11話 The Eleven - 3/9

誰だって十代だった

 夏の夜の校舎と言えば怪談の代名詞だが、見慣れているせいか特に何とも思わなかった。いつの間にか離れていた手が名残惜しいぐらいのものだ。
 職員室のドアを開けるといたのは平橋一人で、一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに苦笑した。
「そのうち来るだろうとは思ってたけど、早かったな」
「映ちゃん、私がせっかちなの知ってるだろ。父さんの娘なんだからさ」
 朔夜は口唇を尖らせ、からかう口調で腰に手を当てた。
 父が『平橋』と呼んでいるのを娘が『映ちゃん』と呼ぶのも不思議だが、周りの生徒がそう呼んでいるから朔夜も伝染ったのかもしれない。
「まぁあれだ、座んなさい。今お茶を持ってきてあげよう」
 平橋は自分の机から離れ、衝立の向こうのスペースを指で示した。侑志は朔夜の後についていく。年季の入ったローテーブルとソファが二台置いてある。朔夜と並んで座ると、三者面談みたいで妙な気分だった。
「まずは、悪かったね。君たちにとっては初耳だったんだな」
 平橋はテーブルに麦茶のコップを三つ置き、向かいの席についた。
「まぁ俺としてもこれ以上センパイ方に怒られるのもつらいもんで。どこまで知ってるのか聞かせてもらえるかな」
「私は父さんと映ちゃんが野球部で一緒だったことと、そんとき父さんと母さんは同期だったってとこまで」
「俺は……何も。両親が同じ高校だってことだけは聞いてましたけど、どこって聞くといつも濁されてて」
 朔夜と侑志はそれぞれ答えた。平橋は机の天板を指で軽く叩いて、侑志たちに視線を向けた。
「順番に話そう。俺が入学したとき、桜原センパイたちは野球同好会で活動してた。今の制度でいう研究部だ。学校からの支援は見込めないが活動は許可されている、という状態だな。代表が桜原センパイ、副代表と会計が新田センパイ、美映子さんはマネージャー……というより世話係みたいな感じだった」
「気になってたんだけど、何で新田のお母さんだけ『美映子さん』?」
 朔夜が上履きを脱ぎ、椅子の上であぐらをかく。平橋は眉をひそめている。
「なんでだろなぁ。自然とそうなったんだろうな。俺たちが入ったとき、他の人も藤谷センパイを下の名前で呼んでたから。新田センパイもずっとそうだったし。頑なに名字で呼んでたの、桜原センパイだけだったんじゃないか?」
 今、平橋が生徒たちに『映ちゃん』と呼ばれているのと一緒か。そう考えればさほど不自然でもない。
「それで、何で監督とうちの両親は俺たちにそのこと隠してたんですか」
「俺は当人じゃないからなぁ。憶測でしゃべっちゃまずいだろうけど」
 平橋の手が麦茶に伸びる。ゆっくりと喉を潤した後、両親の後輩だという男はやっと口を開いた。
「ともかく、三人とも仲がよかったよ。桜原センパイと新田センパイは三年間バッテリーを組んでたし。新田センパイは、美映子さんが好きだって公言してたし。桜原センパイはあれだ、ガキ大将みたいな人だったから、やんちゃしては美映子さんによく怒られてたよ」
 平橋はぼかしてくれたが分かる。きっと三人の関係は複雑だった。
 幼いとき侑志は、ママはなんでパパとケッコンしたの、と純粋に尋ねた。母は、好きだからよと笑って答えた。後で父がこっそり、ママはパパがあきらめなかったからコンマケしたんだよ、と耳打ちしてきた。『コンマケ』が分からなくて幼稚園の先生に訊いたのを覚えている。
 平橋は侑志より朔夜の様子を窺った後、両手の指を組んだり解いたりした。
「まぁ桜原センパイが柏木(かしわぎ)さんと付き合い出したときは意外だったけど、君たちを見る限りそれでよかったんじゃないかな、うん」
「柏木さんっていうのは?」
 一人だけ『センパイ』がついていないということは、生徒ではないのだろうか。侑志の質問に不機嫌な声で答えたのは、隣にいる朔夜だった。
「うちの母親の旧姓」
「柏木さんは写真部の先輩で、野球部にもときどき顔を出してたんだ。そもそも、同好会を立ち上げるための人数が集まったのも、柏木さんが桜原センパイの投げてる写真を展示会に出して、いい評判が立ったからだって聞いてる」
 平橋の目は泳いでいる。朔夜があぐらをやめ、前から思ってたんだけどさぁと不穏な前置きで背もたれにふんぞり返る。
「映ちゃん、母さんのこと嫌いでしょ? 父さんとの思い出話はすぐするくせに、母さんのことは露骨に話題にしないじゃん」
「まさかまさか、あんまり関わってないからよく知らないだけだって。とにかくあー、柏木さんは写真部でも賞とかも獲ってたみたいだし今やプロのカメラマンだろ。野球部にとっては大恩人だけど先生にとっては遠い人っていうか、ね」
 墓穴を掘り進める平橋は放っておくとして、侑志は一度だけ会った桜原姉弟の母を思い出してみる。少し妙な様子ではあったが、概ね常識的な対応をされたはずだ。
「深刻に考えるこたないよ。桜原センパイも美映子さんも久しぶりで距離をつかみ損ねてるとかそういうことでさ、君たちは深読みのしすぎなんだって。こうしてどの家庭も円満でみんな幸せ、それでいいんだよ」
「新田のお母さんも、母さんのこと嫌いだったの?」
 平橋が丸くおさめようとしているのに朔夜は容赦がない。勘弁してくれよ、という顔をされていたし実際言われていた。
「ちょっと煙たがってるフシはあったけど。小学生の頃からの付き合いって言ってたし、ただお互い新しい場所で新しいことをやっていきたい気分だったんだろ。君らにも覚えはあるんじゃないか、現役高校生」
「そういうもんかな。私はあの人嫌いだから、新田のお母さんもそうなら気が合うかもと思ったのに」
 朔夜は上履きを引っかけて立ち上がる。平橋は眼鏡の縁を指先で何度か叩いたきり何も言わなかった。
「私が映ちゃんに聞きたいことはこれで全部。新田は? まだなんか質問ある?」
「いえ」
 侑志も知りたいことは山ほどあるはずなのだが、今は何も出てこない。ひとまず頭を整理する時間がほしい。
 朔夜は手を振りながら歩き出した。
「じゃーね。ちゃんとご飯食べなよ、センセー」
「どうも。二人とも気をつけて帰れよ」
 平橋の口調はすっかり教師らしくなっている。侑志は朔夜の忘れたペットボトルをつかみ、平橋に一礼してから職員室を出た。
 外はもう暗い。廊下の窓は閉まっており、湿った空気が塊になって宙に留まっている。息をするだけで喉の奥が重い。
「朔夜さん。これ」
 侑志は先を行く朔夜に呼びかけ、あらためてペットボトルを差し出した。普段なら彼女は自分のボトルを持参している。わざわざ外で買ったのは急場しのぎだったはずだ。
 朔夜は曖昧に笑って左手を出した。侑志と同じ利き手。同じ不便を知る人。
 その手がボトルを握っても、侑志は手を離せなかった。バトンの引き継ぎ中に時が止まったリレーみたいに、触れないままじっと繋がっていた。充分に残った飲料が、上がっていく体温を朔夜まで伝えてしまいそうだ。
「新田」
 離せよと言われると思った。朔夜が言ったのは全く別のことだった。
「左手、触ってもいいか」
 ほとんど反射で頷いて手を開いた。朔夜はボトルを腰のホルダーにしまうと、右手で侑志の左手の甲を受け止め、指先からそっとかたちをなぞり始める。
「私さ、好きなんだ。みんなと過ごすの」
 切ない声。胸が締め付けられるなんてぬるいものではない。締められすぎて千切れてしまいそうだ。手のひらのかたさを確かめていく微かな熱が苦しい。
八名川(やながわ)とだべったり、レイジに世話焼かれたり、三石(みついし)とバカ話したり、岡本と昨日の野球中継の話したり……坂野(さかの)だって妙な癖さえなければ結構いいヤツだしさ。こうやって、頑張ってんなぁって後輩と向き合ってたりすんの、楽しくて。クラスの連中がどんな勘繰りしてきても別に気にしないけど」
 現在を、遠い記憶のような調子で語って、朔夜は一歩下がった。自然、侑志との接触も終わる。
 朔夜は笑った。前髪をいじりながら、見るからに一生懸命笑っていた。
「身内に誤解されんのって、きっとしんどいな」
 侑志は落ちた左手を持ち上げられずに朔夜を見つめていた。心臓が激しく跳ねて、痛くて、このまま死んでしまいたいとまで思った。
 誤解でないからつらいのだ。勘違いなら、母だって笑い飛ばして終わりにしていただろう。黙っている必要も泣く必要もなかった。痛むから、隠しきれないから、なかったことにしようとした。
 解るのだ。
「俺も、朔夜さんのこと好きです」
 侑志も精一杯に笑った。両手を力任せに握りしめた。でないと抱きしめてしまいそうだった。誤解でないと、自覚してしまった。
 新田侑志は、桜原朔夜に恋をしている。
 本当はきっと、出逢った瞬間から。
「先輩として、すげぇ尊敬してます。憧れの打者だし、投手なんで」
 だから、下手くそな嘘だってつこう。いや、これだって本当の気持ちだ。
 そんな風にあなたが安心した顔をしてくれるのなら。
「ありがと。新田」
 ――母さんたちと同じように、何でもなかったことにしていこう。
 そう上手くはいかないことも母たちを見ていれば予想できたけれど、侑志は他にいい方法を知らなかった。
 ビルの谷間の木々すら少ないこの高校で、めずらしく夜まで蝉の声が聞こえていた。

 校舎の外に出ると、裏門に見覚えのある車が停まっていた。監督のボックスカーだ。空調のためかエンジンはかけっぱなしだった。
 スライドドアが開いて桜原が降りてくる。Tシャツにハーフパンツに眼鏡、前に家を訪ねたときと同じような格好だった。右手に剥き出しの細い紙を持っている。
「あの、親父が三人で晩飯食ってこいって……新田の親御さんには連絡しとくって言ってた」
「は? ちょっとよくわかんねんだけど」
「俺もわかんないけど、これ握らされて車追い出されたんだもん」
 桜原が困惑顔で見せたのは一万円札だ。監督はハンドルにもたれかかって煙草を吸っていて、窓を開けようともしない。
 朔夜は万券を弟の手から抜き取ると、勝手に侑志のスラックスのポケットに突っ込んだ。
「ちょっ、朔夜さん!」
 金額もさることながら、夏服は収納が少なくてどこもかしこも肌に近いのでやめてほしい。
 朔夜は侑志を無視し、あごをしゃくって父親を示した。
「私は父さんと食べるよ。もう作っちゃったし。皓汰は新田のこと頼むわ」
「うん。俺の分とっといて、朝食べる」
 桜原もあっさりと姉を行かせた。侑志の意見は特に求められることはなかった。
「おやすみ」
 と手を振ってくれたのは、また家で会う弟に向けたものではないと分かっているけれど。
 細い路地に消えていく車を、桜原と二人で見送る。
「あのさ、新田」
 桜原は視線を落とし、ハーフパンツの腰紐をいじっていた。
「実際、新田が家に居づらいんじゃないかって言い出したのは親父で、朔夜と合流するかもしれないし、そしたら訪ねる相手は平橋先生しかいないだろうって考えたのも親父なんだけど。俺がついてきたのはそれとは別っていうか」
「お前も気ィ遣ってくれたんだろ。悪いな」
「そうなんだけど、そうじゃなくて。新田に話があって。割と真面目なやつ」
 桜原は切実な表情で侑志を見上げ、すぐに目を伏せた。車中で移ったのか髪からは煙草の匂いがした。
 さっきの監督の横顔を思い出す。めずらしく野球帽を被っておらず、暗がりでは見間違えそうなほど息子とそっくりだった。順序から言えば逆で、恐らく桜原皓汰が桜原太陽(たいよう)の高校生の頃に似すぎている。
「とりあえず、これ返しとくから」
 侑志はポケットにねじこまれた福沢諭吉を引っ張り出し、桜原に渡した。
 監督の厚意に甘えて一緒に夕食を取ることにしたが、高校生の身空、二人で一万円使いきるような店には入れない。片方が制服で、もう一方が部屋着なのだからなおさらだ。
 考えるのも面倒なのでいつものファミレスに向かった。道々の話題は些細すぎて、話し終えるそばから消えてしまった。