最後のこども

 アラームが鳴り、八汐海翔は布団の上で目を覚ます。ポケコンを確かめれば、今は2020年5月5日。部屋の中を見回す。1ヶ月以上もいれば場所自体には随分慣れたが、居心地は相変わらずよくない。
 年度末にようやく進路を決めた海翔は、『馴染む期間も必要だから』と両親を説得――まぁ説明を求めてきたのは母ぐらいで、父は逆にうんざりするほどあっさりと承諾をしてくれたのだが――高校卒業後に東京に出てきた。現在は天王寺裕吾が契約しているビルの3階に格安で住まわせてもらい、予備校通いをする毎日である。フェイリス・ニャンニャン――本名は知らない――が余っている部屋をただで貸してくれるというありがたい話もあったのだが、いきなり『別の女』の家に押し掛けるのは『心証が悪い』という打算から断った。
 とにかく、朝である。日課の『朝キルバラ』をこなし、海翔はようやく身支度を始めた。
 着替えて髪をセットし、筆記用具等々を鞄に詰めて仮の自室を出る。
「おはよーございます」
 誰と約束を取り交わしたわけでもないが、この建物を上り下りする際には『ラボ』に顔を見せるのが通例になっていた。大抵朝は無人か、泊まり作業だった男性陣が屍寸前で転がっているぐらい。今日は珍しく様子が違う。
「あ、海翔くん。トゥットゥルー♪」
「まゆりさん。今日は仕事休みなんだ?」
 椎名まゆりの姿を認め、海翔は目を丸くした。『普通の』社会人の彼女が、こんな時間にいるのは初めてだ。ちがうよー、とまゆりは手にはめた鯉のぼりのパペットをぱくぱく動かした。
「今日はこどもの日だから、明日のイベントの準備があるのです。でもいつもよりゆっくりでいいから、ここに寄ったんだぁ」
「あ、そっか。当日だと園児たちが休みだから、お祭は明日やるんだ。先生たちも大変だね」
「ううん。みんなが喜んでくれるのが嬉しいから、大変じゃないよ」
 笑顔で即答され、海翔は苦笑して頬をかいた。こういうことを建前でなく言ってのけるあたり、こんな先生に見てもらえる子供たちは幸福だろうなと毎度思う。
「あ、そうだ。海翔くんにもあげるね、端午の節句お菓子セット」
「え、別にいいけど」
「えーと、『こいのぼりセット』と、『かぶとセット』、どっちがいい?」
「どっちでも」
「じゃあ、まゆしぃオススメの『かぶとセット』。カッコいいよ~」
「……どうも」
 勝てない。椎名まゆりに対して海翔は負け続きである。今日も両手を差し出すことになり、『かぶとセット』――色紙で飾られた駄菓子詰め合わせを頂戴してしまった。
「まゆり、そろそろ行かなくていいのか」
「うわ岡部さん、いたの!?」
「え? わ、そうだね。ありがとーオカリン、海翔くんもお勉強がんばってね~」
 まゆりが手を振りながら去っていき、ソファの影に転がっていた岡部倫太郎がのそりと身を起こす。やましいことはなかったが、心臓に悪いのでせめて見えるところで寝ていてほしい。
 岡部はただでさえぼさぼさの頭をかき回し、あぐらをかいて海翔を見上げた。
「予備校か? 受験生」
「いや。連休中の講義は希望者のみでさ、今日は自主休講。ここで橋田さんに見てもらおうかと思ってたんだけど、よく考えたらあの人も所帯持ちだよね。リア充の活動期間にこんなとこ来ないか」
 そうは言いつつ海翔は鞄を下ろす。岡部は大口で憚りなくあくびをした。
「ダルにその手のことを期待するな。天才というのは『自分が解っている』分、他人が『何故解らないのか』理解出来んのだ。あいつの教え方は不親切そのものだぞ」
「それは過去に教えてもらったけど全然出来なかった人の体験談?」
「う、うるさい」
 5月の陽気はうららか。だが同じ時季の島よりは涼しい。
 海翔は勉強道具をテーブルの上に広げ始める。
「じゃあ岡部さんでもいいかな。電大出てるんでしょ?」
「鳳凰院凶真だ。譲歩で指名されるとは何たる屈辱……!」
 と、言いつつ寄ってくるということは、一応見てくれる気はあるのかもしれない。ここの人はみんなお人好しだよなぁと海翔は笑いを噛み殺す。
 東京電機大学は、入学に求められる学力偏差値こそさほどでもないが、工業系としては専門大学だ。学生たちも、半端に名の知れた大学の工学部に通う若者より、余程高い知識や技能を備えていたりする。提携企業も多く、卒業生もほぼ全員が就職――ただしそこの岡部青果店の嫡男は『ほぼ』のところのそういう部類だが。とにかく、海翔は電大生侮るべからずというのをよく心得ている。
 しかし。
「数学や物理ぐらいなら見てやってもいいが。……ロケット工学なら、うちは向いてないぞ」
「知ってるよ」
 岡部の淡々とした声に、海翔も静かに返した。
 宇宙飛行士を諦めた代わりに、支える側に回ろうとした。なんて短絡的な考えだろう。周囲には、その裏の『あわよくばJAXAに』という思惑でさえ透けて見えていたろうに。
「航空やロケットなら、むしろ東京でない方が施設は豊富にある。地方の国公立に絞れ」
「それも知ってる。進路指導室で資料山積みにされたからね。あんま真面目になんないでよ、『狂気のマッドサイエンティスト』さん」
 俺の誤算は、綯さんがこんなに頻繁に向こうとこっちを行き来することになったってだけだからさ――そう呟くと、岡部は黙った。
 彼は工業系の先輩であると同時に、遠距離恋愛の大先輩でもあるのだから。
「……暴走小町は、今日も向こうか」
「そうみたい。勤勉な俺には関係のない話だけど」
「よく言う。悩める煩悩の塊め」
「また意味被ってるよ」
「やかましい」
 ようやくいつもの調子で笑み交わし。海翔は鉛筆を持ち、岡部はソファに腰かけて後ろから海翔の様子を見ている。随分退屈だったろうに、彼は音の出る暇潰しの一切をせずにいてくれた。
 昼過ぎ。そろそろ腹が減ったし飽きたなと思いつつ、動くのも面倒がっていたら、漆原るかがやって来た。
「あの、こんにちは、海翔くん。おか……凶真さんに頼まれて、お昼持ってきましたよ」
 控えめな笑顔で、ビニール袋を軽く持ち上げてみせる。うわぁと海翔は背後の岡部を仰ぎ見た。
「善意の他人を出前に使っちゃう? 鬼だね」
「ち、違う! 人聞きの悪い言い方をするな!」
「そ、そうです! ボクが『遊びに行ってもいいですか』ってR
 るかは珍しく大声を出して反論した。この人も岡部さんをかばうときは必死だなという感想は胸にしまって、海翔は玄関に突っ立ったままのるかに視線を戻す。
「そうなんだ。ありがとうございます、るかさん」
「先に俺に謝ったらどうだ!」
「あがんなよ、俺の家じゃないけど。一緒に食べよう」
「あ、はい。お邪魔します」
「でさ、この後ヒマ? 忙しくなければ英語見てほしいんだよね。そこの人、文系科目だと役に立たなくってさ」
「ええ、ボクに分かる範囲だったら……」
「おーまーえーはー、この恩知らず!」
「ごめん冗談冗談、午前中はすごく助かったってばありがとう『鳳凰院先生』! だから『こんにゃろーの刑』は勘弁!」
 他愛のない騒ぎ方をして、昼食をとって、るかに丁寧で分かりやすい指導をしてもらって、礼にまゆりからもらった菓子をお裾分けして。そろそろ『海の向こう』と時間を合わせられそうな岡部にラボを返して、それだけでも一応は充実した日だったのだろう。
「これが何でもない日なら、ね」
 ごんと、海翔は自分が借りている3階の部屋のドアに額をぶつけた。
 どうやら俺は自覚している以上に女々しいらしい、と笑ってしまう。
 彼女が貸してくれたぬくもりがこんなにあるのに。そんなことより本人にいてほしかったなんて、駄々が許される『高校生』はもう終わってしまった。かといって『大学生』ほどの自由もなく、『社会人』ほどの責任もない。
 会いたい。会いに行きたい。単純な台詞ほど、口には出せなくて。行動に移せなくて。電話さえも出来なくて。
「結局俺は、置いていかれたガキのままだったよ。ミサ姉」
 俯いたまま呟いたら、拗ねたような声が真横で聞こえた。
「あ、そこで他の女の人の名前出しますか。すご~~~く減点です。私もう、帰っちゃおうかな」
「ッ、綯さ」
 突然のことに、海翔はすっ転びそうになる。何度目をこすっても、天王寺綯は確かにそこに立っていた。階段を上がる音すら海翔には聞こえなかったのに。
「なんで? 連休はまだ種子島の方にいるって」
「そうですよ。明日から数ヶ月また調布だから、最終日に戻ってくるのは当たり前じゃないですか」
 綯は膨れ面で片手を腰に当てた。海翔は、そっか、と間抜けな相槌しか打てない。こんこんとドアを軽く叩いて、綯は今までの顔が嘘のように上機嫌で笑う。
「中に入れてくれたら許してあげます」
「なにを許されなきゃいけないのかはよくわかんないけど。あがってくのは、別にいいよ。大家さんの娘さんだしね」
 言い訳に塗れた台詞を吐きながら、海翔はシリンダー錠を穴に差し込んだ。回すと必ず軽い音で鍵が外れる。そろそろディンプル錠に替えた方がいいかもですね、と綯は首を傾げた。海翔の防犯意識は高い方ではないが、女性からするとこの旧式の鍵はもう危険だということなのかもしれない。
「綯さんが泊まることがあるなら、天王寺さんに交渉してみるよ?」
 挑発的に問うてみれば、またまたぁと背中を叩かれた。文字なら語尾に『(笑)』がついていただろう。まともに取り合ってもらえないのは、茶化して言いがちな普段の癖のせいなのか。
「まぁいいや。どうぞ」
 重いドアを押さえておいてやる。おじゃましまーす、と綯は軽やかにその境界線を越えていく。
「わぁ、前より片付いてる! 海翔くんえらいぞー」
「前って、越して来た日じゃない。そりゃあ流石に片付けるでしょ」
「そうでしたそうでした」
 海翔も中に入って内鍵をかける。綯は興味深そうに、特に面白いものもない、最低限暮らせるだけの浪人生の部屋を見回している。
「あれ、ベッドは?」
「仮住まいにそんな贅沢品ないよ」
「フローリングにお布団って、身体痛くなりません?」
「最初はね。折り畳み式の薄いマットレス送ってもらってから、大分楽になったけど」
「なーんだ、ベッドの下から海翔くんのお宝見つかるかと思ったのに」
「何時代の通説だよそれ」
「まぁ見つけたら見つけたで、私リアクションに困っちゃいますよね。あはは」
「じゃあ探そうとしないでよ」
「だってそこはほら、お約束? でしょう?」
「だからそれが古いんだって」
 ふるいですかーと肩を落としている綯に、いい加減座んなよと座布団を差し出す。客が来ることを想定していないので1枚しかない。この気温なら、海翔はフローリングに直でも苦痛ではなかった。
「で? 家探しに来たの、綯さんは」
 綯が腰を下ろしたのを確認してから、海翔は自分でも甚だ無粋だと思える切り出し方をした。ちがいますよぅと綯はまたむくれる。それだってどうせポーズだろうに。実際、持っていたビニール袋を漁り始めた頃にはいつもの笑顔に戻っていた。
「海翔くん、お誕生日じゃないですか。プレゼント持ってきたんですよー」
「ふーん。覚えててくれたんだ。ありがと。ていうか、話したっけ?」
 海翔は天井を仰ぎ、両手を床についた。今のは本当にしくじったと思うのだが、どうしてこの部屋には天井ぐらいしか逃げ場がないのだろう? 綯の笑いをこらえる声はよく聞こえている。
「先週、あき穂ちゃんからメールが来て。カイもうすぐお誕生日だから祝ってあげてくださーいって」
「……いや、なら俺を直接祝ってくれって」
 海翔はもごもごと口許を動かした。今年、あき穂からは何の連絡もないと思ったら。別段期待していたわけでもないけれど、それが普段の彼女らしからぬ気遣いなのかと考えると、ストレートに何か言われるよりむずがゆい。
「あ、それでね。見てこれ、JAXAのスペースシャトルTシャツとー、宇宙飛行士つなぎレプリカ! カッコいいでしょう?」
「Tシャツは悪くないかもね……」
 無理やり視線を引き戻されて、海翔はぎこちない笑みを浮かべた。シャツは青空のようなライトブルーに発射前のシャトルがプリントされているだけなので普段着に出来るとして、つなぎはパジャマ以外に使い道が思い当たらない。大体、店のチョイスが職場関係というのもどうなのか。
「ありがと。せっかくだから、着させてもらうかな」
 それでも、受け取る際に口にした言葉は、100%ではないまでも本音だった。
 たとえ近場で済ませただけだったとしても、覚えていてくれて、今日のうちに手渡してくれたというだけで。これ以上を望めば、きっと強欲になる。
「嬉しいよ。綯さん」
 だが今の台詞が本当だったか、自信はない。
 海翔の笑顔が下手だったのか。綯はすっと表情を消し、静かに言った。
「ついでじゃ、ないですよ」
 無感情ではない。瞳だけが不相応に強く、海翔を捉えている。
「あなたにあげるものだって意識で、ちゃんと考えて選びました。私は」
「……なんでそれ、今言うかな」
 そんな真面目な顔で。海翔は片腕で目を覆う。
 やはり年上の女性というやつはずるい生きものだ。みさ希にも一度きりしか勝てていないし、瑞榎には勝ち逃げされて、まゆりにも全敗、一番付け入りたい綯にだって勝率はずっと低いまま。キルバラだったらもっと勝てるはずなのに。
 何よりもこわいのは。リアルでこうして言い負かされるのが、意外と自分は嫌いではないのではないかと、思わされてしまうこと。そんなの、『全一』の沽券に関わる。彼女に対しては強くそう感じてしまう。気になってしまう。
 ――ゲームとは何の関係もないのに。
「はいそれじゃあ、ケーキ買いに行きましょう! まだ食べてないですよね?」
 綯がぱんと両手を打つ音で、はっと我に返る。けーき? と間抜けに繰り返せば、そうですよと綯は人差し指を立てる。
「『もう食べた』って言われない為に、私、東京の誰にも海翔くんのお誕生日教えなかったんですから!」
「……綯さんさぁ」
 海翔は思わず笑い始めてしまった。笑うしかない。身体を前に折って、腹を抱えた。
「意外と独占欲強い?」
「そうですよ」
 なのに照れさせるつもりだった台詞はまた空回り。綯はずいと身を乗り出し、至近距離で海翔の目を覗き込みながら、微笑む。
「来年の今日、海翔くんはもう『大人』なんです。来年からこの日は普通の『誕生日』で、あなたにとって『こどもの日』ではないでしょう? だから」
 ――人生最後の子供ぐらい、私が独占したって、いいじゃないですか。
 海翔は、瞬きもせずにその色を見つめ返す。
 子供が今年で終わりなら。来年からは彼女と同じ階級に上がれるのなら。もう。
「次から怒涛の反撃が始まる予定だけど。いいの?」
 彼女は何も答えず、試すように目を細めただけだった。海翔は細い指先に手を伸ばしかけ、ふと気付く。
「待って。待とうよ。それさ、もしかして来年まで『大人な展開』はナシって釘刺されてる?」
「えへ♪」
 綯は白々しく笑いながらぴょんと身を引いた。いいけどさ、と海翔は頭を抱える。
 今年も『甘さ』はケーキ止まり。仕方ない。仕方がない――今日はまだ『こどもの日』だから。
「さ、予約してたケーキ引き取りに行きましょう? ちゃーんとチョコプレートに『かいとくん おたんじょうびおめでとう』って書いてくれるように、お店に何度もお願いしたんですよ!」
「ちょ、ホール!? ていうかそれ自分で取りに行くとか拷問だよね!」
「私一人っ子だから、あのプレート奪い合うの夢だったんです~。キルバラで勝った方が食べるっていうの、どうですか?」
「なんで俺の誕生日なのに奪い合いが発生するのさ? プレートはどうでもいいけど、それはそれとしてキルバラは勝たせてもらうから!」
 笑い合いながら、手を繋いで二人は仮の部屋を出ていく。
 来年の今頃は、どこでどんな風に、この日を過ごしているだろう。ようやく同じステージに立てたとき、どんな景色が見えているだろう。
 とりあえず2020年5月5日、東京都千代田区神田周辺の天気は快晴。気温も機嫌も上々。買い物客や観光客でごった返す街を、海翔は綯と一緒に泳いでいく。