12月25日、教室のセカイに現れた星乃一歌はパジャマ姿だった。
前開きの上着にゆったりしたズボン、同じチェック柄の上下に身を包み、両手で胸元を抱いて黒板の前に立ち尽くしている。
幼い子供のように頼りない格好。このセカイの存在にその表現を使う権利があるとすればだが――とても現実感がない。
「一歌。どうしたの」
こんな時間に、とカイトは時刻を示そうとして、それが可能な物体が存在しないことに気付いて手を下ろす。
窓から白っぽい光が射し込んでいるということはあちらも早朝だと思うのだけれど、なにしろあまり自信はない。カイトは一歌たちの暮らす空間をよく知らないから。
一歌は切迫した表情で何か言いかけて、結局口唇を引き結んだ。曖昧な笑顔で挨拶を取り繕う。
「おはよう、カイト。他のみんなは?」
「多分まだ寝てる……ルカとかは、もう朝練してるかもしれないけど」
カイトは広げていた道具を机の中にガシャガシャしまった。見られて困るものでもないが、散らかしたまま相手をするのも失礼な気がする。
慌ただしさが余計に注意を引いてしまったのか、一歌が不安そうに首を傾げる。
「ごめん、邪魔しちゃったかな。カイトも何かやってたんだよね」
「平気。爪を、整えてただけ」
「そっか、ギター弾くと割れたりするもんね。私ももっとちゃんとお手入れした方がいいのかな」
歩み寄ってくる一歌は素足だった。寒くないのだろうか? カイトはジャケットを脱いで一歌の肩にかけ、視線で話の続きを促す。二人で並んで教卓に寄りかかる。
一歌は真面目な顔で一言礼を述べてから、何かを確かめるようにぽつぽつと語り出した。
「今日、クリスマスだよね?」
「うん」
「私、今年は忙しくて」
「うん」
「サンタさんに欲しい物を伝える暇もなかったんだけど」
「……うん?」
「見て。これ」
一歌が胸に抱いていた両手をカイトに向けてのばす。
幸福そうに微笑むツインテールの少女と、『初回生産限定リミックスCD同梱版!』と書かれた金色のシール。
一歌は夜空に瞬く星ほどに目を輝かせて、きっぱりと言い切った。
「今朝、ミクのコンピアルバムが届いてたんだ。しかもちょうど欲しかったCD。何も言ってないのにすごいよね、サンタさん」
「うん……」
カイトは返答に困って眉尻を下げた。
どこかでぽろりと親に言ったのだろうな、と思う。もしくはCDラックをこっそりチェックされていたか……無粋な推測は口にしないことにする。
昨日のリンとレンも大変だったのだ。『サンタクロースいる/いない』論争は、どう着地しても誰も幸せにならない。
「誰かに見せたかった?」
カイトがここに来た理由をあらためて尋ねると、一歌は視線を泳がせ忙しなくCDを撫でた。
「咲希たちとは後で会うし、朝からプレゼントにはしゃいでたら『子供みたい』ってからかわれそうだし、でも……」
それでも早く誰かに興奮を伝えたくて、着替えも後回しにしてセカイに飛び込んできたのか。
事情が分かって苦笑するカイトに、一歌は小声で問いかけてくる。
「カイトのところには来た?」
俺は大人だから来ないよ、と真っ当な返事を息を一緒に肺の奥に吸い込む。朝一番の感動を打ち明けてくれた相手に対して、その答えは誠実さを欠いている。
「来た」
二文字を耳打ちすると、一歌は口許を綻ばせ肩を縮めた。カイトは目を細めて、宝物を抱きしめる裸足の少女を見つめる。
サンタクロースが実在するかどうか。そんな問いかけ自体に意味はない。
真っ赤な服を着ていなくたって、真っ白なひげが生えていなくたって、大きな袋を抱えて煙突をくぐってこなくたって関係ない。
家族が、友人が、恋人が、仲間が、その笑顔のために願いを汲んでくれること。
大切な人の優しさを、全身で受け入れる素直さを持ち続けていること。
二つの奇跡が重なるならば、誰にだって『サンタクロース』は現れる。
そして誰だって、誰かの『サンタクロース』になれる。一歌がカイトにとってそうであるように。
セカイの主が笑っているのなら、それがバーチャル・シンガーのもたらした喜びであるのなら、他には代えられない最高のプレゼントだ。
カイトは目を伏せて、青い爪を指先でいじった。
「一歌、今日学校は?」
「土曜日だし、休みだよ」
「じゃあ爪、塗る? 俺の色でよければ……」
「いいの?」
一歌はぱっと顔を輝かせ、十枚並んだ自分の爪を愛おしそうに眺めた。
ミクの色じゃなくていいの? と浮かびかけた卑屈を胸にしまって、カイトは努めて明るく一歌に笑いかけた。
「その前に、お父さんとお母さんにもCDのこと話してみて。きっと喜んでくれると思う」
「うん! じゃあ、着替えてご飯食べたらまた来るよ」
聴き慣れた音楽とともに、無邪気な表情が透き通って弾けて、このセカイから消える。
光の欠片越しに見る黒板には、ミクたちがチョークで書いた『メリークリスマス!!』の文字。
さて、自分も少しはサンタらしくできればいいのだが。
カイトは机に突っ込んだ青いマニキュアと爪やすりを取り出して、なるべく綺麗に並べ直す。
最後に一歌が椅子に掛けていったジャケットを手に取り、あらためて袖を通した。慣れているはずの服なのに、いつもと違う着心地だった。
「……あったかい」