3話 It’s All Right - 5/6

大丈夫なんだ

 白いユニフォームが土の上を行き交う。空は晴れ渡り、予報によると最高気温は二十五度を越すらしい。
 日陰に座っている侑志はワイシャツ一枚。念のため持ってきたカーディガンも、暑くて早々に脱いでしまった。
「おかもー、またお祈りしてんのぉ?」
 八名川が苦笑する横で、岡本はべったりと座り込んでいた。ベンチに突っ伏して頭の後ろで手を組み、やだ、ホントやだ、と呟いている。八名川は侑志たちの視線に気付き、半笑いで片手を左右に振った。
 一回の表、高葉ヶ丘高校は先頭打者・三石が三振。
 その後、相模が単打で出塁し、三番の坂野へ。初球から豪快な空振り。一年見てんのにだっせーなとヤジが飛ぶ。桜原は桜原でも、監督や弟ではなく朔夜だ。
 侑志は嘆息しながらスコアを記入する。打てないんなら三番ゆずれー、と割と本気らしい大声は聞こえないふり。打席に立っている背番号5がだんだん不憫になってくる。
 二球目はボール。三球目を打ってセカンド正面。ランナー動けず。坂野が肩を落として帰ってくる。朔夜はもう彼には興味がないらしく、次の打者に声援を送っている。
 四番の森貞が気合充分で打席に立つ。
「ほら、ネクスト! 打って気分変えてきなって」
 八名川の励ましに、岡本は顔を上げ表情を和らげた。
「打てれば自分も楽になるよね」
「そうそ。おかもはやればできる子」
 三石がメットを手渡す。岡本はバットを持ってネクストバッターズサークルに向かうが、直後に森貞がレフトフライ。
 あ、と呟いて二年生が一斉に見たのは、森貞ではなく岡本だった。ベンチに戻って来ようともせず硬直している。スタメンが顔を見合わせる中、侑志はスコアブックに目を落とし、四番の一打席目に『Ⅲ・(7』と書き込んだ。
 一回の表が終了。放心状態だった岡本も帰ってきて、不服そうにグラブを手にした。
「もうやだ……やだもう投げるのやだ。朔夜完投してよぉ」
「私が全部投げちゃったら、お前の練習になんないだろが」
 朔夜は慣れた様子で言い捨てると、長い髪を器用に帽子の中へ納めた。ファーストミットを素早く着け、芯を叩きながら不敵に笑う。
「心配すんな。打たれなかったら代わってやるよ」
「打たれたら、じゃないのかよぉ」
 岡本は情けない声を上げた。
「はいはいとにかく相手待たせなーい」
 森貞に引きずられて渋々マウンドに登ってからも、岡本はいたたまれない様子で投球練習をしている。
 侑志は鉛筆の尖っていない方で頭をかく。
「大丈夫なのか、あの人……」
「お前よりはな」
 隣に座っている富島が即答した。さっきから侑志のスコアのつけ方にダメ出しばかりしている。控え捕手殿は、朔夜が投球の準備に入るまで仕事がないらしい。
「試合での岡本さんってどんなん? 今日は調子いいの?」
 ランナーコーチから戻った井沢が近くに思いきり尻を落とした。三塁コーチの永田も端にちょんと腰を下ろす。どうしてこちらにばかり座るのだろう。
「見てれば分かるさ」
 富島はつまらなそうに言って永田に水を注いだ。
 プレー再開。岡本の視点はなかなか定まらない。
 初球は外低めのボール。投げる前も後も不安げな顔で、外したのか外れたのか分からなかった。ある意味ポーカーフェイスだ。
「ちゃんと届いてるぞー!」
 森貞の浮かれた調子の声が響く。岡本がかすかに苦笑した。
 二球目。多少力は抜けたようだがまだ硬い。外角のストレートが打ち返されて右に飛ぶ。
 井沢が呟く。
「切れる」
 ライトの八名川が走る。目を切って落下点近くに達するも届かない。勢いあまってフェンスと衝突しそうになる。八名川は腹立たしげに金網を一度叩いて、次は捕ると岡本に向けて叫んだ。
「熱いじゃん」
 井沢がひゅうと口笛を吹いた。侑志も笑って頷く。まだ見かけによらない部分をたくさん隠し持っているのだろう。八名川だけではなくみんなが。
 三球目、レフト前ヒット。走者なしのシングルだ。深刻な問題ではないのに、岡本は満塁ホームランでも打たれたかのように、ぼんやりと打球の方向を見ていた。返球を受けてからもホームに向き直らない。
 森貞が大声を上げる。
「やめて、よそ見なんてしないで。アタシだけを見て!」
 どういう状況設定だ。ベンチから失笑が漏れる。岡本ははっと肩を震わせ、あらためて捕手を向いた。ぎこちないながら笑みが戻っている。
 二番打者は手堅く犠打。朔夜が捕って岡本がベースカバー、ランナー二塁に進み打順は三番へ。ファーストストライクを叩かれて白球が飛ぶ。
「深い」
 井沢が身を乗り出した。
 三石が疾駆する。突き出したグラブの先にボールを引っ掛けたまま頭から滑り込む。帽子がすっ飛ぶ。すぐさま起き上がると、左手を大きく振ってアピールした。落球はしていないようだ。
「すごいね、追いついたよ」
 永田は興奮した様子で両手を握りしめた。すげぇな、と侑志も素直に呟く。三石の脚なら間に合うだろうと思ってはいたが、実際に捕ったとなるとやはり感心する。
 二死二塁。走者は依然得点圏。岡本は打者に投げる前にグラブで口許を隠した。一度ゆっくりとまぶたを下ろし、そして、上げる。その目を見たとき、侑志は監督が何故彼をマウンドに登らせ続けるのかを悟った。
 岡本は震えさえ自らの奥に押し込めて、信じる者をまっすぐ瞳に映していた。
 下ろせるわけがない。こんな顔のできる投手を。
「新田君、どうしたの?」
 永田が顔を覗き込んできた。いや、と首を振り侑志は苦笑する。
「俺、この人に恥ずかしくない投手になりてぇなと思って」
「まぁ今は大層恥ずかしいからな」
 富島が遠慮なく言い放つ。あっちゃん、と永田が富島の膝を叩く。さすが長年連れ添った夫婦――反抗期の息子と母親のようでもあるけれど。
 永田は侑志に向き直って屈託なく笑った。
「新田君なら大丈夫だよ。ね」
「そう。大丈夫!」
 井沢もにやにやしながら言った。どうも、と侑志はまた鉛筆の尻で頭をかいた。
 四番もきっちり打ち取り岡本たちが帰ってくる。井沢と永田が立ち上がる。ベンチがにわかに騒がしくなる。
「次だれ?」
「岡本!」
「よーしタカヒロ、この勢いで打って来い!」
「はいっ」
 岡本がグラブをバットに持ち替え打席に向かう。六番の朔夜はネクストに行く前にベンチを振り向いた。メットの庇に手をやって、にやりと笑う。
「ちっとは安心したかよ?」
「はい」
 侑志が思いきり頷くと、朔夜は満足そうに背を向けた。肩の上でバットを弾ませ大股で歩いていく。
「打てよぉ、岡本。続いてやっから!」
 おお、と叫んで岡本が構えた。一回とはうって変わって雄々しい顔つきだ。
 大丈夫なんだ、と侑志は確信した。
 何も心配いらない。俺はこの人たちを信じて、力いっぱいやればいいんだ。
 振り抜いたバットから快音が響いた。