11話 The Eleven - 5/9

「求めよ、さらば与えられん」

「で、桜原。『ウタイカズヒラ』って知ってる?」
「知らない。どの分野の人なのかも見当つかない。っていうか人?」
 部活後の校門前。昼に降った雨も止み、日が落ちたばかりの午後七時は明るい。
 二年生はバッティングセンターに行くと言っていたが、三年生は勉強するからと同行しなかった。永田も富島も井沢も断って帰ったし、侑志も桜原も今日はそんな気分ではない。一年生でついていったのは琉千花だけ。付き合いの悪い後輩で申し訳ないとは思うのだが、しかし。
「次の試合、明後日じゃん。井沢のおかげでベンチいつも明るいのに、あいつがあのままだと絶対やべぇって」
「てゆか次の相手、馬淵学院なんでしょ? また永田のときみたいに元チームメイトとか」
「調べようにもケータイじゃ限界あるよな」
 侑志は携帯電話をポケットの上から叩いた。画面も小さいし通信費が気になってやりにくい。
 桜原はシャツの裾をしきりにいじりながら侑志を見上げた。
「俺んちパソコンあるけど……昨日話した件もあるし、新田来づらいよね。調べたら電話しようか?」
 確かに、昨晩ファミレスで聞かされた話を思い出すと遠慮したい。侑志は嘆息して携帯を取り出した。
「俺の部屋にもパソコンあるけど。うちで調べるか?」
「え、いいの?」
「いいかは親に聞いてみないとわかんねぇよ」
「違くて、新田が」
 桜原の指が、侑志の住んでいるマンションを向く。ぐるぐると空中で円を描く。
「あそこ、ってぼんやり言うだけで、階数とか部屋番号とか絶対教えないじゃん」
「監督と先生は知ってるよ」
「それ緊急連絡先としてでしょ。俺、友達一号?」
 侑志は咳払いして、母に『友達呼んでもいい? 一人』とメールした。すぐに『いいよ。ケーキいる?』と返ってきた。
 背中がむずむずする。
 普段の母はこの時間に家にはいないことも、母の気に入りのケーキ屋の営業が八時までなことも、呼ぶ相手が柚葉ならわざわざ断りを入れないことも、互いに承知しているのだ。
「新田。どうだった」
「ケーキ食うかって」
「いいの? 嬉しいけど」
「嬉しいなら頼んどく」
 母に返事を打ち携帯を閉じた。桜原は足取り軽く歩き出す。
「うちケーキとか滅多に食べれないんだよね。甘いの好きなの、俺しかいなくてさ」
 呑気だなぁと思ったが、無駄に深刻ぶっても仕方ない。
「お前も家族に連絡しとけよ。うちにいるって」
「そうだね。朔夜が帰る頃には俺も家に戻ってないと」
 深刻にならなくていい。
 大丈夫だ、大丈夫。

「いらっしゃい」
 玄関で桜原を迎えた母は、すっかりいつもどおりという顔でいて、首元は上気していた。自転車を飛ばしていったらしい。
「ただいま。ケーキ屋間に合ったの」
「昼間行ったのよ。どれにするか迷って、つい四つ買っちゃったとこだったの」
 見え見えの嘘をついて、母は両手を後ろで組んだ。高い位置で括った焦げ茶の髪が揺れる。
「桜原君よね。どうぞ、上がって。昨日は試合おつかれさま」
「あ、いえ、ドリンクごちそうさまでした……おじゃまします」
 桜原は例によって侑志の陰から挨拶をした。
 別に嫌ではない、のだが、春に朔夜の理不尽から侑志をかばってくれた凛々しい桜原はもういないのだろうか?
 首を傾げつつ母と廊下を行く。
「こちらこそ、侑志がお夕飯ご馳走になってしまって。親御さんにもあらためてお礼を伝えておいてね」
「あの、き、気にしないでください」
 桜原はもごもご俯く。母も微笑んでリビングのドアを開けた。
「おばさんとおしゃべりしに来たんじゃないものね。お部屋に行く前に、ケーキだけ選んでもらってもいい? お紅茶と一緒に後で持っていくから」
「あ、ありがとうございます」
 桜原が赤面しているのはケーキでテンションが上がっているからなのか、どうなのか。
「ご近所のお店だから食べ飽きてるかしら。レアチーズタルトと、いちごムースと、ザッハトルテ。お好きなのをどうぞ」
 リビングのテーブルに白い箱があった。自転車だったら崩壊しているのでは、と危惧したケーキはきちっと整列している。店員の詰め方がよかったのだろう。
 レアチーズタルトが二つ。侑志のいつもの。いちごは母の好物でチョコは父の好物。今いくら優雅そうに振る舞っていても、ケースの前で選ぶ余裕がなかったのが丸わかりだ。
「桜原、いちごでいい? 確か好きだったよな」
 母には悪いが勝手に決めてしまう。レアチーズは侑志でも食べられるほど淡白だから、甘いもの好きの桜原にはもの足りないはずだ。
「うん好き。すごい好き」
 勢い込んで頷く桜原がよっぽどおかしかったのか、母は口許を押さえてくすくす笑っていた。
 もてなしの用意は母に任せて部屋に行く。
 そういえば、よく来ている柚葉も自室には入れたことがない(というか入れていたらまずい)。意識してしまったら、ドアノブを握った手に汗がにじんだ。
「何見ても笑うなよ」
「俺、自分の部屋よりカオスな空間知らないから大丈夫だよ」
 よく分からない励ましを受け、渋々扉を開ける。桜原は中に入るなり素っ頓狂な声を上げた。
「綺麗じゃん!」
「何だよその驚き方。カノジョか」
 桜原の座布団を探さなければと思ったら、ローテーブルと合わせて用意してある。当のお客は腰を落ち着ける気配がないが。
「男子高校生の部屋に飛び込みで来て片付いてるとかありえる? すごっ」
「散らかってるの嫌いなんだよ」
 おかげで母に侵入されても被害は応接セットの設置だけで済んだ。年頃の男子としては隠したいものもあるのだ。いろいろ。いろいろと。
「本がいっぱいある。新田も読書好きなんだ」
「お前ほどじゃねぇよ。野球部入ってから全然読んでねぇし」
「とか言って、文学全集まである。図書館みたいだね」
 文学少年的には気になるらしい。侑志も観念して本棚の前に移動した。
 一番下の段を占拠している古びた本たち。実のところ、箱から出すのが面倒でほとんど触らない。
「その辺は親父の方針だよ。日本人であるからには、教養として読んでおいた方がいいって」
「新田のご両親がうちの両親と友達って、やっぱり嘘でしょ? 生きている階層が違うと思う」
 答えづらい台詞をさらっとかまして、桜原は『近代文学全集』を手に取った。箱から出しかけ、怪訝な顔で止める。
「なんだよ」
「ここ、なくなってる。ほら」
 示された本は、ごっそり半分ほど頁がなかった。
「気付かなかった。古いなとは思ってたけど、さすがに自然とこうはならないよな」
「誰の何て作品がないの?」
 目次に戻り、収録作品を見て桜原と声を揃える。
「夏目漱石、『こゝろ』……」
 読んだことのない話だ。読書家の桜原なら内容を知っているかもしれない。尋ねようと息を吸った瞬間にドアが鳴った。
「ただいま、侑志。ケーキ持ってきたよ。開けていいかな」
 父の声だ。どうしよう。本の状態に気付いたことを覚られてはまずい気がする。侑志がわたわたしている間に、桜原が素早く本を片付けてくれた。
「新田。もういいよ」
「あ、ああ。待って父さん、今開ける」
 急いでドアを開けると、父が平和そのものの表情でトレーを持っていた。ライトブルーのポロシャツをこざっぱり着て、完全にオフモードだ。
「父さんもお友達に挨拶してもいいかな」
「えー……」
 大丈夫かな、と振り返る。桜原は立ったまま小さく頭を下げた。
「おじゃましてます」
「全然邪魔じゃないよ。こういう表現は日本語の奥ゆかしさだね」
 父は至って朗らかに微笑んで、肩から部屋に押し入ってきた。
「はじめまして、侑志の父です。君、お父さんにそっくりだね。驚いたよ」
「よ、よく言われます」
 そいつそれ言われんの嫌いなんだけど、というのは後で言い含めておくことにする。桜原も不満を控えてくれていることだし。
 父の置いた食器はどれも向きがめちゃくちゃで、全部侑志が調整し直してやらねばならなかった。スプーンを見て何度も瞬きしたから不手際に気付いたかと思いきや、父は予想外のことを口にする。
「朔夜君は右利きなんだね。まぁ、利き手なんてはっきりと遺伝するものじゃないか」
「朔夜は左です……俺は右ですけど」
「あれ、兄弟が? 桜原が昔『息子の名前は朔夜にする』と言っていたから、てっきり君がそうかと」
 どうも流れがおかしい。侑志は困惑している桜原を指差し、会話に割り入った。
「こいつは俺と同じクラスの桜原皓汰。朔夜さんは一個上で、お兄さんじゃなくてお姉さん」
 父の表情がいきなりなくなった。指先がしきりにテーブルを叩いている。母が『パパが読み込み中のとき』と肩をすくめる癖だ。大した事実ではないはずなのに、何がそんなに引っかかったのか。
「お姉さんは」
 再び口を開いた父は、桜原を見てはいなかった。
「お母さんに、似ている?」
「いえ。顔も性格も父似で、髪ぐらいです。母に似てるの」
 桜原は、侑志とその父の顔を窺いながら答えた。父は、ごゆっくり、と定型句を残してゆらりと去っていく。
 ドアが閉まると、桜原は大きく息をついた。
「新田のお父さん、いつもあんな感じなの?」
「変なのはいつもだけど、普段はああいう感じじゃないな。それより井沢の――」
「新田。今は他人より自分の話でしょ。昨日の話、やっぱ気のせいじゃなさそうだもん」
 スポンジとの相性が最高だとかいういちごムースが、小さなフォークで削られていく。侑志も右の指先でテーブルを叩き、左手でタルトを崩しにかかる。

『先月、椿(つばき)さんの件で俺んち来てくれたじゃない』
 昨晩、ファミレスで注文が済むなり桜原は言った。
 四人がけの席。古いラブソングのジャズアレンジが流れている。テレビで聞いたとき、パパと付き合い始めた頃に流行ったわと母が言っていた曲だ。
 桜原の指はお冷の結露をしきりにこすっていた。
『うちの母さんに会ったでしょ。新田が帰った後、俺に新田んちのこと根掘り葉掘り訊いてきたんだよね。俺は友達のこと母親と話すの初めてだけど、普通相手の親についてあんな熱心に尋ねるもんなのかな』
『親同士の付き合い気にする人もいるだろ。俺の両親のこと、確証がなかったとかじゃないのか』
『親父も平橋先生も初対面で分かったのにね。俺でさえ、新田のお母さん見て一目で似てるなって思ったよ』
『結局、何が言いたいんだよ。話があるって言ったのはお前だろ』
 侑志が身を乗り出しかけたときサラダが来た。
 シーフードとミモザ。置かれた皿が注文と逆だったが、侑志も桜原も頭を下げただけで店員を行かせた。
『何か妙なこと言われたりされたりしなかった?』
『俺の手、すげぇ握ってきたな。それでこっち見つめながら、新田くん、新田くんなのねって何度も……あ?』
 侑志は空になった自分の手をじっと見下ろす。
 あのとき右手を取ったのは。熱を込めて新田くんと呼んだのは。
『俺じゃない……?』

「やっぱり新田のお父さんが避けてたのって、親父じゃなくて母さんじゃないのかな。うちの母親って冷めてるっていうか、他人どころか家族にもあんまり関心がない感じで、ああいう熱っぽいのって初めて見たんだ。本当は新田のお父さんのことが好きだったとかさ、あるのかも」
「俺も、実は母さん昔は監督を好きだったんじゃないかって思った。だとしたら」
 侑志はファミレスでの動作を繰り返す。ムースとタルトの皿を入れ替える。昨晩のサラダと同じように。
「もしかして俺たちって、母親の好きな人と父親が、逆なんじゃ」
 無音の時間が流れた。
 気にしたことのない紅茶の香りを、目に見えそうなほど強く感じた。
 握り締めたままのフォーク。たっぷり三十秒の沈黙。
「なんてな!」
「だ、だよね! 新田って結構妄想たくましいから信じそうになるよ」
「桜原こそすげぇそれっぽく言うじゃん! ビビるわ」
 ささっとケーキの位置を元に戻した。もし本当だったらなんて、言い出す勇気があるわけもない。
「ウタイカズヒラ、な。今パソコン出すわ」
 侑志は立ち上がり、机と本棚の間のカラーボックスから、真っ赤なノートパソコンを持ってきた。
「すごい色だね」
「親父のお下がり。アメコミの誰とかっていうヒーローの色だって、原作本片手に力説してたけど忘れた」
「そんな気合入ったマシン息子にあげちゃったの?」
「OS変えないと仕事で不便なんだと」
 今、父はどぎつい水色のを使っている。また別のヒーローらしい。
「とりあえず漢字わかんねぇし、ひらがなで検索してみっか。……なんか伝統芸能みたいなのばっか引っかかるな」
「待って」
 検索結果をスクロールする侑志の手を、桜原が止める。マウスカーソルはゆっくりと、あるリンクに向かう。
 表示されたのは怪しげなブログだった。黒地に『報道の明日を憂う』と黄色く書かれたバナーが横たわっている。ヒットしたのは去年の秋の記事だった。
《今年もプロ野球ドラフト会議の時季がやってきた。筆者が思い出すのは謡和平(うたい・かずひら)のことだ。》
 これだ。井沢が言っていた名前。
 侑志たちは声を殺して、迂遠で冗長な文字列から要点を拾い上げようとした。
《一九八六年。甲子園で最も声援を浴びた選手がいた。》
《希望の球団に指名された彼の笑顔は人生の頂点の輝きだった。》
《そこから彼の転落は始まった。》
《年下の恋人の妊娠が発覚。》
《入団を辞退し、高校も卒業を待たず中退。》
《その後の消息はみな噂の域を出ない。》
《あれから十五年。その子も無事育っていれば、もうじき高校生になるはずだ。》
「俺たちの生まれ年に妊娠、ってことは、その子供って一個下か?」
「そのとき何ヶ月だったかにもよるんじゃないの」
 桜原はモニターから顔を背け、立てた両膝に顎を載せた。
「ちなみに井沢は八十七年生まれだよ。新田と一緒に初めて声かけたとき、一月って言ってた。俺も早生まれだから、近いなって思ったの覚えてる」
「ちょっと待てよ」
 侑志はあぐらをかいて頭をかきむしった。
 混乱してきた。もしその謡和平がそうだったとして、井沢と名字が違うのはつまり――。
「新田、ケータイ鳴ってる」
「何だよこんなときに!」
 ただでも思考が追いついていないというのに。
 テーブルに放置した携帯電話、ディスプレイには未登録の番号が表示されている。
「またこの番号かよ、しつけぇなぁ。今朝から何度もかかってくんだよ」
「出てあげれば? そんなに何度もかけてくるなら大事な用件かもしれないし。間違いなら間違いって教えてあげれば、もうかかってこないよ」
 確かにいつまで鳴り続けるのか分からないよりは、いっそ出てしまった方がいいか。危なそうな電話だったら切ってしまおう。
 侑志は二つ折りの携帯電話を開いて耳に当てた。
「もしもし?」
『なんで電話でねーんだよ新田侑志だろおまえ!』
「どちらさまですか!」
 音量が大きすぎて、ついこっちまで大声を出してしまった。
『三住椎弥だよ、覚えんてんだろ去年の! 全中!』
「三住椎弥? えっ、は? あの三住椎弥? マジで? なんで?」
 事情が飲み込めない侑志の横で、桜原がテキストエディタを立ち上げて文字を打ち込んでいる。
《だれ?》
 こいつは本当にどうして球児をやっていられるのか。
 侑志は空いた手でキーボードを叩く真似をした。桜原がひらがなで『みすみしいや』と検索して、すぐに本人の画像が表示される。きりっとした、黒目がちで猫のような顔立ち。
「えっと、あれだ、準決勝進出おめでとう。昨日投げたんだろ? テレビで観たよ」
 名門・馬淵学院で背番号をもらった期待の一年。昨日の試合ではクローザーを務めたとかで、東京ローカル局で放映されていた。これだけの逸材ならば、去年ボロ負けしたのも仕方ないと自分を納得させられる。我ながらさもしい根性だとは思うが。
『あんな調整で何球か投げさせられただけの試合で騒がないでくんない? ガッカリ。試合のときとイメージ違うわ』
 三住はあからさまに不機嫌な声で言った。直接言葉を交わすのは初めてだが、こっちこそ感じが悪くてガッカリだ。
『部活中? てっぺー近くにいる?』
「井沢? いや今もう家だし。繋がらねぇの?」
『おれが電話しても出ねーもん。ここ半年ぐらい』
 それだと中学の卒業式より前の計算になる。訊きたいことがありすぎて何から切り出していいか分からない。
 幸いというべきか三住にためらいはなく、矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
『まいーや、てっぺーが今また野球してるってマジなん? ていうか高葉ヶ丘なん? そもそも高葉ヶ丘ってどこ?』
「知っててかけてきたんじゃねぇのかよ。つーかどっから情報仕入れたんだよ」
『てっぺーの妹。昨日電話来たから学校聞いた。したらタカチカが新田が高葉ヶ丘だっつーし、おれも新田ならぼんやり覚えてるからまぁいいやって』
 ごく最近似たような話を聞いた気がする。知らないところで情報が勝手に流出しすぎていて、もう誰にどこまで口止めすればいいやら。さしあたり中学のチームメイトには言っておいた方がよさそうだ。
「悪いけど、井沢がお前のこと避けてんなら情報渡さねぇぞ。高近にもそう言っとけ」
『けっちくせ。なぁてっぺーがまたやってんの野球だけ? ピアノはやってねーの』
「は? 井沢が? 弾けんの?」
『もういーや、リアクションでわかったから。てーかあいつ、なんで野球してんの? クソ親父死んだのに続ける必要なくない?』
「ちょっと待て。それさっきから、井沢徹平の話で間違いないん、だよな」
 情報の量が多いうえに速い。侑志は消化しきれずに胃をさすった。
『やっぱあいつ何も話してないんじゃん。口では仲間とかチームとかいうくせに、結局誰のことも信用してないもんな。お前もあいつの友達じゃなかったんだな』
 桜原が控えめに腕を引いてくる。相当ひどい顔をしているのだと思う。
 モニターの中の三住は清く凛々しい『高校球児』の表情なのに、耳に届く声は妖しい笑みを含んでいる。
『いーよ、おれもそう思ってて裏切られたから教えてやる。あいつの親父、ひっでーアル中でさ。酔って(まい)おばさんとてっぺーのこと殴るんだよ。てっぺーが野球やってる間だけ酒も減って優しいわけ。でも上手くならないと、勝たないとまた機嫌悪くなるし。成績もよくないと今度じいさまが説教長いし。そのうち妹も生まれて、時間足んなくて好きで習ってたピアノの方やめちゃって。野球大好きです! 勉強しながらでも楽しいです! って顔してずっと夢中なフリ。バカみてー。親父は一人で事故ってくたばったってのにさ。葬式の後、自分のグラブ見て吐いたやつがどうやって野球続けんだっつーの』
「その親父って、もしかして、謠……」
『なんだ知ってんの。謡和平だよ、死んだときは井沢和平になってた。目立つ名字だから井沢のじいさまも舞おばさんを嫁にやりたくなくて婿にしたんだって』
 桜原の指がもたつきながらキーボードの上を跳ねる。
《嫌な話されてる? 切っちゃダメなの?》
 侑志は首を横に振る。
 ありがとう。切りたい。俺も切りたいけど、もうちょっと聞き出さないとダメだ。こいつは俺から必要な情報を引き出したら、きっと二度と連絡がつかなくなる。
 勉強机まで歩いていって息を整える。ひりつく喉に唾を流し込んで、侑志はしっかりと声を発した。
「お前は、どうしてそこまで詳しい事情を知ってるんだ?」
『当たり前じゃん。おれとめーかは、三歳のときからあいつと一緒にいたんだぜ。家族ぐるみってやつ。ま、それも去年までだったけど』
 それまでの嘲るような浮つきが消え、鋭く重い調子で三住は続ける。
『お前もういいよ、どうせおばさんの夜逃げ先も知ってそうにないし。次の試合の日と球場だけ聞いたら切る』
「ふざけんじゃねぇよ! さっきから何様のつもりだてめぇ!」
 思わず机に右手を叩きつけていた。予習の途中で棚に立てかけていた教科書が倒れる。廊下からばたばたと音がする。
 三住は子供みたいにけたけた笑っていた。
『こっえーの。ま、「求めよ、さらば与えられん」か。アドバイスやるよ』
 母が心配そうに顔を覗かせる。代わりに桜原が対応してくれていた。侑志も電話を見せ、なんでもないと口の動きで伝える。
『新田って体格と中の下ぐらいのセンスで野球っぽいことできてただけの凡人じゃん? みんなが追いついてきた高校じゃそんなの通用しないよ。まー、仲いいつもりのチームメイトと、なんにも知らずに楽しくボール遊びするなら充分かなぁ』
「お前こそどっかの怪物スラッガーにボコボコにされろ、その凡人にキレてたクソピッチャー」
 侑志は通話を切って、母と桜原の顔を交互に見た。
「間違い電話だった。ケーキ食っていい?」
 ちなみに着信拒否にした。

 一時間ぐらいで、桜原は侑志の住む七〇三号室を出ていった。情報共有をしながらのケーキはきっと美味しくなかっただろうに、リビングにいた母にわざわざ挨拶をしてから辞した。
「丁寧な子ね、桜原君は」
 母はガラステーブル側のソファに座っていた。
 高さのあるダイニングテーブルには料理がいくつも並んでいる。男子高校生が一人増えても充分な量だ。
「皓汰でいいんじゃないの。ややこしいから」
 侑志は冷蔵庫を開けて白い箱を取り出す。桜原が店の名前を教えてほしいと言っていたのだが、よく分からない横文字で覚えきれないのだ。ロゴの写真を撮ってメールに添付した。
「侑ちゃん、そっちにいるならタルト持ってきてくれる?」
「んー」
 箱の中を見ると、レアチーズタルトとザッハトルテがそっくり残っていた。侑志は顔を上げて、カウンター越しにリビングを見回す。
「父さんは?」
「頭が痛いんですって。働きづめの人が急にお休み取るとたまになるのよ。お腹空いたなら先にご飯食べる?」
 母が立ち上がろうとするので、いい、と答えて適当な皿にタルトを載せた。小さなフォークと一緒に低いガラステーブルまで持っていく。
「皓汰君、ちっともお父さんに似てないのね。驚いた」
「父さんは監督そっくりで驚いたって言ってたよ」
 皿を置いたら隣に座るよう促された。座面を叩く母の手つきはいつもより乱暴だ。
総志(そうし)さんってばまた何にも見えてないんだから。桜原君あんなにかわいくなかったわ。お母様に似たのかしら」
「お母様って、柏木さんって人?」
「やだ柏木と続いてたの? じゃあ今のなし。全然似てない。突然変異ね」
 がしがしと両腕をさする母。この件はあまり深入りしない方がよさそうだ。
 侑志は空になっているカップに紅茶を注ぎ直してやる。
「桜原監督って、高校生のときどんなだったの」
「どんなって、おっかない子よ。学ランの前閉めないし、シャツの裾しまわないし、いっつもぶすっとした顔でボールいじってるの。隠れて煙草も吸ってたし、ケンカもしてたみたいだった」
「完全にヤンキーじゃん」
 侑志がげんなり呟くと、そうねと笑って母はもうひとつのカップに紅茶を注ぎ返してくれた。父と一緒に飲むつもりだったのだろう。
「ねえ侑ちゃん。中学のとき、あなた、髪を黒く染めてたでしょう」
「あー……うん」
 曖昧に答えて髪を指先でいじる。髪の色が明るいことで周囲から何か言われるのが嫌になって、衝動的に黒髪にした。伸びて切ってを繰り返し、もう染めた部分は残っていない。
 母はそっとティーカップを持ち、茶の香りを深く吸い込んだ。
「ママもね、やろうとしたことがあったの。高校生のとき。クラスの女の子が、染めてあげるよって薬剤持ってきてね」
「いやそれ、いじめじゃない?」
「そうかも。ママも面倒になってたから、やってくれるなら楽でいいわぐらいの気でいた」
「そういう変なとこで思いきりがいいのは昔からなの?」
 紅茶は案の定ぬるくて、話も大体オチが見えている。どうせ監督がヒロイックに助けてくれるに違いない。
「そこにいきなり桜原君がどかどか歩いてきて」
 ほら来た。
「私の机に片足をどんって乗っけて、『くだらねぇことやってんじゃねぇよ』って」
 出ました。リアクションしづらい。父親との惚気ならともかく。
「で、その後『なんで反撃しないんだお前はバカか』ってママも怒鳴られたのね」
「すごい想像つく」
 侑志もこの春、彼の娘にほぼ同じことをされた。息子にはされたことがないが。
「それで、母さんどうしたの」
 返答次第では父を起こして三人で食卓を囲まなければならないかもしれない。恐る恐る尋ねる侑志に、母は朗らかに即答した。
「桜原君を思いきりひっぱたいてあげた」
「待って俺どっか聞き逃した? 今の流れでなんで監督が?」
「私のお気に入りのノート、きったない上履きで踏んでたのよ。総志さんはクラス違ったんだけどね、『僕ならノートを汚さずに美映子さんを助けたのに』って悔しがってたの。『次は僕がそばにいて守りますから』って意気込んじゃって。かわいいと思わない?」
「結局ノロケなのかよ」
 予想外に曲がる球だった。まさかそこで枠内に入ってくるとは。
 母は肩をすくめて、父がいるはずの寝室に視線をやった。
「それが桜原君と話すようになったきっかけ。新田君は元々桜原君と一緒にいたし、私のことも気にしてくれてたから、いつの間にか三人で過ごすようになってた」
 母の口調はどこまでもあたたかい。侑志にも遠い日の教室が見えるようだった。
 桜原皓汰や朔夜と三人で歩く帰り道を、何でもない日々を、侑志もいつかこんな風に振り返るのだろうか。
 侑志は両脚をソファに引き上げて体育座りした。
「母さんはタカコー、楽しかった?」
「ええ、とても。だからこそあなたには押し付けたくなかった。私たちの思い出がどんなに素敵だったとしても、全て過去のことだから。侑志の今と未来を妨げてはいけないでしょう」
 母の手が伸びてきて、侑志の髪をそっと撫でた。
 母と同じ色。他人より目立つ焦茶色の髪。
「昨日も本当は、挨拶だけして、差し入れを渡したらすぐ帰るつもりだったの。軽々しく動いて、嫌な思いをさせてごめんね」
 母は、ずっとこの色を通してきてくれた。心ない言葉が侑志に向けば、私譲りよ、見て分からないのと戦ってくれた。
「俺こそ、ごめん」
 昨日も。今までも。甘えてきたことに気付かなかったというのは、一番性質の悪い甘えだ。なのに侑志は、母が切り出してくれなければきっと謝罪さえしないまま、守られた日常に戻っていた。
 ごめん、と繰り返すと、いいのよ、と母は侑志の頭を引き寄せる。侑志も黙って母にもたれかかっていた。
「あなたが元気で、笑顔で毎日を過ごしてくれることが、ママは一番幸せ。そのために我慢できないことなんて、世界中探したってないわ」
 誇張混じりの表現のはずなのに、母の声音は限りなく本当に聞こえた。
 どうして井沢が親の話を最後までしなかったのか、突き刺さるように解ってしまった。話せるわけがない。こんな風に育てられた子供が、彼にかけられる言葉を持っているはずがない。
「『求めよ、さらば与えられん』」
 三住の口にしたフレーズが、知らずこぼれていた。よく聞くけれど何の言葉だったろうか。
「パパ。もう起きたの?」
 母の問いに合わせて振り返る。父が生気のない顔で立っていた。
「『求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。全て求める者は得、尋ねる者は見出し、門を叩く者は開かれるのだ』」
 抑揚のない声で言い、父はガラステーブルの脇で両膝をついた。両手を組んで俯き、何事かを低く呟き続けている。
 侑志に分かったのは途中から英語になっているということだけだった。
「『Beware of false prophets, who come to you in sheep’s clothing, but inwardly are ravening wolves.』」
「総志さん。目を開けて」
 母はソファから立ち上がり、父の肩に手を置いた。
「ご飯にしましょう? 三人でいられる日はなるべく一緒に食べたいって、あなた言ってたじゃない」
 父はゆっくり顔を上げ、泣きそうに微笑んだ。侑志は目を伏せて、手付かずのタルトを冷蔵庫に下げる。
 世間で言う愛妻家がどの程度のものなのかは知らない。だが父は間違いなくそうだと思う。
 父が母に寄せる眼差しは、愛を超えて信仰にすら届きそうだった。