それは僕のかたちをしている

 冬が得意なわけではないが、冬の空気は割と好きだ。
 シブヤの公園。冬弥は黒い革の手袋でチェスターコートの袖を押さえ、腕時計の文字盤に目を落とす。
 三田洸太郎の強い薦めにより、あるアーティストの年末ライブをVivid BAD SQUADの四人で観にいくことになった。駅は混むからと練習に使っている公園を集合場所に決めたはいいが、白石は店の手伝いをある程度終えてから、彰人は姉からの頼まれ事を済ませてから来るそうで、まだしばらく待つことになりそうだ。
 ベンチに座り、読みかけの文庫本を開く。
 小豆沢こはねが現れたのは、探偵が犯人に出し抜かれ危うく死にかけた頃だった。
「青柳くん。こんにちは」
 小豆沢は控えめに笑って、鮮やかなピンクのニット帽を軽く傾ける。
 冬弥は本を閉じ、彼女の背後にひょろりと立っている時計に目をやった。さっき時間を確かめてから五分も経っていない。
「早いな。小豆沢」
「青柳くんこそ」
「宿題も大掃除も大方終えてしまって、家ですることがなかったんだ」
 説明しながら、小豆沢もそうなのだろうなと勝手に納得した。彼女が自分の無計画で苦しんでいるところを、冬弥は一度も見たことがない。
「杏ちゃんも着替えたら来るって。あと十五分くらいって言ってたよ」
「そうか。彰人もそれぐらいで来ると思う」
 冬弥は横にずれ、ベンチの座面を左手で示す。小豆沢は遠慮がちに顎を引き、冬弥の隣に腰を下ろした。
「私、海の方にあるライブハウスって初めてなんだ。青柳くんは行ったことある?」
 何か質問された気がしたがよく意味が取れなかった。小豆沢がしきりに揉んでいる、赤い指先ばかり目に付いてしまう。
「寒いのか」
「あ、ううん。そんなには……」
 小豆沢は口ごもり、両手をダウンジャケットのポケットに隠した。
「手袋、学校に行くときのコートと一緒に置いてきちゃって……。でも大丈夫だから気にしないで」
「だが、冬の海辺は冷えるだろう」
 冬弥は眉をひそめて時計の針を思い出す。小豆沢の家を正確には知らないが、今から戻って取ってくるとなるとさすがに厳しそうだ。それに、遠出をする前に無理をして疲れさせるのもよくない。
 しかし決して長くないスカートも、タイツ(ストッキング? 冬弥には違いが分からないが……)をはいた脚も、海風に立ち向かうには頼りなく見える。もこもこのダウンジャケットも、腰と同じ程度にしか丈がないのではどれだけ防寒になるのか……。
 冬弥は自分の手袋を外して、綺麗に揃えられた小豆沢の膝に載せた。
「嫌でなければ使ってほしい。今の俺にはもう……あまり必要がないから」
「そんな」
 小豆沢がぱっと顔を上げる。冬弥は断る彼女と何度か押し問答をする覚悟でいた。だが視線が合った瞬間、小豆沢の瞳に満ちていた慎ましさが別の色に光る。
「ダメだよ。私には使えないよ」
 小豆沢は、静かにはっきりと冬弥の自棄を戒めた。震えているように見えたのは、寒さでなければ自惚れた錯覚だ。
「これは青柳くんの大事なもの、でしょ?」
 否定も肯定もできなくて、冬弥は裸の両手を強く握った。
 薄くやわらかい羊革の手袋。指先を少しでも保護するために、内側には保湿性の高いシルクが張ってある。高校生には不相応な品だ。
 愛情だった。期待だった。その芯を裏切っておきながら、外殻は素知らぬ顔でぬくもりに包まっている。青柳冬弥の矛盾そのもの。
「いいんだ。必要ない」
 ひどく突き放した言い方になった。小豆沢にぶつけるべき言葉ではなかったのに――後悔してもこぼれたものは戻らない。せめてこれ以上の失言を避けたくて乾いた口唇を噛んだ。
 小豆沢は黙っていた。冬弥は先に沈黙を選んだ手前、いつもどおり普通に話してほしいとも告げられず時計にすがる。白石たちが来ると言っていた時間まであと十分。無言で待つには長すぎる。
 小豆沢を横目で盗み見る。左手を黒い手袋に入れていた。何をしているのだろう。
 小豆沢は冬弥の視線に気が付き微笑む。
「青柳くん。見て」
 小豆沢が左手の先を動かすと、だらりと折れ曲がった指の部分が、死にかけのパペットみたいに力なく揺れた。その意味をしかめ面で数秒間考えて、あ、と冬弥は声をこぼす。
 手のサイズだ。ピアニスト向きと褒めそやされた、指が長く骨格のしっかりした冬弥の手。小豆沢の小さな手とは全く違う。まして革手袋はニットほどの伸縮性がない。
「すまない。小豆沢にこそ必要のないものだった」
 なにを一人で感傷に浸っていたのか。冬弥は慌てて手袋を回収する。
 小豆沢はなんだか上機嫌で、歌うように問いかけてくる。
「ねえ青柳くん。ヘビの抜け殻って見たことある?」
「パール伯爵の話か?」
「うん。すごく綺麗なかたちをしてるの、当たり前なんだけど伯爵だけのかたち」
 戸惑う冬弥の手の甲を、小豆沢の冷たい皮膚がなぞっていった。何かを確かめていくやわらかな圧迫だけを残して。
「きっとその手袋さんも、青柳くんだけのかたちなんだね」
「てぶくろさん」
 冬弥は間抜けに繰り返す。気になることは山ほどあったのに、よりによって一番どうでもいいところを指摘してしまった。小豆沢が顔を真っ赤にして手を引っ込める。
「あっ、ごめんね、手袋に『さん』って普通付けない……よね」
 小豆沢も照れるのはそこなのか。
 付けても構わないと思う、と呻いて冬弥は手袋をはめ直した。なるほど他人には押し付けられないほど肌に馴染む。
 小豆沢がスカートの裾を払って立ち上がった。
「私、向こうの百円ショップで新しい手袋買ってくるね。このままだと杏ちゃんたちも心配させちゃうかもしれないし」
「そうか。そうだな」
 冬弥は公園を出ていく小豆沢の背を見送る。
 風が吹く。小豆沢がただでも細い肩をきゅっと縮める。
 冬弥はひとつ頷いて腰を上げた。駆け足で大切な仲間を追いかける。
「小豆沢!」
 振り返った彼女にちゃんと笑顔を向けられているだろうか。
 俺も自分で手袋を買ってみたいと、子供みたいな願いを伝えられるだろうか。
 伝えてみたい。彼女はきっと、冬弥の決意を嘲ることはないだろうから。