故は運命に非ず

「レテ」
 彼女はそう呼びかけて、レテの許へと歩いてきた。翳のある微笑み。
 こちらの陣営に彼女がいるというのはまるで自然な風景で、その実道理としては少しおかしいようで。
「……ジル」
 レテの発したのは返事というよりも、無意識に零れ落ちてしまった呟き。
 彼女は頷いた。夢ではないのだと告げるように。レテはぎこちない笑顔を彼女に向ける。
「こっちに来たのか」
「ええ。ハールさんに、叱られたの。……目が覚めた」
 彼女は多くを語らなかった。
 あの飄々とした、彼女のかつての上司が何を言ったのかは解らない。だが彼女を、彼女自身すら敵わない程に理解しているのはあの男であり、その言葉こそが彼女の迷いを断ち切れたというのは、至極当然のことのように思われた。
「もう覚悟は出来たのか」
 レテは彼女の顔を見た。いくらか背が伸びたらしいとこうして真正面に立ってみて気付く。彼女は、ええと短く呟いた。
「力を込めて、その柄を握れるか」
 彼女はもう一度、ええと答えた。レテは最後の問いかけをした。
「もう女神に嘆かぬと。運命に問わぬと――誓えるか」
 ジルは答えた。力強く。ええ、と。
「訊いたところで、運命は何も答えてはくれない。ただ黙って私達を暗闇に放り出すだけ。けれど……いいえ、だからこそ、私は選ぶ。座り込んで泣き叫ぶことでなく、在るか無きかも分からなくとも、光を探し歩き出すことを」
「そうか」
 レテは言った。純度の高い宝石のような深紅の瞳を、アメジストの目で真っ直ぐ見つめる。
 その光から視線を外さず、小さな両手を彼女の頬に添えて。
「ああ、私の知っているジル・フィザットだ。私の覚えている眩しい目だ」
 消えそうに、微笑む。
「私の、だいすきないろだ。」
 彼女は笑い返してくれた。滲んで歪んでしまわぬよう、必死に笑おうとしてくれた。
 彼女がもたれかかってきた。自然、彼女の口唇がレテの耳に寄る。
「迷わないと、決めた。嘆こうという訳じゃない。でも、悲しむことだけは許される……?」
 彼女の吐息が直接、鼓膜を震わせた。弱々しく、だが、はっきりと。
「私の大切なものはいつも、私の信念の側にない……」
 レテは両手をいっぱいに伸ばした。思った以上に細い身体を抱きしめた。自分の口唇の傍にある、彼女の耳に囁いた。
「泣けばいい。戦場で私がお前の手を取ることは出来ないけれど、今はここにいてやれるから。お前の心が痛みを訴えるなら、私はその優しさごとお前を受け入れよう。私に出来る精一杯で」
 彼女の手もレテの背に回った。どちらが抱きしめていてどちらが抱きしめられているのか、誰が、何が泣いているのか分からなくなった。
「ああ、そうだ――平気でいてはいけないんだ。我らは奪わんとするものの尊さを知らねばならない。それを失う痛みを思い、悩み苦しみ。なお貫くべき信念であるのか、耐え得る覚悟が本当にあるか。自分に問い直さなければならないんだ」
 その葛藤故に人は強く在れる。その弱さ故に人は、美しい。
「この温もりを知っているから、私は彼らに刃を向けたくない……。けれどこの温もりを知っているから、私は武器を取ろうと思う」
 彼女は身を起こした。未だ濡れている瞳は、それでいて揺るぎなく前を見据えていた。
「運命が決めたからじゃない。私がそう、決めたから」
 レテも身体を起こした。差し出した右手を、彼女が取った。握り合う。
 死ぬな、とも。負けるな、とも。互いに果たせる保証のないことは口に出来ないけれど。
 これだけ言わせてほしかった。
「折れないでくれ」
「……ええ。あなたも」
 故は運命に非ず。唯、我等が信念故に。