。
 侑志はため息をついて、『ガラ悪い』代表の名を口にした。
「椿っているか。椿直也。今年のエースだ。あともしかしたら石巻(いしまき)ってのも」
「椿と石巻?」
 富島は助かったと言わんばかりの素早さで、資料に目を落とす。
「いるな。石巻(いわお)、今年二年か。平均するとそうでもないが、得点圏打率が高い。調子に乗らせたくないタイプだ。守備はファーストと、マスクも被ってるな」
「石巻さんはずっと椿さんと組んでた。椿さんがエースなら今年は正捕手かもしれない」
 桜原が無感情な声で言った。へぇ、と富島は薄く笑い、ホチキスで綴じた紙をめくる。
「椿、ね。こいつも二年か。登板回数は少ないな。確認できる球種はストレートとスライダー。手持ちの資料からだと球速は分からないが、速球派と見ていいだろう。それより、バッティングの方に面白いデータが出てる」
 富島が紙束を叩くと、中身のない音が響いた。
「打席数は六。うち三回は朔夜さんとの対戦、うち一回はデッドボールで打数に入らず。残りはピッチャーライナーと内野安打。配球は全球ストレート」
 井沢と永田、そして侑志は訝しむ顔をした。
 朔夜が死球を出すこともめずらしいが、それよりも配球の奇妙さが気にかかる。朔夜は変化球で翻弄するタイプの投手だ。彼女自身もそれを楽しみ、誇りにもしているように見えた。
 森貞(もりさだ)が投手の気持ちを無視したリードをするとは思えない。つまり、この異常な『全球ストレート』は、確実に朔夜の意思なのだ。
「何か因縁めいたものを感じないか。なぁ、桜原?」
 富島の言葉に侑志は桜原を向く。出会った頃の彼が時折見せた、全ての色を消したまっさらな横顔があった。
「椿さんは俺の恩師だよ」
 桜原は何ひとつ感じさせない声音で言った。恩師という言葉が持つべき親しみも、先日見せていた怯えも、あの仕打ちに対して抱くべき怒りもない。
 感情を押し殺している風でもない。
 ただただ、何もなかった。
「でも野球部とソフト部は仲が悪かった。特に椿さんと朔夜はね」
「いいよ、そういうのは」
 永田が苛立ちを隠さず手を振った。
「桜原君も答えなくていい。あっちゃんの訊き方が悪いよ。朔夜さんとその人が対戦するわけじゃないんだから、個人的な事情をほじくる必要ない。それはデータとは関係ないことだもん」
「まー、それも一理あるよな。データにしたって絶対じゃないし」
 井沢が富島の手から資料を抜き取る。
「ただ、感情は結果にも出るんだぜ。データが証明してんだろ」
 井沢はいやに落ち着き払って、富島のような冷めた言葉を発した。
 侑志は夏服の胸の辺りをしきりにこすった。さっきの富島から琉千花への当たりと同じだ。頭は言い分の正しさを認めているのに、なんだかもぞもぞする。
 井沢と富島は二人で話を進めていく。
「ベンチに朔夜さんがいて、桜原がスタメンだろ。こいつリキむかもな」
「球が変な荒れ方しなきゃいいんだがな。投手に当てられたらこっちは終わりだぞ」
 桜原はさっさと自分の席に戻っている。侑志と琉千花は置いてけぼりだ。
 侑志はもやもやしたまま一時間目の支度を始める。
 筆箱を出したとき、シャープペンシルを一本深春に貸したままだったのを思い出した。さしあたって困るものでもなかったし、今は特に会いたくない相手だったので、とりあえず放っておいた。

 身の入らない一時間目が終わり、休み時間に三年F組をそっと覗く。後方のドア付近で見覚えのある二人が何かやっていた。
「あら、見つかっちゃったわ」
 月村(つきむら)が背筋を伸ばして席に座っている。手元にはピンクの折り紙。左側の深春(みはる)は、赤い折り紙を奇怪な形に折っている。
「ちょうどよかった。少年も手伝ってよ」
「はぁ、何を」
「選手にやらせちゃダメよ、深春ちゃん」
 月村がやんわりとたしなめた。ここへ来て察しの悪い侑志も何をしているのか気付く。千羽鶴を折っているのだ。
 月村は納まりの悪い笑顔を浮かべる。
「差し出がましいかもしれないけど。今の私にはもう、これぐらいしかできないから」
「二人だけで折ってるんですか?」
 侑志が問うと、月村は引け目をちらつかせるのをやめ、普通の笑顔になった。
堂弘(たかひろ)君のご家族も手伝ってくださってるの。史宏(ふみひろ)君――お兄さんなんて、予備校の休み時間まで折ってくれてるんですって」
岡本(おかもと)さんのお兄さんが」
 侑志は馬鹿みたいに繰り返した。月村はゆっくりと頷き、侑志の目を見上げる。
「私たちには何もできない。つらい思いに耐えてグラウンドで戦うのは、あなたたちだけ。それでも何かせずにはいられないの。だから見逃してね? 鶴しか折れない私たちのこと」
 侑志は黙り込んだ。月村たちが本当に何もできないとは思わない。けれど説き伏せる自信がなかった。侑志にできることもまた、鶴を待つことでしかないのだ。
「あの。マネージャーにも話しちゃダメ、ですか?」
 侑志が呟くと、月村が目を丸くした。気圧されて顔を背ける。
「分かってるんです、その、朔夜さんたちも忙しいってことは。俺たち全部二人に任せっきりだから、このうえ仕事増やすようなこと言える立場じゃないんですけど。でも、終わってから聞かされたらやっぱり寂しいんじゃないかって、つまり、『やらない』と『知らない』のとは別なんじゃないかと思って」
 言いながら顔から火が出る思いだった。完全に富島の受け売りだ。
 月村の手が新しい折り紙に伸びる。
「私から朔ちゃんに伝えておくわね。それでいいかしら」
「はい。よろしくお願いします」
 侑志は頭を下げた。自分たちの応援を頼んでもらうのによろしくもないものだが、気持ちだ。
「ふぉお、できた!」
 深春が突然右手を高く掲げた。精も根も尽き果てたような鶴が載っている。
「ね新田少年、この鶴どう?」
「どうって。それを俺の口から言わせるんですか?」
「どういう意味よ!」
「そんなことより先輩、俺のシャーペン」
「そうだ、委員会のとき借りたよね。見覚えないけど兄貴のかなーとか思ってた」
 深春は鶴を注意深く机に置くと、慌しく立ち上がった。侑志としては、いまさら丁重に扱っても手遅れだと思うのだが。
「はい、どうもありがと。このクッキーは延滞料ね。で、こっちは」
 深春は侑志にシャープペンシルと個包装のクッキーを手渡した後、別の二袋をトランプのように広げて見せた。
皓汰(こうた)くんに渡して♪」
 どうして何もしていない桜原の方が枚数が多いのだろうか。
 チャイムが鳴ってしまったので、侑志は短く挨拶をして教室を出ようとした。
「新田少年!」
 深春に呼び止められて振り返る。深春は侑志に向けて右手を伸ばし、親指をぐっと立てた。
「皓汰くんにヨロシク☆」
 この人の辞書にTPOという言葉を書き加えてやりたい。
 チャイムの最後の一音が、無情にも廊下の奥に消えた。