不言実行修行中

 大徳淳和と交際するにあたって、彼女の父親から提示された『空手の初段習得』という条件を海翔はまず真っ先に蹴った。
 愛がどうこうとかそういう精神論ではないのである。彼女の為なら命でも懸けるとか歯の浮く台詞は、(もし使うことがあるとして)ここぞというときに発するべきものであって、犬死にの言い訳に持ち出すものではない。
 海翔は医師の診断書と共に、自身の病状についてその一切を隠すことなく説明した。淳和とその家族全員に対して。
『これでも、じゃあ死ぬまでやれって言うんなら。俺は、死ぬ気で淳和を連れて駆け落ちでも何でもしますけど』
 どっちがいいですか、オトウサン――そう笑って凄んだ海翔を止めたのは、淳和自身の小さな手であった。
『お父さん。……八汐くん、本当は病気の話、誰にもしたくないはずなの。いつもはぐらかして、やる気がないふりしてて……。ちゃんと、話してくれた、ことが、もう、それだけで……本当に、ホントに、すごい、勇気、だったはずでっ』
 泣きじゃくり始めた淳和を、海翔もいつもの調子で『買いかぶりすぎでしょジュンちゃん』とは茶化せなかった。
 結局、『段位を目指さずとも、基礎体力をつけ心肺機能を強化することは、発作の軽減にも繋がろう』というような彼女の祖父の言もあり、双方が歩み寄り話はまとまった。その後お決まりのセクハラで場を和らげられたのはいろいろ複雑ではあるが。
 つまりこうして海翔は無理のない範囲、道場の雑巾がけ程度の小間使いから、大徳家に入る為の花婿修行を始めているわけで。
「意外と、広いん、だよな、ここ……!!」
 毒づきながら、垂れてきた自身の汗でまた濡れてしまった床板を乱暴に拭いた。
 立って歩いているときの景色にはもう慣れてしまったが、這いつくばって端から端までを磨くときの途方もなさには、未だいい印象を持てない。
 だが最近は、息を乱しながらでも完遂出来るようになってきた。半ばまで辿り着くこともままならず力尽きていた頃に比べると、格段の進歩だ。
 リアルの肉体を鍛えるのも案外悪くないかもしんないね、筋肉ついてポケコンを長時間保持するのも楽になったし、と用を終えた雑巾をバケツに放り投げた。
「あ、あの。おつかれさま、八汐くん」
 見計らったように――事実見計らっていたのかもしれない――淳和がひょこりと顔を覗かせた。手にはフルーツサワーメロンを持っている。この家に常備されているものではないはずだから、わざわざ買ってきてくれたのだろう。
「ジュンちゃんさぁ。俺は君のこと『ジュンちゃん』って呼んでるじゃない」
「え? うん」
 手招きすると、淳和は素直に寄ってくる。そう、人の話は律儀に聞くタイプなのだ。それだというのに。
 海翔はわざとらしく口唇を尖らせてあぐらを組んだ。
「なんで何回言っても、俺のことは『八汐くん』のままなわけ?」
「あっ、ご、ごめんね!? えと……か、海翔くん」
 まだ、ちょっと恥ずかしいねとはにかみながら、淳和は海翔の傍に腰を下ろす。海翔は自分でせがんでおきながら目を逸らす。
 かゆい。背中をかきむしりたい。こんな『ケッコンをゼンテーとしたオツキアイ』なんぞをしているくせに、手を繋いで歩いたこともないこの距離感がもどかしくてむずがゆくてどうしようもない。
 下手な手出しをしたら、大徳家の男共からどんな制裁を食らうかという警戒心があるのも確かだが、要は慎重だとか配慮だとかそれらしい標語を掲げて、ヘタレているだけなのだ。あれだけの大口を叩いておきながら。
「海翔くん?」
 そこで小首を傾げている淳和を、怯えさせたくない、泣かせたくないと思うあまり攻勢に出られないとは。精神面も現状、床に向かっているのがせいぜい似合いなのだろう。海翔は嘆息して汗を拭った。
 リアルはある意味ゲームよりもシビアだ。コマンドも必勝法も明確な判定もない。特に恋愛は、気を遣う項目がキルバラとは違いすぎて、海翔は初心者もいいところ。何せ初戦は不戦敗。実戦とカウントすることすら出来やしない。
「うまくないよな」
 ひとりごちると、えっこのジュース好きじゃなかったっけと淳和が慌てた顔をする。いや好きだよと首を振って、容器を受け取った。
「どうもね。喉カラカラだった」
「うん、疲れるよね。拭いてると意外と広いもん」
 淳和も自分のフルーツサワーメロンを手にしている。海翔の記憶では、彼女は特段これを好んでいたわけではないと思うのだけれど、二人で過ごすようになってから飲むことが多くなった。
 そういう些細なことだ。変わってきているのは。
 淳和は日に焼けた肌に短い髪を落ちかからせながら、小さく呟く。
「なんだか、ごめんね。うちの都合ばっかりで。いつも悪いなぁって、思ってるんだけど……」
「ねぇジュンちゃん」
 海翔はジュースを一口飲み込んでから、改めて彼女を見て口を開いた。
「俺、かなり頑張ってるつもりなんだよね、これでも」
「へ? う、うん。すごく、わかるよ。みんなにも伝わってると思う。だからこそ、八汐くんにばっかり頑張らせちゃって、ホントにごめんなさい……」
「まただよ」
 海翔は片手で頭をかいた。
 まるでたまにテレビで流れてくる大昔の歌謡曲だ。三歩進んで二歩下がる。また『八汐くん』の地点からやり直さなければならない。
「あのさぁ。いつまでもそうやって謝られるの、結構もやもやするんだよ。ごめんとかじゃなくて、もっとないの、他に」
 淳和は黙って俯いてしまった。責めてるように聞こえたかなと、海翔は自分の台詞を頭の中でもう一度再生してみる。うん、やはり『淳和には』きつい口調だったかもしれない。またミスってしまった。
 海翔としては、うんと淳和が頷いて、ありがとうと言ってくれるぐらいのことでよかったのに。まぁ欲張ったところで、帰る前にごちそうになる夕食が好物になればもっといいかな、ぐらいのことで。
 こんな柄にもない努力をただ彼女が認めてくれれば。褒めてくれれば。笑ってくれればそれだけで、きっと瑞榎の言う『健気』というやつにだって海翔はなっていられるのに。
 そう。追い詰めるつもりなんて、微塵もなかっ――。
「か、海翔くん!」
 出し抜けに、淳和が裏返った声を出す。なにと問う間もなく、左肩に負荷がかかって頬にやわらかくてあたたかい何かが触れた。それが淳和の口唇であると認識するのに、未熟なりUMISHO、フレームどころか秒単位のラグがあった。
「は……!?」
「え、え、なに……?」
「なに、って、ジュンちゃんこそ、いきなりなに……あ!?」
 事ここに至って、二人はようやく、互いの意図を理解した。
 淳和は哀れなほど赤くなって、細い両肩を震わせている。
「あ、あの、あたし、いつも言葉だけで、何も出来ないから、そのっ……た、態度で、気持ちを示せ、って、意味かと、思っ……!!」
「や、その、俺も一応男だし、嬉しくないとかじゃないけど。ジュンちゃんには珍しく一足飛びだったから、ちょっとビックリしただけ、みたいな感じかな。あは」
 海翔のおどけたフォローもただ虚しく、この空っぽの道場に響くだけ。自分の無様は誰に指摘されなくとも分かっていた。
 ずっと間合いの外にいたくせに、いきなり至近距離からの正拳突きとはどういうことなのか。実戦空手でもここまでのチートが許されるものか。
 そうくるならば。海翔は意を決して、元々性でなかった待ちの姿勢を崩すことにした。
「ジュンちゃん。あのさ……」
「ご、ごめ、あたし! お夕飯の買い物、行かないと!! きょ、今日、鶏南蛮の予定だから!!」
 淳和は自分のフルーツサワーメロンを一気に飲み干すと、空容器を握り締めて走り去ってしまった。雑巾を触っていたままの手で追いかけることも出来ず、海翔は大の字に寝転がる。磨きたての床は憎たらしいほどひんやりしていた。
「……くっそ、勝てねー」
 キルバラで全一、大徳淳和の中でも全一。それが今の海翔の目標なのだけれど。
 二冠の称号は、まだまだ遠い。