7話 Sweet Citrus - 6/7

甘い柑橘

「それでね、彩人が、彩人が」
「うん、うん。ちゃんと聞くからちょっと落ち着け」
 侑志は眉間を押さえて調理場へ回る。ダイニングテーブルで辻本がしゃくり上げている。
 五時前、勉強の息抜きに外へ出たら、公園で辻本が座り込んでいるのを発見した。近づくと火がついたように泣き出したので、動転した侑志は彼女を家まで連れてきてしまった。放置して帰るには深く関わりすぎたのだ。
 ため息をついてケトルを火にかける。
「辻本、オレンジ好き?」
「んん、嫌いじゃないけど」
「そう。ならいいや」
 侑志はティーバッグの紙パッケージを開けた。缶入りの茶葉もあるにはあるのだが、淹れ方が分からない。
「マドレーヌごちそうさん。桜原も喜んでたぜ」
「あのこ、大原くんっていうの?」
「お『う』はら、な。桜の原って書くんだ」
 新田家の台所はいわゆる対面式で、食卓が見える。侑志は辻本の肩の震えが少しずつ小さくなるのを確認しながら、お湯が沸くのを待つ。
「永田は、どうしてるの」
 大分落ち着いた声で辻本が言った。ケトルが鳴る。侑志は火を止める。
「どうって?」
「あいつ、中学のとき、肩? 鉛筆も握れないぐらいひどいことになってて、休み時間とかも死んだ魚みたいな目してて。中村とか、もう野球できないみたいなこと言ってたし。今、何やってるんだろうと思って」
 辻本の口調は冷たかったが皮肉さはなかった。
 侑志はカップに入れたティーバッグにお湯をかけていく。適当なところで引き上げて、自分のカップのお湯にも色をつけていく。二番煎じは味が落ちるというが、侑志の舌には区別がつかない。
「ちゃんと野球やってるよ。無理はできないけど、でも、エースだ」
「そう。そこまで戻せたんだ」
 辻本は疲れたように前髪をかき上げた。侑志はテーブルへ向かう。目の前にカップを置くと、辻本は一瞬だけ顔を上げて、ありがとうと言った。
 侑志は正面に腰を下ろし紅茶をすする。辻本は白いカップに両手で触れる。
「彩人もね、その時期すごい荒れてて。何もかもヤケになってる感じだった。そうじゃなかったら、あたしと付き合ったりしなかったと思う。あたしそれ、知ってて告ったんだよ。ずるいでしょ?」
 侑志はカップから顔を離し、辻本の手元を見た。持ち手に添えられた指は白い。飾り気のない爪までも色を失っている。
「あたしのこと全然好きなんかじゃないの、分かってたの。ひどいこととか汚いこととかいっぱい言われたけど、彩人の痛いのとか悲しいの受け止められるならそれでよかった。だから彩人が優しくなったら、終わりだと思ってた」
 ティースプーンがかたかた鳴った。俯いた辻本の髪は紅茶に浸かってしまいそうだった。
「だけど違う。彩人は最初からずっと優しかった。殴ったのなんて本当にこの間だけだよ? あたしの涙、口唇で拭いてくれたのだってちゃんと覚えてる。彩人は優しいのに、他人のこと傷つけて傷つかずにいられるはずないのに、あたし、ずっと彩人のこと追い詰めてた。好きだからとか、助けてあげたいとか、そんなの全部自己満だった。なのにあたし、ごめんなさいって言えなかった」
 辻本はずっとカップを握りしめている。またあふれ出した涙が紅茶の表面に波紋をつくった。
 すすり泣きと秒針の音が空気に広がる。
「辻本」
 侑志は頬杖をつき、右手で辻本のカップを指差す。
「それ、握るもんじゃないから。飲むもんだから」
 甘い紅茶が湯気を立てている。通常よりも明るい色は、辻本の髪色に近い。
 辻本は戸惑いの表情で口をつけたが、眉間のしわは徐々にとけていった。
「おいしい」
「だろ?」
 侑志は大袈裟に肩をすくめる。辻本がようやく笑った。茶葉が湯の中でゆっくりと開いていくような微笑だ。
「オレンジのフレーバーティー?」
「いや、ママレード溶かしてんの。うちの母親がよくやるんだ。落ち込んだときとかにさ」
「そうなんだ」
 辻本が紅茶を口に含むのを見ながら、侑志もストレートティーを飲んだ。落ち込んでいない方はこれでいい。
「富島が傷ついたんなら、辻本にはそんだけの価値があったってことだよ」
「そうなのかな」
「そうだよ。他の女だったらあいつ、きっとあそこまで動揺しないぜ」
「そうかな」
 辻本は沈んだ声でティースプーンを手にし、オレンジの皮をすくった。
「さっき彩人がね。あたしでよかった、って言ってくれて。それ、本当かな。信じてもいいのかな」
「いいんだよ」
 侑志は笑って断言する。
「あいつは強情で口も悪いけど、嘘はつかないだろ。言ったことなら信じていいんだよ」
 辻本はスプーンを置いた。また泣き出すだろうと思ったが、一度鼻をすすっただけで立ち上がる。
「洗面所貸してもらえる? メイク直したいの」
 突然の高飛車な口調。彼女流の照れ隠しなのだといい加減気付いて、侑志はつい噴き出してしまった。
「何で笑うのよ!」
「悪い悪い。使ってもいいけどさ、飲んでからにすれば?」
 半笑いのまま椅子を勧める。辻本は口唇を尖らせて再び腰を下ろす。
「っていうかあんた、テスト中なんじゃないの」
 痛いところを突かれた。胸を押さえる侑志を見て、辻本は余裕ありげな顔で髪をかき上げる。
「いいわよ、勝手に飲んで帰るから。勉強してたら?」
「あーそうですか、じゃあお言葉に甘えて」
 侑志はふてくされて、食卓に放り出してあった教科書を広げた。どうせ集中できないことなど分かりきっているのだ。辻本も言ったそばから話しかけてくる。
「ねぇあんた、あだ名とかあんの?」
「特には。普通に名字か下の名前だな」
「じゃあ侑志でいいね。あたしのことも柚葉でいいから」
 やっぱり一方的な女だ。侑志が呆れていると、辻本は残りのお茶を飲み干して腰を上げた。
「洗面所借りるわね」
「いいけど」
 別にいいけど、と繰り返して侑志は教科書をめくった。
 駅まで送ろうとしたが、大通りへ出たところで、ここでいいと断られた。この前のように迷ったら連絡しろと言って家に戻る。玄関に母の靴が置いてあった。
「今日は早いね。どしたの」
 スニーカーを脱ぎながら奥に声を掛けると、上機嫌な声が返ってくる。
「だって、侑ちゃんのいるときぐらい家にいてあげたいじゃない?」
「侑ちゃんって言うなよ、もー」
 自分の靴を母のヒールの脇に寄せる。風を通してから靴箱に入れるようにと教育されているのだ。
「ところで侑志」
 振り返ると母が真後ろに立っていた。身長は百六〇そこそこしかないが、しゃがんでいる侑志から見るとそびえ立つように大きい。
「これ、なぁに」
「あ?」
 侑志にも分からない。母が突き出してきた物体を受け取り、認知した瞬間に凍りついた。辻本が忘れていったリップクリームだ。
 母が笑顔で問いかけてくる。
「なぁに?」
「……俺の」
 苦しいとは思いつつ、侑志はそう答えていた。
「あら、口唇荒れてるの?」
「そう、痛くて」
「シトラスミント?」
「うん、あの、よく分かんなくて適当に買っちゃった、みたいな?」
 柄にもなく語尾を上げ、そそくさと母の横をすり抜ける。
「俺、着替えてくるわ。飯まで勉強するから」
「あ、侑志。そういえば」
 空恐ろしいほど笑ったままの母は、さらに驚くべきものを手にしていた。
「これ、洗面台に落ちてたんだけど」
 侑志は自室のドアノブをつかんで硬直した。母が人差し指と親指でつまんでいるのは、緩やかに波打つ長い髪の毛。さすがに『俺の』は通用しない。
 返事に窮する侑志の目にウェーブヘアが映る。これだ。もうこれでいくしかない。侑志は顔を引きつらせ、最後の言い訳をした。
「母さんのじゃない?」

 今日も朝の並木道はのどかである。
 侑志は左手で口を押さえ大あくびをする。遅れを取り戻そうと、昨日は夜中まで勉強した。おかげでテスト二日目だというのに眠気がすごい。
 侑志がまた大口を開けかけたとき、誰かが右側にぴたりと貼りついた。驚いて悲鳴を上げたら桜原だった。左を見たら朔夜が引っ付いていて、侑志はいよいよ度を失って絶叫した。
「新田、声でかい」
「バケモノに会ったみたいな反応すんなっつーの」
 両側でくすくす笑っている桜原姉弟はまるで双子だ。離れてほしいが朔夜の身体に触るわけにはいかず、かといって平気な弟の方だけ遠ざけるわけにもいかず、侑志は黙って俯いてしまう。
 特に朔夜が白いセーラー服なのには参った。薄手の生地に焼けた肌が透けて見えそうだ。これがじきに半袖になるのかと思うと、それだけで顔が熱くなる。
「あ、そういえばさっき富島たちに会ったよ」
 弟が言うので侑志はそちらを向いた。反対側で朔夜が言う。
「後ろに新田が見えたから、待ち伏せしよーぜって言ったんだけど」
「永田の数学がヤバいからっつって先行っちゃった」
「過保護だよな」
「永田も甘えん坊だよね」
 要点をまとめて一方がしゃべってくれないかなと思わないでもない。
「富島、髪切ってたよ。ばっさり。皓汰より短いぐらい」
 私くらいあったのにね、と朔夜は自分の髪をいじった。
 侑志は桜原の顔を見る。桜原は肩をすくめる。
 失恋でばっさりとは、随分と古典的で乙女チックなことをしたものだ。
 事情を知らない朔夜が歌うように言う。
「短い方がいいって言われたんだって。女の子かな。ちょっと照れてた」
 そうですか、とだけ侑志は答えた。何も知らない朔夜が微笑ましく感じるほどならば、それでいい。
「俺はそういうの偽善っていうか、自己満足だと思うなぁ」
 桜原は常にも似合わず両手をポケットに入れていた。
「美化したって過去の事実が変わるわけじゃないじゃん。そんなんで清算した気でいんなら、甘すぎじゃないのって思うけど」
 侑志は立ち止まり桜原の顔をじっと見た。桜原も足を止める。異議があるなら受けて立つと言いたげな目で侑志を見上げている。
 侑志は両手をすっと持ち上げ、桜原の頭を思いきりかき回した。暴れるのを押さえつけ背中を叩いてやる。
「もうちょっと大人になったらお前にも解るよ」
「なにそれ腹立つ!」
 腹を思いきり殴られた。あらかじめ力を入れておいたのでそれほど痛くない。
「っていうか何か匂いしねぇ?」
 侑志が鼻をひくつかせると、桜原はいよいよ怒り出す。
「俺がくさいってこと?」
「いや、むしろ」
「あ!」
 侑志が言いかけたのを遮り、朔夜が叫ぶ。
「オレンジ!」
 言われてみればそんな気もする。しかし、どこから? 侑志が辺りを見回している間に、朔夜は弟の頭を引き寄せる。
「ほらぁ、昨日開けたシャンプー。まだ匂いするよ」
 そのとき朔夜の髪が侑志の鼻先をかすめ、強い香りが目の前で弾けた。あまりに甘くあまりに刺激的で、意識が飛びそうになる。
「あ、新田がくさそう」
「ウソごめん、母さんがもらってきたシャンプー匂いキツいねって言ってたんだけどさ」
「朔夜、今朝も走ってきて朝シャンしたから」
「そんなにくさい? やだもー、だからいつもの買おうって」
 桜原姉弟のさえずりで何とか踏みとどまった。
 侑志は視線をさまよわせる。
「あの、その、俺は別に、そんなに、っていうか」
 ――むしろ割と好き、なんですけど。
 喉の奥に肝心な一言をひっかけている間に、桜原姉弟が顔を見合わせた。
「嫌いじゃないらしいよ」
「じゃあ、いいんじゃない」
「接近戦を挑まなければいいんだよな」
「においに関わらず後輩に接近戦を挑むべきじゃないと思うけどね」
 姉弟は同時に侑志から離れ、走り出した。
 左右対称に振り返り、声を揃える。
「学校行こうよ!」
 ふわりと残る柑橘類の香りと、先を行く夏服の目映い白。
 侑志は頬を赤らめて、懸命に二人の後を追った。