ここはもう俺たちのいる場所じゃない

 大晦日の夜、神成岳志は電気もつけずに他人の部屋の番をしていた。
 畳に広がっていた書類や、山積みだった洗濯物が減っている。軽装だったが少しは持っていったのだろう。とはいえ狭いワンルームに不釣り合いなマシン類も、座椅子から手の届く範囲内に放射状に広がった生活用品も、雑に端に寄せられた煎餅布団も、バカみたいにデカい剣のおもちゃも、まだ何も片付いていない。
 神成は未開封の2リットルペットをかっぱらい、そのままラッパ飲みする。乾いた喉を水が通り過ぎていく。冬の室温でキンキンに冷えていた。空港で分けてもらったぬるい飲み物とは大違いだ。
「嘘みたいだな」
 呟いてみても、いつもの減らず口は返ってこない。
 嘘みたいだ。あの女が、久野里澪が、もうこの国のどこにもいないなんて。

 カーテンは開けてある。PCの電源ランプは夜景の一部のように赤く光っている。
 灯りをつけなかったのは久野里が電気を解約していったからではなく、単なる居心地の悪さからだった。
 彼女が顔を上げ、背筋を伸ばして渋谷を出ていったのなら、自分が不便を理由にこの部屋を明るく照らすのは筋違いだと思ったのだ。
 安っぽい電気ストーブだけは最弱の出力でつけていた。神成は寒さに慣れているから、これは頼まれ事のためだ。
 畳に置いたペット用のキャリーバッグに目を遣る。閉店間際のホームセンターに駆け込んで、差し当たり必要そうなものと一緒にばたばたと会計をした。あいつ、こんなときまで費用が俺持ちなんて。いつもなら腹を立てるところが今日はなんだか笑えてくる。
 三十分も待つと、窓がカリカリと鳴り始めた。やっと待ち人、ならぬ待ち猫のお出ましだ。
 猫を威圧しないよう、神成はなるべく低い姿勢で窓を開けた。
「やあ。この間はどうも」
 猫は一瞬歯を剥いたが、警戒よりも空腹が勝ったらしい。逃げ去ることなくするりと室内に入ってきた。神成は静かに窓を閉めて施錠する。
 猫は左回りに部屋を三周すると、姿を見せない餌係を呼びつけるように長く鳴いた。
「置いてかれたな」
 猫をからかったつもりだったのに、まるで同意でも求めているみたいな響きになった。
 別になんてことはない、はずだ。一緒に行きたかったとも、(実利的な理由以外で)残ってほしかったとも思っていない。それは純度100%の本音だ。置いていかれただなんて、幼稚で女々しい気持ちが生じるほどの関係ではなかった。
 どちらかというとこれは。
「先を、越されたん、だよな」
 言葉にしたらしっくりきすぎて思わず頭を抱えた。
 怒り以外に感情を表現する術を知らなかった少女が、悲しみを表し哀しみを受け入れようとしている。最早それは少女の振る舞いではない。成熟した大人の取るべき態度だ。
 自分はどうだった?
 大人という皮を被って、弔い合戦と嘯いて、大丈夫だという面をして、本当はただずっとタイミングを逸していた。
 先輩がもういないということ。永遠に追い付けないということ。もう二度と認めてもらえないこと、褒めてもらえないこと。その全てを怒りと使命感で塗り潰して、直視してこなかった。
 悲しい。寂しい。悔しい。一度ぐらい素直に叫んでみればよかった。子供みたいに正直に泣き喚いてみればよかった。
 久野里澪はきっと、昨日やっとそうすることができたのだ。
「くそ……」
 神成は畳に引っくり返って両手で顔を覆った。
 他人の部屋で同じことをするには、もう自意識が育ちすぎてしまった。恥ずかしさでのたうち回っているのを、あの久野里澪に見られなかっただけでよしとするしかない。
 猫が神成の脇に来てまた鳴く。今日の餌はこいつに強請るしかないと諦めたらしい。
 神成は気を取り直して起き上がり、干しっぱなしのバスタオルを一枚失敬した。半分に畳んで畳に置く。猫缶の封を開けタオルの上に。猫はパイル地の匂いを嗅ぎながら歩いていき、餌に向けて首を突き出した。神成は身じろぎせずに猫を見ていた。
 忙しい年末年始だ。特に渋谷には厄介な若者が多く出没する。この猫を家に移したらまた署に戻らなければならない。それから、きちんと飼うのなら入用なものはまだたくさんある。隙を見てペットショップに行って、ああ、実家にも一応連絡を入れておくか。何か余っているものを送ってもらえるかもしれない。
 彼女のことはそうやって日常に取り紛れていくのだろう。あんなに強烈な女だったのに。
 本当に悪夢のような女だった。迷惑をかけるだけかけて、何もかも事前に相談すらしてくれないで。
 本当に夢のような時間だった。抱くたびに打ち砕かれた希望を、何度でもかき集めながら信念に変えていく日々は。
 けれど醒めていくのだ。少年も、少女も――喪ったひとに固執していた青年も。
 現実を生きて、血を流して、自分の道をひとりずつ歩いていく。
 猫は食事をひととおり終るえと、豪胆にもそのまま丸くなって目を閉じた。神成は苦笑して、タオルごと猫を抱き上げる。
「まったく、ご主人にそっくりだな」
 そっとキャリーバッグの中に下ろす。戸を開けたまま様子を見ていたが、黒猫に不安そうな様子はない。これなら新しい環境にもじきに馴染みそうだ。
 神成は殊更にゆっくりと、慎重にバッグを閉めた。
「行こうか。ここはもう、俺たちのいる場所じゃない」
 少年は舞台を降りた。少女は古巣へと旅立った。青年と猫は、共通項を失くした部屋を出て、平凡で退屈な渋谷の夜に消えた。