15話 Never Never Never Surrender - 3/10

貯金箱の底

 為一は部活の後、早瀬(はやせ)兄妹と帰ることが多い。いつもなら団地の下で別れるのだが、今日は一戸建ての早瀬家に琉千花を送り届けてから、怜二(れいじ)と共に八名川家に戻った。
 2DKの借家。主たる父は自分の利便性しか気にしていないのだろう。毎日帰っては来るけれど、皆が寝静まった深夜だから実質一人暮らしのようなものだ。父は自分の部屋と、自分以外を隔離する部屋があれば困らない。
「タイチ。上脱げ。どうせ怪我してんだろ」
 律義に靴を揃えて怜二が言った。乾いた冷たい声に、為一もやり飽きたおふざけは得策ではないと覚る。
 リビングでシャツから頭を抜く。左腕のところでぴんと止まった。何度か引っ張ってみたがどうも動かない。
「何やってんだよ」
 怜二がやってきて原因を外した。
 指ほどの長さの絆創膏。サージカルテープがなかったから、傷口を覆ったハンカチを固定するのに何枚か貼っていた。ひでえな、と怜二が眉を寄せる。処置がなのか傷口がなのか、為一はわざわざ訊かなかった。
 前腕に走った線は赤黒く、ハンカチの白い繊維がカビのように付着している。
「いったん洗うぞ。痛ェのは我慢しろよ」
 為一は言われるまま風呂場に行った。プラスチックの椅子に座って、空の浴槽に腕を突き出す。弱めのシャワーで傷口を洗浄してくれる怜二の手は丁寧で、昨日自分で消毒したときの痛みが嘘みたいだった。
「レイくん、ほんとこういうの慣れてるよね」
 お湯の流れ落ちていく自分の腕を眺める。球児を名乗るのがおこがましいくらい生白い。同じだけ外にいる怜二の手の甲は浅黒いのに。
「誰かさんがいつも泣いてたからな」
 静かな返事に皮肉の色はなかった。発作も怪我も、為一の身体に何かあったときそばにいてどうにかしてくれたのは、親ではなく怜二かその母だった。処置は年々的確になっていく。礼を言うのも侮蔑になりそうで、俯くしかなかった。
「そのまま風呂入っちまえ。タオル用意しといてやっから」
 怜二が出ていき、為一は浴室に取り残された。
 この家には専用の脱衣スペースがない。濡れた腕のまま下も脱ぎ、洗面台に服を置いて浴槽に踏み入る。カーテンを閉めきって頭からお湯を浴びた。一日長袖を着た後だからさぞ気持ちいいだろうと思ったのに、何の感情も湧かない。また血のにじみ出した腕のひりつきだけが増していった。
 早々に切り上げてすりガラスのドアを開ける。カラーボックスの上に、バスタオルと為一の服一式が出してあった。為一がこの家のどこに何を置いているか、怜二は半分以上把握している。
「さっぱりしたかよ?」
「うん」
 訊かれたので頷いた。自分でも理解しきれない気持ちを説明するより、二文字で流してしまった方が早い。
 四畳半に向かい合って、万全の準備をしたらしい怜二に左腕を委ねた。
「レイジ、なにその白いの」
「ワセリン。保湿剤」
「ラップに塗るの?」
「で、腕に巻く。最近じゃ傷口は乾かさない方が治りがいいって学説があんだよ」
「そうなんだ」
 為一は透明なフィルム越しに自分の腕をしげしげ眺めた。怜二を『衛生兵』と呼んでからかったのは森貞だが、そのあだ名は為一にとってもしっくりくる。
「ラップしまってくらぁな」
「ちょっと」
 台所に向かう背中に、為一は恐る恐る声をかけた。精一杯普段どおりに聞こえるように注意しながら。
「どこで怪我したかぐらい訊こうよね? お説教なしとか余計こわいわ~」
 言い訳なら用意してある。『たまには自炊をしようと思って、包丁を持ってた手を滑らせてさ。慣れないことはするもんじゃないね』。怜二がそれにこう返す。『どうやったらこんなことになんだよ。お前は本当にバカだな』。
 怜二は振り返らずシンクの上の扉を閉めた。
「どうせ適当こくんだろ。訊く意味ねぇよ」
 ひゅっと喉が鋭い音を立てた。息ができない。作り笑いも引っ込め損ねて頬に残したままだ。
 もっと責める言い方をしてくれたらよかった。いつもみたいに怒ってくれたら、叱ってくれたら謝ることもできた。そんな諦めた口調では、為一は何も言えなくなる。
 玄関のドアが開いた。姉の翠だった。廊下のないこの家は、帰宅した相手の顔がすぐ見える。
 姉は為一と目が合っても何も言わず、怜二に顔を向けた。
「怜ちゃん、いらっしゃい」
「おかえり、みどりちゃん。こないだ布団ありがと」
「こっちこそ、洗濯とかしてくれてありがとね。今日も泊まる? アタシ荷物取りに来ただけだから」
「いや、もう帰る。荷物、重いもんだったら下まで持ってくよ」
「マジで? 助かるー」
 姉はにこやかに怜二と話していた。為一はラップ越しに傷口を握る。
 黒川が戻ってきたことを、姉にも知らせた方がいいだろうか? 元は姉の友人だ。この家も知られているのだし、警告すべきなのかもしれない。
 姉は、まだ時季でもないロングブーツを脱いで上がってくると、通りすぎざま為一の腕を一瞥した。
「なにそれ。ダサ」
 あれ、と思った。痛い。見れば怜二が何重にも巻いてくれたラップを突き破り、自分の爪が傷口に刺さっていた。
「タイチ。お前こそオレんち来るか」
 怜二の顔が見えない。目はそちらに向けたはずなのに。自分の声だってここから出しているはずなのにひどく遠い。
「いい。もう部屋着になっちゃったし。少し寝たいや。疲れちゃった」
「そか」
 怜二の言葉が心配そうに聞こえたのも、ただの願望なのかもしれない。
 誰もいなくなった家で、為一は敷きっ放しの布団に倒れ込んだ。じくじくと脈打つ腕を忘れようと目を閉じた。
 八名川家で、為一が心底『ここにいてもいい』と思える場所は、この煎餅布団一枚だけだ。汗と湿気のにおいも慣れてしまえば安らぎの材料になる。
 布団から出なければ、邪魔にされることもない。

 約二十年前、ある男が美しい女に一目惚れ。二人はドラマティックな恋をした。彼の子を身ごもったことを契機に、話は一気に結婚へ。産まれた娘は両親に愛され幸福に育った。
 三歳までは。
 娘が幼稚園に入ると状況は変わった。女は腕が空になった寂しさを紛らわすためか、迎えの時間ぎりぎりまで出歩くようになり、時には夫に断りなく他人を家に上げた。暇つぶしの相手は大抵違う男だったらしい。その放蕩を夫が知ったとき、女の腹には次の子供がいた。
 週刊誌好みの、何かの片手間に消費されるようなゴシップが為一の生まれだ。戸籍上父であるはずの男は遺伝子検査を拒み、為一は未だ彼が実父なのかどうかを知らない。
 幼い頃は、どうして姉の誕生日だけケーキが用意されるのかも、どうして姉だけが父と遊園地に行けるのかも知らなかった。夫婦関係は破綻しているのに、生活力のない母は父の収入に頼るほかないし、父は世間体を理由に離婚に踏み切らない。
 為一がテストでいい点を取っても、部活で成績を残しても、それなりの進学校に合格しても、生徒会役員として活躍しても、受け取れるのは言葉でも眼差しでもなくただの紙幣。
 姉は優しさのようなものをくれるときもあるけれど、その施しも余裕があるときだけだ。為一はいつも地雷原を歩く気分で、姉の虫の居所を探る。
 この家の体裁をかろうじて保っているのは金と見栄だった。部屋はさしずめ貯金箱。人の住むところではない。負債である為一は、この箱の底に眠って存在を黙殺されているのが、最も似合わしい在り方なのだ。