15話 Never Never Never Surrender - 4/10

自分のルーツ

 侑志は自室のベッドに寝転がって、透明なビニールに包まれた紙の小箱を睨みつけていた。大っぴらに見せびらかしてはいけない類のものだ。
 朔夜を送り届け帰宅した侑志を待ち受けていたのは、しかめ面の父だった。父親が腕組みで待ち受けているときは仁王立ちと相場が決まっていそうなものだが、傾いて右肩を壁に預けていたのが海外ドラマみたいで若干いけ好かない。さらにいけ好かないのはその後された話だ。柚葉のときのように『二人きりで部屋にこもるな』という話かと思えば、書斎で小さな箱を渡された。
 コンドームだ。
 親がいくら言ったところで十代の本気の性欲が抑え込めるものではないことぐらい重々承知しているから云々、と渋い顔で言われ、侑志もつい『デキ婚した人が息子にそれ言う?』と返したのがよくなかった。『僕と美映子(みえこ)さんはショットガンマリッジじゃないけど?』とよく分からない言葉で別口の説教を食らった。要は事故ではなく人生設計に基づいた理想的な妊娠だったらしい。
『とにかく、本気のお付き合いをするならば君も自己都合を振りかざす子供でいることはやめなさい。欲求や恥や外聞よりも、彼女の未来を何より優先できる大人の男になること。いいね』
 出産の時期まで母のキャリアを考慮して決めた、という主張が本当なら、父はその『大人の男』を体現してきたことになる。侑志も大声を出してごまかすような幼稚な真似はできなくて、耳まで熱くしながら小箱を受け取った。『次からは自分で買う勇気を持ちなさい』という忠告に、うるせえと返さなかったのも大人の対応だったと思う。
 しかし、しかしだ。
 振るとシャカシャカ音がする軽い箱。『0.03』の記載も全然ピンと来ない。さっき一ミリ刻みの定規をじっと見てみたけれど、とてつもなく薄いということしか分からなかった。
 柚葉とどうにかなりそうだったときは勢いばかりだったから、正直これのことまで頭が回らずにいた。裏を返せば、勢いさえあればこれなしでそういうことをしでかしかねないのだ。やはり朔夜を傷つけないための備えは必要、というわけになるのだろうとは思うが、だがしかし。
「腹筋しよう」
 侑志は誰にともなく宣言して、バイシクルクランチを始めた。両手を頭の後ろにやり、腹斜筋を使って右肘と左膝、左肘と右膝を交互に近づける。インターバルを忘れて三十回ほどやった頃、地震のような異音がして跳び起きた。
 マナーモードにしていた携帯電話が机の天板で暴れている。慌てて立ち上がり、床に落ちる寸前で受け止めた。
「もしもし」
『大丈夫? なんか息荒いよ』
「いや、筋トレしてただけ」
 電話越しの皓汰の声は、やはりどこか朔夜と似ている。侑志は息を整えつつベッドに座り直した。
「どしたこんな時間に。急ぎ?」
『朔夜から、侑志がうちに来たがってるって聞いただけ。都合がよければ明日でもって。急ぎではないよ。明日学校で話してもよかったね』
 こうして短く行を区切って淡々と話すのは、皓汰だけの癖だ。侑志は頬を緩ませて布団に倒れ込む。
「でも今日皓汰と話し足りないって思ってたから。電話くれてよかった」
『そういうの朔夜に言ってくんない? 弟まで口説くなんて節操なしもいいとこだよ』
「だって俺お前のこと好きだもん」
『やだー、新田君の浮気者』
 お互い軽口は気を許した相手にしか出さない。
 今日の部活の笑えたネタ、明日の授業の愚痴、同性同士の冗談が今は最高の癒しだ。
 これで皓汰が朔夜の身内でさえなければ、『そういやうちの親父がさぁ』なんて、この小箱のことまで笑い話にできたのだけれど。

 翌日の放課後、皓汰に連れられ教室から直行で桜原家にお邪魔した。見覚えのあるスニーカーが既にそろえてあって、朔夜さんの家でもあるんだよなとつい背筋が伸びる。
 朔夜の顔は見ず、玄関からすぐの階段を上がった。
「本置いてあるのって皓汰の部屋?」
櫻井(さくらい)(はじめ)は置いてない。俺の部屋にあるのは比較的新しい本。古い本は和室、じいちゃんが使ってた部屋にあるよ」
 前に入れてもらった皓汰の部屋のドアが左手、右手には古ぼけた襖。どうぞと中に通され、侑志は声を失った。
 障子紙越しに射し込む傾いた陽。焼けた畳に積まれた本はいずれも時代を感じるが、丁寧に扱われているのか破損は少なそうだ。壁際の棚にも書籍がぎっしり詰まっており、上には紐で縛られた束もあった。
 窓辺には落ち着いた光沢を放つ文机。見回してみて、出入り口の襖に絵柄がついているのに気付く。小さな鳥、文鳥だろうか。ちょうど文机から横を見ると目に留まる位置だ。
 遅れていた言葉がようやく戻ってくる。
「すげえ。文豪の部屋じゃん」
「まぁベタだよね。形から入るタイプだったんだなって思う」
 皓汰はさらりと言い、年季の割に掃除の行き届いた部屋を突っ切っていった。窓の障子が開けられ室内が明るくなる。急な光量の変化に侑志は目を細める。
「これ、全部お祖父さんの?」
「部屋の趣味のことなら一〇〇パーセントじいちゃんのだよ。本については九割、そうだな、五分ぐらいまでは。あとは俺が古本屋で買って積んでる」
 窓のすりガラスは、下半分が控えめな花模様になっていた。どこもかしこもレトロなのに、皓汰はこの部屋に立っていても異物のようには見えない。主の風格すら漂っている。
 侑志はこわごわ部屋の中央に踏み出した。以前母と住んでいた団地の和室とは、畳の質感が違う。靴下越しでも分かるぐらいだ。長押に飾られた額入りの書も、侑志には全く馴染みがない。
「監督も朔夜さんも、この部屋あんまり入らないだろ」
「朔夜は掃除のときだけだね。親父は完全に避けてる。思い出が強すぎるみたい」
 皓汰は首を傾けて笑った。負った逆光のように淡く。
「どうしてそう思ったの?」
「上手く言えないけど。お前が野球嫌いなの、俺、今すごく納得してるかもしんないから」
 時の流れから隔絶された静寂。この空気と共に育ったのなら、『野球』というものが放つ音も光も熱も、彼にはきっと煩すぎる。
 皓汰は答えず、ゆっくりと窓辺を離れた。
「櫻井朔。どの本がいいかな」
 図書室で借りた『日輪』のどの篇が気に入ったか問われ、亡くなった奥さんとの話がよかったと言ったら『恋文』というストレートなタイトルの本を勧められた。夫婦としての日々をつづった作品集だそうだ。
 せっかくなので、このまま他の本も覗かせてもらうことにする。
「皓汰のお祖父さんって何やってた人?」
「こういう本を集めたり、読んで考えを書いたりしてた人。ときどき大学で講義もしてたらしいけど、その辺詳しくは知らないな」
「へぇ。文化人って感じでカッコいいな」
「侑志のお祖父さんは?」
「え、どうだろ」
 何の気なしに質問を返され、はたと気付いた。早くに死んだらしい母方の祖父はともかく、毎年正月には話をしている父方の祖父が普段何をしているのか、侑志は深く考えたことがなかった。
 知っているのは仕事人間なことと、父――つまり一人息子に毛嫌いされていることぐらい。具体的に何の仕事をしていて、何故父に海外と日本を行き来させる教育をしたのか、侑志は何も知らない。
 朔夜の野球好きのルーツは父親。皓汰の本好きのルーツは祖父。
 ならば侑志は、どこから来て、どこへ向かおうとしているのだろうか。