月と猫とお人好し

「ねぇ。あたしって可愛いよねぇ?」
 彼女は真正面を向いて言った。と言ってもカウンター席なので、シノンから見えるのはやけに真剣な横顔だけなのだが。
 シノンは聞こえよがしにため息をついて、色しか着いていない水割りを流し込んだ(全く、アルコールというのは濃すぎても薄すぎても薬のような味になる)。
「自分で言うな」
「シノンには訊いてないもん!」
 彼女は噛みつかんばかりの勢いで(種族が種族だけに洒落にならないのだが、)シノンに怒鳴り、身体を反対に向けた。左隣に座っている稀代のお人好しへ、小首を傾げて問いかける。
「ねぇガトリー、あたし可愛いよね?」
「も、もちろんだよリィレちゃん!」
 何だあの締まりの無い顔は。
 シノンは顔を背けソーセージを刺そうとした。フォークは皮を滑り派手に皿を鳴らしただけだったが。
「ホント!? ベオクの得意なお世辞じゃないよね!?」
「ホントさ! レテちゃんも可愛いけど、リィレちゃんはもっと可憐っていうか、守ってあげたくなるっていうか……」
「だよね!? 少なくともレテと同じくらいには可愛いよね、あたしだって!!」
 どこが可憐だか。ソーセージは、やっと口に入れたと思ったら今度は噛み切れない。引き千切る。中の肉だけなくなって、味のしない外側だけがいつまでも舌の上に残っている。
「……でも私じゃダメだって、ライ隊長はそう言うの」
 吐き気と一緒に腸詰の残骸を飲み込んで、シノンは彼女の方を見た。両手にグラスを握り締めて俯く様は、まぁ“可憐”とも言えなくはない。
 氷がひび割れて小さく鳴った。
「強さじゃ絶対レテに勝てないもの。だから私は、レテに出来ないことを出来るようにしとこうと思ってね。お料理だってお裁縫だってお洒落だって、すごく頑張ってるんだよ」
 獣ってのはああも全身で感情を表現するものか、と思った。耳があんなに下がっている。
 『カリカリで香ばしい』が謳い文句のベーコンは、ガリガリで焦げ臭い。
「私だって……私だって頑張ってるのに。レテが見てるのは他の人なのに。それでもダメなの、隊長は私のこと見てくれない。ライ隊長はレテじゃなきゃダメだって言うの」
 猫が口をつけただけでもおぞましいのに、瞳から塩辛い水が注がれた酒なんて、ぞっとしない。
 中から身体に悪そうなベーコンを噛む音、外から小刻みにグラスの揺れる音。耳障りにも程がある。耳障り耳障り。繰り返されるのは、同じ名前。
「どぉしてよぉ……何であたしじゃいけないの? あたしってそんなにダメな子なの? いつだってレテレテレテレテ、そればっか。お姉ちゃんばっかりずるいよぉ」
 後味は最悪だ、炭が舌の上に拡がっている。酒で漱いで飲み下す。
 お人好しが彼女の肩を抱いて、ぽんぽん叩いている。
「大丈夫、リィレちゃんはすごく魅力的だって」
「だったら何で……何で隊長はあたしを見てくれないの? あたしの方が、好き、なのに、隊長のこと大好きなのにぃ……!!」
 シノンはカウンターにグラスの底を叩きつけた。粗く砕いた氷が飛び出して滑っていって床に落ちた。カウンターにナメクジが通ったような跡が残っている。見開かれた紫の瞳を見ながら頬杖をついた。
「オレにしとくか?」
 もともと無闇に大きい目が零れ落ちそうなことになっている。ばったり人と遭遇してしまったときの猫(はんぶんではなくて、ほんものの)に似ていると思った。
 しばらくして、その瞳に一度止まった涙がまた滲んできた。
「……やだ……」
 シノンは顔を前に向けた。グラスにはもう融けた液体が残っているだけで、不味いったらない。
「やだよぅ、やだ……ライ隊長じゃなきゃ、やだ……。ライ隊長がいいの、隊長じゃなきゃ意味ないよぉ……」
 猫が塩水で顔を洗っている、明日は雨か。中途半端な酒なんて呑むもんじゃない。
「だから。あいつも同じなんだろ」
 大袈裟に息を呑む音が聞こえた。しばらく堪えていたらしいが、今度は鳴き出した。
 にゃーにゃーにゃーにゃー。恋の季節か、やかましい。――知ったことではないというのに。
「……シノンさん?」
 お人好しが慰めるのをやめてシノンを見た。立ち上がったのを訝しんでいるらしい。
 シノンはお人好しの顔を見なかった。
「帰る」
「ええっ!? だってまだこんな時間……」
「うるせぇ。付き合い切れるか。帰って寝る。お前らは勝手によろしくやってろ」
 背を向ける。途端、シノンの腰を生白いものががっちりと捕えた。女の腕だった。
「待ちなさいよぉっ、まだ呑み足りないんだからぁ!!」
「ちょ、何だてめ……ッ!!」
 振り返り頭を押し返す。しかし彼女はシノンの腹筋に顔を押し付けて離そうとしない。
「何で帰んのよぉ! あたしとはお酒呑めないってゆーのおッ!?」
「あーあ呑みたかねーぇなッ! こんなうざってぇ女と酒なんてオレぁ御免だね!!」
 はがれない。無理やり歩き出そうとしても、はがれない。
「何なのよどいつもこいつもあたしのことバカにしてぇえッ! あたしだって……あたしだってねぇッ!!」
 甲高い声で騒ぐなと言うのに。シノンは眉をひそめて耳を塞いだ。
「お前、本当に心から面倒くせぇ女だな」
「悪かったわねぇ可愛くなくてッ、そーよレテは可愛いのよすっごくいいコなのよアイクや隊長みたいな甲斐性無しなんかにはホントにホントに勿体無いんだから! だからさっさと高望みやめてあたしで満足してればいいのよあの男はもうッ、ライ君のばかーーーーーーーーーーーーーっっっ!!」
 猫は吼えた。吼えるだけ吼えて、今度は他人の腹でめそめそやり始めた。椅子から伸び切って腰に繋がる姿はまるで吊橋だ。
 シノンは嘆息して猫の頭をかき回した。
「おい。鼻水つけんなよ、バカ女」
「つけてないわよぅ……」
「あと、放せ」
「やだぁ、だって放したらシノン帰っちゃうもーん……」
 ぐずぐずと鼻を啜る猫の両肩に、お人好しが手を置いた。いかにも人の好い顔をしていた。
「リィレちゃん。ちゃんと椅子に座ろうよ。シノンさん、もう放しても帰んないってさ」
「ガトリー! てめっ、何勝手なコト言って……!」
「ホント? ホントに帰んない?」
「だーいじょうぶ! 帰んないよ、おれを信じてくれって!」
「じゃあ……」
 渋々、といった風に解放された。しなやかな動きで姿勢を縦に戻す。よく落ちないものだと呆れた。
 こっそりと踵を返すと、目ざとく見つけられた。
「あーッ! シノン、やっぱり帰ろうとしてるぅ!」
 猫がカウンターを叩きながら喚いている。他の客に迷惑なことこの上ない(と思ったら他に客なんていなかった)。
「やーだ帰っちゃやーだぁ! シノンいないとつまんなーい!」
「そうっすよシノンさんいないとつまんないっすよー! ねーリィレちゃん?」
「うん!」
「お前らなぁ……」
 お人好しの野郎、便乗しやがって。大きく息を吸って、思い切り吐いてやった。
 椅子に座り直して少しだけ質のいい酒を頼んだ。
「まったくよぉ。てめぇ、オレが嫌いじゃなかったのか? 猫娘」
「最初はね。でも今は違うよ、だって気付いちゃったんだもん」
 彼女は前のめりになって、カウンターの上で組んだ腕に胸を載せる。ない乳は寄せてもねーぞと言ってやろうかと思ったがやめた。
 こちらを向いて浮かべた笑みは、お伽噺のいたずら猫のようだった。
「シノンってレテとおんなじ。優しくないフリが、ヘタクソなの」
 シノンは黙って目を見開く。まるで弟子と同じようなことを。
 ――ああ。本当に。女子供と動物は、何を言い出すか分かったもんじゃない。
「ふぇ?」
 猫の額に左手の指を三本置いた。右手で中指を限界まで反らし、急に離す。小気味よい音を立てて中指が額を叩いた。
「いたぁい! 何すんのよぉー!? シノンのバカ、いじわるっ、きらいぃっ」
 猫は両手で額を押さえながら悪態をついた。涙目だ。
 シノンは口唇の左端を上げながらグラスの中身を呷った。今度は酒の味がした。
「ガトリーぃ、シノンがいじめるー!!」
「大丈夫かいリィレちゃん!? ひどいっすよシノンさん、女のコの顔に何てことするんすか!」
「それっくらいでうるせぇな。大体そいつ、騒ぐほどの面かよ」
「ひーどーおーいー!!」
 ついでに腹も減ってきた。そうだ、皮の硬いソーセージと黒焦げベーコンでも頼んでやろうか。

 

「で。騒ぐだけ騒いで結局寝やがるのかよ……」
 あははははは、とお人好しが声を上げて笑った。
 帰路、月夜。猫はお人好しの背中で健やかな寝息を立てている。シノンは顔を引きつらせた。
「バカ面……」
「そんなことないっす。可愛いっすよ」
 お人好しは歩みを止めずに、稼動領域の狭い首を後ろに伸ばした。
 たいちょ、という寝言を聞いて微かに翳ったような気もするけれど笑顔は笑顔だった。
「ホントに、可愛いっすよねぇ」
 シノンは答えずに月を見る。満月かと思いきや誰かがこっそり齧ったみたいに少しだけ欠けていた。
 似ているくせに太陽よりムラがあって何となく見劣りする。
「お前は、同じこと思わねぇのか」
「何がっすか?」
「分からなきゃいい」
「何であたしじゃいけないの、すか」
 シノンはお人好しを睨みつけた。お人好しは、そんな恐い顔しないで下さいよと首を引っ込めた。図体のせいで亀みたいだ。
「そりゃあ、『ライたいちょー』のところが『ガトリーさん』だったらすんごく嬉しいですけど」
 猫がずり落ちそうになった。おとと、と呟きながらお人好しは猫を背負い直した。笑っている。
「でも、いいす。ライに恋してるリィレちゃん、めっちゃくちゃ可愛いっすから。無理やり振り向かせようとして、そういうキラキラが無くなっちゃうんなら、こういう役でいいっすよ。リィレちゃんが笑っててくれるならおれは、それだけで幸せだし」
 おねえちゃん、と夢の中で呼びかける猫の声。お人好しは腑抜けた面で天を仰いだ。
 本当に何という“お人好し”だ、と思った。
「あ、おれ今、いーこと言った。おれオトコマエでしたよね? おかしいなぁー、なのに何でモテないのかなー」
「……自分で言っちまうからだろ」
 月は太陽がないと輝けなくて。小さくて不完全で情けなくて。
 だから。だからこそ。
「ガトリー、てめぇ、それ一人で持ってけよ。オレは獣共の縄張りに行くのなんざ御免だからな」
「はいはい」
 月が頼りなさげに、猫とお人好しとしかめ面を照らしている。