4話 Re:Start

リスタート

 五月五日。練習試合はまだ続いている。
 六回の表を終え、二対一でリードする高葉ヶ丘(たかばがおか)高校にシートの変更。
 ピッチャー岡本(おかもと)、ライトへ。
 ライト八名川(やながわ)、ファーストへ。
 ファースト桜原(おうはら)(朔)、マウンドへ。
 侑志(ゆうし)朔夜(さくや)の投球をまともに見るのは初めてだ。めずらしい左のサイドスロー。森貞(もりさだ)との間を白球が行き来する。
「右なら見えるな」
 井沢(いざわ)が冷静に呟いた。
 侑志たち左打者には背中側から来る球は脅威だが、多数派の右打者にとってはただの見慣れないフォームなのだろう。球威を増しづらく、出どころが見やすい横手投げでは、目が慣れた時点で攻略される。
「僕もそれは言ったんだがな」
 先程まで朔夜の肩慣らしに付き合っていた富島(とみじま)が、首を振りながらキャッチャーメットを脱ぐ。
「ハンデだよ、だそうだ」
「なるほどね」
 井沢は声を上げて笑った。名門組はさっきから言葉の端々に余裕が滲んでいる。
 侑志はこめかみの汗を右手首で拭った。
「お前らとか朔夜さんとかさ、ちょっとでいいから自信分けてほしいよ」
「それだけ実力があるのさ。あやかりたきゃ精進することだな」
 富島は意地悪く口唇の端を歪めた。正論すぎて閉口するしかない。
 相手打者が右打席に入る。ちょうど一番からだ。
 一度目のサイン、朔夜は首を横に振る。二度目も。三度目、ようやく満面の笑みで大きく頷く。富島が呆れ顔で腕組みした。
「見とけ。いきなり来るぞ」
 朔夜が右脚を上げる。左腕を引く。力強いステップ。軽やかなリリース。
「朔夜さんの得意球。スクリューだ」
 打者の身体が外に泳ぐ。森貞のミットは明らかに内側だった。
「え、今なんかえぐい曲がり方しなかった?」
「受けると分かる。相当えぐい」
 富島は意外なほどまっすぐに褒めた。永田(ながた)以外の投手は認めない風だったのに。
 朔夜はもう一番打者を打ち取っている。
「新田もサウスポーだよな。やっぱスクリューって憧れる?」
 井沢が問いかけてきて、侑志はぱっと顔を上げた。あれを見てしまった後だ、返答は決まっている。
「そりゃ、一度ぐらいは」
「無駄な夢だな。ああいう変化は横投げだからできるんだよ。新田のスタイルなら、縦を使った方が有効だ」
 富島は侑志の希望を即座に斬り伏せた。あまりにきっぱりで落ち込む気にもなれない。侑志は一人目のアウトを黙って書き込む。
「そもそもだ、投手は変化球に過度な期待をかけない方がいい。こうなるからな」
 富島に指差され、すみません、と永田は縮こまった。
 投球とはボールの軌道を意のままにしようとする動作だ。自然の運動に逆らわせるための操作。変化をつけようとすればするほど、身体にも不自然な負荷が掛かる。
 それでも投手は、ボールを従わせたいという誘惑に抗えない。一度知ってしまった快楽からは逃れられない。悪魔との契約みたいなものだね、と侑志の父はナイターを観ながら笑っていた。侑志が変化球にほとんど手を出さなかったのは、幼い頃聞いたこの言葉のせいでもある。
 永田は、多くの変化球と抜群のコントロールを得るために大きな代償を払った。朔夜も今あの場所に立つために、どれだけのものを注ぎこんだのだろう。
 サードゴロで二人目も切った。朔夜が小指と人差し指をぴんと立てて、自慢の左腕を上げる。
「ツーアウトぉ!」
 ツーアウトぉ、と明るい声が返る。岡本が投げていたときよりも、チームの空気は華やいでいた。
 胸の奥から突き上げる高揚感。何かが起こりそうだという期待。まるで祭の始まりを待つかのような。
 朔夜は足で投手板の土を払う。ロジンバックをひとしきり弄んで放り捨てる。
 初球ストレート。変化球で打たせるタイプと聞いていたが、直球にもキレがある。コントロールもいい。勝負球もある。
 挑発的な笑みも、素直な自信も、周囲を巻き込む明るさも、ふとした鋭い視線も、陽光を浴びて眩しく輝く。
 彼女はおよそ投手の望みうるものを全て持っているように思えた。
 ただ一つ、もう一つだけ手にしていたら。桜原朔夜こそが、高葉ヶ丘野球部のエースになっていたに違いないのに。
「無駄な夢だ」
 富島が暗い声で、先程と同じ言葉を口にした。視線はマウンドの朔夜に注がれている。永田の手前口にこそしないが、彼もあの才能を惜しんでいるのに違いなかった。
 侑志は誰にも見えないよう少しだけ口唇を噛んだ。
 朔夜はマネージャーであることを誰にも強制されていない。監督はむしろ彼女を選手として扱おうとしている。
 だが部活中の朔夜は、自身の練習より周囲のサポートを優先する。部活外でも父や弟を付き合わせることはそれほどないらしい。ほとんどの時間、彼女は独りで努力を積み重ねている。
 何の権利があって、誰が彼女にそんな負担を強いるのか。問いかけたとき、責任の一端は自分たちにもあるという事実を侑志は痛感する。かといって、裏方になって彼女を助けるとも思いきれない自分が憎々しかった。
「新田」
 気がつくと朔夜が目の前に立っていた。いつの間に三つ目のアウトを取ったのか。逆光で表情がよく見えない。
「大丈夫か? ぼーっとして。熱中症か」
「いえ、あの」
「なんだよ。今んところ、記入してないじゃん。貸しな」
 朔夜はスコアシートを奪い取り、さらさらと書き込んでから突き返してきた。
「分かんなかったら早めに訊けよ。私でも永田でも、誰でもいいから」
「すみません」
「分かんないもんはしょうがないし、謝んなくてもいいけど」
 朔夜は帽子を取り、額の汗を拭った。中に入れていたおさげが落ちる。白いユニフォームの胸元で揺れる。
 朔夜は富島から水を受け取ると一気に飲み干した。空いたコップを侑志に押し付けながら、首は別の方に向いている。
「富島、付き合え」
 はい、と傍らに立つ富島が頷く。朔夜は帽子を被り直しベンチを出て行った。捕手と並んで走っていく姿には何の不自然もない。
 おかしいな、と侑志は口の中で呟いた。
 この光景が当然でないことがおかしかった。当然だと認めさせない何ものかがおかしかった。
 七回表、高葉ヶ丘高校の攻撃。中学と違いまだラストイニングではない。

 試合は四対一で高葉ヶ丘高校の勝利。学校へ戻って、ミーティングの名目で講義室を借りた。
「手ぇ洗いに行くぞー」
 廊下から声をかけると、他の一年もぞろぞろ出てきた。
「ハンカチとかタオル持ってるか? ズボンとかシャツで拭くなよ」
「お前は保育園の先生か」
「新田ちょー潔癖」
 呆れ顔で富島と桜原がついてくる。侑志は自分が特別に潔癖だとは思わない。食事の前に手を洗うのは常識のはずだ。わざわざ引率して帰りは一番後ろを行く、というのは常識ではないかもしれないが。
「でも新田君ってお母さんぽいなって、ずっと思ってた」
「だよなー。オレも思う」
 先に戻った永田と井沢が昼食を広げながら言う。遺恨はすっかりなくなったらしい。
「新田ってしっかりしてるけど、きょうだいとかいるの?」
 桜原は机に弁当箱を置いた。侑志も隣で包みをほどく。
「一人っ子。でもガキの頃は親父がよく家にいてさ、それがまた何にもできねぇんだよな」
 侑志の母は典型的な世話焼きだ。一方父はお育ちのいい甘えん坊。侑志は両親のやり取りを間近で見て育った。
 ほらパパまたこぼして、侑志だってちゃんと食べられるのに。
 えらいなぁ侑志は、パパよりお箸が上手だね。
 もうパパったら、またそんなのんきなこと言って!
 それよりママ、時間は?
 やだいけない。ねぇユウちゃん、ママお仕事行かなきゃいけないから、パパのことよろしくね。
 うんだいじょうぶだよママ、オシゴトがんばってね。
「いつもそんな感じだったから、俺が育てられてんのか俺が育ててんのかってとこがあって」
「新田、お父さんのお母さんになっちゃったんだね……」
 桜原が箸をくわえておかしな同情を口にした。おかしいながら否定もできない。居心地が悪くなった侑志は視線を外した。
 長机を二つ隔てて朔夜と目が合う。侑志は右の口角に触れ、外側につと指を滑らせた。
「朔夜さん、髪食っちゃってます」
 朔夜はいつもより余計に瞬きして侑志を見ていた。何を指摘されたか分かっていなさそうだ。朔夜のものではない手が長い髪を払い除け、武骨な指に似合わない繊細さで耳にかけてやっていた。ついでに口許の米粒も取っていった。
 朔夜が屈託なく笑う。
「ありがと。レイジ」
 レイジと呼ばれた少年はつまらなそうに口唇を尖らせた。
 早瀬(はやせ)怜二(れいじ)、二年生。ポジションはレフト。今日の打順は九番、四打数無安打。身長は百七十センチに達しておらず、全体に小柄。いつも不機嫌そうな表情をしているが、童顔のせいかそれほど威圧的な感じはせず――。
 いや、そんなことはどうでもいい。侑志は上下の口唇を強く押し付けた。
 何であんなに優しい手つきなんだよ。何で朔夜さんはあんな当たり前みたいに笑うんだよ。
 何で、何で。
「レイジもお母さん気質だよねぇ」
 岡本が気の抜けた口調で言った。早瀬は顔を真っ赤にして否定している。
「うるせえ。誰がお母さんだ」
「現にお世話焼いてるじゃない」
「新田が言うから代わりにやってやったんだよ!」
 早瀬は岡本を見たままこちらを指差した。変声期前のボーイソプラノではなく、これ以上変化の見込めない高音。怒鳴っても小型犬が吠えているみたいで、いまいち迫力に欠ける。
 八名川がいやらしい笑みを浮かべて挙手をした。
「米に関しては新田君、何も言ってないでーす」
「目に入ったら気になんだろうが」
「まったまたぁ。そんな言い方したってホントは優しいんだから、レイちゃんは」
「ちゃん付けやめろ、もうガキじゃねーんだぞ」
 侑志は無表情でほうれん草とコーンのバター炒めを口に運んでいた。
 ほうれん草あんまり好きじゃないのになぁ。あの冷凍の袋が空になるまでは入れられるんだろうなぁ。
「それよりタイチ、てめーまたパンかよ。せめて米食えっつってんだろ」
「だってコンビニの弁当持ち歩くのヤじゃない? レイジが真弓(まゆみ)ママのご飯くれるなら食べたいけど」
「お前ほんとな、オレの母親の飯食って、実の息子より育ってんじゃねえよ」
 八名川と早瀬も旧知の仲らしい。桜原姉弟といい、富島と永田といい、森貞と岡本といい、身内の多い部だ。
 それにしても、と玉子焼きを箸先でほぐし、侑志の思考は元のところに戻る。
 早瀬先輩、随分慣れた感じだったな。朔夜さんも全然動じてなかったし。いつもあんな風にしてるってことなのか? 
「レイジさん妹いるんだって。今の二年生って末っ子ばっかだから、いつも世話係みたいになってんの」
 桜原が侑志の弁当箱にバランを入れてきた。見透かしたような態度が癇に障る。侑志は緑のビニールを箸でつまんで返却した。
 妹? 知らねぇよ。その理屈で早瀬先輩が朔夜さんに平気で触るんだったら、結構な数の男が女子にべたべたしていいことになるじゃねぇか。
 侑志は勢いよく立ち上がる。井沢が目を丸くしてこちらを見る。
「どこ行くん?」
「歯磨きだよ」
 えーっ、幼稚園かよー、という叫びを背に部屋を出た。
 歯ブラシを鞄に忘れたことに気付いたが、戻る気もせず水道に向かった。手のひらに溜めた水で口の中をゆすぐ。
 さほど長くない廊下に、うららかな陽が差し込んでいる。光る埃がしきりに舞い落ちている。散り損ね、慌てて季節を追いかける桜のようだった。