外伝 安らぎの大地

 リィレがライの恋人として振舞うようになって、もう長い。
 彼女の家で食事をご馳走になることもあるし、家族ぐるみというやつだ。
 それでもリィレが今ほど甘えてくるようになったのは、やはり彼女の姉がガリアを出てからだとライは思う。
 表面上いつも通りにはしているが、ライの部屋を訪れる回数が増えた。特にこんな、月の綺麗な夜には。
「リィレ? 寝ちゃったか?」
 ライが声をかけると、テーブルに突っ伏していたリィレは橙の耳を動かした。うーんと伸びをして身を起こす。
「ちょっと眠くなっちゃったみたい。お酒、飲んだから」
 リィレはあまり酒に強くない。酔いすぎると他人に絡み出すが、少しなら機嫌がよくなる程度だった。
 今日は舐めるほどしか口にしていないようだったが。
「送っていくよ。化身するから、背中で寝てていいぜ」
 ライは立ち上がる。リィレはその腕を掴み、いやぁだと首を横に振る。
「もっとライ君と一緒にいたいの」
 戦争が終わってすぐに除隊したリィレは、もうライを『隊長』とは呼ばない。部下の戯言をはいはいと受け流していたライも、今は紫の上目遣いをすげなく振り払えない。
 座ったままのリィレの前で、膝をつく。
「甘えんぼうめ」
 おいで、と両腕を伸ばすと、リィレは弾んだ息で身体を預けてきた。そのまま抱き上げる。
「いつ頃帰る?」
「……ん、泊まっていっちゃ、ダメ?」
「いいよ。ホント言うとオレも、今夜は二人で過ごしたいなと思ってた」
 額に口付けると、リィレはくすぐったそうに身をよじった。ライはベッドまで彼女を運んでいく。
「ライ君のえっち」
「ちがいます。酔っ払いの介抱をしようと思っただけです」
 くすくすと笑い合いながらリィレの身体を下ろした。
 二人で並んで腰掛ける。リィレがライの左肩に頭を載せる。
「明日から、クリミアでしょ?」
「ああ。でもたった二週間だよ。大した期間じゃないだろ?」
 橙の癖っ毛をすく。リィレはライの膝に触れる。
「会えないのは一秒だって寂しいよ」
「そう?」
 囁いて、ライは口唇でリィレの白い首筋に触れる。やわらかくてあたたかい。
「じゃあ、刻み付けていこうかな。いい子で待っていられるように」
 夜に倒れ込む。
 このときまで、ライは自身の人生を概ね順調だと思っていた。
 遠回りをした分、これからは幸せになれるし。
 遠回りさせた分、リィレを幸せにしてやれていると思っていた。
 傲慢な愛が空回りするまで二週間。幸福の定義を間違えた、甘い甘い夢。

 

「かんぱーい」
 クリミア王都、カリルの店。
 王宮でちょっとした会合を終えたライは、たまにはラグズ同士気兼ねなく呑もうと言って、他の国の代表たちに声をかけた。ナーシルは『曾孫の顔が一秒でも早く見たい』と帰ってしまったので、結局鳥翼代表のヤナフとベグニオン代表のムワリムしか集まらなかったが。
 ちなみにヤナフと来ていたカラスは、『奢りならいい』と抜かしたので丁重に帰した。
「この面子ってのは初めてだよな? 顔はしょっちゅう見てるけど、あんまり改めて話したことねぇっつーか」
 ヤナフは手にしたエールの杯を早速空にした。鷹の民は獣牙並みによく飲む。
「私もそう思いましたので、参加させていただきました。顔だけの知り合い、というのも味気ないものですし」
 穏やかに頷くムワリムの手にあるのは果実茶だ。国の法ではないようだが、自身で生涯禁酒を決めているらしい。
「趣旨をご理解いただけて嬉しいよ」
 ライは葡萄酒を口にした。ガリアに葡萄は生らないので、クリミアに来たときだけの楽しみだ。
「して、何の話をしようかね。近況報告はさっき大方済ませたしな」
 盛り合わせのチーズをつまむ。なにもネズミだけの好物ではない。猫も好きだ。
 向かいに座ったヤナフが、それだそれ、と興奮した様子で羽を広げる。
「聞いてくれよ。さっきはバカラスに止められて黙ってたんだけど、今は個人的な時間だからいいよな、なぁ?」
「とりあえず羽しまえよ。邪魔だから……」
 ライが呟くと、隣に座ったムワリムが苦笑した。これをやられそうだったので、あらかじめ二対一の席配置にはしたのだが……ベオクの店で翼を開かれるのは、やはり些か迷惑だ。ヤナフは首をかきながら羽をたたんだ。
 その後で、でな、と顔を前に突き出してくる。内密の話と踏んで、ライとムワリムも顔を近づける。
 そしてヤナフは、切実な国の内情をぶちまけた。
「王が、つがいを探してる」
「……そう」
 重要ではあるが、半ばゴシップだった。
「その、ラグズ国家は基本的に世襲制ではないですよね?」
 ムワリムが姿勢を直しながら、困惑気味に問う。
 黒鱗・白鷺といった優れた一族がいない場合、ラグズたちはその代一番強い者を王として戴く。ガリアもここ二代は近親だが、他の獅子一族が王位についたこともあったし、猫や虎の王候補がいなかった訳でもない。
 まして鷹・鷺・鴉の民が集う鳥翼連合国で、王とはいえ鷹の一人に過ぎないティバーンの子が、優先的に王位を継ぐ訳ではないのでは――ということだ。
「別に世継ぎがほしいんじゃねぇよ」
 ヤナフは二杯目のエールを待つ間、ライの頼んだチーズを口に放り込む。
「ただ、鳥翼は全体に、種として数が減りすぎた。かといってケダモノじゃあるまいし、ヤれよ増やせよって訳にゃいかないだろ。今は男が安心して女を娶れて、女が安心して子を産める環境を作るための施策に力を入れてる。そこに王が独り身でいたんじゃ説得力に欠ける、と先日お子が生まれたばかりのオメデタイ鴉殿は言う訳さね」
「なるほど道理ですね。王御自身が幸福の理想を体現することにより、民もそれを真似たいと思うようになる」
 ムワリムが手を出そうとしないので、ライは皿をそちらに寄せてやった。軽く会釈して、ムワリムは一番小さい欠片を手にした。
 ヤナフは遠慮なく、一番大きいのを口に運ぶ。
「ただなぁ、王を慕う女なら山ほどいるが、お眼鏡にかなう女となるとなかなかね。なにせ一番近しかった女性が白鷺姫だろう? 基準が高すぎんのさ。あ、だからって王が彼女に懸想してたってんじゃないぜ、念の為」
「おっしゃりたいことは解ります」
 ムワリムは苦笑した。ベグニオン聖天馬騎士団の婚期が遅れがちなのも、それに近い理由だからだろう。
 表舞台では非の打ち所のない聖人であったセフェラン・猛将ゼルギウスを間近で見てきたおかげで、彼女たちが男に求める基準は否が応にも高まってしまった。それに、高潔な親衛隊長シグルーンと、凛然とした副長タニスも一因か。
 男女共に美形ぞろいとは、さすが大帝国様だ。
「うちの王も、嫁でももらえば少しは落ち着いてくれるのかね。それはそれで悪い作戦じゃァなさそうだな」
 ライも、食べ尽くされないうちにチーズに手を伸ばした。
 と、何故かヤナフに睨まれる。お前散々食ってるだろうが、と言いかけて――。
「オマエはさ、王の心配してる場合か?」
「あ?」
 チーズのことではないと気がついた。
「はーい、エールのおかわりと腸詰めの盛り合わせでーす」
 赤紫の髪の少女が、明るい声で言いながら皿と杯を置く。ヤナフは右手でばんとテーブルを叩き、左手で少女を指差す。
「この子が! もうこの大きさだぞ! この甲斐性なし!!」
「なっ、何?」
 びくりと少女が身を震わせるので、ライは首を横に振った。
「エイミ、何でもない。このお兄さんは既に酔っ払ってるだけだから、気にしないで仕事に戻ってくれ」
「酔ってねェよ! このおれがベオクの酒の一杯や二杯……」
「まぁ、まぁ、ともかくこの子を巻き込まないで……」
 ライに喰ってかかるヤナフを、ムワリムが必死でなだめている。少女は首を傾げつつ、カウンターの奥に引っ込んでいった。
 ヤナフの鼻息はまだ荒い。
「なぁおい、オマエの後を追っかけ回してた娘とくっついたんだろ? 猫の妹の方と。おれの、ウルキじゃない、おれの耳にそれが入ってからもう何年だ?」
「さてねぇ、数えたことないや」
 ライがフォークを握り――流石に焼きたては素手では熱い――腸詰め肉に突き刺そうとするのを、ヤナフが押し留める。
 皿に下りようとするライの手。させまいとするヤナフの手。互いにひきつった笑みを浮かべながら睨み合う。
「な・ん・で・す・か、ヤナフ殿!?」
「なんですか、じゃ、ねぇ! いつ身ィ固めんだって訊いてんだ、クソ猫!!」
「お前には関係がないね、クソ鳥!!」
「うっせぇ、女を泣かせる奴は種族別なくおれの敵だ!!」
「やめましょう。みんな見てますよ……」
 ムワリムが呆れた声で言い、二人を引き剥がした。冷静でも一番腕力があるのはムワリムなのだ。。
 ライは頬杖をついて、ひとまず腸詰めを諦めた。
「……社会的に権利を主張できる関係じゃないのは自覚してる。でも向こうのご両親と交流したり、一応、周りにも隠さずに話してるし、自分なりに誠意は見せてるし外堀は埋めてるつもり。泣かしたことは、ないと思う」
「随分な自信で。いい女ほど男の前では泣かないのにな」
 言い捨て、ヤナフはライを遠ざけたはずの腸詰めを指先で掴んだ。熱くないのかそのままかじりつく。
 ムワリムは、妙なことになったと言いたげに、ライとヤナフの顔を交互に見ていた。
「その、個人的な問題なので、あまり深く口出しをする気はありませんが。ヤナフ殿はなんだってそう、ライ殿に突っかかる……というより、こう、このことでそんなに憤慨するんです?」
 じゅっと垂れた肉汁を指で拭いながら、ヤナフは目を逸らした。残り半分の腸詰も口に入れて、咀嚼してから、飲み下す。
「何で今になってうちのが嫁探しなんか始めたか、分かるかよ?」
「それはさっき、ヤナフ殿が説明なさったではないですか」
 ムワリムが代わりに答えてくれたので、ライは改めて皿に手を伸ばした。この白い腸詰めが好きなのだ。中に香草が入っているのがいい。
 ヤナフは杯のエールに目を落とした。さっきまで怒っていたとは思えないトーンで、呟く。
「……ティバーンはベオクに、命の連なりを見せたいそうだ」
 その言葉に、肉をかじりかけていたライの歯は空ぶった。
 ヤナフが『王』ではなく個人の名を呼んだのは、それが右腕としてでなく親友としての言葉だったからだろう。
 あれから年月は過ぎた。ラグズのライたちはあまり変わりがないが、成長が遅いはずのエイミさえ、もう立派に店の手伝いができるまでになっている。純血のベオクにとっては、もっと長い時間だ。
 見知った者たちも次々に婚姻を結び、子を生している。種族を超えて胸を熱くさせるその奇跡を、生きているうちに友に見せておきたいと思うのは、決しておかしな感情ではない。
「オマエの親友だった大将も、猫の姉貴の方もいなくなっちまったじゃねぇか。これ以上何を失うまでオマエは待つんだよ、なぁ」
 酔っ払いが絡んできただけだったとしたら、ライとて黙り込まずに笑って流しただろう。だが本人の宣言どおり、鷹の民からすれば水みたいなベオクの酒で、酒豪のヤナフが酔うはずがないのだった。
 まだ時機じゃないとか、そのうちにとか。
 そんな言葉で。何を引き伸ばしているのだろう。
 だって、もう。
 ――彼女が一番花嫁衣装を見せたかった相手は、もう、ガリアにはいないのに。
 ライは右手に肉を持ったまま、左手で葡萄酒をあおった。渇いた喉を焼くようだった。二週間前、リィレと飲んだ夜のような、甘い味は少しもしない。腸詰めの肉をかじる。いつも舌を楽しませる香草の味が、今日に限っては煩わしい。
 口の中を持て余しながら、ライは苦い声を絞り出す。
「分かったよ。ベオクの友人が元気なうちに話をまとめるようにする」
「そうしろ。そんで早目に済ませてうちの王の嫁探しを手伝え」
「そこまでは確約しないけど」
 ヤナフが、ふっと微苦笑をもらした。それに合わせて、ムワリムも茶の入ったカップを持ち上げる。
「では、今日はその二件について話し合いましょう。私がお力になれるかは分かりませんが」
「あんたには何の利もないと思うけど。いいのか?」
 ライも、葡萄酒が半分入ったグラスを掲げる。ムワリムは窮屈そうに肩をすくめた。
「坊ちゃ……トパック様も、それなりのお歳になられましたので。後学の為にいろいろお聞きしたいと思いまして」
「あんたも大変なんだな」
 次々と料理が届いたのを合図に、三人は二度目の乾杯をする。さほど実のある話はしなかったが、大いに盛り上がった。
 また近いうちに飲み交わそう、と約束をして、夜が明ける前に解散した。
 ライは所用を済ませて、その足でガリアへ帰った。

 

 帰国後、自分の部屋で荷を解いて、すぐに出勤する。
 このところ大陸は平和で、王に報告するべき事柄も多くはなかった。そのまま通常業務に戻る。
 今日は外に出る用事もなく机仕事だ。
 執務室にはキサがいた。二週間空けていた割には書類が少ない。キサが処理してくれたのだろう。礼を言って、ライは椅子を引き腰を下ろした。
「そういえば、ライ隊長。リィレにはお会いになりましたか?」
 キサに問われ、ペンを持ち上げようとしたライの手は止まった。
 あれを会ったと言って差し支えないのか分からないが、ともかくも返事する。
「ちらと顔は見たんだが、なんだかぼーっとしてたな。眠かったのかな」
 ライは、帰ってすぐ彼女の家に行っていた。いつも通り、二階にあるリィレの部屋に向かって小石を投げた。
 正面から、リィレいますかと言ったってよかったのだが、何となく一番に顔を見ておきたかったのだ。
 なかなか出てこないので、ライが上を向いてしばらく呆けていると、ぎ、と音がして雨戸が開いた。窓辺に立ったリィレは、化身が解けた直後のような、気の抜けた表情をしていた。
 ただいまとライが手を振ると、口唇の端を少しだけ上げた。微笑のようで、その実空虚な顔だった。
 そのままリィレは雨戸を閉めた。降りてきてくれるのかと思っていて待っていたが、一向に現れる気配がない。
 心配になって、やはり玄関の戸を叩いてみた。母親が出てきた。
 リィレに取次ぎを頼むと、愛想よく二階に上がっていく。だがすぐに、申し訳なさそうに降りてきた。まだ寝ていて、起こしても起きないのだと言う。
「あいつは気の向かないことはすぐサボるが、昼過ぎまで寝てるようなぐうたらじゃないはずなんだがな。具合でも悪いのかな」
 ライはペン軸を意味もなく、ぐりぐりと回した。キサは何かを言いかけて、眉をひそめて飲み込む。
「何だよ? 何か知ってるのか」
 促すと、あまり気が進まない様子で口を開いた。
「……リィレの様子がおかしいと、彼女の母親から相談を受けまして。ご存知ないなら、執務が終わってからの方がいいかと思ったのですが」
「今の方がいい。聞かせてくれ」
 ライは机を叩いて立ち上がった。キサの見当違いの気遣いを叱るのは後だ。何か知っているなら今すぐ教えてほしい。でなければライは、仕事にも集中できない。
 キサは一つため息をついて、目を伏せた。
「様子が変わったのは、一週間ぐらい前だそうです。妙に落ち着きがなくなって、些細なことで腹を立てていたらしくて。元々気まぐれな子ですし、隊長がいらっしゃらないこともあって、寂しいのだろうとご家族は思われたそうなのですが……」
「それで?」
「はい。やけに眠るようになったと……夜早目に自室に戻っても、それこそ連日昼まで寝ているのだそうです。私も一度お宅に伺いましたが、そのときも眠そうで、話を聞いていなかったり、前後関係を上手く捉えられなくて癇癪を起こしていました」
 ライは黙り込む。
 まず長く眠ることに関しては、全く分からない。言動については、確かにどれもリィレの性格上起こりうることではあったが、彼女は生来負の感情を持続させることが出来ない。ずっと神経を尖らせている、というのは異状だった。
 考えたくはないが。
「なんかの、病気か?」
 ライが自らその可能性を口にしたのが意外だったのだろう。キサは申し訳なさそうに縮こまってしまった。
「分かりません。母君にはよく寄り添って甘えるそうなので、やはり隊長のご不在で不安なだけなのかもしれませんし……」
「お母さんには、って。お父さんには? リィレはいつも両親にべったりじゃないか」
「――父君は」
 キサは一度言葉を切る。そして視線を逸らしながら、注意深い声で続けた。
「リィレに避けられているそうです。理由があるのかは、分かりませんが……近づくだけでも、ひどく怒ると」
 ますます、どこかおかしいとしか思えなかった。リィレは父親のことが大好きで、いつもその腕にぶら下がって、姉やライに冷やかされていたものなのに。
 年頃になったばかりの少女でもあるまいし――急に理由もなく厭うなど、ありえない。
「早退、なさいますか?」
 遠慮がちに問われ、ライは自分の顔に触れた。指先が濡れる。嫌な汗をかいていた。
 頷きかけたとき、部屋の扉が小さく鳴る。
「私が出ます」
 キサが代わりに出てくれた。
 ライは下を向いていたので訪問者の顔は見えなかったが、匂いですぐに分かった。リィレだ。
「……ライ君いる?」
 ライは視線を上げた。リィレはライの方を向いていたが、見てはいなかった。
 紫の瞳はひどく無感情だった。
「さっき、うちに来てくれたんでしょ。お母さんが、挨拶してきなさいって言うから」
「あ、ああうん。……ただいま」
 ライは震える声で、帰還の挨拶を再び告げる。リィレは答えなかった。何も聞かなかったようにキサに向き直る。
「これ、パン焼いたの。よかったら二人で食べて」
「え、ええ。ありがとう」
 突き出された籠を、キサはぎこちなく受け取っていた。ライは机から離れてリィレに近づく。
「今あがるとこなんだ、送っていくよ。なんなら飯でも食べていこう」
 手を取ろうとして、熱い、と思った。
 それはリィレの体温だったのか。それとも、跳ね除けられた痛みだったのか。
「あ、あんたねぇ! いい加減に……!!」
 キサが毛を逆立ててリィレに詰め寄ろうとする。ライはその肩を引いて止めた。
「いい、キサ。気にするな」
「でも……」
 しゅんと耳を寝かすキサの腕から、パンの入った籠を受け取る。
「キサならいいかな? 一人で帰すのは心配なんだ。今はオレのことが煩わしくてもいいから、それだけ我が侭聞いて」
 上手く出来ていたかは分からないが、笑ったつもりだった。
 リィレは少し間を置いて、よく見なければ分からないほどかすかに頷く。
「じゃあキサ、頼んだ。パンありがとうな、リィレ。気をつけて」
 早口で言って、ライは部屋の中に戻った。
 扉を閉めて、座り込む。まだあたたかいパンは、いつも通り丁寧に焼かれていた。
「くそ……!」
 誰にともなく毒づく。
 あんなに身だしなみに気を遣うリィレが、気に入りの三つ編みでなく、ただ髪を一つにくくっただけの姿で出歩いていた。ライを振り回す無邪気な紫が、あんなにも色褪せていた。顔だってどことなくこけていた気がする。
 この二週間で。たった二週間で、一体彼女に何があった。
 これ以上何を失うまでオマエは待つ、とヤナフは言った。
 アイクが旅立って。レテもいなくなって。
 リィレまでライの元を去ってしまうのか。
 そんなこと。
「耐えられるかよ……」
 ひどく情けない声が口唇から漏れた。
 独りになるのが怖くて深入りを避けた。
 それこそが孤独だなんて解りたくなくて、誰からも等距離で笑っていた。
 そんな虚勢を、ささやかな自衛をものともせず、彼らはライを信じてくれた。
 真っ直ぐな想いで、つまらない武装ばかりしていた心を貫いた。
 リィレはその筆頭で。一番あたたかく、ライに光を灯したひと。
 今、扉を閉じるとき、リィレはまだ悲しそうな顔をしてくれたから。
 諦めきれない。このまま失うなんて出来ない。
 ライが彼女の心を去るのは、彼女が本当に彼に対して何も感じなくなってからだ。
「泣き言ほざいてる場合じゃ、ないよな」
 パンを一つ引っ掴んで、立ち上がる。部屋を出て、食べながら廊下を迷いなく歩いていく。
 向かう先は王立図書館だ。レテがよく調べものをしていた場所。あそこなら、リィレの異変について何か分かるかもしれない。
 まず心の病気についての文献を探した。だがラグズには『頭がおかしい』という概念はあっても、『心がおかしい』という概念はあまり馴染みがない。『心』が変化するのは、ただ『弱いから』と片付けられてしまうのだ。
 ライは舌打ちしたが、仕方がない。ベオク寄りの考え方をしているライの方が、今はまだ少数派なのだ。
 ならばと、『頭』の病気についての本を片っ端から集めて読んだ。『頭がおかしい、だったら殺そう!』という記述ばかりでうんざりした。
 原因として考えられるものは、加齢、寄生虫、呪い。まるで役に立たない。
「だーもう!! 何のために蔵書を溜め込んでやがる!!」
 ライは本棚を叩いて怒鳴った。何人かいた利用者がびくりと目を向けてきたが、国軍総帥の乱心に関わりたくないのか声をかけてはこない。
 ライは下を向いてぶつぶつと呟く。
「クリミアの王立図書館なら、あるいは参考になる医学書も……いや、ベオクの症例が必ずしもラグズに当てはまるとは限らない。逆効果になる可能性もある」
 ラグズが口伝をやめて、ものを書き記すようになったのはごく最近だ。ラグズ諸国はあまり当てにならない。そもそも獣牙の民以外になってしまうと、同じラグズと言えども身体のつくりが違う。
 新興の国のことも思い浮かんだが、ダメだ。あそこの民の血は半ばラグズではあるが、半ばベオク。元となった純血の知識は恐らくない。
「ベオクによるラグズ治療の実績があり、なおかつその経験を知識として蓄えている場所……」
 はっとして、顔を上げた。
 ベグニオンだ。長らくラグズ奴隷を使役してきた。中には延命させるために、ラグズに医療行為を施したベオクがいるはずだ。奴隷解放がなされた現在、その技術はますます向上しているに違いない。
「そうだ、ムワリム……!!」
 彼はラグズ奴隷解放軍での経験がある。弱ったラグズを助けたことも一度や二度ではあるまい。
 なおかつ今は政府高官。一般人では閲覧できない、貴重な文書に触れることも可能だろう。
「手紙、書かないと」
 図書館を出るリィレの症状を少しでも詳しく調べて、ムワリムに手紙で意見を仰ごう。遠回りのようだけれど、一番可能性が高い。わざわざ海路を取らなくても、クリミアの郵便屋に頼めば陸路で届けてもらえる。
 ――いや、待てない。ライは頭を振る。
 ベオクのスピードになど合わせていられない。クリミア領を通らせてもらって、自身が不眠不休で駆け続けるのが一番速い。
 まずはもう一度、この目でリィレの容態を確かめる。
 足早に廊下を行くと、見慣れた虎に出くわした。何故か王城内で化身している。
「ライ隊長!」
 キサは人の姿に戻りながら叫んだ。普段は冷静な藍の瞳が揺れながらライを見つめる。
「リィレが、倒れました……!!」
「え」
 冷や水を浴びせられたようだった。自己陶酔の炎が消えていく。
 キサは胸の辺りで忙しなく手を動かしている。
「家まではちゃんと送ったんです。でも、階段を上ろうとして、いきなりふっと……ああでも、一段目だったし落ちた訳ではないんですけど、それで、そのせいか分からないんですけど吐いちゃって……今日に限ってご両親はお留守だし、あたしどうすればいいか……!!」
「落ち着け」
 自分の方こそ吐きそうなのに、ライは静かに言った。目に涙を浮かべているキサの肩を掴む。
「それで、今リィレはどうしてる?」
「へ、部屋まで運びました……ベッドで寝ていると思います。少し熱もあるみたいで、つらそうでした」
「分かった。オレが行く。後は任せていいか、キサ」
「はい、勿論です。隊長こそ……リィレをよろしくお願いします」
 バカみたいだ、と思った。自分だけが彼女を背負っているみたいに気負って。
 独りになりたくないから元気になってほしい、なんて。
 彼女を本当に想うのなら。彼女の愛するもの、彼女を愛する者、全てごと守るのだ。
 ――お前がいるから安心だと、そう微笑んで去っていった、彼女の半身を裏切りたくないから。
 ライは、走る。

 

 リィレの家は不吉なぐらい静かだった。人の気配がない。
 細い階段を上って二階に行く。手前が姉の部屋。リィレの部屋は奥だ。ノックをするが、返事はない。そっと扉を開ける。リィレはこちらに背を向けて、寝台の上に身体を横たえていた。
「リィレ。……寝てるか?」
 小さく呼びかけながら、近づく。華奢な肩は止まっている。規則的に上下に動いているのでないから、きっと意識はあるのだと思う。振り向いてはくれないが。
「……帰って」
 リィレは、別人みたいにかすれた声で言った。喋ることすら大儀そうだった。
「ライ君のこと、呼んでない」
「ごめん。心配だった」
 本音は、なぁオレ何かしたかと問い詰めたい。その肩を揺さぶってこちらを向かせたい。
 けれどそれは彼女を傷つけるだけで、何の解決にもならない。
 だから刺激しないように話しかけ続けるしかないと思った。
「気分が悪い?」
 答えはない。
「熱は?」
 無言。
「戻したって聞いたけど。食事は」
「……うるさいなぁ」
 リィレはライを見ないまま、耳の動きだけで感情を示した。
「放っておいてよ。あたし、眠いんだから」
「もちろん、休むのを邪魔するつもりはないよ。でも最近、お前寝過ぎだって――」
「うるっさい!!」
 急に声を荒げる。自分の頭を抱え込むように身体を丸める。橙の癖毛をかきむしる。
「誰よそんなこと言ったの!? 何でそんなことライ君に言うのよ!? なんで……あたし……もうやだッ!!」
「リィレ」
 触れるつもりはなかったが、もう見ていられなかった。自分を傷つけようとする手を掴む。暴れようとするのを抑える。
 罵られるのは構わなかった。そんなことより。
「オレが嫌なら帰るから、医者だけは行こう。お願いだから」
「いやだ、いやだよぉ、お医者さんだけは、いやぁ……ッ」
 リィレが泣いているのに、何も出来ないのが悔しくて。
 アイクの傍で戦って、少しは強くなれたと思ったのに。
 誰より彼女を想うレテが、託してくれたのに。
 この手は無力で、少女のように泣きじゃくる女性一人救えない。
「リィレ」
 自分は彼女の、一体何を知っていたのだろう。
 レテの妹で、元部下で、気まぐれで、おしゃれが大好きで、元気な女の子。
 甘えん坊で、寂しがりで、弱虫で、そのくせ我は強くって。
 優しくて、明るくて、ひだまりみたいにあたたかくって。
 お前、本気で苦しいときは、そんな顔をするんだな。そんなつらそうな声を出すんだな。
 知らなかったよ。オレは何も知らなかった。
 知らないうちに、オレはそうやってお前を泣かしてきたのかな。
「ごめん」
 ヤナフの言うとおりだ。オレはお前のこと、ちっとも守れちゃいなかった。
 色違いの両目から、堪え切れなかった想いがこぼれ出す。
「オレのこと、嫌いでもいいよ。それでも、せめてお前が笑えるようになるまで世話を焼かせてくれ。頼むよ。……オレはお前を、愛してるんだ。お前がオレを愛してくれてるからじゃない。オレが、お前を、愛してるんだ。だから」
 苦しいのなら。お願いだから、オレに。
 救わせてくれ、リィレ――。
「ライ、くん」
 リィレはぐしゃぐしゃの顔で、ライを見上げた。
 涙は横に流れている。上から頬に落ちているのは、彼女の目から出た雫ではない。
 リィレの腕が弱々しく上がり、指先がライの毛先に触れる。閉じたまぶたに、ライはそっと口付けた。
 たった二週間前には当たり前にあった機会が、今は奇跡のように尊かった。
「お医者さんを、呼んで」
 リィレは目を閉じたまま呟いた。いつも血色のよかった小さな口唇が、白く震える。
「やっぱりこわいけど。もう、逃げられないよね」
 何がこわいのかと、問うことが出来なかった。問う代わりに、共にしようと思った。
 小さく頷いて部屋を出ると、ライは医術の心得のある者の家に走る。

 診療中はリィレの希望で外に出ていた。
 空は呑気なほどに青くて。余計なことをたくさん考えた。
 男が出てきたのに気づき、振り向く。ライが普段世話になっているのとは違う医師だ。
 陰気な猫。来るときもそうだったし、今もずっとしかめ面をしている。おかげでリィレの容態が芳しくないのかどうかさえ、判断がつかない。
 
「彼女はどうなんですか。何かの病気ですか」
 ライが詰め寄っても、医師は眉間のしわを深くしただけだった。
「ご家族の方ですか」
「いえ……」
「でしたらお話できません。ご本人の許可なく口外できる問題ではないので」
 にべもない、とはこのことだ。ライは両拳を握り締める。
 そうだ。家族ではないという宙に浮いた関係は、こんなとき何の権利もない。
 けれど。だからこそ。
 ――もうこんな、いざというときに手の届かない距離で、いたくない。
 ライは医師の目をじっと見つめる。
「オレは彼女の家族ではありませんが、そう在りたいと望む者です。彼女に降りかかる一切を、この身に負う覚悟があります。……それでも、お聞きすることは出来ませんか」
 医師は少しだけ目を見開いて、そうですか、貴方が、と意味深に呟いた。
 咳払い。改めてライを見る。
「でしたらご自身で負いなさい。逃げることの出来ない、重い責を」
 そして、医師は告げた。リィレは病気などではないと。
 説明を最後まで聞き終えず、ライは家の中に転がり込む。絡まる足で階段を駆け上がる。
「リィレ!!」
 扉を開け放つ。リィレは身を起こして、寝台に腰掛けていた。
 両膝に手を置いて、静かに言う。
「聞いちゃったんだ。いやだなぁ」
「なんで……」
 ライは彼女の前に膝をついた。二週間前もそうしたように。
 二週間前とは違う不機嫌そうな、泣き出す寸前の顔を見上げる。
「知ってたのか。何で、黙ってた」
「そうやって大騒ぎすると思ったからよ」
 リィレは橙の髪を右手でかき上げた。結ばずに下ろされた長い髪は、普段幼く見られがちなリィレを、年相応の落ち着いた女性に見せている。
「わたし、本当はレテを誰にも取られたくなかった。ケンカしてたときだって、レテはずっとわたしだけのお姉ちゃんだったわ。ベオクが持っていくなんて、そんなの許せる訳ないじゃない。……それでも、あの子が見たことないほど幸せそうに笑うから。送り出すときだって、なるべくいい子でいたつもり」
 何の脈絡もない。それでもライは黙って聞いていた。
 リィレは紫の目を逸らす。耳が忙しなく動いていた。
「大好きなのよ、レテのこと。だから困らせたくなかった。悲しませたくなかった。わたしが我慢して我が侭を飲み込めば、あの子はそれだけで安心してあいつの傍にいられるんだから。簡単なことじゃない」
「お前、それで一度もレテのことで、泣かなかったのか」
 ライの質問に、リィレは口唇を尖らせて黙った。
 思い返せば。リィレはレテの旅立ちに対して、異様なほど聞き分けがよかった。クリミア戦役のときのように、レテがいなくて寂しいと泣き喚いたことはなかった。ずっと笑顔で、恨み言一つこぼさず、過ごしていた。
「そんなの、ライ君だってそうじゃない」
 リィレは床を睨みつけながら、低い声で続ける。
「仕事の量増やして。あいつとレテの話題、露骨に避けて。オレ寂しいんですってだだ漏れのくせに、平気そうな顔で笑って。――見てらんない」
「それとお前の身体のことと、何の関係があるんだ」
 ライが少し語気を強めると、あるわよとリィレは怒鳴った。そう、怒鳴ったのはリィレなのに、叱られたみたいな顔で言う。
「関係あるわよ。……あたしまで負担になっちゃったら、あなた、本当にどこにも行けなくなる。そんなのごめんだもの。あたしからぐらい自由に生きてよ。国とか、民とか、たくさん背負ってるのに。あたしまであなたの重荷になっちゃったら、動けなくなるじゃない」
 白い喉が震える。
「あなたを……縛りつけたくないの」
 いい子で在ろうとする台詞が痛すぎて。ライは身体を持ち上げて、リィレの身体を思い切り抱きしめた。なんて細さだと思った。
「ライ、く」
「――お前を」
 こんなに細いくせに、彼女はこんなにも強い。
 弱虫とか、泣き虫とか、そんな風に思っていた自分の方こそ弱かった。
「縛りつけておきたいのは、オレの方なのに。何でこんなときばっか遠慮するんだよ。いつもみたいに、『責任とってよ、これであなたはわたしのものね』って、そう笑ってくれるだけでよかったのに」
 別の命を宿し、その身が急速に作り変えられていくという特殊な事態に、独りで耐え切ろうとするなんて。どんなに心細かったことだろう。苦しかったことだろう。
 男であるライには想像もつかない。
「ごめんな。オレが煮え切らないせいで不安にさせた。……縛ってくれていいんだよ。重荷になってくれていい。オレはどこにも行かないから。死ぬまでお前の傍にいられるように、オレを縛りつけておいてくれ」
 抱きしめながら、クリミアからの帰りに買ってきたものをリィレの首から提げる。
 顔を見たらすぐに渡そうと思って、ずっと持っていたもの。
「あ……」
 リィレは、ぎこちない手つきで首元に触れた。彼女がいつも羨ましがっていた、母が持っているのと似たもの。
 ライとリィレの瞳のような、翠と紫の宝石を連ねた首飾り。
 その様式は、ガリアにおいて婚姻を示すものだった。
「リィレさん」
 ライは改まって、リィレの顔を覗き込む。はい、とリィレは真っ赤になって頷く。
「貴女を愛しています。これからも愛し続けると誓います」
 まだ未熟なオレだけど。
 君を想うということにかけては、世界中の誰にも負けないから。
「一生大切にします。どうかオレの、お嫁さんになってくれませんか」
 月並みな言葉を、リィレはまるで宝物を受け取るみたいに聞いてくれて。
「……はい!」
 ようやく見せてくれた笑顔は、これ以上ないほど眩しかった。
 自然に顔が近づく。口唇を重ねようとした瞬間、階下で大きな物音がした。両親が帰ってきたものらしい。
 二人は顔を見合わせて苦笑した。
「ちゃんと説明しよう。二人とも心配してるから」
「うん。ライ君がいてくれれば、あたし、こわくない」
 手を取ってそっと立ち上がらせる。随分と馴染んだ匂いがそこにある。
 これからは、このぬくもりを守っていく。小さな手を引きながら、ライは彼女の部屋を出て行った。

 

「やんもー、おなかすいたー!」
 リィレはベッドの上で叫んだ。手元には白い布。祭り用だった衣装を、婚礼用に縫い直しているのだ。
 ライは新しいのを買ってやったってよかったのだが、姉が以前着た服がいいと言うので好きにさせていた。
 あれからライは、毎日リィレの家に顔を出している。外から呼び出すのではなく、両親に挨拶をして正面から入る。
 婚前交渉はガリアでは珍しいことではないが、それでもやはり殴られる覚悟をしていたライを、リィレの両親は笑って許してくれた。早く孫を抱いてみたいと言ってくれた。
 婚礼の儀はまだ少し先だ。
 一般に、ラグズの結婚式は煩雑なものではない。その気になれば当日中に出来てしまうようなものだが、リィレが衣装を自作したいと言ったこと、あの当時傭兵団に在籍していた者たちを呼びたいと言ったことから(ミストやティアマトならともかく、真っ先に挙がった名前がシノンとガトリーだというのがライには少し面白くないのだが)、二週間後に決めた。
 カイネギスとジフカも、当然モゥディも来てくれるそうだ。スクリミルとキサも、大袈裟なぐらいの準備をしてくれている。
 急な話で招待は出来ないが、ヤナフとムワリムにも手紙を出すことにした。そのうち、鷹王とトパックの伴侶探しもすることになるかもしれない。といっても、ライに出来るのは二人の愚痴を聞くことぐらいだろうけれど。
「ここんとこずっと言ってるなぁ。あんまり食べ過ぎちゃいけないって先生にも言われただろ?」
 椅子に座っていたライは、嘆息して机の上に本を伏せた。リィレは縫い針を握り締めたまま頬を膨らませる。
「だってぇ、赤ちゃんの分も栄養とらなきゃいけないんだよ。お腹空くんだよ」
「うーん……」
 ライは眉をひそめて耳を伏せた。そう言われると弱い。
 医者でもなければ女でもないライには、二人の言い分をどこまで採用するべきか、線引きが難しい。
「ねー、パパと一緒におやつ食べたいよねー?」
 リィレは、まだ全然目立たないお腹をさすりながら、聞こえよがしに呟く。
 ああもう、とライは立ち上がった。
「分かったよ。なにか軽くつまめるもの買ってきてやる」
「やったー! ライ君だいすき!」
 ベッドの上で両手を上げるリィレ。
 こういう彼女に惚れたのだから、もう仕方ないというものである。
「誰か来ても出なくていいからな。階段下りるときはちゃんと気をつけるんだぞ」
「過保護だよー」
「前科持ちが文句言うな」
「あのときは食欲なかったんだもん。今はちゃんと食べてるから平気だよ」
「それでも、気をつけるの。行ってくる」
 ライはドアに向かって歩き出す。ノブに手をかけたとき、リィレに問われた。
「ところで、さっきから何読んでたの?」
 どうせ見られてバレるのに、答えたくなくてそのまま出てきた。絶対に赤くなっている顔を片手で押さえながら階段を下りる。
 育児書なんて、柄じゃないのに。
 外は陽射しが強くて、一瞬目が眩みそうになった。
 目の前に、いつかの少年の幻が見えた気がした。長い黒髪の少年。いつもアイクの傍にいた、混血の。
「……参謀殿?」
 ライが呟くと、少年の赤い瞳が不機嫌そうに光った。
 ここに至って、夢でも幻でもないことに気付く。
「何で、ここに……」
「お節介な人にいろいろ吹き込まれたものですから」
 少年は早口に言った。
 お節介な人、と言われても、少年の周りは基本お節介ばかりなので見当がつかない。
「結婚するそうですね」
 意味のない世間話をあらかじめ拒むように、少年はまっすぐに切り込んできた。
 ライも、ああ、と答えるしかない。
「おかげさまで」
 社交辞令はものの見事に無視された。
 少年が右手を振る。まさか魔法でも放たれたかと思ったが、飛んできたのは風ではなく石だった。
 金色の台座に収まった、懐かしい蒼い色。
「アイクから、何か入用になったら売るようにと預かっていました。差し上げます。価値の分からない獣同士でやりとりしても二束三文にしかならないでしょうが、僕が持っているよりは有益でしょうから」
「なんであいつが、宝石なんか?」
 ラグズのライから見ても希少だと分かるものだった。こんなものをいつ手に入れて、何故少年に託したのか。どういう一品なのかと裏返すと、台座に古代語が彫られている。
 少年は空になった手を持て余すように、自分の腕を抱いた。
「ガリアの廃村で見つけました。民家の床下が腐っていて、箱が隠されているのが偶然見えたんです。中にはそれともう一つ、銀の台座の碧い宝石が入っていました。刻まれた年号からして、それぞれアイクとミストが生まれたときのものです」
「そんな大事なもの、もらえる訳ないだろ!」
 ライはつい大声を出してしまった。
 アイクたちは幼い頃ガリアに住んでいたという。母親が死んでしまうまでの短い間だ。何も欠けることなく幸福だった、儚い日々。
 それを象徴する貴重な品を、ライのような部外者が持っていていいはずがない。
「いいんです。ミストはもう自分のものを持っていますから。それに――」
 苛立たしげに言った後、少年は息を止めた。
 そして俯き、長く吐く。吐き切って、青い空を見上げる。
「そこには、年号の他にこう刻まれているんです。『生を寿ぐ』――僕が生涯大事に持っていたって、仕方のない品なんですよ」
 だから貴方が持ちなさい。アイクもきっと、そう望む。
 少年はわずかに震える声で、そう命じた。
「ありがとう。セネリオ」
 ライは、親友の瞳の色の宝石を握り締めた。
 少年が口元を緩めたと思ったのは、錯覚だったのか。
「僕のところには、今後一切顔を出さないでくれて結構です。命を背負うというのは生半ではない。他人にいい顔をしている暇があるなら、全力で自分の生み出したものの責任を取りなさい」
「でも」
「でもじゃありませんよ。いい加減貴方みたいなうるさいのには辟易しているんです。余生ぐらい静かに過ごさせてください」
 少年ははきはきとそう言って、木々の向こうに消えようとする。
 けれど最後に振り向いた。分からないほど薄く、だが確かに微笑んだ。
「さようなら。ライ」
 はっと、目を見開く。
 長い付き合いではあるが、面と向かって名を呼ばれたのは、きっと初めてではあるまいか。
 そして、きっと。ライが少年の名を呼んだのも、さっきが多分、初めてだった。
「……悪ィ」
 謝りながら、片腕で目を隠して笑った。手の中の金は少年のぬくもりを残していた。
「幸せになるよ」
 この大陸に生きる全ての生命に誓う。この大陸を去った大切な者たちに祈る。
 心に根付いたあらゆる想いを、愛に変えて育て続けよう。やがて朽ちて、土に還るときまで。
 ライは歩き出す。祖国の大地を踏みしめる。
 もう二度と離れることのない、愛しい場所を、進んでいく。

 

 

SIDE Story A

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