世界の軸

「お荷物とはまさにこのことですね」
 セネリオの口にしたつまらない皮肉に、目の前の『クリミア王女』は曖昧に口許を動かした。
 何を言うでも愛想笑いを浮かべるでもない。自分のことを指しているのなら謝りたいが、セネリオ自身のことを卑下したのなら否定したい、そういう半端な気遣いがありありと窺えた。
 セネリオは彼女のこのような性質が好きではない。アイクのように『どういう意味だ』とはっきり問うてくれた方が、まだ応酬のしがいがあるというものだ。
 行商団の荷馬車の乗り心地は最悪だった。
 ガリアから再びクリミアに戻る中途のことだ。セネリオは、シノンとガトリーの抜けた分を己で埋めようとするあまり、前に出すぎて重傷を負った。幸い初期処置が早かったおかげで命に別状はないが、かなりの量の血液を流してしまった。
 肉体組織が再生しても、失血は自力で回復させるよりない。当分前線には出せないと、衛生兵であるキルロイと、副長のティアマトに強く言い含められた。
 新団長も同意見のようで、お前を永遠に失うわけにはいかないから、しばらくは俺たちを信じて任せてほしいと言われてしまった。痛みより何よりその気配りが一番堪えた。
 団の頭脳でありながら、自身の力量を見誤り深手を負ったこと。
 誰よりも信頼している――否、唯一信頼しているアイクに、『信じてほしい』と言わせてしまったこと。
 諸々の不始末への懲罰として、セネリオはこの措置に異を唱えなかった。我が身に価値などない。しかし『死ぬな』と命じられた以上、その命令は可能な限り遂行し続けねばならない。
 クリミア王女エリンシアは、まだ言葉を探しあぐねるようにセネリオに視線を送ってきていた。
 依頼主、かつ『目的』である彼女は、セネリオとは別の重責によって『死ぬことを許されていない』。自覚があるのかは知らないが、こうして後方で守られることを拒むことはなかった。
 けれどセネリオは、彼女が然程尊大でもなければ、奥ゆかしくもないのを知っている。
 エリンシアは作戦の概要を説明された後、じゃあとアイクが背を向けると、いつも控えめに指先を持ち上げるのだ。それは鼓舞や一時の別離への挨拶という手つきではなかった。行かないでと―幼子が大人の袖を引くような、我侭で頼りない動きだった。実行するほど、口に出すほど無分別ではないにしろ。
 アイクが認識しているより、彼女は無欲でも強くもない。何故そんなことがセネリオに解るかと言って。
「……他人の存在を背負うというのは、本当に、並大抵の覚悟で務まることではないのですね」
 そんな理由、分析なぞしなくとも嫌というほど自覚している。
 結局一般論に濁した彼女の言葉を、セネリオは受け取らなかった。
 がたんと、急に馬車が止まる。エリンシアは身をすくませて固まっていたが、セネリオはすぐに腰を浮かせた。
 別の馬車にいたララベルたちが、遮幕をかき分けて乗り込んでくる。
「野盗ですって、いやねぇ。すぐにムストンとイレースが追い払ってくれるから、一緒に大人しくしてましょ」
「半……ラグズですか」
「まさか、デインの残党よ。大した人数じゃないわ」
 セネリオは眉を寄せて、近くにあった売り物の魔道書を掴んだ。確かに、イレースが類稀な才能を持つ魔道士であることに疑いはないが。
「僕も出ます。自衛の概念があるだけの商人たちより、手負いでも傭兵のいる方がいくらかマシでしょう。ただし護衛代としてこちらの書物はいただきますが」
「本当に商売上手ね。いいわ、持ってって。お願いね」
「どうも。一冊分の仕事ぐらいはさせていただきます」
 ご機嫌のララベルに淡々と答え、セネリオは荷台を降りようとする。そこへ、あの、とエリンシアが声をかけてきて、振り向かざるを得なかった。
「ご武運を。セネリオ様」
 セネリオは冷たい視線しか返さない。言っても言わなくても何も変わらない台詞など、時間の無駄だ。セネリオにとっての『いい雇い主』とは金払いのいいことで、人のいいことでは決してない。やはりセネリオは彼女をあまり好かない。
 けれど、いつも空を切っていた指先は今、震えもせずに祈りのかたちに組まれていて。
 少なくともアイクが彼女を嫌うことは、この先もきっとないだろうと思った。