同人誌『恋に向かない男たち』

同人誌『恋に向かない男たち』のサンプルページです。

B6/146P/800円

君よ、生きてくれ。俺のせいで、僕のために。

大学が別々になる前に、幼なじみと卒業旅行へ行く青年。
自分の恋が叶う瞬間、病弱な親友を振り返ってしまう大学生。
忘れえぬ記憶を刻み込んでおきながら、相手を忘却する男。
未来のためと嘯いて、己の為に憎しみを請け負った少年。
本音で斬りつけ合うことを、誠実と腹落ちし笑った連中。
五組の男たちの、献身的で、自罰的で、傲慢で、独善的で、
純然たる相手への感情――。
愛でもなく、恋でもなく、友情と呼ぶにはどうやら重い。
ただ心から相手を想いたいだけの短編集。

共に歩み、救い、堕とし、捧げ、憎み、祈る。
青年たちの非恋愛相互執着短編集。

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留年旅行

 マンションのエントランスにゴルフに行きそうなオッサンがいると思ったら彩人(あやと)だった。
 さっぱりと短い黒髪も、いつもぴしっと伸びた背筋も若々しい清潔感に溢れているのに、ファッションセンスだけが壊滅的だ。
 オッサン、もとい同い年の幼なじみが内側からロックを開けて出てくる。慶太郎(けいたろう)はひらひらと右手を振る。
「おはよ、あっちゃん。今日も十八歳とは思えない格好してるね。またお父さんのクローゼットから勝手に服借りたの?」
「そういう慶ちゃんは今日もまるで小学生だな。その原色のセーター、レゴブロックみたいで似合ってるぞ」
「黒焦げのボンレスハムみたいなダウンの人に言われたくないよ」
 軽口を叩き合いながら歩き出す。電車の時間まで随分あるが、余裕を持って行動するに越したことはない。
「あっちゃん、荷物多くない? 一泊だよ」
「慶ちゃんが何を忘れてくるかわからなかったからな」
「信用がなさすぎる」
 平日の朝、働く人や学ぶ人たちがそれぞれに出ていった後で、住宅街は穏やかな静けさに満ちている。乱さないよう小声で青空の下を行く。暦は春でも三月の朝晩は冷える。慶太郎は手袋越しに右手をさする。
 冬の受験戦争で、友人たちは次々と進学先を獲得していった。早慶上智やMARCH、また警察学校への入校を決めた者もいて……一方の慶太郎は第一志望から第三志望まで全部落ちた。
 耳に入るのは、入学式をどうするだの授業を何を取るだのいつ生協で教科書を買うだの慶太郎の理解できない話ばかり。誰にも悪意がないだけに心がすり減る。
 苦しまぎれの現実逃避に彩人を卒業旅行に誘った。正直、修学旅行すら行き渋った彩人がこんな益体もない旅に同意してくれるとは思わなかった。けれど蓋を開けてみたら、行先の選定から宿と電車の手配まで至れり尽くせり。自分は国立の法学部に現役で受かっているくせに、とんだもの好きだ。
「どれくらいかかるの?」
 横断歩道で止まって、隣に立つ彩人に問う。彩人が首を振って答える。
「昨日も説明しただろ。スムーズにいって三時間」
「なぁっがっ」
 思わず天を仰ぐ。
 そんなに遠いのか群馬。地図上ではそんなに離れていなさそうに見えるのに。縮尺の問題か。
 彩人は信号と腕時計を交互に気にしている。
「寝てろよ。着いたら起こしてやる」
「それドライブで彼氏が言うやつじゃん」
「僕の彼女面したいなら、発案以外にも何かしてほしいもんだな」
 鼻で笑われた。慶太郎は口を尖らせる。
 別に頼んでないし。あっちゃんが先に予約とかしちゃっただけだし。
「ほら、青だよ慶ちゃん。元気に手を挙げて渡ろう。反対のお手々は繋がなくて大丈夫かな?」
 むっかつく。ニヤニヤしやがって。慶太郎はつんと胸を張って歩き出す。
 どうだ。いかに永田慶太郎といえども、横断歩道ぐらいは一人で渡れる。

 

 本当は電車の中でもちゃんと起きていようと思ったのだけれどやっぱり寝落ちしてしまって、乗り換えた後ぐらいから記憶がない。
 だが目の前に広がる光景で、慶太郎の眠気も一気に覚めた。
 木製の大きな道(『樋』ということを後で教えてもらった)に沿って大量のお湯が流れてくる。行った先でひとつにまとめられて滝になり、絶え間なく湯気を上げながら碧く碧く岩場を浸していく。
「すっご、遊園地のでっかいプールみたい」
「湯畑だな」
 彩人の声も気持ちいつもより高い。
 慶太郎はつま先立ちになって周囲を見渡す。
 湯畑を囲う風情ある建物の前を、浴衣姿の人たちが笑顔で行き交う。鼻をくすぐるのは硫黄混じりの春の香り。吹く風の冷たさと温泉の熱がマーブル模様になって肌を髪を撫でていく。肺いっぱいに吸い込んで声を上げる。
「これが……伊香保温泉!」
「草津だが?」

 

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覚えていなくていいから

 誰かが開けた窓から秋の風が吹き込む。講堂に満ちていた熱気が薄まって、気の早い暖房でぼんやりしていた頭にもやっと冴えが戻る。
 講義が随分長引いてしまった。為一(たいち)との約束に間に合うだろうか。早瀬(はやせ)怜二(れいじ)はバイト代で買った腕時計を確かめながら立ち上がる。どうやら待ち合わせ時刻には着けそうだが、十五分前行動が染みついているやつだから早めに行ってやりたい。
 黒いメッセンジャーバッグを急いで肩にかける。運の悪いことに前野(まえの)亜理紗(ありさ)と視線がかち合った。目を大きく見せることに並々ならぬ情熱を燃やしている女で、死ぬほどの恐怖を体験したときの楳図かずおのキャラぐらい上下のまつ毛ががっつり開いている。おかげで服装はおろか鼻や口の印象も残らない。去年の授業で同じグループにならなければ、一生縁がなかったかもしれないタイプだ。
 前野は上機嫌で手を振ってくる。
「おつかれー、怜二くん。また研究室に顔出す?」
「今日はやめとく」
 怜二はポーズとして残念そうに言った。
 前野は周囲の人間を下の名前で呼び、自分のことも『アリサ』と呼ぶよう求めてくる。怜二は彼女の固有名詞を出すのをなるべく避けている。
後藤(ごとう)は?」
 怜二が声をかけると、数歩離れて立っている眼鏡の女が首を傾げた。空気を含んだ黒髪が揺れる。今日はスキニーにロングブーツのいわゆるジョッキースタイルだが、本人は騎手というより大人しい馬のような佇まいだ。
「アリサが行くなら顔ぐらい見せようかとは思ってるけど、早瀬くんは用事?」
「まぁ。ちょっと約束があって」
「それって……」
「当ててあげるー、デートでしょ?」
 ああ、まただ。後藤虹子(こうこ)が何か言おうとしていても、前野亜理紗は気短に割り入って会話を進めてしまう。こんなにテンポが合わないのにどうしてつるんでいるのか謎だ。
 怜二は苦笑して壁の時計を指差した。
「男友達と飲むんだよ。もう遅刻しそうなんだ。じゃあな」
 机の合間を縫って歩き始める。すれ違いざま後藤が指先だけちょこちょこ揺らしたので、怜二も大袈裟でない程度に片手を挙げる。
 ――あの子、携帯にバットマンのストラップ着けてるんだよな。映画好きみたいだしもっと落ち着いて話してみたいな。っても、前野がそばにいる限りちょっと無理か。
 外は既に陽が落ちていた。身を切るというほどではないが地味に寒い。明日はもう一段階厚めのアウターを羽織ることを心に決め、怜二はウインドブレーカーのファスナーを上げる。
 為一から連絡がないか確認しておこうか。ポケットから二つ折りの携帯を出す。
 2006/11/01の表示の下に新着メールの通知。案の定為一からだ。メッセージを読んだ怜二は色を失って走り出す。
 正門近くのベンチにやたら目立つ男が座っていた。奇抜な格好や異様な風体をしているのではない。むしろ逆で、長い両脚を組み本を手にした姿が様になりすぎて浮いている。何組ものグループが近寄って話しかけては笑顔で追い払われており、あの中心に突っ込んでいくのは正直ものすごく気が重い。が、最後のコマが休講だったからと、わざわざ別の大学にまで足を延ばしてくれた幼なじみを邪険にするわけにもいくまい。
 深く深く息を吐き、意を決して大股で歩き出す。向こうも気付いて手を振ってくる。
「レイジ、おつかれ」
「おう」
 怜二は突き刺さる好奇の視線を無視し、当たり障りのない返事をした。
「待たせて悪かったな」
「やー、勝手に来たのオレだし。行こっか。やっぱり他大生って目立つみたい」
 為一は苦笑いしながら立ち上がった。身長一七七センチ、怜二と十一センチ差――何度も計算してしまったから覚えている。
 今日の服装はタートルネックにジャケットか。またハリウッド俳優か何かしか許されないような格好を……顔面とスタイルのせいでやたら似合っているのが悪質だ。耳にかかるぐらいまで伸びたやわらかい茶髪、整って愛嬌もある色素の薄い目、眉間からすっと筆を滑らせたように細くてまっすぐな鼻梁。怜二の硬く黒い髪や丸くて黒い目、歳より幼く見られる低い鼻とは全て真逆だ。
 例えるならレイフ・ファインズの若い頃。写真を見たとき為一と雰囲気が似ていて驚いたものだが、為一も年を食ったら『名前を呼んではいけないあの』感じになるのだろうか。ちょっと恐ろしくもある。
「タイチ、お前もう喉冷えんのか」
 怜二は指先で自分の襟元を触る。為一も華奢な指で高い襟を引っぱる。
「うーん。マフラーするほどでもないけど、気持ち心配だからこういうの着てるって程度。大学入ってから発作も起きてないし、大丈夫だよ」
 為一の身体は、外装だけでなく内側も繊細にできている。特に気管支は弱くて、幼い頃はよく喘息で寝込んでいた。
「ていうか、レイジは今何やってんの? 研究? 就活?」
「それもやってっけど、今のメインは六年制に編入する準備」
「四年制と何か違うの?」
「進路。基本的にこっちは創薬、あっちは薬剤師」
「あれ、レイジって元々薬剤師目指してたよね。なんで最初から……」
「今年新設されたんだよ。四年次からなら移れるっつーから」
「薬学部ってなんか複雑だねぇ」
「生物工学の方が何やってんだかわかんねぇよ」
「オレは細胞工学だもん、細胞見て細胞いじってまた細胞見てるよ。わかりやすいでしょ?」
 全くわかりやすくはないのだが、深く突っ込むと厄介だ。これから酒を入れて馬鹿になろうというのに難しいことを聞きたくない。
 ビルとビルの間に敷かれた大通りを歩いていく。どことなく高校の通学路に似た景色。三年経ってできることも行ける場所も増えて、それでもまだ二人で歩いている。為一は浮かれた表情で怜二の顔を覗き込んでくる。
「で、レイジくん。今日はどこ連れてってくれんの?」
馬淵(まぶち)にまた妙な居酒屋あるっつーから、そこ」
「やった~、へんなみせ大好き~」
 へにゃへにゃと笑う為一。このナリで、バーやカフェよりおでん屋やラーメン屋台の方が好きなのだ。一番の好物は、店主の変わった趣味が前面に押し出されている居酒屋。個性的な店がひしめく馬淵周辺は為一のお気に入りだが、治安があまりよろしくないので行くときは怜二がついていく。
「てか、今年は忘年会どうしよっか? レイジ行きたい店ある?」
「お前また幹事するつもりか? ああいうのって持ち回りでやるもんだろ」
「結局気になって口出ししちゃうから、最初っから自分でやった方がラクだな~って思っちゃうんだよね」
「他人に任せること覚えねぇといつかキャパ越えちまうぞ」
「それ、高校生のとき新田(にった)コーチに何度も言われたわ……」
 話しながら改札を通って電車に乗る。為一を席に座らせ怜二は正面に立つ。馬淵までは乗り換えなしで三十五分。
 電車は大回りで二人の地元を避けて、縁もゆかりもない街へ走っていく。
 怜二は二十一。為一も今日で二十一。出逢ってからもう十八年だ。

 

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あなたは自由だ

 安生(やすき)要助(ようすけ)は自由時間、宛がわれた個室より自習室にいることが多かった。警察学校では一日に数えきれない叱責を受ける。独りでそれを反芻するよりは誰かの気配を感じていたい。
 使い込んだノートを開き、苦手な職務質問の手順をフローチャートにまとめていく。何でもアナログで記録するのが要助の勉強法だ。
 と、一人の青年が隣の席に座った。
「安生さん、この前は勉強教えてもらってありがとうございました」
 パーテーションからひょっこりと顔を出したのは高田(たかだ)勝武(しょうぶ)。高卒の十八歳、要助の四つ下だ。素朴で愛嬌のある顔立ちや人懐っこい態度は、どこか柴犬を思わせる。
「法医学お詳しいんですね。医大出てるって噂本当なんですか?」
「出てないよ。少しかじっただけだ」
 要助はスクエアの眼鏡を片手で直す。高田は軽やかに息を弾ませて笑う。
「とにかく、こんな生活じゃ助け合いが肝要でしょ。お礼に俺にも何かさせてくださいよ」
「じゃあ、今度職質の練習付き合ってくれ」
「お安い御用です」
 得意なことには嫌味なく自信を持てる、そんな高田の在り方が要助は羨ましかった。謙虚であれと親に押し付けられすぎたせいですっかり卑屈に生きる羽目になった。
「安生さんは本当に努力家ですよね。頭が下がります」
「いや、そんな……要領が悪いだけだよ」
「そうかなぁ。頑張り屋だと思いますよ」
 高田が鉛筆の尻を口許に当て天井を見遣る。
「○○教場の人なんて、ここがキツすぎて脱走したらしいですからね。『辞めます』の一言ぐらい普通に言えばよかったのに」
「人間、追い詰められると冷静な判断ができなくなるからな」
「それもそうか。自分の基準ばかりでものを見るのはよくないですね。気をつけます」
 うるさいと苦情が入り、高田は肩をすくめ勉強に戻った。要助もノートに向き直るが、何をどうするつもりだったのかわからなくなってしまった。
 脱走か。確かにここは警官を育てる施設というより、独裁政権下の監獄みたいだ。死なない程度に痛めつけて同一の思想に染め上げる。
 部屋に帰るといつものが来て、要助は頭を抱えてうずくまった。
 耐えがたいほどの頭痛。這っていって、どうせ今日もろくに眠れないのにベッドに横になる。ここ半年ほど夜になると毎日だ。医大をやめたらマシになるかと思ったのに。
 目を閉じると両親の姿が頭に浮かぶ。精神を患って行方不明になった母、母を失ってから目に見えて弱って死んだ父。
 こんなことを思い出すのは追い込みが足りていないからだ。
 腹筋を始めた。百回やったら腕立て、その後は背筋、やり続ければ朝までには意識を失くせる。

 

 ポリカーボネート製の大楯を持ってのランニングは、いくら身体を鍛えても楽にならない。要助は同期に背中を押されてどうにか走り切った。
 食堂に移ってからもまだ気分が優れない。食欲もないまま、ほかほかのカレーの前で途方に暮れる。
「安生さんっていつもフラフラですよね」
 高田が顔を覗き込んでくる。人を避けている要助の横に、遠慮なく腰を下ろしてくるのは彼ぐらいだ。
「飯もあんまり食ってないみたいだし、顔色も悪いし。ちゃんと寝てるんですか?」
「心配や迷惑ばかりかけて悪いな。さっきも手伝ってもらって……」
「いやだな、そんなこといちいち気にしないでくださいよ。同期のよしみでしょ」
 年下に気安く肩を叩かれているのに敵愾心がわかないのは、高田が実際頼りになるからだ。要助だけでなく教場全体に目を配り、何くれなく世話を焼いている。きつい訓練の後でも誰かに笑顔を向ける余裕を忘れずにいる。町にこんな警察官がいたらさぞ安心だろう。
 要助がカレーライスを口に運ぶ間に高田が言葉を発し、高田が食べている間に要助が返事をする。メニューは教場ごとに全員同じで選択の余地はない。
「休みに出かけたりしないんです? 安生さんずっと寮にいるイメージですけど」
「疲れててあんまりそういう気分じゃないな」
「たまには心の休息も必要ですよ」
 からっとした様子の高田を見て、そういうものかとも思う。心身のバランスは確かに大事だ。
「俺はこの前✕✕に行きました。いいところですね、都内とは思えないほど自然豊かで」
「この辺もそうじゃないか」
「いやいや、もっと緑! って感じでしたよ。空気もうまいし」
「どのみちあんなところ何もないだろう」
「山があったんで登りました。結構険しくて、ちゃんとした装備で来るべきだったって後悔しましたね」
「危なかったな。あそこはよく行方不明者が出るんだ」
 餅つきのようにテンポよく交わされていたやりとりが唐突に途切れた。
 ふっと心臓が冷えていく。不謹慎だっただろうか。馴染んだ地名を聞き気が緩んで……。
 食事の作法を見張っている教官たちをはじめ、食堂中が自分たちの会話を査定をしている錯覚に陥る。かつかつかつ、と高田はリズムよく最後の米をかき込む。角度のついた皿が顔を隠す。
「安生さん、随分お詳しいんですね。もしや地元とか?」
「何回か行ったことがあるだけだよ」


全文は同人誌本文で

 

墜憶(ついおく)夏天(かてん)

 一九八一年、新田(にった)総志(そうし)は自分を持て余していた。小学五年生までインターナショナルスクール、六年生から九年生までアメリカにいて、ハイスクールからまた日本に戻った。カリキュラムの程度が低いのはすぐわかったが、問題はその低レベルなクラスメイトとの意思疎通すらままならないほど自身の日本語が拙い、ということだ。
 殴るわけにもいかない。交ざる気も起きない。互いに見下し合いながら『ぎこちない帰国子女』と『親切な級友』を演じる。無意味な日々だ。
 迷い込んだ暗室で、写真部の女の子と顔見知りになった。寡黙な彼女とはあまり話さずに済むから気楽だ。薬液から取り出される印画紙を見守るのが、帰国して初めての娯楽になった。
 桜原(おうはら)太陽(たいよう)と出逢ったのも写真の中だった。
 フェンスに向けてボールを投げるピッチャー。傲慢な孤独だ。孤高とも違う。同情も憐憫も必要とせず、ただ救援だけを許している。そうして具体的な敵を持たない闘志はどこまでも透き通っていた。
 総志は黒縁眼鏡の奥の瞳を輝かせて、友人に尋ねた。
「彼は誰ですか? どこに行けば僕は彼に会えますか?」
「A組の桜原君。目立つ子だからすぐにわかると思うわよ」
 翌日、総志は朝から一年A組のドアを叩いた。オーハラへの取次を頼んだが強張った顔で首を横に振られ、仕方ないので足で捜す。
 予鈴も本鈴も聞き流し軽やかに歩いていく。授業のひとつふたつ出なかったところで支障あるまい。もしあったとしても、父を困らせることができるならそれはそれで愉快だ。自主性を育むためにアメリカの学校へ行けだの、将来の市場を肌で知るために日本の高校へ行けだの、親子とはいえ他人の人生を好き勝手支配する人間は少しぐらい痛い目を見るべきだし恥を知るべきだと思う。
 運よく教師に見つからず外に出た。もしかして登校していないのだろうか? だとしたら住所を押さえたいが、さすがに今職員室に行くのはまずい。
 それにしても、このチープな煙草の匂いはどこから……。ふんふんと鼻に従って進んでいく。中庭を通って校舎の裏側まで。
 ああ、本物のジャパニーズ・コーシャウラ! もしかしてフリョーが群生している? カリフォルニアでの暮らしが胸に甦る。心弾む堕落と暴力の日々。爪の先ほどでもまた味わえるなら幸運だ。
 爛々と目を輝かせて建物の角を曲がる。果たして不良生徒はそこにいたが、群れてはおらず一人きりだった。学ランの前を全て開けた少年が、木の下にしゃがみだるそうに煙草を吸っている。
 彼だ。
「タイヨー・オーハラ……」
「あ?」
 桜原太陽が顔を上げる。何か言われるより早く総志は間合いを詰める。野生動物と同じだ、まずは判らせなければ。どちらが生き物として上の存在かということを。
 総志は桜原の右手から紙煙草を奪い取り、自分の口に当てる。変に甘い味と香りだ。肺まで入れてもさらさらと正体がなく、吸っている心地がまるでない。わざわざ金と時間をかけてこんなものに火を点けるなんて意味不明に尽きる。何と言ってやろう、程度を表す日本語、確か……。
「ズイブン軽いのを吸ってるね」
 そう、『ズイブン』だ。煙を吐き出しながら口唇の端を吊り上げた。一八〇センチは日本では目立つ身長だと理解したうえで、顎を上げて桜原を見下ろした。
 桜原は黒々とした目を丸くして、だらしなく座ったまま総志を見上げた。短くて細い眉は生来のものらしく、みっともない剃り跡はない。制服も無改造。髪も男にしては長いがワックスやオイルで固めてはおらず、無精で伸びているだけに見えた。
 桜原が息を吸う。総志は期待で息を止める。
 吐き出される言葉は何だろう。怒り? 威嚇? 服従?
「これ軽いのか」
 予想のどれとも違う声音だった。平淡だが自然な口調。虚を衝かれた総志に、桜原は苛立ちを含ませて繰り返す。
「軽いのかって。おめェが言ったんだろ」
「そう、だね。僕はそう思います」
「なんだ。そっか」
 桜原は不意に表情を和らげ、左手に握った真鍮(ブラス)のライターを指先でゆっくり撫でた。
「親父に伝えとくわ。少しでも医者に叱られねぇのはどれかって、いつも気にするんもんだからよ」
 総志は思い違いに気付いて顔から火を吹く。
 彼にとって重要なものはライターで、煙草は付属物なのだ。総志はどうでもいいものを奪って粋がっていた――パンそのものを奪わず、得意げにパンくずをついばむハト並みの間抜け。初手から全部、負けていた。
「僕は新田総志といいます。よろしく」
 降伏の証に右手を差し出す。桜原は首を傾げてから、立ち上がることなく握手に応じる。
「新田。お前、野球やる?」
「ベースボール? しないです」
「やろうぜ」
「はい」
 何の脈絡もなかったし理解もできなかったけれど頷いた。彼がやろうと言ったから。
「変なやつだな」
 春の桜の木の下で、自分も大概なことを言いながら桜原太陽は人懐こく笑った。
 きっと彼には一生勝てないだろうと、総志はいずれ事実に変わっていく予感を抱いた。

 

 授業が終わるのを待って、いつも練習しているという公園に向かった。桜原は近所のおじさん(桜原は当時としてもめずらしいぐらい地域の大人にかわいがられていた)を連れてきた。丸々太った神崎(かんざき)のおじさんは、休日に草野球のキャッチャーをやっているのだそうだ。ヨーボー(『陽坊』、桜原太陽のこと)一人じゃ心配だから、とプロテクターの付け方を総志に教えてくれた。
「いくぞぉ!」
 桜原は桜原で自由に身体をあたためていたようで、活き活きした顔で左腕を回している。写真のときは意識しなかったが……。
左利き(レフトハンデッド)?」
「なんだ、悪いか」
「いえ」
 左利きや両利き。アメリカではたまに見たけれど、日本には現存しないと思っていた。矯正されなかった反骨的(ロック)な生き残りがいたのか。
「僕は好きです。左利きの人」
 素直に答えると、桜原は変な顔をして鼻の下をこすった。
 まずキャッチボールから。桜原の放ったボールを受けて、投げ返す。シンプルなコミュニケーションだ。筋がいいと神崎氏は褒めてくれたが、総志はむしろ桜原の技術に舌を巻いた。精確に胸元に返してくるし、総志が投げるあさってな球もほとんど捕っている。
 巧いんだねと褒めたら、フツーだろと桜原は謙遜のようなことをふてぶてしく言った。
「じゃ、本番始めっぞ」
 ピッチャーというのは小高い丘にいるものと記憶していたが、桜原は平たい土の上に立っていた。神崎氏が、座って捕るんだよ、右手は後ろにとアドバイスしてくる。何故座るんですかと訊いたらルールだからといかにも日本人らしい返答をされてガッカリする。
 それも、桜原の球を受けたらどうでもよくなった。
 ボールが手の中に飛び込んできただけ。桜原の指を離れる瞬間から、総志の手のひらに納まる瞬間まで、まるで運命づけられたように美しい軌道で届いたというだけ。
 それだけでいいと思った。それだけで充分だと。
 総志は震えるミット越し、白球を世界から覆い隠すように握りしめる。
 ――そうか。あの写真を見て、彼に会いたくなったのは。
 あの投手のまなざしを、自分が受け止めたかったからだ――。
「捕れたな! 決まりだ。今からお前は俺の相棒」
 桜原はグラブ越しの右手を腰に当て、左手でVサインを突き出してくる。総志はボールを投げ返さず、立ち上がって確実に丁寧に手渡した。
「やるよ。やりたい」
 その役目は僕だけが務めるべきものだ。そして君が望むならあと七人集めてもいいし、二人きりでも僕は構わない。

 

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空論を廻す

 新しい桜原(おうはら)家の階段は、以前のものより広くて緩やかだ。通い慣れたはずの和風建築が現代風の様式に変わったことに、侑志(ゆうし)は未だ違和感を覚える。
 二階に上がると右手に襖が見える。櫻井(さくらい)(あきら)の仕事部屋は、桜原家に残された唯一の和室だ。
皓汰(こうた)。入るぞ」
 引き戸に手をかける。襖が滑るのと同じ速度でゆっくりと櫻井皓――桜原皓汰が振り返る。斜めに分けた長い前髪と襟にかかる後ろ髪は本来真っ黒だが、今は夕暮れの色に縁どられ侑志の髪と似た焦げ茶色に見えている。
 そして陽を忘れた白い肌に、ひそめられた短くて薄い眉。不健康と不機嫌を和服で包んだらこうなる、というわかりやすい見本だ。今日も祖父・桜原(はじめ)の遺した文机に張り付いて、タブレットPCに繋げたキーボードを叩いていたらしい。
「侑志、家の中ではマスク外してくんない? 見てて息苦しい」
「悪いな。一応つけとく」
 侑志は部屋に入って襖を閉めた。皓汰は裾を払って座椅子から立ち上がり、窓ガラスを手の幅ほど開く。六月の夕べの風は、雨こそなくとも重苦しい湿気を孕んでいる。
 昨年の末頃に中国で流行り始めた疫病は、瞬く間に世界中へ広まった。ご近所の日本も例外ではない。東京では毎日数十人の新規感染者が出ており、ついには『東京アラート』なるものも発令された。マスクなしで人と話すのは悪という空気が漂っている――特に多数の子供たちと接する教職においては、感染症を持ち込むのはテロに等しい。
「どうせ寧志(ねいし)燈夜(とうや)が俺をベタベタ触ってるんだから、感染してたらもろともだろうに」
 皓汰がレースカーテンを引くと、畳を染める茜がぼんやりと和らいだ。不意に胸を衝く強烈な感傷を振り払うために、侑志は努めて父親らしい顔で頭を下げる。
「いつもすまない。一緒にリスクを背負ってもらって」
 義実家(おうはらけ)には、延長保育の都合がつかないときなどたびたび息子たちを預かってもらっている。接触機会は同居家族とそう変わらない。侑志がマスクを外さないのも結局はリスク回避などではなく、小さな不織布一枚で免責されたいという保身なのだ。
「それより、送った原稿読んでくれた?」
 皓汰は窓辺に寄りかかって腕組みをする。袖の広い単衣は近頃の空の色を映したような薄雲鼠だ。本人曰く『文豪気取り』の格好も、十年近く経てばすっかり板についている。
 侑志は隅から座布団を二枚失敬してきて、部屋の中心に胡坐をかいた。
「また手厳しくやってくれたな。お前、そろそろ俺のことお題botかなんかだと思ってるだろ」
「物書きに燃料持ってくる方が悪いんでしょ。俺に話した時点でプライバシーポリシーに同意したことにしといてよ」
「悪徳アプリみたいなこと言ってんじゃねぇよ」
 侑志は苦笑してサマースーツのジャケットを脱いだ。
 会話の内容を作品のモチーフにされるのは初めてではない。個人が特定できるほど不器用な書き方をしていないことも読む前から解っている。事前に許可を取りに来ない狡さも、『何を使う』ではなく『どう使う』を能書きなしに叩きつけてくる気位の高さも気に入っている。ほんの少し居心地が悪くてからかってしまうだけだ。
「あれ、どれぐらいで世に出るんだ」
「あんまり自分で把握してないけど、年内には雑誌に載るんじゃない? 単行本は出るとしても早くて来年とかだろうね」
「ぎりぎり間に合うかな。本人に見せるのは」
「『繊細』な思春期に、わざわざ汚くて意地の悪い大人を見せつけることないでしょ」
 皓汰がうら寂しく微笑んだとき、仄赤いカーテンがふわりと広がった。
 斜陽、という単語が脳裏をよぎる。
 いつまでも青い感性のまま尖っていると思っていた。三十を過ぎてからの皓汰は時折、舞い散る直前の桜みたいな色になる。

 

 声高に配慮を求めてトラブルになってしまう生徒がいる、と皓汰にこぼしたのは、一月二日の午後だった。元旦に実家に戻って翌日の義実家。二〇二〇年の今に比べれば、おおらかに帰省ができた頃だ。挨拶も昼食も済み、妻と二人の息子は義両親らと一階で過ごしていた。
 侑志と皓汰のいる和室には火鉢。また祖父の形見かと思えば、皓汰のパートナーが一目惚れして買ってきたものだという。大の男が両手でやっと抱えられるぐらいのずっしりした器で、深い瑠璃色の上に雪のような釉薬がかかっている。
 炭が爆ぜていた。部屋の隅まで届ききらない円形のぬくもりから外れないよう、二人してぎゅっと身を丸めていた。
「HSP――『ハイリー・センシティブ・パーソン』、ね」
 皓汰は自分の眼鏡のつるを指先で神経質に叩く。もう十五年ほど外ではコンタクトレンズ、家では裸眼だったはずで、眼鏡姿を見たのは随分久しぶりだ。このときは目の調子があまりよくないと言っていたから機嫌も悪かったのかもしれない。
「そんなものは免罪符が欲しいコミュ障の妄想だ、一種の虚偽性障害だよ。診断項目、まぁ現実に診断が下る類のものじゃないからセルフラベリングの材料と言い換えるけど、俺にはショットガンニングに見える。レイク・ウォビゴン効果を狙ったくすぐったい項目もゴロゴロしてるしね」
「いきなり容赦ないな」
 侑志は嘆息して、まくっていたセーターの袖を戻した。皓汰が頭でっかちな言葉を並べ立てるのは、感情的になりすぎないよう自制している証拠だ。多分本心はもっと口汚い。
HSPは九十六年にアメリカの心理学者エレイン・N・アーロンが提唱した概念だ。『気質』を表した用語であり、皓汰の言うとおり医者から診断される病気や障害ではない。ざっくり示せば『音・光などの刺激に弱く感受性が強い』=『繊細』な人を指すらしい。あくまで『周囲の環境から(よくも悪くも)影響を受けやすい』のであって、必ずしも人の気持ちを理解したり共感したりする能力が高いというわけでもないようだが……。
 日本では近年急に取り沙汰されるようになった。手形を必要としない気軽さからか、五人に一人というリアリティのある割合のためか、自称する人間は後を絶たない。侑志が受け持つ生徒の一人もそうだ。
「少し前から、大学生のお姉さんに『診断』されたとかで『自分はHSS型HSPだ』って言い出してさ。それまでは自分が悪いと思えば謝れてたのに、最近じゃ気性のせいにして埒が明かない」
「HSS? ハイスのこと? 高速度鋼(こうそくどこう)?」
「『外向的な繊細さん』だと」
 逆になんだそれ、と思ったが藪蛇なのでツッコまないでおいた。後でスマホで調べよう。
「別の学者が作った用語と組み合わせたやつらしい。全人口の約六パーセントで、HSPの中でもマイノリティだとか」
「はー、どこまでも幼稚な選民思想」
 皓汰は両手を広げて畳に引っくり返った。侑志は自分の左手を見下ろす。左利きは十パーセントかそこらだそうだが、こんなものは学生時代に野球をするのにほんのちょっと有利だっただけだ。
「少数派の何が嬉しいんだろうな。俺は単純に不便だよ」
「被害者面して自分は変わらないまま『配慮』って名目で他人に指図できるからでしょ。俺の定義ではそれは『支配』だけど」
 皓汰は天井に右手を伸ばし空気をぐっと握り込んだ。侑志は口をつぐんで、世間では多数派だが家庭内では唯一だった彼の利き手を見つめる。

 

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